「(前略)「あかとき」は曉ですが、萬葉では「安香等吉」、「阿加登吉」などと書かれてゐてアカツキと訓まれる例はありません。明時の意だと思ひますが、まだ夜が明けない前の事で、集中、「曉」の文字を用ゐたところが多いけれど、「五更」の文字を用ゐたころが四つ、今は「鶏鳴」とあり、これによつて凡の時間が推定せられませう。「あかとき」と「あけぼの」とが區別せられて用ゐられてゐた事を、小島憲之君が日本書紀の用例で訓べた事は、別著「玄米の味」の中に書いておきましたが、こゝにも「さ夜ふけて」とつづき用ゐられてゐて、その頃の曉がまだ夜深い時刻であった事が察せられます。從ってその「あかとき露」といふのは今日の言葉ではむしろ夜露といふ方があたつてゐると申せます。遠く大和へ歸つてゆかれる弟皇子をまだ夜深いうちに見送られようとして戸外に立つて夜露にぬれたとおつしやつたので、「さ夜ふけて」からつづいて、そこに時間の經過がふくまれ、別れを惜しんで立ちつくしてをられるお姿が想像せられます。萬葉には「朝何」といふ言葉が多く、そこに「生活の健康さ」があると書きましたが、これは朝露よりももつと早い曉の露で、集中には
この頃の曉露にわがやどの萩の下葉は色づきにけり(巻十、二一八二)
など曉露の語はなほ二三見えてゐます。」
(「萬葉集講話」, p50-51)
萬葉集研究の大家、澤瀉久孝博士著『萬葉集講話』、《わが背子を大和へやると》の章の一節である。本章は大伯皇女の御歌、
わが背子を大和へやるとさ夜更けてあかとき露にわが立ちぬれし(巻二、一〇五)
についての談議で、以下の感慨深い御言葉が記されている。
「この敗戦を機として、もう一度都會の人も大自然の子に歸るべきではなかろうか、曉露といふやうな言葉をもつと身近に感じられるやうな生活に歸るべきではなからうかとしみじみ思はれた事でありました。」(同, p51)
蛇足であるが、「五更瀉」、「五更泄」は夜明け(寅卯時、午前3~7時)に起こる慢性の水様性下痢の病証で、別名「鶏鳴下痢」と称する。一般に病機は脾腎陽虚であり、治法は温腎健脾止瀉である。
参考文献:澤瀉久孝著:「萬葉集講話」, p50-51, 出来島書店, 1947