新春早々多くの御年賀状を頂いた。小学校の頃、厚く束ねられた両親宛の年賀状を横目で見て、何時かこの枚数を越えたいと憧れた。枚数の多さが何かを裏書きする訳でもないのに、うず高く積み上げられた賀状がひたすら大人の確かな証拠に感じられた。このようなアナログ世代の感慨とは無縁に、昨今は年賀状のやりとりに意味を見出さない人達が増加していると聞く。
そして本年も、高齢のために今年限りに致しますという「年賀状しまい」の御言葉が載った賀状を頂戴した。型通りの文面が記されている場合、御病気あるいは生活環境の変遷等々、様々な具体的な理由が丁寧に綴られていることもある。私も何時の日かその様な年を迎えることだろう。「年賀状しまい」を拝すれば、その御方に初めて御目にかかった頃が思い出される。これが最後に頂戴する年賀状であり、また年賀状をお送りするのも今年限りとなったと思いながら、何時までもどうぞ御健勝でと心よりお祈り申し上げた。
達した年齢には関係なく、年賀状のやりとりに終止符が打たれるのは、大抵は一方が年賀状を出さない、戴いても返礼を控えるというやり方である。この先、ふたたび御目にかかる日が訪れないかもしれないが、一年の初めを年賀状で寿ぐというだけの繋がりで結ばれている御縁があってもよいではないかと私は思う。しかしこれは独りよがりな流儀である。相手様がもはや義理年賀に過ぎないとお考えになれば、年賀状が送られて来ない年が必ず来る。それを限りに当方も年賀状をお出しするのを控える。それから双方ともにまた新たな出会いに向かって歩き出すのみである。