卒都婆農月 / 月岡芳年『月百姿』
25 Gravemaker moon / Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001
能曲『卒都婆小町』のシテは百歳(ももとせ)の姥(うば)となった小野小町である。当初卒都婆に腰掛けた姿を見咎めた僧達の教化の言葉を、小町の老婆は舌鋒鋭く論破して降参させる。老いてもなお驕慢な小町はその昔、並ぶものがない才色兼備を誇り、深草少将の心を弄んで恋い死にさせた報いにて零落の境涯に落ちる。そして深草少将の怨念が絶えず憑き添うが為に、小町は何時終わるとも知れぬ物狂いに苦しむのである。男の意に沿わない傲慢不遜な女は、絶世の佳人であろうともいずれかくの如き落魄の身に朽ち果てて、怨霊に祟られる魔道に落ちるが定めなのだと言わぬばかりの小町像である。
だが月岡芳年『月百姿』に描かれた「卒都婆の月」を見れば、行方も知らぬ成れの果ての、もはや浮草の身を誘う水もなき老残の身でありながら、面を真直ぐに挙げた小町は美しく﨟長けた風姿である。まさに古今集仮名序の「しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」であり、ちなみにこの在原業平に対する辛口批評の言葉は、むしろ大いなる誉め言葉じゃありませんかと以前より私は思っているのである。
「卒都婆の月」は、中空に玲瓏とした娥眉の心無き月が掛かり、かたや静かに卒都婆に腰掛けるのは浮世を知り過ぎた心有る女である。手垢にまみれた身過ぎ世過ぎからは遠く離れた静謐の中で、小町は身じろぎもせずに有明を待っている。
I’m so lonely that I’d break off this sad body from its roots
And drift away like a floating reed---if the current were to beckon
康秀が三河になりて、「県見は出で立たじや」といへる返ことに
わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらば往なんとぞ思(おもふ)
The flowers’beauty faded but no one cared
I watched myself grow old in the world as the long rains fell
花を眺めて
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに
上は「Gravemaker moon」に取り上げられた小野小町の英訳二首で、小町集に収載されている本歌を並べて記した。最後の写真は小町終焉の地とされる綴喜郡井手町にある小野小町之墓である。
参考資料:
観世流大成版『卒都婆小町』 廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952
和歌文学大系18『小町集/業平集/遍昭集/素性集/伊勢集/猿丸集』 室城英之他編,明治書院, 1998