花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

きぬたを巡りて│其の二 能「砧」

2016-11-06 | アート・文化

砧の月 夕霧 / 月岡芳年『月百姿』
85 Cloth-beating moon -Yugiri / Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001


側頭骨に埋もれた内耳は内外のリンパ液で満たされた構造である。空気中の音が直接に内耳の内耳液に伝播しても、音は液体表面で跳ね返されて有効な伝達が行われない。三個の耳小骨から構成される中耳伝音系は、鼓膜に達した音を減衰させること無く、さらに増幅して内耳に伝達するための仕組みである。この音の増強作用にかかわるのは、鼓膜とアブミ骨の面積比(17:1)、耳小骨のてこ作用(ツチ骨・キヌタ骨を貫く耳小骨の回転軸とキヌタ骨、ツチ骨長脚それぞれの先端までの距離比が1.3:1)である。
 このようにキヌタ骨を間に挟む中耳伝音系は、外界と内耳をただ連結するものではなく、インピーダンス整合(送り出し側と受け側の入出力インピーダンスを合わせて、電気や音響、振動などの信号の損失を少なくして最大の効率で伝送させること)の役割を果たし、異なった媒体の間の音の情報伝達を有効に保つ働きを持っている。
 きぬたを介して、それぞれの心の内に増幅して積み重ねてゆく音は百人百様である。

さて謡曲『砧』のシテは、遠く旅立ち帰らぬ夫、蘆屋某をひたすら恋い焦がれ続ける心ゆえに成仏できず冥府に落ちる北の方である。里人が砧擣つ音に触発されて蘇武の妻の故事を思い起こして、我が思いを夫に届けんと慣れぬ槌(能では扇)を手に取る。砧打ちは身分が低い者の作業であり、『砧』の女は砧擣ちに従事する階級ではない。当初はわらはも思ひや慰むと故事を踏まえて始める砧擣ちであり、そこには庶民の労働に伴う生活感情はなく、むしろ思弁的、理念的、審美的である。その高雅で教養ある女人の佇まいを仮借なく内から焼き滅ぼしてゆくのが、西行の連作<地獄ゑを見て>の歌に詠まれるが如き煉獄の「黒くほむらの苦しみ」である。
 黒きほむらの中にをとこ女燃えけるところを
なべてなき黒きほむらの苦しみは夜の思ひの報いなるべし   聞書集 西行

やがて砧を擣つうちに高まる思いは「怨みの砧」擣ちとなる。そして絶望のあまり此の世を去った後、冥府において打てや打てと獄卒に責め立てられて、今度は音もしない「報いの砧」擣ちが続く。『砧』の女は訃報に接し急ぎ立ち戻った夫に向かって、
「君いかなれば旅枕夜寒の衣打つとも、夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや」と、綿々と心の内に積もり積もった怨みの繰り言を述べる。その心習いは立場が違えども、六条御息所の性格描写で描かれた、「いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて(大層物事を、度を超す程に深く思い詰める性格であって)」と近似する。『砧』の女は夫の手向ける祈願の功徳により、結末で唐突に妄執の昏き道を抜け出でて救いを得たことになっているが、果たして真に成仏することができたのだろうか。


源氏 夕顔巻 / 月岡芳年『月百姿』
29 The Yugao chapter from “The Tale of Genji” Genji yugao no maki / Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001


脱線ついでに『源氏物語』夕顔の帖で、八月十五日、源氏は下町の夕顔の板葺きの粗末な家で夕顔と一夜を過ごすのであるが、夜明けも近くなった頃、隣の家々から賤の男の声、唐臼の音とともに白栲(しろたえ)の衣うつ砧の音が聞こえてくる。やんごとない源氏にとってはカルチャーショックに違いない、なかなかシュールな朝である。一見、うすぼんやりとは紙一重の優雅な鷹揚さで、夕顔は特にそれらの有様をはらはらと気に病むようなそぶりは見せない。そして却ってその方が源氏には好ましく思える。その後、なにがしの院において、「何心もなきさし向かひをあはれと思すままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまをすこし取り捨てばやと、思ひくらべられたまひける。(おっとりと天真爛漫に向かい合ってくれるこの女を可愛いと感じるままに、彼の御方はあまりに心の奧が深すぎて、対面するこちらが息苦しくなるところを少なくして欲しいものだと、思わずお比べにならずにいられないのであった)」と、真逆の姿を見せてくれる夕顔と六条御息所とを引き比べる。
 夕顔を失ってしまった後に、源氏は中秋の夜の砧の音を恋しく思い出すのだが、源氏の出自からみれば、元来、賤の生活空間での雑音でしかない筈の砧の音は、今やその内で中耳伝音系の増幅効果を経た如く昇華され、夕顔への切なる思いに彩られた追憶と分かち難く結びついている。

ところで下記は夕顔の素性を右近より聞いた折の源氏の言葉であり、これが源氏の男の生涯を貫く本音なのだろう。私は光源氏から御覧になれば下町に生きる賎の女の一人に過ぎない。それでも最後に小さく此処に記しておこう。若い頃から、そして源典侍と似たり寄ったりの年頃になっても、私はいまだに光源氏がどうも苦手である。
「はかなびたるこそはらうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。みづからはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女は、ただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきがさすがにものづづみし、見ん人のこころには従はんなむあはれにて、わが心のままにとり直してみんに、なつかしくおぼゆべき」(新編日本古典文学全集21『源氏物語』二, p188, 小学館, 1995)
(いかにも頼りなげなのがいとおしいのだ。思慮分別があり男の言うなりにはならないのは、どうも好きになれないものだ。私自身がてきぱきとした、しっかりとはしていない性分なので、女というものはただ優しく、ぼんやりしていると騙されそうでいて、しかも控えめで、見る人の心には従順であるというのがかわいく思えて、そのように自分が思うがままに導いてみたら、心が魅かれて離れがたいに違いない。)

参考資料:
観世流大成版『砧』廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952
岩波文庫『西行全歌集』, 岩波書店, 1946
新編日本古典文学全集21『源氏物語』二│桐壺│帚木│空蝉│夕顔│若紫│末摘花│紅葉賀│花宴, 小学館, 1995