世界のカメラマン 大いに語る
【不肖!宮嶋 自転車操業25年】
講師ー宮嶋 茂樹氏
世界のカメラマン 不肖!宮嶋 大いに語る 紘一郎雑記張
写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。
【第1部・手ぶらでは帰らない!】
宮嶋です、
清話会さまからお声をかけて戴き有難うございます。
今日は関西の「経営者」の皆様の集まりとお聞きし
私で良いのかと思いましたが、
思えば今日の演題にもあります様に「自転車操業25年」は
中には経営者の皆様の中にもそんな思いをされた方もあるかなと
考え講演をお受けいたしました。
大学を出ましから、ずうーと「借金生活」が始まり、
まさに自転車操業の日々で借金生活から、抜け出したのが
33歳の時でした。
クレジットカードを取り入れあげられ、現金以外は使えず
本当に苦しい生活が続いていました
カメラマンは給料の仕事ではなく「撮った写真」が
”なんぼや!”の世界です。
私はカメラマンであると同時に「一経営者」でもあり
この25年間、写真を撮り続けていなければ”飯が食えない”
という、自転車操業を続けてきました。
多分、これからもそうでしょう、
大学を出てから写真週刊誌の専属カメラマンになりましたが、
3年後に独立して”極貧状態”に陥り、しばらく女房に
養ってもらいましたが、その女房にに後に逃げられ
三食が食えるようになったのは30歳を過ぎてからでした。
そして借金がなくなったのが30台半ばで、それ以後は
皆様の前でお話が出来るようになりました。
私が独り立ち出来たきっかけは「17年前」の「カンボジア取材」です。
自衛隊のPKO(国際連合平和維持活動」に同行し
「週刊文春」に原稿を発表してからです。
当時のデスクが「宮崎3等兵カンボジアへ行く」という
タイトルを提案してくれたが、語呂が悪いとの事で
「不肖・宮嶋カンボジア」と変わり、それ以後
これは、私の「ニックネーム」として、すっかり
定着し、自分でも気に入って名刺にもいれているほどです。
当初は仲間のカメラマンから
「そこまでピエロになって面白いか」と
言われたものですが、全然気になりませんでした。
海外取材の企画があると「私ならこうした写真を撮る」と
見得をきり「本当に出来るか?」と何度も念をおされ
出かけるのだが、事前にたてた計画は往々にして
上手く行かず、大抵予想外の事が起きるにです。
しかし「絶対に手ぶらでは帰らない」をモットーに
している為、危険な橋も随分渡りました。
最近は景気の影響もあり
「良い写真が撮れれば報酬を出す、経費は自分持ち」
の条件が多くなりましたが、私はこの方法が嫌いでなく
「いい写真を撮って思い切り吹っかけてやろうい!」と
考えており、その時の担当デスクの泣き顔を楽しみにしています。
今日は世界の戦場の事から「浜田幸一氏(ハマコーさん)」の
背中の入れ墨問題まで、色々とお話いたします。
最後までお付き合い下さいませ。
日本人カメラマンが死亡した「タイ暴動」の取材に行きました。
続きは第2部に投稿予定