童門冬二氏講演会・歴史に学ぶより」
第3部
紘一郎雑記張
童門冬二氏「作家」
1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数
尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、
【吉宗登場!元禄バブルの崩壊】
この様にして元禄バブルのツケを背負い、五代将軍綱吉の
乱れた政治の尻拭いをしなければならない立場に
置かれたのが「八代将軍徳川吉宗」でした。
吉宗の時代になると、江戸のおける町人の人口が
膨れ上がり、そうなると武士以外の市民の存在を
無視して幕府政治が成立たなくなってきたのです。
これは、江戸以外の大坂、名古屋、博多などの
都市においても同じ事でした。
まだ、市民に十分な権利が確立されていたわけではなく
主権という意識など全くないのですが、幕府としては
市民の意見を聞かなければ、政治が成立たない事を
おそらく、この「吉宗時代」になって始めて認識したのでしょう。
享保の改革で「吉宗」は市民のエゴイズムを
無くす事を考えました。
江戸幕府が開かれた「慶長8年(1703年)」の
日本の人口が「約1300万人」程度と言われています。
そして明治維新のときが「3300万人」でしたので、
江戸時代の270年の間に「2000万人」の人口増だったのです。
「八代将軍吉宗」(1716年ごろ)にはすでに、日本の人口は
「2500~3000万人」になっていたと言われています。
なぜそんなに増えたのかといいますと、「吉宗時代」に
「食糧増産」が出来たからです。
江戸幕府が計画した「年貢」、米の生産量は
大雑把にいって、日本人一人について「米一石」でした。
幕府の当初の計画では「1300万石」程度の「米の生産」が
出来れば、日本中食糧の過不足無く自給でき年貢が
完済されるという計算でした。
そんな中で「吉宗」は、「米」の増産を目指しました。
しかし、日本の農業技術では限界があるので、
長崎で交流のある中国やオランダといった外国の優れた
知識、技術、工具、機械を導入して輸入を高めていました。
元禄バブル時代には「自分さえ良ければ良い」という
気風が広まっていて、重商主義に傾いて、商人と
結託して日本の富を再生産するという流れが
当たり前になっていたのです。
吉宗はそうした元禄の悪弊を取り除く事と
このバブル時代の国民のエゴイズムが問題とみていたのです。
そこで「享保の改革」で「吉宗」は幕府に於ける赤字を
無くす努力と共に、国民の心の赤字も無くし、健全な
良き日本の心を取り戻すべく政策を考えました。
その基盤になった政策は「重農主義」でそれまでの
「重商主義」から「農業」を重んずる方針に切り替えたのです。
そして「国民」の意識を変えさせるために「元禄時代」から
続いている多くのしきたりや場所を無くすことにしました。
それらを実行するために「大岡忠相」を江戸町奉行に登用したのです。
改革が大胆に始まりました。 続きは第4部にて投稿予定です
第3部
紘一郎雑記張
童門冬二氏「作家」
1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数
尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、
【吉宗登場!元禄バブルの崩壊】
この様にして元禄バブルのツケを背負い、五代将軍綱吉の
乱れた政治の尻拭いをしなければならない立場に
置かれたのが「八代将軍徳川吉宗」でした。
吉宗の時代になると、江戸のおける町人の人口が
膨れ上がり、そうなると武士以外の市民の存在を
無視して幕府政治が成立たなくなってきたのです。
これは、江戸以外の大坂、名古屋、博多などの
都市においても同じ事でした。
まだ、市民に十分な権利が確立されていたわけではなく
主権という意識など全くないのですが、幕府としては
市民の意見を聞かなければ、政治が成立たない事を
おそらく、この「吉宗時代」になって始めて認識したのでしょう。
享保の改革で「吉宗」は市民のエゴイズムを
無くす事を考えました。
江戸幕府が開かれた「慶長8年(1703年)」の
日本の人口が「約1300万人」程度と言われています。
そして明治維新のときが「3300万人」でしたので、
江戸時代の270年の間に「2000万人」の人口増だったのです。
「八代将軍吉宗」(1716年ごろ)にはすでに、日本の人口は
「2500~3000万人」になっていたと言われています。
なぜそんなに増えたのかといいますと、「吉宗時代」に
「食糧増産」が出来たからです。
江戸幕府が計画した「年貢」、米の生産量は
大雑把にいって、日本人一人について「米一石」でした。
幕府の当初の計画では「1300万石」程度の「米の生産」が
出来れば、日本中食糧の過不足無く自給でき年貢が
完済されるという計算でした。
そんな中で「吉宗」は、「米」の増産を目指しました。
しかし、日本の農業技術では限界があるので、
長崎で交流のある中国やオランダといった外国の優れた
知識、技術、工具、機械を導入して輸入を高めていました。
元禄バブル時代には「自分さえ良ければ良い」という
気風が広まっていて、重商主義に傾いて、商人と
結託して日本の富を再生産するという流れが
当たり前になっていたのです。
吉宗はそうした元禄の悪弊を取り除く事と
このバブル時代の国民のエゴイズムが問題とみていたのです。
そこで「享保の改革」で「吉宗」は幕府に於ける赤字を
無くす努力と共に、国民の心の赤字も無くし、健全な
良き日本の心を取り戻すべく政策を考えました。
その基盤になった政策は「重農主義」でそれまでの
「重商主義」から「農業」を重んずる方針に切り替えたのです。
そして「国民」の意識を変えさせるために「元禄時代」から
続いている多くのしきたりや場所を無くすことにしました。
それらを実行するために「大岡忠相」を江戸町奉行に登用したのです。
改革が大胆に始まりました。 続きは第4部にて投稿予定です