紘一郎雑記帳

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赤穂浪士討ち入り! 歴史に学ぶ 童門冬二氏講演会より 第1部 

2010-12-14 04:42:14 | Weblog

【今日12月14日「赤穂浪士」討ち入り!】 

歴史に学ぶ 童門冬二氏講演会より 第1部 

本日より数回にわたり
「童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ」を投稿致します。
尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

紘一郎雑記張
【童門先生のお話「歴史に学ぶ」を拝聴して、
 平成の現在に我々は何をすべきかの、ヒントを多く戴きました】
 
童門冬二氏「作家」

1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

童門です、 今日はお招き戴き有難う御座います。

歴史に学ぶという演題を戴きましたので、幾つかの
歴史のお話しをしながら、歴史は一本の線で
結ばれている事をご認識戴くと「日本」が見えてきます。

1600年の関ヶ原の合戦は、家康は「豊臣家」の臣下の立場で
主導権争いの意味が大きく、家康は戦い後「石田三成を成敗した」と
秀吉の子「豊臣秀頼」に報告しています。

その後、あとでお話し致しますが、幾つかの戦いと改革を行い
新しい制度「参勤交代」などを創り、問題を抱えながらも
徳川幕府が安定したのが、3代将軍家光の頃である。

江戸時代前期に隆盛したのが、ご存知「元禄文化」です。
将軍は「3代将軍家光」のあとの「4代将軍家綱」から
「五代将軍綱吉」の時代にピークを迎えたのです。

綱吉は、好学の将軍で「漢籍」に大変詳しく、向学心強く
参勤交代してきた大名達を集めては、
よく「論語」や「五経」「大学」などを講義していたようです。

将軍がそうなると、下々も右に習えで、そういう気風が流行り
特に江戸の城下町に浸透していき、文学活動が盛んになりました。

綱吉はそれに加えて「宗教心」も厚かったのです。
自身も「護国寺」などの創設をしつつ、民間にも
盛んに勧めたため「土木工事」を中心に
「経済成長」が際立った時代でした。

又併せて「文化活動」も隆盛を極めましたが、同時に
民心を退廃させ、武士の堕落が目立つ時代になったのです。

そんな時、あの「赤穂浪士事件」が起きたのです。

この「赤穂浪士事件」は「浅野内匠頭」が「江戸城内」で
刀を抜き、「吉良上野介」に斬り付けるという「違法行為」を
行ったために「切腹」させられた「松の廊下」ですね。

その主人の「仇」を討つべく「取り潰された赤穂藩」の
家臣たちが、「吉良邸」を襲い、討ち取った事件です。

これは明らかに「浅野」に非があります。

幕府の法律では「江戸城内」で絶対に刀を抜いては、
いけないことになっていたのに「その法律」にそむいて
「浅野内匠頭」は抜刀したので「切腹」させられても
文句は言えないのです。

しかし「赤穂浪士」は徒党を組んで「主君の仇」を
討つ行為に出たのです。

しかし「この仇討ち行為」を幕府は知っていました。
江戸町奉行、あるいは上層部「柳沢吉保」は黙認していました。

そうとしか考えられない事実が幾つかありますが
その一つが「吉良の屋敷」を事前に、「江戸城内」から
郊外の「本所」に移転させ「討ち入り」をしやすくしているのです。

なぜでしょう、なぜ幕府が討ち入りを黙認したのかは、
「世論」が「赤穂浪士」たちに傾き、それに加えて
「元禄バブル」の甘い汁を吸って、たるんでいる「武士達」の
心を引き締める狙いがあった、と私は考えています。

もう一つ綱吉の時代の政策で有名なのが「生類憐れみの令」です。

続きは「第2部」に投稿致します。