紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

【明治維新は経済事件だ!】 第6部 童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ

2010-12-19 05:55:42 | Weblog
童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ、より「第6部」

童門冬二氏「作家」
1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

【明治維新は経済事件だ!】

少し明治維新について話してみよう。

私は明治維新は政治事件であると共に
経済事件というもう一つの考えをしています。

それは「地方経済」の問題であります。
「徳川政権」では「約270」あった藩、大名家は、すべて
「10割自治」でありましたので、主権はかなりの部分が
地方に任されておりました。

それぞれの藩が、独立した地方自治体として
独特の地方行政、経済活動を行っていたのです。

ところが徳川家康が「朱子学」を取り入れたため
「士農工商」の身分制が出来、商人を社会的に一番下方に置き
「商活動」を軽んじたため「経済的矛盾」が起きました。

「10割自治」という事は「地域経済」を「自己完結的」に
その場所で行うので、その藩の中で出来る製品に「付加価値」を
つけて市場価格を決め、高めて商売を行う、つまり
藩(大名)は現在でいえば「商事会社」の役割となったのです。

ところが「社員」である「藩士」の大部分が誇り高く、
「商売」に真剣ではなく努力をしないのです。

自社製品(藩の産物)の売り買いには、貨幣が動き
利益が出るのですが、「武士は食わねど高楊枝」の
気持ちが強く、手を出さないのです。

すると、当然、矛盾が起きて、その矛盾が積もり積もって
爆発したのが「明治維新」の大きな要素でもあります。

もう少し細かく分析すると、「10割自治」を強いられた
各藩は、苦しい台所事情と貨幣経済の進行の中で
藩内だけでは通用する藩札を大量に発行した為に
藩札の信用度が落ちるのです。

本来なら正貨一両と藩札一両を一対一で交換すべきなのに
藩は手持ちの正貨の50倍・100倍も藩札を発行するので
藩札の信用がどんどん落ちていき、正貨一両に対して
藩札十両が必要になり、やがて五十両・百両と増えてくるのです。

つまり、五十両・百両分の藩札を集めても、正貨一両の
経済効果しかなく、今でいう「不良債権」であり
これが「返済」しきれなくなり、どの「藩」も大きな
累積赤字を生んで、借金に追われてにっちもさっちも
行かなくなっていたのです。

乱発した「藩札」が「不良債権化」することによって
各藩の財務状況はさらに苦しくなっていきました。

破滅的なところさえ出てきて、今で言えば「不良債権」によって
「自己破産」する地方自治体の様なものでした。

「西郷隆盛」の「西南戦争」はその中で起きたのです。

続きは「第7部」にて投稿致します。








享保の改革と庶民生活 第5部・童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ

2010-12-18 06:30:00 | Weblog
童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ、より

童門冬二氏「作家」
1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

【第5部・享保の改革と庶民生活】

吉宗は「紀州」から連れてきた部下を「お庭番」という
役職に着かせたのです。

この「お庭番」の仕事は、表向きは「江戸城吹上御殿」の
管理人で、植物や池の鯉などの世話をする事になっていましたが
実際には市中に出て、色々な面での「調査」をしました。

改革に対して、どの「大名家」が「協力的」か「批判的」か、
どの「旗本」が「協力的」か「批判的」か、又、
町人は「協力的」か「批判的」か、そして「暮らし」はどうか
などを「庭」に出てくる「吉宗」に報告する役目であり
「吉宗改革」の「進行管理」をする「監視」、
いわゆる目付けでありました。

現在でいう「オンブズマン」の役割を負っていました。

そういう組織によって「目安箱」に投ぜられた物の中から
良い意見を採用し、「環境の改善」そして「町づくり」に
活かす、市民の声を聞いたのです。

たとえば「評判の悪い歓楽施設」については「大岡町奉行」が
どんどん「弾圧」「規制」をして行きました。

すると江戸の町が「窮屈」になり「潤い」が少なくなるので
代わりに「子供連れ」で「家族」で遊びに行ける様な
場所を数多く作りました。

この平成の時代にも残っている「隅田堤」や「多摩川堤」
そして「飛鳥山」などの「桜の名所」です。

又、綱吉将軍・元禄時代の「野良犬の収容所」跡地に
「3万本」の「桃の木」を植え、それが、今も残る
「東京都中野区」の「桃園」という地名の由来なのです。

少しは話が変わりますが「山本周五郎先生」の、
名作「赤ひげ」のモデルの「小川笙詮」という医者が
江戸の町に身寄りのない年寄りが多くいるので
「お上」の力で「施療施設」を作ってくれるなら
我々「町医者」が交代で看病に当たるので、「是非!」と
投書したのが、きっかけで、これが採用され
「小石川養生所」が出来「小川笙詮」が初代所長になったのです。

小川所長は、引き受ける代わりに「条件」を出しました。

そのころは「海外」から入ってくる「漢方薬」が高すぎて
庶民には手が出ず「朝鮮人参」を一本買う為に
「娘」が身売りするなどの「悲劇」も頻繁にあり
これを何とか解決する為に「漢方薬」の「国産化」を
するように「吉宗」は「大岡」に命じている。

「大岡」は「植物学者」の「青木昆陽」を中心にした
「漢方薬・国産化」の「薬草園」を「養生所」の隣に作りました。

現在、その「小石川薬草農園」は「東京大学」の所管で
小石川植物園のは「何百種類」の立て札がついた
「薬草」の苗が、一般公開されている。


安田紘一郎雑記帳
童門先生の講演のお話で、歴史に学ぶは、
今を生きる私にも、大いに学ぶべき事が多い。

何もかも「政治」に頼るのではなく「自身」で
解決する事を模索するべきである。

政治家も「自分」の保身など考えず「国民」の目線で
国民の声を聞く事を実行して欲しいですね。

●しかし、今の政権・政治家には無理でしょう!

政治家は「国民」に「真を問う」事を恐れては政治は出来ないし
国民は「冷静な1票」を投票する義務があると思う。






















 名奉行大岡忠相活躍す!童門冬二氏講演会 第4部

2010-12-17 04:35:27 | Weblog
童門冬二氏講演会・歴史に学ぶより

童門冬二氏「作家」
1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

【第4部 大岡忠相名奉行活躍す!】

吉宗は国民に美しい心を取り戻させる為に「元禄時代」から
方々に残っている「悪しき歓楽施設」の整理に入りました。

そこで「江戸の町」を管轄する「江戸町奉行」に
「伊勢山田奉行」であった「大岡忠相」を登用したのです。
併せて「大岡」には関東地方の農業振興も担当させたのです。

まず、江戸市民の意見を聞く「目安箱」を作りました。
この「目安箱」は「吉宗」が「紀州和歌山城主」であった時に
すでに実践済みで成功していたのです。

吉宗は「紀州和歌山城主時代」の地方行政で成功した政策を
中央の江戸に持ってきて取り入れたのです。

しかし、「吉宗」が「和歌山城主」から将軍になる時に
江戸中央政府、つまり幕府の既存の組織には手をつけず
大半は旧組織の一部改正程度に留めたのでした。

人事関係も「大岡忠相」を登用したのと
「大奥」を整理した、この二つの事だけでした。

幕府内では「吉宗」の将軍就任で、自分達の行く先を
案じて戦々兢々としていた多くの人たちは「ほっ」と
胸をなでおろしたのでした。

組織は変えない、人事異動もない、「吉宗」は
名君という事になりました。

これには「吉宗」の巧妙な仕掛けがありました。

吉宗はまず現場の責任者を一人ひとり呼んで、
担当の内容を口頭試問したのでした。

「財政担当老中」には
「幕府の今年の予算はいくらか、このままで大丈夫か?、
 補正予算は」などと、細かく質問したのです。
答えは「細部については下の人がやっているのでわかりません」でした。

「軍事担当老中」には
「治にいて乱を忘れずは大事なことだが、
 今すぐ戦える侍の人数はどれほどいるのか?
 江戸城内の鉄砲は何丁か、槍は何本か、軍旗は何本か、」
 などを矢継ぎ早に聞いたそうです。
答えは「部下に任せてあります」でした。
何も知らなかったのですね。

質問攻めにあった老中たちは「御用部屋」に帰ると
「冷や汗」びっしょりで、さすがに、自分達の
勉強不足を知ったのでした。

あんな初歩的なことも掴んでいない、と、恥ずかしくなり
認識を新たにしたのでした。

ただ、そんなたるんだ幕府閣僚の中にも
「岡崎城主の水野忠之」だけは違いました。

自分を役目を的確に理解し、内容も掴んでおり
以後の対策も立てておりました。」

吉宗はこの「水野忠之」を今でいう「総理大臣」に任命し
江戸町奉行の「大岡忠相」との二人で、
吉宗を支えたのでした。

因みに、江戸時代の徳川幕府を立て直したといわれる
「三大改革」の実行者は

「享保の改革」は「吉宗・大岡・水野」の3人で
「寛政の改革」は吉宗の孫の「松平定信」が
「天保の改革」は水野忠之の子孫「水野忠邦」が行い
江戸時代の「三大改革」は、すべて「吉宗一派」が
行ったのです。

では、その「享保の改革」で「庶民生活」は
どんな変化をしたのでしょうか、それを話してみます。

続きは「第5部」に投稿します


安田紘一郎雑記帳
この「元禄バブル」の後の「吉宗登場」と「享保の改革」の
時代背景が「現在の平成時代」と重なる部分が、
多くあるように思えてなりません。

歴史から学ぶ事も大切なのでしょう!










 






















吉宗登場! 元禄バブルの精算 童門冬二氏講演会・第3部

2010-12-16 04:40:38 | Weblog
童門冬二氏講演会・歴史に学ぶより」

第3部
紘一郎雑記張

童門冬二氏「作家」

1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

【吉宗登場!元禄バブルの崩壊】

この様にして元禄バブルのツケを背負い、五代将軍綱吉の
乱れた政治の尻拭いをしなければならない立場に
置かれたのが「八代将軍徳川吉宗」でした。

吉宗の時代になると、江戸のおける町人の人口が
膨れ上がり、そうなると武士以外の市民の存在を
無視して幕府政治が成立たなくなってきたのです。

これは、江戸以外の大坂、名古屋、博多などの
都市においても同じ事でした。

まだ、市民に十分な権利が確立されていたわけではなく
主権という意識など全くないのですが、幕府としては
市民の意見を聞かなければ、政治が成立たない事を
おそらく、この「吉宗時代」になって始めて認識したのでしょう。

享保の改革で「吉宗」は市民のエゴイズムを
無くす事を考えました。

江戸幕府が開かれた「慶長8年(1703年)」の
日本の人口が「約1300万人」程度と言われています。

そして明治維新のときが「3300万人」でしたので、
江戸時代の270年の間に「2000万人」の人口増だったのです。

「八代将軍吉宗」(1716年ごろ)にはすでに、日本の人口は
「2500~3000万人」になっていたと言われています。

なぜそんなに増えたのかといいますと、「吉宗時代」に
「食糧増産」が出来たからです。

江戸幕府が計画した「年貢」、米の生産量は
大雑把にいって、日本人一人について「米一石」でした。

幕府の当初の計画では「1300万石」程度の「米の生産」が
出来れば、日本中食糧の過不足無く自給でき年貢が
完済されるという計算でした。

そんな中で「吉宗」は、「米」の増産を目指しました。

しかし、日本の農業技術では限界があるので、
長崎で交流のある中国やオランダといった外国の優れた
知識、技術、工具、機械を導入して輸入を高めていました。

元禄バブル時代には「自分さえ良ければ良い」という
気風が広まっていて、重商主義に傾いて、商人と
結託して日本の富を再生産するという流れが
当たり前になっていたのです。

吉宗はそうした元禄の悪弊を取り除く事と
このバブル時代の国民のエゴイズムが問題とみていたのです。

そこで「享保の改革」で「吉宗」は幕府に於ける赤字を
無くす努力と共に、国民の心の赤字も無くし、健全な
良き日本の心を取り戻すべく政策を考えました。

その基盤になった政策は「重農主義」でそれまでの
「重商主義」から「農業」を重んずる方針に切り替えたのです。

そして「国民」の意識を変えさせるために「元禄時代」から
続いている多くのしきたりや場所を無くすことにしました。

それらを実行するために「大岡忠相」を江戸町奉行に登用したのです。

改革が大胆に始まりました。  続きは第4部にて投稿予定です
















生類憐みの令と元禄バブル 「童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ」 2部

2010-12-15 05:13:15 | Weblog
「童門冬二氏講演会・歴史に学ぶより」第2部

紘一郎雑記張

童門冬二氏「作家」

1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

【生類憐みの令】
先ほどもお話をした様に「五代将軍綱吉」は
好学で勉強家であり宗教心が厚く、多くの
お寺の創建も行っている将軍である。

この「綱吉将軍」の政策で有名なのが
【生類憐みの令】である。

犬を始めとする動物が人間より大切に扱われたので
「天下の悪法」と、いわれ評判の良くない法ですが、
幕府の末端に行けば行くほど「小役人」の判断で
拡大解釈して、弱いのも苛め、住民いじめが
酷くなっていきました。

いずれにせよ、結果的には「野良犬」が物凄く多くなり
江戸の町、どこも犬だらけとなりました。

一説によると「10万頭」を超えたようで、
やたらと人に噛み付いたり、暴れたりしました。

さすがに幕府も「なんとかしなければ」となって
現在の東京都中野区に「16万坪」の敷地を用意し
国立の「お犬小屋」を作りました。

そしてそこに「犬役人」「犬医者」といつ多様な
「犬」の世話をする人達が大勢、税金で雇われたのです。

そんな「悪法」でありましたが「五代将軍綱吉」は
死ぬ時に「6代将軍・家宣」を枕元に呼んで
【どんなことがあっても”生類憐みの令”は絶対に保て、
 俺は死んだからといって、すぐ廃止するな!」と
遺言を残して亡くなりました。

しかし「6代将軍・家宣」はブレーンとして仕えていた
学者「新井白石」の進言によって、綱吉が死んだ翌日に
【生類憐みの令】の廃止を決めたのです。

この「新井白石」と「間部詮房(まなべあきふさ)」という
お側用人の2人が「家宣時代」の「正徳の治」といわれる
政治を実質的に行った中心人物でした。

新井白石が重要政策として取り組んだのは「貨幣改鋳」でした。

元禄バブル時代に乱発された「金含有率」の少ない貨幣が
世の中に流れ、「世の乱れ」の元になっていたのです。

貨幣に信用がなくなっているので、どうしても
「幕府の発行」する貨幣の力をつけ、信用回復する事が
政治の最大事でした。

そして」、「貨幣改鋳」を断行し、今の財務大臣にあたる
「勘定奉行・荻原重秀」を首にしたのです。

荻原重秀が商人と結託をして悪貨をつくりながら
「ピンハネ」して「私服」を肥やしている、といういのが
その理由でした。

この時に、徳川幕府で初めて、学者がブレーンとしてではなく
「実務権限」を握って、閣僚の一人としてよりも
「総理大臣」のような力をもち、振る舞いをしたのです。

そのため、少しでも、上手くいかなくなると政策と現実の
ズレを指摘され「老中」など「「正規」の役人から
猛反発されたのです。

結局「新井白石」と「間部詮房」は、その座を追われ
元禄バブル経済も崩壊し、その後バブル経済の反動で
大不況となりますが、これが「享保期」なのです。

バブル崩壊後の幕府は・・・・

続きは第3部に投稿致します



















赤穂浪士討ち入り! 歴史に学ぶ 童門冬二氏講演会より 第1部 

2010-12-14 04:42:14 | Weblog

【今日12月14日「赤穂浪士」討ち入り!】 

歴史に学ぶ 童門冬二氏講演会より 第1部 

本日より数回にわたり
「童門冬二氏講演会・歴史に学ぶ」を投稿致します。
尚、童門先生のお話とその日に戴きました、童門先生著書
「日本史のツボ」を参照させて戴き投稿致します、

紘一郎雑記張
【童門先生のお話「歴史に学ぶ」を拝聴して、
 平成の現在に我々は何をすべきかの、ヒントを多く戴きました】
 
童門冬二氏「作家」

1927年東京生まれ 東京都庁にて広報室長・政策室長
1979年退職 以後 執筆活動に専念
歴史を題材に数々の話題作を発表 芥川賞 勲三等瑞宝章
著書「将の器・参謀の器」「龍馬と弥太郎」など多数

童門です、 今日はお招き戴き有難う御座います。

歴史に学ぶという演題を戴きましたので、幾つかの
歴史のお話しをしながら、歴史は一本の線で
結ばれている事をご認識戴くと「日本」が見えてきます。

1600年の関ヶ原の合戦は、家康は「豊臣家」の臣下の立場で
主導権争いの意味が大きく、家康は戦い後「石田三成を成敗した」と
秀吉の子「豊臣秀頼」に報告しています。

その後、あとでお話し致しますが、幾つかの戦いと改革を行い
新しい制度「参勤交代」などを創り、問題を抱えながらも
徳川幕府が安定したのが、3代将軍家光の頃である。

江戸時代前期に隆盛したのが、ご存知「元禄文化」です。
将軍は「3代将軍家光」のあとの「4代将軍家綱」から
「五代将軍綱吉」の時代にピークを迎えたのです。

綱吉は、好学の将軍で「漢籍」に大変詳しく、向学心強く
参勤交代してきた大名達を集めては、
よく「論語」や「五経」「大学」などを講義していたようです。

将軍がそうなると、下々も右に習えで、そういう気風が流行り
特に江戸の城下町に浸透していき、文学活動が盛んになりました。

綱吉はそれに加えて「宗教心」も厚かったのです。
自身も「護国寺」などの創設をしつつ、民間にも
盛んに勧めたため「土木工事」を中心に
「経済成長」が際立った時代でした。

又併せて「文化活動」も隆盛を極めましたが、同時に
民心を退廃させ、武士の堕落が目立つ時代になったのです。

そんな時、あの「赤穂浪士事件」が起きたのです。

この「赤穂浪士事件」は「浅野内匠頭」が「江戸城内」で
刀を抜き、「吉良上野介」に斬り付けるという「違法行為」を
行ったために「切腹」させられた「松の廊下」ですね。

その主人の「仇」を討つべく「取り潰された赤穂藩」の
家臣たちが、「吉良邸」を襲い、討ち取った事件です。

これは明らかに「浅野」に非があります。

幕府の法律では「江戸城内」で絶対に刀を抜いては、
いけないことになっていたのに「その法律」にそむいて
「浅野内匠頭」は抜刀したので「切腹」させられても
文句は言えないのです。

しかし「赤穂浪士」は徒党を組んで「主君の仇」を
討つ行為に出たのです。

しかし「この仇討ち行為」を幕府は知っていました。
江戸町奉行、あるいは上層部「柳沢吉保」は黙認していました。

そうとしか考えられない事実が幾つかありますが
その一つが「吉良の屋敷」を事前に、「江戸城内」から
郊外の「本所」に移転させ「討ち入り」をしやすくしているのです。

なぜでしょう、なぜ幕府が討ち入りを黙認したのかは、
「世論」が「赤穂浪士」たちに傾き、それに加えて
「元禄バブル」の甘い汁を吸って、たるんでいる「武士達」の
心を引き締める狙いがあった、と私は考えています。

もう一つ綱吉の時代の政策で有名なのが「生類憐れみの令」です。

続きは「第2部」に投稿致します。







果たして、ハマコーさんの背中の入れ墨は? 宮嶋氏講演録第5部

2010-12-13 04:31:31 | Weblog
● ハマコーさんの背中を追って
  果たして「入れ墨」は??

世界のカメラマン 大いに語る
【不肖!宮嶋 自転車操業25年】

講師ー宮嶋 茂樹氏

写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。

大晦日に神社にお参りする「ハマコーさん」に
暗闇の中からいきなりストロボを光らせ撮影に成功したのです。

しかし、その時、「コラッ!」と、取り巻きの若い衆に
囲まれたのでした。

当たり前ですね、ハマコーさんが真剣にお参りしている時に
ストロボですから「バレ」ますよね。

私は、咄嗟に【自分は日大の学生で帰郷して初詣にきて
たまたま、浜田先生がいらしたので、ついシャッターを
切ってしまいました】とウソを言って許してもらいました。

残念ながら「浜田幸一氏」の背中には「入れ墨」はなく
「1,000万円」の賞金が「1%」になりました。

苦労して写したわけですが「入れ墨」があるか、ないかで
大きく、報酬が大きく違ったのでした。

この撮影には続きがあります。

ハマコーさんが衆議院の予算委員長になり、もめた時に
私は、又もハマコーさんの写真を撮りに千葉に行きました。

そして、あるガソリンスタンドで給油をしていたら、
初詣をするハマコーさんのポスターが、大伸ばしにされて
飾ってありました。

「この写真はどうしたのですか」とスタンドで聞いたら
「浜田先生の右に立っているのは自分だよ」と
教えてくれました。

その人は「ハマコーさん」の後援会の人でした。

「浜田先生と一緒に初詣に行ったら、可笑しな男が飛び出してきて
ストロボを炊いたので、訳を聴いたら日大の学生とか言っていたが
、その時の写真がフライデーに載った」と憤慨していました。

「それは私です」とも言えず逃げ帰りました。

私は写真だけでなく、日頃から世間の批判を戴いていますが
不思議に、一度も訴訟問題になったことはありません。

それはカメラマンである私は常に現場で、見て撮り、
発言しているからだと思います。

ボスニア戦争のとき、まだ戦闘が続いている中で
若い美人の「水着姿」や「化粧をした美人」を撮り
「何の意味があるのか」や「不謹慎」とののしられました。

しかし、それでは「ボスニア戦争」はどんな戦争かと聞けば
多くの人は正確に答えられないと思います。
いや地図さえ判らない人も多くいると思います。

その写真の女性たちが「父や恋人をセルビア人に殺され」
復讐までも考え、写真の中の表情に悲しみと憂いを含む
姿や顔を見るととき、私にこのボスニア戦争の【真実】を
物語ってくれているように見えるのです。

それを写真を通して伝えるのが私の仕事と考えています。

有難う御座いました。





















ハマコーさんの”入れ墨”を追って 第4部【不肖!宮嶋 自転車操業25年】

2010-12-12 04:38:44 | Weblog
● ハマコーさんの”背中の入れ墨”を追って

世界のカメラマン 大いに語る
【不肖!宮嶋 自転車操業25年】
安田紘一郎雑記帳

講師ー宮嶋 茂樹氏

写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。

ハマコーさん、こと「浜田幸一氏(元・衆議院)」が逮捕されて
今年の話題となりましたが、私は26年前に「ハマコーさん」の
写真を撮っているのです。

ハマコーさんは「ゴルフ場」に行っても「上着を脱ぎたがらない」
とか「サウナ」に行っても「入らない」という事から
「背中一面」に”入れ墨”があるとの噂が流れていました。

大学を出て「フライデー」の「専属カメラマン」に
なりたてのころ「編集長」からカメラマンに
【ハマコーさんの入れ墨を撮影できたら「1000万円」出す】
【撮りたいやつはいないか】と声がかかりました。

私は【僕がやります】と名乗りを上げたのです。

最近の若者は仲間とつるむ事を好みますが、私は
おいしいところを、一人占めしたい人間であり
【この仕事を一人でやらせて下さい】と買って出たのでした。

ハマコーさんの地元である「千葉県富津市」へ足を運びました

ハマコーさんの「主治医」を買収しようか、または風呂場潜入しようか、
など色々考えましたが、どれも後から「手が後に回る」
やり方なので、やめにしました。

何も手がかりが無いまま「ハマコーさん」の実家の近くの
「駐在所」に入り「道を聞く」ふりをして、
駐在さんに声をかけたのでした。

大学生が夏休みに旅行でもしているように見えたのでしょう
「学生さんどこから来たの?」と駐在さんが話しかけてくれました。

私は咄嗟に「浜田先生はお元気ですか」と聞きましたら
「大変、お元気だよ」と答えてくれました。

そして、私が「浜田先生って、入れ墨があるんですね」と
さり気なく聞くと、駐在さんの顔色が急に変わり
「そんな事、誰に聞いたの」と言うのです。

私が「日本中で噂になっていますよ」ととぼけると

【そんな筈はないよ、浜田先生は毎年、大晦日から元旦に、
近所の神社に裸でお参りされるが、入れ墨なんて見たことないなあ】と
駐在さんが話してくれたのです。

素晴らしい情報です。

私は、その年の年末大晦日に、千葉県のその神社に行きました。
そして、見事にお参りする「ハマコーさん」の裸を
撮ることに成功したのです。

暗闇の中で裸で参拝している「ハマコーさん」の前で
いきなりストボロを光らせたのです!

さあ 大変です・・

続きは第5部にて投稿します。











中国天安門の失敗 ・不肖!宮嶋語る 第3部  紘一郎雑記帳

2010-12-11 05:14:35 | Weblog
世界のカメラマン 大いに語る

●悔しい失敗の思い出!数々

【不肖!宮嶋 自転車操業25年】
講師ー宮嶋 茂樹氏

写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。

【第3部 逃がした天安門事件スクープなどなど】

●日航ジャンボ機墜落事件

逃がしたチャンスを数え切れないほどあります。
例えば1985年に起きた「日航ジャンボ機」の
墜落事故ですが、500人以上の方々が、
ほぼ同時に亡くなった現場に立つ機会など
不謹慎な言い方だけど滅多にあることではない。

当時24歳だった私は交際中の女性と「六甲」をドライブしていた。

カーラジオで「123便」が消息を断った事を知り
いつもなら「現場」に向かうべく「新幹線」に
飛び乗るのですが、その日に限り「彼女」との
時間を過ごしました。

後日「彼女」と結婚した私は「ケンカ」の度に
なぜ、あの時「現場に行け」と言わなかったのかと
ののしり続ける事になったのです。
私は全く最低ですね。

●マルコス政権崩壊の時

1986年に28年間続いたフィリピンの「マルコス独裁政権」が
崩れ落ちる瞬間も撮るり逃がしたのです。

写真週刊誌「フライデー」専属だった私は、なんと
人気歌手「玉置浩二さんと石原真理子さん」の
不倫を追いかけていて、二人の「マンション」前で
彼らを張っている最中でした。

実はその年の2月に「マルコス政権」は「2月」に崩れると読んで
デスクには「新婚旅行」で休むとウソを言い、
「一週間」の休暇を取り、一人で「フィリピン」に
渡りましたが、私の予想をよそに「マルコス政権」は
「1ケ月」以上も続いたのです。

そして実際の政変がおきてから、「もう一度フィリピン」にと
デスクに頼めず悔しい思いをしたので、そこから
私は「フリーカメラマン」の道を選んだのです。

●中国天安門事件の取材を逃がした無念!!

1889年に北京で起きた「天安門事件」の時は
「まだ大丈夫」と楽観視していたら「中国政府」の
物凄い「強攻策」で一夜にして形勢が決まりました。

私が「ビザ」の発給に手間取っている間に
天安門広場を学生が占拠し、自由と民主主義を求める
史上有数の弾圧現場の取材期を逃がしたのです。

中国に共産党政権が続くか限り二度と見られない「シーン」で
それを撮り逃がした後悔と無念さは今も胸に残っています。

●アフガニスタン、カブール陥落に思う

2001年に「アフガニスタン、カブール」が陥落して
北部同盟の戦車が入場するシーンも撮り逃がしたのです。

その時は「歯が」痛くなり「持ち金」も無くなり
いったん帰国してから、もう一度出直すことにしたのです。

又、陥落の時期ももう少し先で、出直してきて間に合うと
判断したのですが、「モスクワ」経由で「成田空港」に
着いたときに「カプール陥落」の臨時ニュースを見たのでした。

「歯痛」や「金」の事もありましたが「国際情勢」を
読むことの難しさは、「一カメラマン」が、
判断出来るほど簡単ではない事を思い知らされたのです。

ハマコー(浜田幸一元・議員」の面白い話があります。

続きは「第4部」で投稿予定です。












タイ暴動!危険な現場が好き 不肖!宮嶋大いに語る 第2部

2010-12-10 05:03:52 | Weblog
世界のカメラマン 大いに語る
安田紘一郎雑記帳

【不肖!宮嶋 自転車操業25年】第2部

講師ー宮嶋 茂樹氏

写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。

【第2部 タイ暴動 危険な現場が好き!不肖・宮嶋】

体力が衰えれば、過激な現場に行くのはやめようと
心に決めていたが、世間で世界で騒がれている場所には
居ても立ってもいられず、その気になってしまうのです。

50歳まであと1年だが、今年も「タイ」の暴動に取材に行きました。

日本人カメラマンが殺されている事もあり、
恐怖心を抑えながら「防弾チョッキ」と「ヘルメット」を
着用して現場にたちました。

バンコクで暴動に桑加わった男が、投擲した火炎瓶の火を
自分で被ったシーンも撮りました。

暴動というのは、大抵それを扇動する「よそ者」がいますが
この男もそうで、腕に入れている入れ墨からも、判りました。

何かをやらかすだろうと、私はその男を注目していました。
案の定、車に爆発物を仕掛けるなど、さんざん暴れまわり
自分の火炎瓶で火だるまになったのでした。

これは、今年の私の代表作の一枚と自負しています。

こういう場面に立ち会うと
「やはり、この仕事辞められない」と思うのです。

だから、私は今でも「危険な現場」へと行くのですね。

人が怪我をしたり、命を落したりするのを、
喜んでいるのでは決してありません。

ただ「カメラマン」として
「これを伝えなければ」との思いだけです。

この「タイ」の火炎瓶で「火だるまになった男」は
軽症ですみましたが、こうした「破壊行為」を
する人間に対して私は同情出来ないのです。

最近は、人の写真を見て、「上手いなあ・どう撮ったのか」と
感心することがあり、その時は「もう引退かなあ」と思います。

これが自分が若い頃は、人の撮影した「良い写真」をみると
腹がたったのですが、歳のせいでしょうか。

フリーランスのカメラマンは、年上の足を引っ張り
年下の若いカメラマンの頭を抑え蹴り落し
同業者に嫌われ、被写体からは嫌がられて、
始めて一人前のカメラマンであり、
「宮嶋が来た!あいつはロクな男ではない」と
言われてこそ本物のカメラマンであるが
「宮嶋さんはいい人だ」といわれた時が引退の時でしょう。

報道カメラマンの習性として
「大きな事件の現場に立会いたい」と思うのは本能の
ようなものですが、そのチャンスを逃がしたり
事件のタイミングを読み違えたりする事も多くあり
その時は本当に悔しい気持ちで人に八つ当たりしたりします。

私の「1985年」の「日航ジャンボ機」墜落事故の際の
事を話しましょう、

続きは「不肖宮嶋大いに語る・第3部」に投稿します。