世界のカメラマン 大いに語る
●悔しい失敗の思い出!数々
【不肖!宮嶋 自転車操業25年】
講師ー宮嶋 茂樹氏
写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。
【第3部 逃がした天安門事件スクープなどなど】
●日航ジャンボ機墜落事件
逃がしたチャンスを数え切れないほどあります。
例えば1985年に起きた「日航ジャンボ機」の
墜落事故ですが、500人以上の方々が、
ほぼ同時に亡くなった現場に立つ機会など
不謹慎な言い方だけど滅多にあることではない。
当時24歳だった私は交際中の女性と「六甲」をドライブしていた。
カーラジオで「123便」が消息を断った事を知り
いつもなら「現場」に向かうべく「新幹線」に
飛び乗るのですが、その日に限り「彼女」との
時間を過ごしました。
後日「彼女」と結婚した私は「ケンカ」の度に
なぜ、あの時「現場に行け」と言わなかったのかと
ののしり続ける事になったのです。
私は全く最低ですね。
●マルコス政権崩壊の時
1986年に28年間続いたフィリピンの「マルコス独裁政権」が
崩れ落ちる瞬間も撮るり逃がしたのです。
写真週刊誌「フライデー」専属だった私は、なんと
人気歌手「玉置浩二さんと石原真理子さん」の
不倫を追いかけていて、二人の「マンション」前で
彼らを張っている最中でした。
実はその年の2月に「マルコス政権」は「2月」に崩れると読んで
デスクには「新婚旅行」で休むとウソを言い、
「一週間」の休暇を取り、一人で「フィリピン」に
渡りましたが、私の予想をよそに「マルコス政権」は
「1ケ月」以上も続いたのです。
そして実際の政変がおきてから、「もう一度フィリピン」にと
デスクに頼めず悔しい思いをしたので、そこから
私は「フリーカメラマン」の道を選んだのです。
●中国天安門事件の取材を逃がした無念!!
1889年に北京で起きた「天安門事件」の時は
「まだ大丈夫」と楽観視していたら「中国政府」の
物凄い「強攻策」で一夜にして形勢が決まりました。
私が「ビザ」の発給に手間取っている間に
天安門広場を学生が占拠し、自由と民主主義を求める
史上有数の弾圧現場の取材期を逃がしたのです。
中国に共産党政権が続くか限り二度と見られない「シーン」で
それを撮り逃がした後悔と無念さは今も胸に残っています。
●アフガニスタン、カブール陥落に思う
2001年に「アフガニスタン、カブール」が陥落して
北部同盟の戦車が入場するシーンも撮り逃がしたのです。
その時は「歯が」痛くなり「持ち金」も無くなり
いったん帰国してから、もう一度出直すことにしたのです。
又、陥落の時期ももう少し先で、出直してきて間に合うと
判断したのですが、「モスクワ」経由で「成田空港」に
着いたときに「カプール陥落」の臨時ニュースを見たのでした。
「歯痛」や「金」の事もありましたが「国際情勢」を
読むことの難しさは、「一カメラマン」が、
判断出来るほど簡単ではない事を思い知らされたのです。
ハマコー(浜田幸一元・議員」の面白い話があります。
続きは「第4部」で投稿予定です。
●悔しい失敗の思い出!数々
【不肖!宮嶋 自転車操業25年】
講師ー宮嶋 茂樹氏
写真家 1961年 兵庫県
講談社「フライデー」カメラマンとして活躍後
フリー 週刊誌を中心に活動
東京拘置所収監中の麻原彰晃の写真や
ロシア外遊中の「金正日」の姿を写したスクープや
世界の戦場を歩く活躍が多い。
【第3部 逃がした天安門事件スクープなどなど】
●日航ジャンボ機墜落事件
逃がしたチャンスを数え切れないほどあります。
例えば1985年に起きた「日航ジャンボ機」の
墜落事故ですが、500人以上の方々が、
ほぼ同時に亡くなった現場に立つ機会など
不謹慎な言い方だけど滅多にあることではない。
当時24歳だった私は交際中の女性と「六甲」をドライブしていた。
カーラジオで「123便」が消息を断った事を知り
いつもなら「現場」に向かうべく「新幹線」に
飛び乗るのですが、その日に限り「彼女」との
時間を過ごしました。
後日「彼女」と結婚した私は「ケンカ」の度に
なぜ、あの時「現場に行け」と言わなかったのかと
ののしり続ける事になったのです。
私は全く最低ですね。
●マルコス政権崩壊の時
1986年に28年間続いたフィリピンの「マルコス独裁政権」が
崩れ落ちる瞬間も撮るり逃がしたのです。
写真週刊誌「フライデー」専属だった私は、なんと
人気歌手「玉置浩二さんと石原真理子さん」の
不倫を追いかけていて、二人の「マンション」前で
彼らを張っている最中でした。
実はその年の2月に「マルコス政権」は「2月」に崩れると読んで
デスクには「新婚旅行」で休むとウソを言い、
「一週間」の休暇を取り、一人で「フィリピン」に
渡りましたが、私の予想をよそに「マルコス政権」は
「1ケ月」以上も続いたのです。
そして実際の政変がおきてから、「もう一度フィリピン」にと
デスクに頼めず悔しい思いをしたので、そこから
私は「フリーカメラマン」の道を選んだのです。
●中国天安門事件の取材を逃がした無念!!
1889年に北京で起きた「天安門事件」の時は
「まだ大丈夫」と楽観視していたら「中国政府」の
物凄い「強攻策」で一夜にして形勢が決まりました。
私が「ビザ」の発給に手間取っている間に
天安門広場を学生が占拠し、自由と民主主義を求める
史上有数の弾圧現場の取材期を逃がしたのです。
中国に共産党政権が続くか限り二度と見られない「シーン」で
それを撮り逃がした後悔と無念さは今も胸に残っています。
●アフガニスタン、カブール陥落に思う
2001年に「アフガニスタン、カブール」が陥落して
北部同盟の戦車が入場するシーンも撮り逃がしたのです。
その時は「歯が」痛くなり「持ち金」も無くなり
いったん帰国してから、もう一度出直すことにしたのです。
又、陥落の時期ももう少し先で、出直してきて間に合うと
判断したのですが、「モスクワ」経由で「成田空港」に
着いたときに「カプール陥落」の臨時ニュースを見たのでした。
「歯痛」や「金」の事もありましたが「国際情勢」を
読むことの難しさは、「一カメラマン」が、
判断出来るほど簡単ではない事を思い知らされたのです。
ハマコー(浜田幸一元・議員」の面白い話があります。
続きは「第4部」で投稿予定です。