日清食品 安藤百福の提言
紘一郎雑記張 偉人氏メールより
日清食品の創業者、安藤百福(ももふく)が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功したのは昭和33年、安藤48歳の時であったが、開発にとりかかった時は無一文に近い状態であった。人に頼まれ不慣れな信用組合の理事長を安請け合いで引き受けたところ、倒産してしまい無一文となってしまったのだ。整理を終え心身ともに疲れはて大阪府の池田の愚居に引き籠った安藤であったが、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ、経験が血や肉となって身についている」そう開きなおり自らを奮い立たせた。
そして手掛けたのが即席ラーメンの開発であった。それまで安藤は靴下の販売や機械、製塩、炭焼きと幅広く事業を展開してきたが、ラーメンの製造の経験は皆無であった。即席ラーメンの発想は戦中、戦後に飢えを凌ぐために人々が食糧を求めて争う姿を目当りにしたことに起因する。戦後大阪梅田駅の裏手でラーメンの屋台に長い行列が出来ているのを見た時に、人は一杯のラーメンのためにこれだけ努力するのかと感動を覚えたという。池田の愚居のどん底で。「食のありさまが乱れていたら国は衰退する。食品会社はきわめて社会貢献度の高い仕事である、食が文化、芸術、社会のすべての原点である」という考えに至り、今まで何度となくぼやっと考えては消えていたアイディア「いつでもどこでも食べられるメンを大量生産する」で再起をはかることを決意する。
腹が決まると自宅の裏庭に小屋のような作業場をつくり、開発の目標を「美味しい、保存性、便利、安価、安全」と5つに定め、ラーメンの開発に集中する。もちろん社員などいない。手伝ってくれるのは妻と子供だけである。朝の5時夜が明けると研究室にこもり夜中の1時、2時まで研究は続く。一日の休みもなく研究を続けついに安藤は「チキンラーメン」を完成させた。チキンラーメンは爆発的に売れ、即席メンの生産は、昭和33年に1千3百万食、35年に1億5千万食、そして37年には10億食、38年には20億食と倍増していく。「チキンラーメン」を開発してわずか5年で東京と大阪の両取引所に上場を果たす。現在世界で最も流通している食品が、安藤が開発した即席メンである。窮貧からの出発にもかかわらず、短期間でここまでの成功をおさめた経営者はほかにはいないだろう。
安藤は後に「事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない滞在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう」と述懐している。
また安藤は「人間その気になれば、一日で一ヶ月分の仕事ができる」
「発明や発見には立派な設備や資金はいらない」ともいう。
人間、命さえあれば、まして五体満足であるならば国の保護など必要ないはずだ。人は死にもろ狂いで頑張ればやってやれないことはない。