◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(25)三島由紀夫×末松太平・知られざる対談◎

2023年03月28日 | 年表●末松太平
◎「対談・軍隊を語る」について、もう少し紹介しておく。
《学燈社「伝統と現代」1969年9月号》からの要約。文責=私(括弧内は私の補足)。
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●三島「いままで軍隊のことについて書いた人は、戦争末期の召集兵が多かったですね。そして私、あのころの日本の軍隊というのは、かなりもう、堕落していたと思いますね。そのいろんな悪弊が累積したところへ(召集兵として)いって、ひどいめにあった人が書いた。それは確かに、軍隊の暗黒面だと思うんです。/私は幸か不幸か、その時期に兵隊に行かなかった。そして、戦後二十年もたってから自衛隊にたびたび行くようになった。私は、いま自衛隊は非常にいいと思うのです。かえって軍縮時代の軍隊のほうが内部は、美しい友情も、戦友愛もあると思うんです。/末松さんは、そういう時代に陸軍におられた。末松さんもおそらく(軍隊の暗黒面でなく)比較的いいところをごらんになっておやめになられた。そういう同士が話し合ったら、日本の軍隊というものについて、読者にも、新しいイメージが出るんじゃないか。今の時点と、昭和初年代の時点とをお互いにお話しながら、思い出話を末松さんにうかがい、私の現在みてきたことを話し、それがいちばん面白いんじゃないかと思いましてね」

●末松「三島さんのおっしゃった軍隊物っていうのは、不思議に、主人公がたいへん立派な兵なんですね。学問もあるし、人生観もしっかりしてるし、哲学だの経済学だの、思想的なこともしっかり勉強してるんですね。それに対抗するのが、くだらない将校や、くだらない下士官で、まことに取り合わせがおもしろいんですね。(笑)/(戦争末期の)軍隊が非常に乱れていたというんですが、乱れる原因の根は、元の軍隊にもありましたよ。歩哨というのは、逃げる兵隊を取り締まったりするわけですね。(笑)歩哨が逃げちゃうから、またその歩哨に歩哨を立てなきゃならないということが、ありましたね」

・・・「上下2段組で23ページ」の「超ロング対談」。内容的には、談論風発 緊張感がない。

●末松「今の自衛隊は選挙権、あるんですから。昔は、現役兵は(現役である間は)選挙権、ないんです。ぼくら(将校)もなかったんですね」
●三島「左翼運動なんか、どうでした? 将校では?」
●末松「将校に左翼運動というのは・・・、ぼくらが左翼運動やっていると思われていたんで。(笑)」
●三島「末松さんが左翼だったわけですか、ハハハハ・・・」
●末松「昔は、軍隊で『社会』という言葉自体がタブーですから。『社会』という字が一字はいっている本読んでても、読んじゃいけないといわれた」
●三島「旧軍の方がよく自衛隊に入られたですが、末松さんそういうこと、お考えになったこと、全然なかったですか」
●末松「ああいう服装じゃ、ぼくは入りたくない。昔の軍服着たら格好いいから・・・」
●三島「今のあれはね、シビリアンへの偽装ですね。軍隊というイメージ、払拭するために作ったユニフォームだから」
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★参考資料★・・・・・・・・・・
《村松剛「三島由紀夫の世界」1996年・新潮文庫。》
「自分の作品の中から代表作を一篇だけ選べといわれれば『憂国』と答えると、三島は書いている。/しかし『憂国』の初稿には事実誤認の部分があった。三島は後に末松太平から忠告を受け、昭和41年以降の版では、それぞれを訂正した。/数年後の三島は『私は徐々に(二・二六事件の)悲劇の本質を理解しつつあるように感じた』と書くようになる。末松太平の著書『私の昭和史』を『是非御高覧相成度』という献辞つきで、後に彼はわざわざ贈ってくれた。第三者の著作を三島から貰ったのは、後にも先にもこの時だけだった。少々驚いたのだが、是非買って読んでみろと勧めて来るぐらいでは、満足できなかったらしい。」
「末松氏を三島が自宅に招待し、ぼくもその席に招かれて氏の回顧譚をうかがった。蹶起した『同志』が反乱軍として皇軍の銃によって銃殺されたときは、三八式歩兵銃の菊の御紋章を削りとりたい気持でした。穏やかな口調で氏がそういわれたのが、記憶に鮮明に残っている。」
「7月12日(1966年)に三島は末松太平を自宅に招いた。『英霊の聲』所収の『二・二六事件と私』には、元陸軍歩兵太尉末松太平の『j助言』によって『憂国』の一部分を修正したという記述があり、末松氏と三島が会ったのはこれが最初でない、助言へのお礼の意味で、本の出版を機会に彼は小宴を開いたらしい。」
・・・「二・二六事件と私」は《河出書房新社「英霊の聲」1966年刊》に所収。
・・・私は、かなり後で《三島由紀夫著「日本人養成講座」1999年・パサージュ叢書》で読んだ。
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◎「新版/年表・末松太平」/(24)それぞれの生き方◎

2023年03月28日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1968(昭和43)年/末松太平=62歳~63歳/私=27~28才。》
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◎仏心会「全殉難者33回忌法要」は、渋谷公会堂地下会場営まれている。
・・・賢崇寺は工事中。賢崇寺本堂の落慶式は、1974年4月である。

◎1968年12月25日。学芸書林「ドキュメント日本人3・反逆者」発行。
・・・「責任編集/谷川健一、鶴見俊輔、村上一郎」。発刊意図「知られざる資料でつづる『日本人』の新しい記録」。全十巻。
・・・「3・反逆者」の顔ぶれは、雲井竜雄、金子ふみ子、古田大次郎、大杉栄、末松太平、磯部浅一、西田税、北一輝、朝日平吾、北原泰作、須田清基、尾崎秀美、以上12名。
・・・末松太平は「青森歩兵第五連隊の記録(自伝)」。本書のための「書き下ろし」である。
因みに「二・二六事件関係者」の内容は、磯部浅一「獄中日記」、西田税「戦雲を麾く」(自伝)、北一輝「北一輝君を憶ふ」(大川周明)。余談だが、西田税氏の題名を記すのに苦労した。読み方は「さしまねく」。

◎末松太平と私。それぞれの生き方。
・・・私は福岡生活3年目。転勤理由「会社の敵」の誤解(事実無根)は直ぐに改称。逆に「優遇」を感じられるようになっていた。/地元放送局(九州朝日放送)に友人が増え、本業(広告会社勤務)よりも「裏のつきあい」を楽しむ日々。放送作家としての依頼が増え、面白半分に「番組に出演」したりしていた。
・・・「ベストン(株)取締役」の末松太平が、仕事で福岡に現れることもあった。ネオン街徘徊で多忙な息子(私)は、父親を「東中洲」に招いたこともある。酒の飲めない末松太平は、居心地が悪そうにしていた。

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《「年表・末松太平」1969(昭和44)年。/末松太平=63歳~64歳。私=29歳。》
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◎末松太平の次男(征比古)が結婚する。
・・・来賓挨拶は、三原朝雄国会議員。防衛庁長官も務めた元軍人である。末松太平とは「満州」以来の親交らしい。/末松太平が(両家代表挨拶で)何を語ったのかは記憶にない。

◎三島由紀夫と「対談」する。



★資料★・・・・・・・・・・
《學燈社「伝統と現代」1969年9月号/「対談・軍隊を語る」。》
・・・「三島由紀夫全集」の類いに「三島氏の対談」が載ることは多い。しかし「末松との対談」が載ることはない。/だから、三島由紀夫の研究家にも「この対談」は気付かれていない。
・・・末松太平と三島由紀夫は「私の昭和史」以来、何度も会うようになった。三島邸にも何度か訪れている。(私以外の)家族も、劇場に招待されたり、会食を共にしている。三島氏と顔を合せていないのは(福岡転勤中の)私だけである。

★資料★・・・・・・・・・・
《學燈社「伝統と現代」1969年9月号/「特集・軍隊」。》
・・・目次には「対談・軍隊を語る」を筆頭に「天皇と軍隊/日本軍隊史/農民と兵隊/軍隊の起源/軍隊組織の構造/戦闘とモラル/戦略戦術論のための序章/軍隊における差別と抵抗/異国軍人行状記/日本軍隊史年表/軍隊綱領集(軍人勅諭・軍隊内務書・軍隊内務令・歩兵操典・陸上自衛隊綱領)」といったタイトルが並ぶ。
・・・グラビア「ドキュメント・軍隊生活」は、写真と「末松太平・文」がセットになっている。



●写真=ラッパ手/起床ラッパは恨めしい。新兵さんも古兵さんも皆起きろ! 起きないと班長さんに叱られる。食事ラッパは嬉しい。「カッコメ、カッコメ」と聞こえる。消灯ラッパは哀愁がこもる。「新兵さん可哀そやな、また寝て泣くのかや」。
●写真=三八式銃の手入/歩兵にとって銃は生命より大事にするよう教育された。ちょっと傷をつけても叱られた。菊の御紋章がついていて、大切にしなければならなかった。
・・・以下省略。グラビア写真「内務班での食事/物干し場/洗濯/敬礼!/観兵式」のそれぞれに「末松太平・文」が添えられている。



◎末松太平と私。それぞれの生き方。
・・・私は福岡生活4年目。左遷同様の「転勤命令」の際は「期限=3年間」を確約させていたのだが、諸事情あって「1年延長」となった。
・・・本業(広告代理店勤務)以外の「遊び=九州朝日放送の放送作家」で忙しい日々。写真はその実例、佐賀博覧会会場での公開ラジオ番組。渡久山巌アナウンサーのパートナー(松坂行子)は、西南学院大学「フォークメイツ」の一員である。
・・・末松太平は、この年も「ベストン(株)取締役」として、福岡に現われている。
「ベストン」については猛勉強していた。末松太平の「遺品」からは「びっしり書込まれた大学ノート」が何冊も発見された。
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◎「新版/年表・末松太平」/(23)長男(私)の左遷◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1966(昭和41)年。/末松太平=60歳~61歳/私=25~26才。》
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◎1966年2月26日。事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年。
・・・渋谷公会堂地下会場で「全殉難者31回忌法要」ならびに記念行事を行う。
・・・世話人代表は、荒木貞夫元大将。参会者約300名。



◎1966年。雑誌「人物往来」2月号に「悲哀の浪人革命家」を掲載。
・・・西田税のことを書いたもので、松本清張著「昭和史発掘・8」文春文庫版に引用されている。



◎1966年3月。大岸頼好死去15年の記念誌「追想・大岸頼好」を編集。
・・・90頁の冊子。末松自身は「少尉殿と士官候補生」を寄稿している。
・・・寄稿者紹介欄を見ると「末松太平=ベストン㈱役員」とある。小田急系列の会社。
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◎1966年5月。広告会社勤務の私は「労働組合結成の余波」で、福岡支社(当時は出張所)に転勤。
・・・会社側は「それなりの理由」を挙げたが あきらかな「左遷」。滑稽なことだが「総評から送り込まれたオルグ」と誤解されたらしい。会社側の依頼した「探偵」が、デタラメな報告書を書いたと思われる。尤も私自身の言動が「過激」だったのは事実である。
・・・自宅(千葉市登戸5丁目)を離れた私は、末松太平が死去するまで「同居」することはなかった。



・・・「福岡時代の住居」の現況(2003年撮影)。福岡市荒戸1丁目。博多湾の漁港が近い。
写真手前(空き地)には「蕎麦屋」があった。駐車場のシャッターを開けて入り「駐車場の屋上」に登ると、孤立した部屋(画面右端)に到達。台所もトイレもガス水道もなく、寝に帰るだけの住居だった。ワイシャツだけは「クリーニング」に出したが、下着靴下はポリバケツで洗って屋上に干した。
・・・26歳~30歳直前までの4年間 この部屋に住み続けた。

◎1966年9月。村中孝次の遺書「同志に告ぐ」が発見される。
・・・宛先は「菅波、末松、明石、大蔵、志村、市川、朝山、杉野、黒崎、北村、諸盟兄」で、昭和11年8月17日に、獄中で書かれている。
・・・この全文は「政経新論」1967年1月号に掲載された。この号の編集は「M・T生/高橋正衛?」に替っている。

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《「年表・末松太平」1967(昭和42)年。/末松太平=61歳~62歳。私=26歳~27歳。》
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◎千葉市(末松太平)と福岡市(私)に離れての日々。末松太平の「日常生活」は把握できない。

◎雑誌「四国不二」3月号掲載。末松太平「大岸少尉と『兵農分離亡国論』」。
◎雑誌「四国不二」6月号掲載。末松太平「坂本竜馬のような人」。
・・・2篇とも 大岸頼好についての回想。その後《末松太平著「軍隊と戦後の仲で」大和書房刊》に所収。

◎私の福岡生活は 2年目。そろそろ「東中州」のネオン街に馴染んできた頃である。
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◎「新版/年表・末松太平」/(22)慰霊像除幕開眼式◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1965(昭和40)年。/末松太平=59歳~60歳/私=24~25才。》
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◎1965年2月26日。渋谷宇田川町、処刑場跡地に「二・二六事件全殉難物故者慰霊像」建立。
・・・現地において藤田俊訓師を導師として、慰霊像除幕開眼式ならびに「30回忌法要」を行う。
・・・式の後、渋谷公会堂食堂で「記念祝賀会」が開催された。



★参考資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛著「二・二六事件」中公新書。1965年8月25日初版。》
「高く掲げられた日章旗は風に音を立ててはためき、参列者の合唱する『君が代』が風の中を流れていった。式は、この慰霊像建設にあたって献身的な努力をした河野司氏の挨拶に始まった。司会は末松太平氏。午後1時42分、序幕の綱は引かれ、紅白の幕が下に落ちた。除幕の綱を引いたのは栗原勝子さん(栗原中尉の母)である。/参列者は 記名をした人400人、記名しない人や偶然参列した人も含めて、約700人であった。」
「遺族席=香田清貞大尉未亡人、安藤輝三大尉未亡人、丹生誠忠中尉未亡人、対馬勝雄中尉の母、相沢三郎中佐未亡人。/事件連座者=大蔵栄一大尉、柳下良二中尉、志村陸城中尉、今泉義道少尉、堂込喜市曹長、門脇信夫軍曹、北島弘伍長・・・」



★関連資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。撮影日時不明の写真》
…写真左から、某氏、末松太平の次男(征比古)、末松太平、某氏、河野司。
…私が初めて「慰霊像」を訪れたのは、末松太平が死去した後であった。

◎1965年8月。《高橋正衛著「二・二六事件」中公新書》発行。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《同書の「まえがき」から》
「末松太平氏は、常に私のよき助言者であり、特に青年将校の横断的結合という点について教えられることがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口一太郎氏、西田初子さん、末松氏に伝わる、反乱将校の考え方や気持を、もう一度考えてみたいということにあった。」

◎1965年。雑誌「人物往来」2月号(特集二・二六事件)に「青森連隊の呼応計画」を掲載。
・・・これば、後に大和書房「軍隊と戦後の中で」に再掲。さらに後日「目撃者が語る昭和史」第4巻にも再掲されている。
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◎「新版/年表・末松太平」/(21)慰霊像建立準備事務所◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1964(昭和39)年。/末松太平=58歳~59歳/私=23~24才。》
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★資料★・・・・・・・・・・
《河野進作成「仏心会概史」から。》
「1962(昭和37)年に(処刑場跡地に)慰霊観音像の建立が決定されていた。



◎1964年3月末。「記念慰霊像建立準備事務所」開設。
・・・「慰霊像建立資金」の募金活動を開始する。
◎「慰霊像建立に着手した日」の記念写真。
・・・河野司氏など5名の隣には「二・二六事件殉難者慰霊碑建設地」と書かれている。
・・・この時点では「建設予定地」は平地だった。この写真からは「二十七尺の台座の上に十三尺の観音像が姿を現した」という除幕式の光景は、全く想像できない。写真の背後に見える高い壁は(これから除去される筈の)陸軍刑務所時代の遺物であるに違いない。



◎「慰霊像建立」の趣意。
「この地は陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名とそれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官、この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を厚め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。」
・・・上記は「慰霊像」の台座に刻まれた碑文の後半部分だが、慰霊像建立着工の時点でも《これに近い主旨》が読み上げられたと思う。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社刊・1982年3月20日初版。》
・・・この著には「護国仏心会の誕生」から「事件満四十五周年追悼法要」に至るまでの苦難と執念の記録が綴られている。そして「二十二士の墓」や「慰霊像」に纏わる苦難の数々も細かく記されている。
「北一輝先生の未亡人(昭和27年3月3日没)の十年祭を迎え(杉並区の北家に関係者二十余名が集まり)法要を営んだ時のことである。法要後の歓談の席で、小早川秀浩氏(渋谷区選出・岡崎英城氏秘書)から『元陸軍刑務所跡地が、近々米軍の接収から解除され、渋谷区役所など庁舎建設の予定地になる』との話が出た。」
「話はいつか(その刑場跡地の)払下げを受けられないものかという方向に進み、顔の利く小早川氏に動いてもらい、私も積極的に協力して実現に努力するということに、発展してしまった。昭和三十六年のことである。」
「建設準備事務所の構成は、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀浩、監査役藤田俊訓。末松氏には随時、相談相手として協力願うこととし、今後募金その他金銭出納監査の厳正を期するために、賢崇寺の藤田住職にも一役買っていただくこととし、事務所は、私のもうひとつの会社である三昭化成株式会社(都心の田村町)の一室をあてることにした。」
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◎1964年4月。長男(私)が「総合広告代理店」に就職する。
・・・東京学芸大学は(当時)教員養成専門の大学で、一般企業志望者は「自分で」就職先を捜すしかなかった。/会社受験は「1社」だけ。「NHKの制作部門」である。
・・・思いがけず、末松太平が「コネ」を紹介してくれた。コネ①=NHK広報室長(後のNHK会長)前田氏。コネ②=竹内俊吉氏。民間放送連盟会長、青森県知事。/父も息子も「筆記試験を自力で通過すれば、コネで合格」と、超楽観的だった。/そして、最終面接(と健康診断)に到達し「不合格」となった。集団面接(5人づつ)で試験官を相手に「喧嘩」したのである。
・・・慌てて「2社目」に挑戦。今度も最終面接で「口論」になりかけた。救世主は(偶々傍聴していた)齋藤社長で「正直に答えているのだから、次の質問に進みなさい」との助言。こうして無事に「総合広告代理店(ラジオテレビ部企画制作課)社員コード6411」の誕生となった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(19)「政経新論」編集主幹◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1960(昭和35)年/末松太平=54歳~55歳/私=19~20才。》
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◎所謂「60年安保」の年である。
・・・前年、大学受験(国立大学一校だけ)に失敗して「一浪」だった私は、二浪を避けて「国立2期校」も併せて受験。/結局(当時は2期校だった)東京学芸大学に入学。国会デモに連日でかけるようになる。

◎末松太平に「安保」関連の動向はない。
・・・1960年6月頃、私も参加していたデモに「維新行動隊」のトラックが突っ込み、暴れた。
・・・その数日後、石井一昌氏(維新行動隊・隊長)が、末松太平宅に現われる。/維新行動隊は「護国団」の若手組織。佐郷屋嘉昭氏(護国団代表)と末松が「親しい仲」なので 石井氏来訪も不思議ではない。しかし、末松から「期待した発言」が得られず、石井氏は失望して立ち去った。私も少しだけ同席し、場違いな発言で石井氏を怒らせた。

◎1960年6月15日夜。全学連は国会議事堂の南通用門から突入。東大生の樺美智子さんが死亡した。
・・・私は(突入する意義が理解できず)南通用門の「外側」にいた。騒乱状態の中で、私は(終電車を気にして)現場を立ち去った。まさに「ノンポリ」そのものだった。/私は友人の戦利品(機動隊員の雨具一式)を、面白半分に持ち帰った。末松太平は「くだらないことをするな」と激怒。後日、警視庁に返却にいった。/「右翼」として(公安に)監視される立場だったから、警視庁にも「友人」がいたわけである。

◎1960年秋。衆議院議員選挙。
・・・私は学友(「社青同」が多かった)に誘われて、社会党候補の選対本部に(押しかけ応援で)泊りこんだ。
・・・選対本部は立川市内にあり、家庭教師のバイト先は千葉市内にあった。私は大学(小金井市内)の授業が終ると、千葉市に向い、バイトを終えて夜中に立川市に戻った。/「立川駅~千葉駅」という長距離区間を電車を乗り継いで往復し、選対本部の2階で深夜のビラ作りに励む。選対の3階には万年床が2組あって(男性女性を意識せず)一緒の布団で熟睡していた。



◎1960年11月18日、夜。私は「公職選挙法文書違反現行犯」として逮捕された。
・・・武蔵野署の取調べに対し 私は(立候補者に迷惑をかけぬため)黙秘権を行使。8泊9日の留置場生活(身柄送検、起訴猶予)となった。/留置中の武蔵野署に「右翼」のA氏が(末松太平の依頼で)激励に現れ、刑事は「左翼学生に何故右翼?」と驚いた。

◎1960年。雑誌「政経新論」発刊。
・・・政経新論社は「千代田区丸の内3丁目 三井仲4号館5号」にあった。編集兼発行人は片岡千春氏。当時「その世界」では顔の利く人物だったと思う。/片岡氏には 一度だけお目にかかったことがある。末松太平のお伴で「政経新論社」を訪れ 近くの喫茶店に案内された。片岡氏が「ステテコ姿」で 丸の内のビル街を歩いたので 吃驚した記憶がある。
◎末松太平の肩書きは「政経新論主幹」で 編集の傍ら「二・二六事件異聞」を連載しはじめる。
・・・この時点では この「連載」が後日「1冊の書籍」になるとは想像していない・・・筈である。

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《「年表・末松太平」1961(昭和36)年。/末松太平=55歳~56歳。私=20歳~21歳。》
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◎1961年。雑誌「新勢力」2月号掲載。末松太平「そこに革新するものがあるから」
・・・この号には 河野司(仏心会代表)も書いている。
・・・この頃から「河野+末松」の名前が目立ち始める。
・・・「政経新論」連載中の「二・二六事件異聞」では  カットも自分で描くようになった。

◎1961年7月12日。処刑場跡で「刑場跡慰霊祭」及び「26回忌法要」。
・・・斎場跡に「慰霊柱」を残す。当時は未だ「処刑場跡」は「米軍施設内」であった。
・・・米軍施設内への立入人数を制限されて、約50名が参列。末松太平が参列したかどうかは不明。

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《「年表・末松太平」1962(昭和37)年。/末松太平=56歳~57歳。私=21歳~22歳。》
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◎「政経新論」1962年2月号。/「二・二六事件特集号」。
・・・「二・二六事件異聞/蹶起の前後(その2)」
◎「政経新論」1962年6月号。「二・二六事件異聞/映画『脱出』について」。
◎「政経新論」1962年8月号。「二・二六事件異聞/刑場の写真」。
・・・この2編は、その後《「軍隊と戦後の中で」1980年・大和書房刊》に収録されている。
・・・東映映画「脱出」は、事件当日、首相官邸から岡田啓介首相を脱出させる過程を描いた作品。
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◎「新版/年表・末松太平」/(18)仏心会概史◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1957(昭和32)年。/末松太平=51歳~52歳/私=16~17才。》
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◎1957年2月26日。麻布賢崇寺「22回忌法要」 

◎1957年。《河野司編「二・二六事件」日本週報社刊》

  

・・・仏心会代表・河野司氏。河野寿大尉(湯河原の病院で自刃)の実兄。
・・・処刑直後(1937年)事件関係服役者名簿(憲兵隊に協力依頼)を作成。/留守家族の慰問訪問を開始。同時に、遺書・手記・関係書類の蒐集に奔走した。
・・・事件の概要が、正確に把握できるようになったのは、まさに「河野司氏の功績」である。
・・・河野司氏には多数の著作があるが、初心者向きには《河出文庫「私の二・二六事件」》が判りやすい。

★重要資料★・・・・・・・・・・
《「仏心会概史」。平成7年に河野進氏が作成したものである》


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●1936(昭和11)年7月12日。/第一次死刑執行(15名)。
・・・死刑執行後、栗原勇大佐(栗原中尉の父)の主唱で遺族会の賛同を得る。
・・・後日、遺族会の名称を「護国仏心会」と名付け、栗原勇氏を代表とする。目的は、遺族の物心両面の相互扶助、故人の慰霊法要、合同埋葬の実現。後に事件関係資料の調査蒐集が加わった。

●1936年10月12日。/賢崇寺において「最初の慰霊法要」を営む。遺族10家参列。
●1937年2月26日。/事件1周年。当局の警戒酷しい中、賢崇寺で事件殉難の重臣・警察官を合わせた「全物故諸霊の追悼法要」を行う。/以来、2月26日の法要は「全殉難者を合祀」して行うこととなる。
●1937年8月19日。/第二次死刑執行(4名)。後日、4名の分骨も賢崇寺に合祀し、22霊となる。
●1938年2月26日。/「全殉難者3回忌法要」。
●1944年。/空襲激化により、会員の疎開相次ぐ。
・・・栗原代表も離京の事態となり、10月以降は月例法要(毎月12日に行われていた)その他、一切の活動を停止。
●1945年4月15日。/戦災により賢崇寺焼失。

●1947年4月。/賢崇寺仮本堂建立。
●1950年3月。/河野司(中国から帰国後、福岡市に在住)が東京に転居。
・・・栗原勇代表(大阪府に在住)の委嘱により「護国仏心会」の再興に着手。

●1951(昭和26)年7月12日。/「護国仏心会」を「仏心会」と改称。代表=河野司。
・・・「再興第1回法要(16回忌法要)」を賢崇寺で営む。7遺族及び関係者の計15名参列。月例法要を再開。
●1952年7月12日。/「二十二士之墓」建立。開眼供養を行う。参列者120名。
●1954年4月。/栗原前代表、東京に復帰。同年10月に死去。
●1955年2月26日。/「全殉難者20回忌法要」にあたり、遺品・資料等の初めての展示を行う。
●1956年7月12日。/21回忌法要。
・・・これ以後、月例法要を取りやめ「2月26日」と「7月12日」の年2回となる。
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この頃の写真。千葉市登戸の自宅前で弟と。
・・・この門柱は現在(年表初版の作成時)もあるが、2階部分は改築した。

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《「年表・末松太平」1958(昭和33)年。末松太平=52歳~53歳。私=17歳~18歳。》
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◎潮干狩りを楽しむ「末松太平と仲間」の家族たち。
・・・我家(千葉市登戸五丁目)から遠浅の海までは徒歩10分。潮干狩り+我家で小宴。
・・・この「グループ」は「同じ会社の社員達」だと思えるが 社名は不明。
・・・末松太平の「勤務先」の人達なのか「知人の会社」の人達なおのか 今では知りようがない。
・・・撮影年月日も不明。もしかすると「1956年~57年」辺りかも知れない。

◎この頃、私は「防衛大学での集まり」に(末松太平から)誘われる。
・・・「元軍人」としての「思い」もあったと思うが 貧困家庭の世帯主としては「授業料不要」が魅力に感じたのだと思う。
・・・私は「親父の誘い」を拒否。防衛大学の催しには弟が同行した。
(数年後 弟も「普通の国立大学」に進学した。)

◎1958年2月26日。賢崇寺「全殉難者23回忌」法要。
・・・この日初めて「殉難警察官」の遺族が参列した。

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《「年表・末松太平」1959(昭和34)年。/末松太平=53歳~54歳。私=18歳~19歳。》
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◎1959年4月。「アジア同志社」を中心として、事件関係社の「大赦」請願書を提出する。
・・・法務省からの回答は「既に昭和20年9月2日に勅令により大赦になっている」とのこと。
・・・当局から「証明書」を取り 各遺族に通知する。

◎1959年7月12日。「大赦報告墓前祭」開催。参列者=180名。
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(17)映画『反乱』+公開対談◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1954(昭和29)年。/末松太平=48歳~49歳。私=13~14才。》
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◎1954年1月。新東宝映画「反乱」封切。
◎千葉市の映画館のステージで「立野信之・末松太平」の公開対談が行われた。
・・・この公開対談は地元紙の千葉日報(当時は「千葉新聞」?)に掲載された。
★「映画上映+歌手実演」が珍しくなかった時代だが「映画上映+対談」には驚いた。
・・・これを機会に「千葉新東宝」から無料招待券が届くようになる。私が映画マニアになる遠因である。

★私は、この時点でも「二・二六事件」の名前は知っていたが「どういう事件か」は知らなかった。
・・・末松太平も(息子には)事件のことを話さなかった。だから映画館で「対談」を聞いていても、全く理解できなかった。

★予備知識が皆無だから映画の印象は強烈で 相沢中佐(辰巳柳太朗)、栗原中尉(小笠原弘)、安藤大尉(細川俊夫)、磯部浅一(山形勲)の方々は ご本人よりも俳優諸氏のイメージの方が(今でも)強かったりしている。
香田大尉を演じたのが丹波哲郎。まだ新人だったので(メインキャストなのに)ポスターに名前がない。かなり強烈な印象で、香田大尉というと丹波哲郎の顔が浮かぶ。賢崇寺法要などで会う香田氏(大尉の甥)は 元オマーン大使の穏やかな紳士。丹波サンのイメージはない。
・・・末松太平は 北一輝(鶴丸睦彦)が「ヨボヨボ爺さん」なので立腹していた。北一輝=享年52。ヨボヨボ爺さんであるわけがないのだ。



◎映画「叛乱」は「千葉新東宝」では 3週間ほど上映されていた。
・・・当時は「毎週新作封切」が映画興業の定番で 新東宝映画の正月第2弾が「叛乱」であった。古い自筆メモによると 私は1月4日と1月6日に「叛乱」を観ている。
・・・1月16日。私は(無料招待券で)正月第3弾「娘十六ジャズ祭り」を観て 熱烈な「雪村いづみファン」になった。
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《「年表・末松太平」1955(昭和30)年。/末松太平=49歳~50歳。私=14~15歳。》
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★資料★・・・・・・・・・・
《週刊新潮「墓碑銘」1993年2月4日号掲載。》
「戦後も青森をしばしば訪れている。古い友人である竹内俊吉青森県知事の選挙運動を応援したり、第五連隊当時の仲間に会うのが楽しみだった。」

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《「年表・末松太平」1956(昭和31)年。/末松太平=50歳~51歳。私=15歳~16歳。》
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◎ある資料には「昭和31年は約1ヶ月、青森に滞在している」と記されている。
◎昭和31年~36年にかけて 雑誌「青森県評論」に あれこれ書いている。
・・・内容は「二・二六事件とは無関係」なエッセイである。


★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/スクラップブックに遺された「青森県評論」寄稿作品の数々。》
●01/「私の現在の心境/それを問われた老人への答として」
●02/「橋の穴・運河の死体」、「燕の来た頃のおもい」、「『修身科』のこと」
●05/「ペスタロッチの墓碑銘からの連想」
●06/「裏表/うらおもてわからぬ人を友とせよ、このてがしわのとにもかくにも」
●07/「美辞麗句とエキゾチックな扮装」、「原型の国、大乗の国」
●09/「私の現在の心境」、「続・私の現在の心境」、「赤旗の限界」
●12/「ローマ・オリンピックの後に/意気地ということから」
●13/「陽春断想」、「筆の向くまま」、「選挙民政治」
●16/「『極東』ということ」、「わが訴え、わが願い」、「否定・肯定」
●19/「しがこもとけて/冷戦の氷がとけるというから」
●20/「私の再軍備論/世界全体無軍備にならないうちは、日本の無軍備はありえない」
●21/「ままならぬ世の中」
●22/「どうお考えでしょうか/深沢七郎の『風流夢譚』について」
●23/「年頭の感として/技術革新と人間生活のギャップを埋めるもの」
●24/「対岸の火災をみて自家の火元の点検をすること」
●25/「軍隊教育からみた青森県民性の長短所」
●26/「水泳と僕」、「紀元節復活」、「暇(ひま)」
●29/「百の寺を建てるより一人を救うこと」
●30/「一街頭ビラからの随想」、「青森県礼讃」
●32/「何たる失政ぞ/六月十八日に想う」
●33/「生の文明・死の文明」、「共通の地球」、「私の切手週間」
●36/「沈丁花を荒らしたのは誰だ!/住みよい社会をつくる方法はただ一つ」
●37/「客観的批判を/平和と友愛と自由のために」
●38/「筆の運ぶままに/退歩的野蛮人の手記」
・・・以上 順不同。掲載順ではありません。
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(16)大岸頼好と新興宗教◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1951(昭和26)年/末松太平=45歳~46歳/私=10~11才。
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◎1951年の夏。大岸頼好が夫人同伴で、東京に現れる。
・・・そして、末松太平に「新興宗教」布教活動の協力(旧知旧友集めの斡旋役)を依頼する。
・・・1951年の秋。末松太平は「大岸頼好のお伴」で青森に行く。

★資料★・・・・・・・・・・・
《佐藤正三「一期一会・大岸さんを偲んで」/「追想・大岸頼好」1966年3月刊からの要約。》
「『改造法案』の西田税に『皇国維新法案』の大岸頼好という、二大潮流が青年将校運動の中にあるのだといった考え方が、私の漠然たる理解の仕方であった。その頃の若い私にとっては、北一輝の『純正社会主義』が魅力だった。/しかし、相沢中佐事件、二・二六事件を通じて、大岸さんの存在の大きさに気付くようになっていった。一度お会いしたいと覚えたのは、二・二六事件の獄中のことであった。/(佐藤正三は出獄後、竹内俊吉の手引きもあって『東奥日報』に就職し、やがて上京し『昭和通商』に入社した)/『昭和通商』の第一課長は大岸さん、第二課長は竹内さんだった。私は第二課に所属し、ソ連研究を受持たされて、再度応召の昭和十九年まで御世話になった。」
「再度応召は(病弱理由で)即時帰郷となり、私は弘前に居着いてしまった。大岸さんにも、末松さんにも御無沙汰のし通しだった。/突然、末松さんから『近く大岸さんと一緒に弘前に行く』という連絡があったのは、昭和二十六年十月のことであった。その日、私は成田さん(元昭和通商社員)のお宅に駆けつけた。八畳か十畳の部屋にぎっしり人がつまっていて、もう神事が始まっていた。末松さんから『新興宗教の集り』とは知らされてなかったので、私は吃驚してしまった。/そこには和服姿の大岸さんの姿があり、傍の末松さんも神妙に仕えている。これは、いったいどうしたことであろうか。私にはどうしても、その場に溶け込めないものがあった。私としては、何年ぶりかで、大岸さんや末松さんにお会いし、教えを受けたいという気持ちで一杯だったのだ。/次々と神事が繰り返され、せめて御挨拶だけでもと機を覗っていたのだが、それさえ出来ぬまま、私は逃げ出すように帰ってしまったのである。/(大岸さんが宗教的なところに入っていった経緯は知らないが)大岸さんと末松さんの人間的結びつきの深さに思い至った。/大岸さんが鎌倉の寓居で亡くなられたのは、その僅か四ヶ月後のことであった。」
「大正十四年五月、桜の花びらの降り敷く青森第五連隊の営庭に、大岸少尉、末松士官候補生の姿が目に浮かぶ。小学生の私もまた同じ津軽の春の桜のもとで遊んでいた。この青森という土地が、大岸さんと私を結びつけた因縁の糸であったのだ。」

◎小学生だった私には「新興宗教のお祈りをしている父親の姿」の記憶がある。
・・・床の間に向かい、鈴を鳴らしながら「詔」を唱えていた。途切れ途切れの記憶だが「君 鈴振りませ、我・・マイナ」という部分のメロディが耳に残っている。末松太平が新興宗教に帰依したとは思えないから、一種の「体験学習=大岸氏の思いを疑似体験してみる」のつもりだったのだろう。


◎新興宗教の名称は「千鳥会」。写真=末松太平の「遺品」から。生原稿のタイトルは「千鳥の栞」。

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《「年表・末松太平」1952(昭和27)年。/末松太平=46歳~47歳。私=11歳~12歳。》
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◎1952年1月末。大岸頼好、結核で死去。
・・・西田税と大岸頼好の死で「末松太平の青春」は終わった。ここからは残生。師のいない人生である。
★資料★・・・・・・・・・・
《大槻士郎「大岸さんを想う」/「追想・大岸頼好」1966年3月刊からの要約》
「大岸さんとの出逢いは全くの偶然だった。昭和十五年、大学二年に進学した春、大陸では日支の戦いが拡大し、国際情勢の緊迫も深まり、学生生活も影響を受け始めていた。/ある日、私の下宿先を訪れた二人の東大生から『日本青年文化協会』の計画(東南アジアからの留学生との接触に関心を持つ学生の寮を作る)への参加を誘われた。/やがて 千駄ヶ谷に学生寮(寮生六名)が完成し『待花寮』と名付けられた。そして初めて 大岸さんに会った。/日本文化協会と寮との連絡は、協会職員の秋枝寛二氏が担当した。寮生活は学生の自主管理に委せる約束だったが、次第に協会との関係は悪化していった。私が大岸宅や(杉並天沼の)末松宅を度々訪れるようになったのは、この頃からである。」
「『街花寮』を出た私は、早稲田穴八幡近くの『大岸さん関係の事務所』に寄寓したが、寮生との繋がりは続いていた。/昭和十六年十二月、大東亜戦争勃発と共に(卒業繰上げで)軍隊に送り込まれた。大岸さんの勤務先『昭和通商』に(竹内俊吉氏の紹介で)入社することになっていたが、実際に勤務したのは(入隊までの)一ヶ月余に過ぎなかった。/敗戦の翌年、私は南方の孤島から(抑留に近い屈辱を経て)帰郷した。大岸さんは郷里の土佐に、末松さんは千葉に健在と知ったのは、帰還後暫くしてからだった。」
「やがて私は(土佐の田舎に)大岸さんを訪ねるようになった。最初の訪問から約四年間、私は毎年一,二度は土佐を訪れた。長いときは一週間も十日も滞在した。すっかり成長した大岸さんの長男や次男と、農業の真似事もし、大岸さんの魚穫りのお伴もした。」
「大岸さんと最後に会ったのは、昭和二十六年九月の初めである。当時私は仕事の関係で神戸に住んでいた。そこに『鎌倉から帰る途中に神戸に寄る。是非会いたい』という葉書が届いた。/新興宗教千鳥会などに入信と言う話は 全然聞いていなかった。私は不審に思いながらも、弟と二人で指定されたホテルに赴いた。豪華にしつらえられた神棚の前に、ゲッソリ痩せた大岸さんが奥さんと一緒にいた。『痩せましたね』と心配する私に『現世の罪の禊ぎだ』などと悟りきったような返答には、返す言葉に窮した。広間での食事の後、天杖、鈴振りの実演があった。この世での見納めになるとも知らず、私は白々しい気持ちでホテルを辞したのであった。」
「大岸さん死去の第一報は一月末、長男啓郎君から、また二月に入って末松さんからは、死の前後の事情を詳細に記した手紙を貰った。事情を知れば知るほど、無性に腹が立って仕方なかった。二月十日の告別式には『寮友』の荒木君に代表して参列してもらった。正直言って、私は、どうしても参列する気になれなかった。私が、大岸産の霊前に参じたのは、昭和三十九年二月二十六日、十三回忌の当日だった。」



◎1952年2月26日。

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〈「年表・末松太平」1953(昭和28)年。/末松太平=47歳~48歳。私=12歳~13歳。》
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◎相変わらずの貧乏生活が続いている。

★資料★・・・・・・・・・・
《読売新聞(1953年2月10日)掲載。「遺された言葉」》
「戦後は 妻敏子さんの実家がある千葉市に引きこもり、文章などで生計を立てたが、三人の子を抱えて、苦労の連続だった。」

◎私の記憶では 大衆時代小説専門の出版社(社名は失念)の校正をしていた時期がある。
・・・末松太平の「書斎」には、時代小説の生原稿やゲラ刷りが山積していた。生活苦にも拘わらず『自分の書斎』があるのが、末松太平らしい生き方である。
◎妻敏子は『下宿人の世話』を続けていた。
・・・朝食夕食の世話は(金銭的なヤリクリもあって)苦労の連続だったと思う。
◎終戦直後の住宅難は未だ解消されていなかった。
・・・私の級友のなかには『軍都千葉の遺物=兵器倉庫だった建物』の片隅に居住している者もいた。そうした級友の住居(倉庫の片隅)にも違和感なく遊びに行っていた。/日本中が貧しかった時代である。日々の生活に追われながらも『義父(久保三郎)の持ち家』は 庭も家屋も広かったので 級友たちの溜まり場になっていた。」
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(15)進駐軍の支配下で・・・◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1946(昭和21)年。/末松太平=40歳~41歳。私=5才~6才》。
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
★資料★・・・・・・・・・・
《週刊新潮「墓碑銘」1993年2月4日号掲載。》
「戦後の生活は苦しかった。夫人がデパートの下請けとして洋裁などをやって家計を支え、三人の子供を養育した。」
・・・「家計を支えた」のは事実だが「デパートの下請け」かどうかは(小学校入学前の私には)記憶にない。

◎やがて「家計のため」自宅2階に学生二人を下宿させる。部屋代の一部は「家主=久保三郎宅」に届ける。
・・・初代の下宿人は、東大第二工学部に在学中の石川六郎氏(後の鹿島建設会長)と吉田氏の二人である。
・・・末松太平は「下宿屋のオヤジ」になっても威張っていた。部屋を貸すのも「家計のため」ではなく「学生援助のため」だと思っていた気配もある。下宿人にとって「迷惑な存在」だったと思う。

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《「年表・末松太平」1947年(昭和22)年。/末松太平=41歳~42歳。私=6歳~7歳。》
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
・・・客観的な資料(出版物とか)が殆ど見当たらない。

◎余談/昭和22年頃 秋葉原に「太平通商(株)」という会社があったという。
・・・ビルの窓に大きく書かれた社名が 総武線電車の窓からよく見えたという。
・・・大岸頼好の会社「昭和通商」のマネのような会社だったが すぐにつぶれたという。
★証言★・・・・・・・・・・
《久保晃(義弟)の記憶》
「昭和23年。久保晃、早稲田大学入学。アルバイトの件を ここ(太平通商)で心配してもらった。西田税の実弟が 特許局(現・特許庁)の技官で『青年互助協会』を主宰していた。バイトを監督していたのは(西田税の使い走りだった)佐藤某で『末松先生』と言っていた。佐藤某という人物は佐藤正三ではない。」


◎1947年4月。長男・建比古(私)が「千葉市立登戸小学校」に入学。
・・・ランドセルの代用品は(軍隊時代に使用した)革製の「背嚢」であった。

◎食糧難で「買出し」に追われた日々。箪笥の着物が米や野菜に化けた日々。
・・・母のお伴で「豊四季」や「那古船形」へ「買出し」に出掛けた記憶がある。
・・・電車のドアが(壊れていて)開いたままだった光景。車内や駅頭での「警察の抜打検査」の光景。
・・・食料は没収されるので「私が捕まっても貴方だけは構わずに逃げなさい」という母の教え。
・・・千葉神社境内の「闇市」の光景。私が「小学一年生」だった頃の記憶である。

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《「年表・末松太平」1948(昭和23)年。/末松太平=42歳~43歳。私=7歳~8歳。》
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◎敗戦後の生活に追われる日々。
◎1948年10月26日。名古屋で「勝谷文信」の仲人を務める。


★関連資料★・・・・・・・・・・
《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」掲載。勝谷文信の報告書。》
「私は、昭和18年(拓殖大学二年の時に)学徒動員令に依り朝鮮竜山の歩兵部隊に入営。その後、航空部隊に転科して飛行機乗りになりました。/昭和20年2月頃、仙台の東部第五四〇部隊に転任になり、先任将校の田村先輩(拓大出身)と出会いました。暫くして田村先輩は軍需省生産戦指導部に転任されましたが、私も陸軍空軍特攻隊員に編成され、平常心にて死地に赴けるような精神教育を受けていました。/戦況不利となり そして敗戦国となり 我々は死から見放されて生き残ることになりました。しかし特攻隊員としての長い月日、立派に死ぬことのみを教育され洗脳されていた私は 暫くは放心状態でした。/たまたま田村先輩が東京に居られると聞いて、上京し『鷺ノ宮』に行きました。故相沢中佐の住居は 未亡人及び家族が宮城県に疎開していたので 留守宅には『梁山泊』として、五・一五事件、二・二六事件の残党と拓大の先輩方が居られました。」
・・・そして1993年1月。勝谷文信は「車椅子に乗って」末松太平の葬儀に遠方から駆けつけた。

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《「年表・末松太平」1949(昭和24)年。/末松太平=43歳~44歳。私=8歳~9歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・家は広いので「同居家族=満州時代に御縁のあった方々」がいたり 時には「居候のような人」がいたり・・・。

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《「年表・末松太平」1950(昭和25)年。/末松太平=44歳~45歳。私=9歳~10歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・当時の私(小学三年生)にとっては「普通の生活」だったと思う。
・・・住居は徐々に老朽化が目立ちはじめて 特に「茶の間」の雨漏りは凄かった。
・・・今で言う「デザイナーハウス」的な試みがある家で「2偕の洋間」は「アトリエ/20畳ほどの広さ」を意図されていた。アトリエの周囲は「広いベランダ」で 遠方から眺めると「白いペンキ塗りの洒落た二階屋」といった風情だった。


★資料★・・・・・・・・・・
《雑誌「道標」1950(昭和25)年発行。非売品。/末松太平「随筆/話さない方がよいはなし」。》
●道標発行所=弘前市富田大通り大谷方。編集発行印刷人=大谷誠藏。非売品である。
●雑誌「道標」第5号(昭和25年5月発行)も遺されていたが 表紙に「落丁」とメモされていた。
・・・目次を見ると「随筆/ティ・ファンラ・マー」を寄稿している。
・・・「道標」には「佐藤正三との関係」があって寄稿したのだと思う。
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(14)終戦前後のあれこれ◎

2023年03月25日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1944(昭和19)年。/末松太平=38歳~39歳。私=3歳~4歳》
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◎「大東亜戦争」継続中。

◎1944年秋。末松太平一家(夫婦+息子二人)は「千葉市登戸五丁目」に転居。
・・・戦争の激化に伴い、東京を離れた理由には「疎開」という一面もあったと思われる。
・・・「千葉市登戸五丁目」は「義父(久保三郎)の持ち家」である。/前住者は「防空学校長」の入江中将.。中将は 1994年8月22日「名古屋師団長」に転勤。しかし「入江一家の転居は1ヶ月以上かかり、容易に立ち退かなかった」というう。・・・以上は久保晃(末松太平)の記憶。

★資料★・・・・・・・・・・
《雑誌「青森県評論」掲載から》
「大東亜戦争の一周年を過ぎた頃、千葉に移った。帝国ホテルの近所に『事務所』を持って、神戸の友人達の会社の東京代表みたいなことをしていた」。

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《「年表・末松太平」1945(昭和20)年。/末松太平=39歳~40歳。私=4歳~5歳》
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◎「大東亜戦争」継続中。
◎私自身(4歳~5歳)の断片的な記憶。
・・・末松家の庭に掘られていた 新旧ふたつの防空壕。庭の敷地に余裕があったということ。
・・・千葉市街の空襲の時 近所の住宅が焼夷弾で全焼。我家の門前で それを眺めていた。不思議に恐怖感はなかった。
◎1945年1月2日。長女「末松田鶴子」誕生。

◎終戦前後の行動。「軍需省関連の業務」に拘わっていた気配がある。
・・・大岸頼好は「昭和通商・広東支店長」など、日本の対外経済活動に従事していた。

 

★初公開資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/田村重見氏の(公的な)郵便貯金通帳。》
「変更前住所=宇部宮陸軍飛行学校分遺隊。変更後住所=東京都中野区鷺ノ宮・・・(相沢中佐の留守宅)。」
「●宇部宮=昭和19年5月3日(受入高)千円也。5月17日(払出高)五百円也。/●鷺ノ宮=昭和20年11月26日(受入高)百円也。/昭和21年10月7日(支払高)百円也。」
・・・田村重見氏の終戦前後の活動(敗戦処理・引揚援助)を髣髴させる資料である。

★資料★・・・・・・・・・・
《田村重見「追悼・大岸頼好」1966年3月刊。/寄稿》
「戦局も押し詰まった昭和20年5月、私(田村少尉)は仙台の飛行学校から軍需省(霞ヶ関)に転勤した。明石少佐の指令により朝田大尉など数名が、めまぐるしい活動を続け、しばしば激論の場となり、戦慄さえ覚える場面にも遭遇した。/そんな折り、ズック鞄を肩に掛けて飄々と現われては警句を発する末松さんの姿は、まことに一陣の涼風、我々の救いであり憩いであった。/終戦の詔勅直後のこと、生産戦指導部は本拠地をお茶の水に移し、大岸さん、末松さんを中心とする『詔勅必謹・敗戦処理』の活動が展開されていた。/終戦時の、ともすれば救うべからざる混乱に陥ることを未然に防止した、大岸さん、末松さん、佐々木さん、明石さん達の活動は、極めて大なるものがあると、私(田村少尉)は信じている。」

◎1945年8月15日。「大東亜戦争」敗戦。
・・・以降「大東亜戦争」の呼称は(連合軍によって)禁止されて「太平洋戦争」などとなる。
◎私自身(4歳~5歳)の断片的な記憶。
・・・8月15日正午。終戦の瞬間の空の様子。朝から飛んでいた数機の軍用機が 瞬時にして姿をけした。
・・・末松太平は(数日前から)自宅に帰ってこなかった。本人から「ある考えがあっての行動だった」と聞いたことがある。
★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/1973年の「日記帳」ベストン社ビジネスダイアリー。》
「1973年8月15日。/敗戦記念日。27年前、この日は暑くて短い一日だった。日仏会館で敗戦の詔勅を聞いた。当時、日仏会館に大本営軍事調査部があった。/14日までは軍人会館にいた。14日の夜は 近衛師団長森中将に会いに行った。途中で森中将が宮中に行ったので(私たちは)東部軍司令部に行った。東部軍司令部は日本相互の最上階にあった。東部軍は会議中で幹部候補生の将校が二人いるだけだった。この夜、悲劇があった。我々が去った後 森中将は殺され、近衛の一部が宮中に入り、天皇録音の音盤を探した。が見つからず、首謀者は自決した。別のグループが放送妨害のため愛宕山に行ったが 憲兵に捕まった。/15日の朝は日仏会館で迎えた。何かすることはないかと焦慮しつつ 何もすることはなかった。傍ではいろいろなことがあった。」
・・・文中の「日仏会館」は現在「恵比寿」にある。閲覧者の方からも「お茶の水のアテネフランス」のことではないかとの指摘を受けた。末松太平の「勘違い」かもしれない。しかし、田村重見氏も「お茶の水の日仏会館」と記している。
・・・しかし、末松太平(他数名)は、何のために森中将に会いにいったのだろうか。日記の記述からは推察できない。
★資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(義弟)の記憶から・・・》
「終戦直後 阿南陸相、田中東部軍司令官は自決した。末松は『梅津参謀総長殺害のつもりでいたが、子供三人の寝顔を見て思い止まった』という話を(文章にするのはどうかと思うが)直接ご本人から聞いた記憶がある。」

◎大岸 末松たちの「終戦処理」は一段落。続けて「海外同胞」の「引揚げ援助促進」に着手する。
★資料★・・・・・・・・・・
《田村重見「追悼・大岸頼好」1966年刊。/寄稿》
「終戦の処理が連合軍の無血進駐によって一段落をつげるや、直ちに矛先を転じて 海外に在る同胞の引揚を援護し促進する仕事に着手されたのは極めて時宜を得たことであった。/その活動は精力的に展開された。引揚者の上陸地点・浦賀に勝谷文信君らを派遣して、LSTなどにより送還された人々の上陸を助けるなど、八面六臂の活動が続けられた。/同胞引揚援護の世論喚起のため、日比谷公会堂で植村環女史、河合ミチ子女史の講演会や、巖本真理のバイオリン独奏会を催したこともあった。/戦時中の生活苦から痩せ衰えていた巖本壮・マーガレット・巖本真理の親娘三人を、中野の西田税夫人のアパートに案内して《鋤焼き=北多摩の農村を廻って白米、野菜、卵を買い集めた》を御馳走したことも、微笑ましい思い出である。」
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◎「新版/年表・末松太平」/(13)日米開戦の前後◎

2023年03月23日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1941(昭和16)年。/末松太平=35歳~36歳。私=0歳~1歳。》
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◎「東京都杉並区天沼」での日々。
★資料★・・・・・・・・・・
《大槻士朗「追想・大岸頼好」所載から引用。》
「大学2年生だった私(大槻)は、青年文化協会(東南アジア留学生の世話を目的とする団体)の学生寮『待花寮』の開設に努力した。/寮の名前は、末松が『明治天皇御集』から選び、大岸が命名し表札も書いてくれた。/待花寮には、大岸、末松、大蔵、志村などの、二・二六関係者が時折訪れた。/私(大槻)は、東京都杉並区天沼の末松の家にも出入りしていた。」


※画像は、杉並区天沼の家。
左端/大蔵栄一大尉。右端/明石寛二少佐。右から二人目/大槻氏。末松敏子に抱かれているのが「私」である。

◎1941年12月8日。日米開戦。
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《年表「末松太平」1942(昭和17)年。/末松太平=36歳~37歳。私=1歳~2歳》
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◎1942年3月。総合雑誌「理想日本」創刊号発行。主宰=菅波三郎。(写真右=準備号)
★資料★・・・・・・・・・・
《左の写真=末松太平の「遺品」から。/「理想日本」第2巻・第4号(1943年発行)》
・・・「理想日本」については「当ブログ/2013年9月9日~10月1日」に掲載している。
《「理想日本」という雑誌(その1)》~《「理想日本」という雑誌(その6)》。
・・・掲載当時 松本健一氏から コメントを度々いただいている。
★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平「切手のはなし」/雑誌「青森県評論」1970年1月号》
「大東亜戦争中のこの頃は、私は定職を持たず《雑用係》で、そのひとつ、仲間の雑誌のスペース埋めの原稿を書いたりして、家にいることが多かった。」
・・・この「仲間の雑誌」というのが「理想日本」だと思う。

◎1942年12月8日。次男「征比古」誕生。
・・・出生届を「開戦記念日」に会わせている。一時は「征米英」と名付けようとも思ったらしい。
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《「年表・末松太平」1943(昭和18)年。/末松太平=37歳~38歳。私=2歳~3歳》
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◎「大東亜戦争」継続中。

★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/新聞「読売報知」1943年5月22日号。》
「噫、山本聯合艦隊司令長官/四月前線に指導交戦中、壮烈・飛行機上に戦死。/大本営発表(昭和十八年五月二十一日十五時)聯合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に聯合艦隊の指揮を執りつつあり。」
「情報局発表(昭和十八年五月二十一日)天皇陛下に於かせられては聯合艦隊司令官陸軍大将山本五十六の多年の偉功を嘉せられ 大勲位一級に叙せられ 元帥府に列せられ特に元帥の称号を賜ひ 正三位に叙せられ 斃去に付特に国葬を賜ふ旨仰出さる」
・・・「山本元帥」という呼称は「死後に賜った」称号であった。そして「国葬」も「天皇陛下から賜る」ものであった。


★資料★・・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/新聞「読売報知・夕刊」1943年11月6日号。》
「永遠共栄へ黄金の一頁(大東亜会議第二日)/大東亜共同宣言採択/東条英機日本代表の動議、全会一致で可決」
「日本国、中華民国、タイ国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国。/同会議に於いては、大東亜戦争完遂と大東亜建設の方針に関し、各国は『大東亜共同宣言』を採択せり」

◎この頃 長男建比古(私)は 千葉市登戸二丁目の久保三郎邸に預けられることが多かった。
「初孫だから」というよりも、母・敏子の病気が原因だろう。
私の幼児時代の写真は 久保家で撮られたものが多い。
幼児期に(父母ではなく)祖父祖母に育てられたことは 私の「性格形成」に影響を与えたように思う。
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◎「新版/年表・末松太平」/(12)千葉から東京杉並へ◎

2023年03月21日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1940(昭和15)年。/末松太平=34歳~35歳。私=誕生。》
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◎「住居移転許可願」1939年12月23日。
 
「太平儀 東京飛行機研究所ニ就職セルニ依リ左記ニ移転致シ度 保証人連署ヲ以テ及願候也。/東京市杉並区天沼2丁目・・・/末松太平。保証人・千葉市登戸町2丁目・・・久保三郎。」
「右許可する。千葉警察署長 地方警視 齋藤小重郎。」


◎1940年4月。富士飛行機青年学校、開校。
・・・末松太平は 創立間もない「富士飛行機/東京蒲田」という会社に「青年学校」を作ることを頼まれる。多分 若者を集めるために「青森での顔」を期待されたのだと思われる。
★初公開原稿★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/末松太平直筆ノート(原稿の下書き)。》
「昭和15年の2月。私は(青森に旅立つために)5年ぶりに上野駅に行った。二・二六事件のとき 志村・杉野と一緒に弘前拘置所から護送されて以来の上野駅だった。私は『少年工募集』のため青森に行こうとしていた。/仮出獄した私は 妻の実家で静養したあと 青年学校の創立を頼まれて 東京蒲田にあった富士飛行機株式会社に就職した。まだ整備過程の会社だった。/昭和14年の暮れまでに 青年学校の整備は一応整った。あとは生徒となる少年工を募集するだけであった。/しかし この頃は『日支事変』のさなかで 少年工の募集は厚生省に統制されていた。富士飛行機は(創立出来立てで)割当申請をしていなかった。残された道は『縁故募集』しかなかった。/縁故といえば 私には青森しかなかった。私は竹内俊吉に縁故募集を依頼した。/この頃は戦争景気で 大手工場はみな軍需会社に転換しており 各会社が小学校卒業生の争奪戦を演じていた。割当制は 統制する厚生省の施策だった。/この激しい争奪戦の中で 竹内俊吉は『東奥日報』の組織を通じて応援すると言ってくれた。富士飛行機の人事課も 竹内俊吉の好意に縋った。私は上野駅から久しぶりに青森に発つことになった。」
★資料★・・・・・・・・・・
《成田嘉郎「末松建比古宛、弔意状」1993年1月20日。》
「私共(成田、村上、柏村=青森在住)は、昭和15年4月に開校された富士飛行機青年学校の第1期生。末松先生には短い期間でありましたが薫陶を受けた者達です。/思えば先生と最後にお会い致しましたのは、平成3年9月23日に我々3人が登戸のご自宅をお訪ねしたときでございました。その時は、誠にお元気で(耳が少し遠くなっておりましたが)記憶もしっかりしておりまして、富士飛行機青年学校時代のことから、二・二六事件に関連することなど、長時間にわたってお話を・・・(後略)」

◎19401940年4月17日。長男・建比古(つまり私)誕生。

◎富士飛行機青年学校は無事に開校。しばらくして 菅波三郎大尉が釈放される。
・・・末松太平は 菅波三郎を「校長」に推薦し、自らは「満州」に渡る。
・・・満州では「協和会」周辺で、それなりの役割「教練科長」を努めていたらしい。
★証言★・・・・・・・・・・
《北沢治雄「追想・大岸頼好(記念誌)」1966年発行に掲載。》
「(満州では)末松さんの発案で、関東軍、政府、協和会、民間同志による会が作られた。会の名称は『阿呆会』といった。」


★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平「国境の町で/二・二六事件異聞」/雑誌「政経新論」連載から》
「昭和十五年の十一月の下旬に、私はしばらく籍をおいていた新京の『満州国協和会中央本部』に辞表を出して、日本に帰るまえに北満を旅行した。そのころ青森の五聯隊が駐屯していた東部国境の緩陽を訪ね、軍旗を遙拝しておきたいと思ったからだった。/二・二六事件のあった年の八月の定期異動で、当時の五聯隊の青年将校は、ほとんど散り散りに転任されていた。軍当局は、かねて小面憎く思っていた五聯隊青年将校グループを、二・二六事件を契機に潰滅させた。」
「軍人会間の大広間いっぱいに五聯隊の将校、准士官、下士官が集まった。といっても士官学校出の将校はわずか数人で、しかも私が聯隊を去ってからの士官候補生で、任官したばかりの見知らぬ顔だった。あとは下士官出身の将校や、準士官、下士官ばかりで、みな懐かしい顔だった。/こんな顔ぶれにしたのは工藤支配人の才覚だった。私はまだ要注意人物だった。(以下省略)」
★注記★・・・・・・・・・・
この「二・二六事件異聞/国境の町で」は みすず書房刊「私の昭和史」に載っていない。大和書房刊「軍隊と戦後の中で/『私の昭和史』拾遺」にも載ってない。そして 中央公論新社刊「完本・私の昭和史」にも載っていない。つまり「完本」とは「完全に全部を収めた本」という意味ではないということである。
末松太平自身は「書籍に載らなかった作品」にも愛着があって 自ら「コピー版」を作成して配布していた。この「国境の町で」以外にも いくつかの「コピー版」が残されている。
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◎「新版/年表・末松太平」/(11)判決~禁錮刑~仮釈放◎

2023年03月20日 | 年表●末松太平
 
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《「年表・末松太平」1937(昭和12)年。/末松太平=31歳~32歳。》
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◎1937年1月18日。第3次判決(陸軍省発表は、1月19日)。
末松太平は、禁錮4年の刑で「免官」となる。

◎1937年8月14日。北一輝、西田税の2名に死刑判決。
◎1937年8月19日。4名の死刑執行(北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次)。
・・・磯部と村中(死刑判決は前年7月5日)は「今回の判決に利用するため」に執行を延期されてきた。残酷な仕打ちである。/北一輝と西田税は「二・二六事件と無関係」である。無理やり死刑にするには「悪辣な手法」が必要だったのだ。

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《「年表・末松太平」1938年(昭和13)年。/末松太平=32歳~33歳)。
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◎獄中生活。
・・・「私の荷物は収監された後も 官舎に置いたままになっていて 聯隊副官が保管していた。もともと罪らしい罪もないのに収監されたのだから 荷物も(しばらくは)そのままにしていた。」
★資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(妻・末松敏子の実弟)の証言》
「軍装品はことごとく『新千葉(義父・久保三郎邸)』に運ばれた。軍籍を離れた身、毎月1回、地元警察が拳銃検査にやってきた。久保三郎が応対した。」
「昭和12年から14年にかけて 末松敏子は『主婦の友社』社長・石川武美の配慮により『家庭製作品奨励会』に住み込み 編物・手芸を習得中であった。/麻布笄町の『家庭製作品奨励会/主宰・柴田たけ子』は 雑誌『主婦の友』に(手芸・編物の関係記事を)連載していた。」

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《「年表・末松太平」1939年(昭和14)年。/末松太平=33歳~34歳。
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◎~4月29日まで。獄中生活。
・・・末松太平の遺品。末松敏子の直筆で「陸軍刑務所内ノート」と記されている大型封筒。
大型封筒の中身は「箴言録」と題されたノート5冊。多分「刑務所」から入手したものだろう。
  
●「第壱巻/昭和12年7月6日~10月13日/第一五三九号」「第弐巻~第四巻」。
●「第五巻/昭和13年4月14日~(空白)/第一五三九号」。
・・・中を開くと 細かい文字がギッシリと書込まれていて 末松太平の「勉学意欲」に圧倒される。哲学的な内容が殆どで「事件関係」の記述はない。当然「検閲」されていて「執筆禁止事項」もあったと思う。表紙に記された「第一五三九号」は「囚人番号」であろう。

◎1939年4月29日。仮釈放。
◎久保三郎(義父)宛の電報「アス八ジ タヘイダス ムカエコイ」。
・・・「天皇誕生日」の「恩赦」による「仮釈放」である。既に「紀元節」に減刑は発表されていた。
・・・「仮釈放」は計4名。大蔵栄一大尉(禁錮4年)、末松大尉(禁錮4年)、小原竹次郞軍曹(禁錮5年)、北島弘伍長(禁錮5年)。
◎「仮出獄證票」 豊多摩刑務所長 吉田律。

・・・「仮出獄後住居地/千葉賢千葉市登戸町2丁目・・・。久保三郎方末松敏子ノ許。」
・・・「仮出獄期間/8月20日間(昭和14年4月29日~昭和15年1月17日)」

◎「久保三郎方末松敏子ノ許」での日々。

・・・久保三郎邸の庭にある「心字池」の畔で。
◎「仮出獄證票/記事及警察官史ノ認印」欄の記載と認印。
・・・「昭和十四年四月二十九日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年六月二日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年七月三日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年八月四日千葉警察署出頭」「昭和十四年九月十一日千葉警察署出頭ス」「昭和十四年十月九日千葉警察署出頭ス」「昭和十四年十一月七日千葉警察署ヘ出頭ス」「昭和十四年十二月七日千葉警察署出頭ス」。

◎1939年の暮れ。東京都杉並区天沼に転居する。
・・・まだ「仮出獄期間中」なので 転居するには「所轄警察署長」の認可が必要である。
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◎「新版/年表・末松太平」/(10)激動の昭和11年◎

2023年03月19日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」/1936(昭和11)年。末松太平=30歳~31歳。》
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◎正月頃の行動。
・・・青森(新婚の自宅)は留守がちで、東京と千葉の間を行ったり来たりしている。
★初公開資料★
《末松太平の「遺品」から。/下書き原稿(寄稿予定先は不明)が記されたノート。》
「昭和15年2月。私は久しぶりに青森に行くため上野駅に来た。前回は(二・二六事件のあった)昭和11年1月2日だったから 5年ぶりということになる。/あのときは 結婚したばかりの妻と一緒だった。年末年始の休暇を利用して 妻の実家を訪ねた帰りだった。渋川善助がひとり見送りに来ていた。渋川は『いつどうなるか判らぬがお互いだ。女房は大事にしておくものだよ』と 周囲には聞こえぬように耳に口を寄せて言った。二・二六事件を予期して言ったわけではなかった。この時まで 渋川は蹶起のことは知っていなかった。」

◎1936年2月26日。「二・二六事件」勃発。
・・・末松太平は 事前に何も知らなかった。事件」勃発の報には吃驚したと思う。
・・・蹶起部隊・安藤輝三大尉宛に打電(届かなかった)した『師団はわれらとともに行動する体制にあり』が 主な有罪理由となる。(打電は28日午前0時40分頃)。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫。/11巻P93。》
「末松が事件を知ったのは、26日の朝である。/(以下、判決文に従うと)彼は第五連隊の志村陸城中尉と共に、連隊長、旅団長、師団長に対し、この際挙軍一体となって昭和維新に直進すべき旨を意見具申し、連隊長名義で陸相その他軍首脳部に同趣旨の電報を発信させ、決起軍の行動を支援した。/また、歩25連隊の片岡中尉宛に『第8師団は維新断行決意鞏固、連隊全員の署名決議を上司に提出し、参謀長はこれを持参上京せり。第7師団の状況如何』の書状を送る。/さらに、片岡中尉と歩31連隊の天野中尉宛に『維新歪曲せられば直ちに起つ準備あり、師団も同意せり』と打電した。


★参考資料★・・・・・・・・・・
《末松太平が、私の妻に贈呈していた「原寸大コピー」2巻。》
巻紙の長さ それそれ数メートル。「進言」の文章は志村中尉が書いたという。
●原寸大コピー①/2月26日付「進言(陸軍大臣・川島義之閣下)」
・・・要旨「今回の異変は断じて単なる一事件として葬り去るべきに非ず。須らく昭和維新に直進すべし」/署名「末松太平大尉、志村陸城中尉、杉野良任中尉など、37名」
●原寸大コピー②/2月27日付「進言(下元中将閣下)」
・・・要旨「直ちに上京を。その際は命を尊王に捧げる(我々の)気持をあわれみ給い、中途警護の任を賜りたく(同行させて欲しい)」/署名「末松大尉、志村中尉、杉野中尉など、11名」
★参考資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(末松太平の義弟/末松敏子の実弟)の証言。》
「川島陸将宛の署名者37名のうち、終戦時に将官(少将)だったのは『少佐・木庭知時』だけ。/事件後、中佐に進級し、歩兵学校に長期出張中には『西千葉/末松敏子の実家』に2回現われている。」
★資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「中央公論/歴史と人物」1981年2月号・掲載》
「2月26日、午前6時40分頃。陸相官邸の大臣談話室で川島陸相と香田大尉、村中孝次、磯部浅一らが対座し『蹶起趣意書』と共に『大臣要望事項』を示す。/その⑥『左ノ将校ヲ即時東京ニ採用セラレタシ』。大岸大尉、菅波大尉、小川大尉、大蔵大尉、朝山大尉、佐々木大尉、末松大尉、江藤大尉、若松大尉。/香田大尉が、襲撃後の局面に対処するために、強力な援軍と期待したのが、この9名であった。」
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/11巻・P324。》
「3月3日、陸軍省は古荘次官の名で香椎戒厳司令官に対し『反乱関係者ノ検挙摘発ニ関スル件通牒』を発した(陸密第150号)。/このうち第2項『正規ノ方法ニ依ルコトナク離隊、会同、意見ノ上申等ヲ為シ軍紀ヲミダリ或ハ之ヲ為サント企テタル者』は、歩一の山口大尉、歩三の新井中尉、柳下中尉、青森連隊の末松大尉、志村中尉、杉野中尉、札幌連隊の片岡中尉、鹿児島連隊の菅波大尉(中略)などが入る。」

◎1936年3月7日。「弘前陸軍拘置所」に収監される。(末松・志村・杉野)
◎1936年3月25日頃。「東京陸軍衛戍刑務所」に送られる。
・・・新婚数ヶ月で、妻敏子は(青森に独り残されて)周囲の冷ややかな視線に晒されることになる。
・・・そして 千葉市登戸の実家(久保三郎邸)に戻り 夫の帰りを待つ日々となる。
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/12巻・P139。》
「3月12日現在『本事件ニ対スル関係容疑者一覧表(東京憲兵隊作製)』によると『本件発生前予知シアリシヤヲ疑ハルル者』は、大岸、菅波、小川、若松、竹中、末松、寺尾各大尉、野北、戸次、草間各中尉、鈴木主計、片岡少尉等計十三名。」


・・・「東京陸軍衛戍刑務所」の今昔。刑場跡地に「二・二六事件慰霊像」が建立されている。

◎1936年7月3日。相沢中佐、死刑執行。
◎1936年7月5日。第一次判決。死刑判決17名。
◎1936年7月12日。死刑執行15名。
・・・香田、安藤、竹嶌、中橋、栗原、対馬、坂井、丹生、田中、安田、中島、高橋、林、渋川、水上。
・・・事件当時に自決2名(野中、河野)。
◎1936年8月20日。第三次起訴。
◎1936年10月10日。第三次公判開始。
◎1936年10月19日。第三次求刑。末松太平は「禁錮7年」の求刑。
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