◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

二・二六事件の意義 (渋川)

2012年07月12日 | 渋川明雄
渋川善助は、「本事件の意義」の中で、
「世界の大勢、国内の情勢を明察せられあれば、本事件の原因動機は自ら明らかにして、『蹶起趣意書』も亦自ら理解せらるゝ所なるべし」
と言っております。それでは、世界の大勢と国内の情勢をどのように観ていたのかを、前出の手記から転載します。

      三、 世界の大勢と
          皇国の使命、当面の急務
 今日人類文明の進展は、東西両洋の文化が融合棄揚せられて、世界的新文明の樹立せらるべき機運に際会し、而して之が根幹中核を為すべき使命は厳として皇国に存す。
 即ち遠く肇国の 神勅、建国の 大詔に因由あり、歴史の進展と伴に東洋文化の真髄を培養し、幕末以来西洋文化の精粋を輸入吸収し、機縁漸く成熟し来れるもの、今や一切の残滓を清掃し、世界的新文明を建立し、建国の大理想実現の一段階を進むべく、既に其序幕は、満州建国、国際連盟脱退、軍縮条約廃棄等に終れり。
 『世界新文明の内容は茲に細論せず。維新せられたる皇国の法爾自然の発展により建立せらるべきもの、宗教・哲学・  倫理・諸科学を一貫せる指導原理、政治・経済・文教・軍事・外交・諸制百般を一貫せる国体原理を基調とする斉世  度世の方策の世界的開展に随って精華を聞くべし。』
 而も、列強は弱肉強食の個人主義、自由主義、資本主義的世界制覇乃至は同じく利己小我に発する権力主義、独裁主義、共産主義的世界統一の方策に基きて、日本の国是を破砕阻止すべく万般の準備に汲々たり。
 皇国の当面の急務は、国内に充塞して国体を埋没し、 大御心を歪曲し奉り、民生を残賊し、以て 皇運を式微せしめつゝある旧弊陋廃を一掃し、建国の大国是、明治維新の大精神を奉じて上下一心、世界的破邪顕正の聖戦を戦い捷ち、四海の億兆を安撫すべく、有形無形一切の態勢を整備するにあり。
 現代に生を享けたる 皇国国民は須らく、茲に粛絶荘厳なる世界的使命に奮起せざるべからず。此の使命に立ちてのみ行動も生活も意義あり。私欲を放下して古今東西を通観せば自ら茲に覚醒承当すべきなり。

     四、  国内の情勢
 顧れば国内は欧米輸入文化の余弊―個人主義、自由主義に立脚せる制度機構の余弊漸く累積し、此の制度機構を渇仰導入し之に依存して其権勢を扶植し来り、其地位を維持しつゝある階層は恰も横雲の如く、仁慈の 大御心を遮りて下万民に徹底せしめず、下赤子の実情を 御上に通達せしめずして、内は国民其堵に安んずる能はず、往々不逞の徒輩をすら生じ、外は欧米に追随して屡々国威を失墜せんとす。
   『六合を兼ねて都を開きは紘を掩いて宇と為さん』
と宣し給える建国の大詔も、
   『万里の波濤を拓開し四海の億兆を安撫せん』
と詔いし維新の 御宸翰も、
   『天下一人其所を得ざるものあらば是朕が罪なれば』
と仰せ給いしも、
   『罪しあらば、我を咎めよ 天津神民は我身の生みし子なれば』
との 御製も、殆ど形容詞視せられたるか。
殊に軍人には、
   『汝等皆其職を守り朕と一心なりて力を国家の保護に尽さば我国の蒼生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世    界の光華ともなりぬべし』
と望ませ給いしも、現に我国の蒼生は窮苦に喘ぎ、我国の威烈は亜細亜の民をすら怨嗟せしめつゝあり。是れ軍人亦宇内の大勢に鑑みず時世の進運に伴はず、政治の云為に拘泥し、世論の是非に迷惑し、報告尽忠の大義を忽苟にしあるが故に他ならず。
 斯の如きは皆是れ畏くも 至尊の御式微なり。蒼生を困窮せしめて何ぞ宝祚の御隆昌あらんや。内に奉戴の至誠なき外形のみの尊崇は断じて忠節に非ず。君臣父子の如き至情を没却せる尊厳は実に是れ非常の危険を胚胎せしめ奉るものなり。
 政治の腐敗、経済の不均衡、文教の弛緩、外交の失敗、軍備の不整等其事よりも、斯の如き情態を危機と覚らざる、知りて奮起せざるこそ、更に危険なり。現に蘇・英・米・支・其他列国が、如何かして日本の方図を覆滅せんと、孜々として準備画策に努めつ々あるとき、我国が現状の趨く儘に推移せんか、建国の大理想も国史の成跡も忽ちにして一空に帰し去るべし。

                (澁川善助の命日にあたって)
 
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予審請求(渋川)

2012年04月27日 | 渋川明雄
 渋川善助が、「断じて検察官の予審請求理由の如きものには非ざるなり」と言う「予審請求」の内容とは。
二・二六事件の捜査報告書の送付を受け、昭和十一年三月八日に、検察官陸軍法務官匂坂春平が陸軍大臣川島義之に対し「捜査報告書進達」を為し、予審を請求すべきものと思料するとした。同日、匂坂春平から予審官に対して「予審請求」が提出された。その内容は、次の通りである。

  犯罪事実
第一 被告人等は我国現下の情勢を目して重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等が国体の本義を忘れ私権自恣、苟且とう安を  事とし国政を紊り国威を失墜せしめ、為に内外共に真に重大危局に直面せるものと断じ、速に政治並経済機構を変革  し庶政を更新せんことを企図し、屡々各所に会合して之が実行に関する計画を進め、相団結して私に兵力を用い内閣  総理大臣官邸等を襲撃し内閣総理大臣岡田啓介、其の他の重臣、顕官を殺害し、武力を以て枢要中央官庁等を占拠し  公然国権に反抗すると共に、帝都を動乱化せしめて之を戒厳令下に導き、其の意図に即する新政府を樹立し、以て其  企図を達成せんことを謀り、昭和十一年二月二十六日午前五時を期して事を挙ぐるに決し、各自の任務及部署を定め  たり。(以下各被告人の犯罪事実)
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二・二六事件の意義(渋川)

2012年04月20日 | 渋川明雄
 渋川善助は、二・二六事件が勃発した事情と意義について、予審中の昭和11年4月8日付で提出をした手記「本事件ニ参加スルニ至リシ事情並ニ爾後ノ所感念願」に於いて述べている。その中で意義については、次のように述べている。
  (読みやすいようにカタカナをひらがな、旧漢字を新にする)

    本事件の意義
 国の乱るるや匹夫猶責あり。況んや至尊の股肱として力を国家の保護に尽し、我国の創生をして永く太平の福を受けしめ、我国の威烈をして大に世界の光華たらしむべき重責ある軍人に於てをや。
『朕か国家を保護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまいらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽ささるとに由るそかし』
と深くも望ませ給ふ 大御心に副い奉るべきものを、奸臣下情を上達せしめず、赤子万民永く特権閥族の政治的、経済的、法制的、権力的桎梏下に呻吟する現実をも、国威将に失墜せんとしつつある危機をも、「大命なくば動かず」と傍観して何の忠節ぞや。古来諫争を求め給いし 御詔勅あり。 大御心は万世一貫なりと雖も、今日下赤子の真情は奸閥に塞がれて 上聞に達せず、如何ともすべからず。
此の奸臣閥族をさん除して 大御稜威を内外に普からしむる是れ股肱の本分にあらずして何ぞや。実に是れ現役軍人にして始めて可能なるに、今日の如き内外の危機に臨みても、頭首の命令なくば動き得ざる股肱、危険に際しても反射運動を営み得ず一々頭脳の判断を仰がざるべからざる手脚は、身体を保護すべく健全なる手脚に非ず。此の故にこそ、
『一旦緩急あれは義勇公に奉し』
と詔いしなれ。億兆を安撫し国威を宣揚せんとし給うは古今不易の 大御心なり。
股肱たるもの、此の 大御心を奉戴して国家を保護すべき絶対の責任あり。
 今や未曾有の危局に直面しつつ、 大御心は奸臣閥族に蔽われて通達せず。意見具申も中途に阻まれて通ぜず。万策効無く、唯だ挺身出撃、万悪の根元斬除するの一途あるのみ。須らく以て中外に 大御心を徹底し、億兆安堵、国威宣揚の道を開かざるべからずと。
 今回の事件は実に斯の如くにして発起したるものなりと信ず。叙上世界の大勢、国内の情勢を明察せられあれば、本事件の原因動機は自ら明かにして、「蹶起趣意書」も亦自ら理解せらるる所なるべし。
 吾人が本事件に参加したる原因動機も亦、以上述べし所に他ならず。臣子の道を同うし、報国の大義相協いたる同志と共に 御維新の翼賛に微力を致さんとしたるものにして、断じて検察官の予審請求理由の如きものには非ざるなり。
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二・二六事件についての新刊(渋川)

2012年03月12日 | 渋川明雄
 2月28日に、河出書房新社から「禁断 二・二六事件」が出版された。
著者は、鬼頭春樹氏。著者は、昭和46年にNHKにディレクターとして入局し、平成19年に定年退職している。
在職中の平成12年に「プロジェクトX」「NHKアーカイブス」等の創設を編成局で担当した。
本の帯には次のように書かれている。

       蜃気楼のごとく浮かび上がる事件の新たなる相貌
        「プロジェクトX」を生んだ元NHKプロデューサーが
         蹶起の知られざる「禁断の空白」を精査追及―。   
       
       昭和11年2月26日、雪の朝、宮城を舞台に何が企てられたのか。物語は
       ふたりの人物に行き着く。当時34歳の大元帥陛下。そして28歳の近衛師
       団陸軍中尉。両者には雪の早暁に企てられた宮城作戦のトゲが突き刺さって
       いる。このトゲを抜けば二・二六事件が内包する膨大な膿が流れ出て来るに
       違いない。語られることがない禁断の領域がそこに露呈するのだ。
      
       ―松本清張「昭和史発掘」でスクープされてから40年、膨大な史料の森に
       分け入り、時刻を克明に辿り、隠蔽封印された宮城での作戦の全貌を抉り出す!

ということである。28歳の近衛師団陸軍中尉とは、中橋基明中尉のことである。
また、本の「あとがき」には次のように書かれている。

    「この物語は徹頭徹尾、だれにでも公開された情報で成立している。独自にスクープした
     史料はほとんどない。自慢出来るとすれば、無数の断片をピンセットで丁寧に拾い上げ
     て、根気よく独自の新しい物語を紡ごうとした点であろうか。基礎史料として独自に作
     成した事件に纏わる時系列記録のファイルは、B4で八四ページにわたった。これだけ
     で一年間かかる。いずれインターネットで公開したい。」

と。本の内容は、フィクションとノンフィクションの混合で構成されている。著者は言う。「そうした作品手法が真実に迫る上で成功しているかどうか、読者のご批判ご判断を得たい」ということである。
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驚きました (渋川)

2012年01月23日 | 渋川明雄
 ウェーブ産経(産経新聞ファンクラブ)では、バスツアー「踏破二・二六事件の現場」を企画した。ツァーではバスと徒歩で現場を検証し、二・二六事件の真相に迫る、としている。このツァーには、現代史研究家、井上康史氏が同行し解説されるとのこと。

日時 2月24日(金)午前8時30分、東京・大手町、産経新聞東京本社前集合。雨天決行。
行程 六本木(歩兵第一連隊、歩兵第三連隊跡)ー氷川神社ー溜池交差点ー赤坂(近衛歩兵第三連隊跡)ー薬研坂ー高橋蔵相私邸跡ー信濃町ー斎藤実内相私邸跡ー憲政記念館(昼食)ー千鳥ヶ淵ー鈴木貫太郎侍従長官邸跡ー九段会館(戒厳司令部跡)ー二・二六事件慰霊像(東京陸軍刑務所跡)。夕方、東京駅近くで解散。
定員 80人(最少催行人数40人)
代金 8000円昼食付き
資料請求・問い合わせは、JTB法人東京法人営業所新宿副都心支店「二・二六事件ツァー」係
電話 03(5366)0924(平日午前9時半~午後5時半)

となっている。当日は事件に関する資料が配付されることと思うが、参加される方々がこの事件に関してどのくらいの知識をもっていてこの事件を認識されているのか、また、解説をされる井上氏がどの程度の知識を有していてどのように認識されて解説をされるのか解らないが、是非「真相」に迫って欲しいと願う。私も時間があれば是非参加したいと思ったが、当日は予定が入っていて残念ながら参加することができない。もし参加される方がいましたらその様子をコメントしていただければ幸いです。
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澁川善助プロフィール(渋川)

2011年09月22日 | 渋川明雄
明治38年12月9日、福島県若松市七日町にて父利吉母ヨシの長男として生まれる。当時澁川家は、海産物問屋を営ん でいた。
 会津若松市立第二尋常小学校卒業、福島県立会津中学校第二学年を修業、小中学校を首席でとおす。
大正9年4月1日、仙台陸軍地方幼年学校の第24期生として首席で入校する。入校式では、入校宣誓文を読む。
大正12年4月1日、陸軍士官学校予科第三期生として入校する。歩兵になることを志願し、大正13年11月21日の 兵科発表で志願通りとなる。
大正14年3月14日、同校卒業。成績は326人中の2番で、恩賜の銀時計を拝受し、摂政殿下裕仁親王の御臨席を仰 ぎ、御前講演を「日露戦役ノ世界的影響」という題目で行う。
 卒業後、士官候補生として郷土の若松歩兵第29連隊に6ヶ月間配属される。
大正14年10月1日、陸軍士官学校本科・第39期生として入校する。入校して間もない頃西田税と知り合い、北一輝 著「日本改造法案大綱」を手に入れ読む。
昭和2年4月、同校を退学となり、同年5月28日士官候補生を免ぜられる。
昭和3年4月、明治大学専門部政治経済科に入学する。「天皇賛美論」を書いた遠藤友四郎、大森一声等が主宰する「錦 旗会」のメンバーとなる。
昭和3年9月23日、満川亀太郎を訪ねる。
昭和4年、「興国連盟」のメンバーとなる。
昭和4年10月、明治大学内に「興国同志会」を設立する。
昭和5年9月、満川亀太郎塾頭とする「興亜学塾」の塾生となる。
昭和6年3月、明大専門部政治経済科卒業。
昭和6年4月、明大政治経済学部に入学する。
昭和6年8月26日、全国同志将校の会合「郷詩会」に出席する。
昭和7年、西田税等と「維新同志会」を結成し、全面的に革新運動を展開する。
昭和7年5月15日、五・一五事件、裏で策動する。
昭和7年7月、明大を退学する。
昭和7年12月、「敬天塾」の塾生となる。
昭和8年1月、松平紹光・植田勇・竹嶌継夫らによって会津若松市に設立された「皇道維新塾」の塾長となる。
昭和8年4月、「非国難非非常時」の小冊子を発刊する。
昭和8年4月16日、満州に行く。関東軍特務部と「在満決行大綱」を作成しクーデター計画を立て、そのことで満州に いた菅波大尉に会う。
昭和8年11月、「救国埼玉青年挺身隊事件」で検挙される。翌年1月14日に釈放される。
昭和9年1月、大森一声を道場長とする「直心道場」に所属し、「核心」の同人となる。
昭和9年9月20日、結婚する。夫人は絹子さん。
昭和9年10月、「統天塾事件」に関与したということで「鉄砲火薬類取締法施行規則違反」で検挙される。翌年7月末
 に釈放される。
昭和10年8月以降、「相澤事件」の裁判に向け奔走する。また、国体明徴運動に奔走する。
昭和10年12月31日、中村義明宅で大岸頼好大尉等に蹶起に加わることを迫る。
昭和11年1月26日、石原莞爾大佐を訪ねる。
     2月23日、牧野伸顕を偵察するために湯河原へ行く。
     2月25日、帰京する。
     2月26日、二・二六事件勃発。外部工作を担当する。
     2月28日、12時頃、赤坂見附山王下料理店「幸楽」にいた安藤大尉の部隊に身を投じる。
     2月29日、陸相官邸で憲兵により施縄される。
     7月5日、 謀議参与及び群集指揮の罪で死刑判決
     7月12日、午前8時34分刑執行
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はじめまして(渋川)

2011年07月19日 | 渋川明雄
はじめまして。渋川明雄と申します。今までコメントでは投稿していましたが、このたび当ブログの同人として光栄にも加えていただけることとなりました。
二・二六事件を風化させないようにという主旨で、末松さんが当ブログを立ち上げられましたが、その主旨に沿って寄稿していきたいと思っております。
渋川善助についてがメインになるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
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