◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

あるアメリカ人 平和を求めて

2009年06月30日 | 今泉章利
来日していたアメリカの弁護士と話をしました。

かれは、ジョンホプキンス大学を出て弁護士になった優秀なアメリカ人ですが、彼は世界が平和になるように願って、カーター政権で6年、クリントン政権で3年、だったか国務省で、特に人権、労働などで働いたそうです。ホワイトハウスでの話も興味深く聞きました。

僕は、ダライラマの弁護士だよ。お金はもらわないけれど、、と彼はこともなげに言いました。(Pro Bono Lawyer) インドに行っていた時にダライラマと一緒にいて、彼の非暴力的な平和に対する態度に感銘を受けたそうです。その後、彼をワシントンで、要人とあわせて、いろいろと話をしたけれど、米国が中国を非難するところまではいかなかったようでした。

そうか、じゃあ、僕は君の友達だから、ダライラマは私の友達でもあるんだねと言ったらそのとおりと言って、二人で大笑いしました。

そしたら、じつは、、僕はアウンサンスーチーの弁護士でもあるんだと言いました。それじゃあ といって もう一度笑ったのでした。

平和に対して、暴力で立ち向かう人たちがどこまで通用するのか、、そのもとで、結局は、その国民がトタンの苦しみに喘いでいるのです。

ミャンマーの軍事政権は、当初は、日本軍が教育したものと聞いていましたが、いつしかこちらの言うこともきかなくなり、超肥満体の将軍が、自分の娘の結婚式に、金の指輪、ダイヤのネックレスだったか、見ているだけでも胸が悪くなるような醜態の映像をみた記憶があります。

歴史はどのように変わるのでしょうか。

(今泉章利)

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波多江タマ様からの二通のお便り

2009年06月30日 | 今泉章利
小生、様々な理由から、疲労困憊で、ほとんど何も書けずいたことを、申し訳なく思っております。

さて、最近、波多江タマ様からお手紙を二通頂きました。

一通は、小生がペテルスブルグから出したはがきに対するもので、ペテルスブルグをレニングラード、ロシアをソ連と書いておられ、要は、ロシア人にはくれぐれも注意しろという内容でした。シベリア抑留の方が書いていた「ロシア人は嘘で固めた卑劣な奴らだ」という過激な言葉と、日露戦争でご苦労されたタマ様の父上のことが頭をよぎりました。

今後の8月、函館で北大の水産学部での初代練習船忍路丸の竣工、明治42年から数えて、100周年になるので、それを祝う行事があり、その参加の帰途、弘前にお邪魔しようと考えております。(20年前に小生はこの船の歴史を調査したことがある。)

(話が込み入って恐縮ですが、北大の記念行事では、水上さんの卒業された函館商船学校を引き継いだ函館水産高校の先生ともお目にかかる予定になっております。。)

もう一通は、タマ様からの悲憤に堪えないお手紙でした。内容は、お兄様であられる對馬中尉が、あれほどまでに命をかけた昭和維新運動は、明治憲法、明治政府の体制のもとでは解決し得ない、貧しい農民たちなどを、救いたいものだったのに、いつの間にか陸軍内部の権力闘争のごとき解説をし、さもそれが新発見であるかの如く言っている今の学者、マスコミに怒っておられるものでした。

収入の8割を地主に取られる小作人を救ってほしい。
それを許している地主制度を、政治体制を、天皇陛下の大御心で変えてほしい。
というものでした。

岩木山の山麓に広がる美しいリンゴ畑から、94歳のタマ様のひたむきな声が聞こえてくるようなのです。

私はこのままでは死ねない。あの優しかった兄に、この事件の本質を伝えきれなかった自分は、あの世で何と言っていいか申し訳が立たない。

気持ちが痛いほど私の胸を刺します。私は、心から、申し訳ない気持ちで、お手紙を読み終えたのでした。

(今泉章利)

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北朝鮮(DPRK)の核実験と北朝鮮籍の在日の人たち

2009年06月13日 | 今泉章利
もうすぐ、安保理で、北朝鮮(DPRK,Democratic People's Republic of Korea)の非難決議が採択されます。

あれだけみんなで核爆弾を持つことは、人類の生存に対する挑戦だから、やめようということで、国連で決議するのです。テレビでは、昔懐かしいKEDOの米国代表をしていた人の顔が見えます。

ー――――――ー――

6月12日、安保理は、Resolution 1874を、全会一致で採択しました。さらに強い輸出規制を含めたものです。この決議は5月25日の核実験は、2006年の1695(核実験)と1718(ミサイル)の国連決議に違反したからというものでした。

これに対し、本日、DPRKは、今後、プルトニウムはすべて爆弾にするとの表明をしました。今回の表明は明らかに重大なものです。なぜ、大量に人類を殺せる権利が、DPRKにあるのでしょうか。中国の500発の水爆、アメリカの5000発の水爆、ロシアの5000発の水爆、フランスの300発の水爆、イギリスの200発の水爆、、が、本当の数は知りませんがあることは事実です。

だからと言って、DPRKが核開発をしていいということではありません。DPRKは、一人生きているのではなく、地球の人類という仲間として生きているのです。

DPRKは主権国家であるから、核、つまり人類の大量無差別破壊兵器を持てるのだ、交戦する主体でない、一般人を殺傷する兵器を持てるのだという主張は、はたしてただしいのでしょうか。
今回のことは、歴史の大きな、人類にとっての深刻な問題なのです。が、日本での議論がわかりにくくなされているため、なんだかさっぱりわからない様です。

DPRKはおかしいからね、という人がたくさんいますが、、對馬さんの妹の波多江タマさんによれば、日本も戦前はあんな感じで決して笑えないと言っていました。日本の

DPRKの2000万の国民は二つに分けられていて、ピョンヤンの200万人は、豊かな生活をし、ファッションショーを楽しんでいるとKCNA(北朝鮮のインターネット放送)が伝えていました。しかし残りの、ピョンヤン以外の1800万人は、本当に苦労していると思います。また、ピョンヤンを非難したらどういう目に合うかよくわかっています。

そんな中で、、在日の北朝鮮籍の人たちはどのようなことを考えているのでしょうか。ほとんどの彼らの祖先は、北から来た人たちではありません。韓国、しかも、貧しい南部の人たちがほとんどです。それは、第二次大戦が終わった時、民主化で
喜んでいた人たちを、李承晩大統領が、赤の手先として、裁判もせず、警察・軍隊とともに打ち殺したのです。女も子供も容赦なく、ひどい時は村中を、大量虐殺しました。命からがら逃げた人たちの行先は日本でした。(このことは、韓国国会で数年前だったか、調査し、謝罪をしていました。)

日本では、そのように逃げて来た韓国人を韓国政府がゆるすはずもなく、廃品回収などをしながら生活していましたが、日本人でも韓国人でもない彼らに、唯一手を差し伸べたのは、北朝鮮(DPRK)金日成(キムイルソン、金正日の父親)でした。彼らの感じている北に対する恩義は、一通りではないでしょう。そして、それが、在日の北朝鮮籍の人たちなのです。日本で育っている3世・4世は、どのように感じているのでしょうか。

歴史という大きな流れ、戦前の日本のような体制の、囚人のジレンマに陥っているいまのDPRK体制、、核爆弾への渇望、そして世界の平和に対する挑戦が起こっているとき、私の頭の中は、ぐるぐると動き回るのです。
(今泉章利)
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渋川善助さん(その4) 渋川明雄様の投稿(4)

2009年06月13日 | 今泉章利
小生が、もたもたしている間に、渋川明雄様は、着実に勉強されています。
以下は、渋川明雄様の投稿です。

昭和5年5月19日、九州帝大鹿子木員信博士がロンドン条約反対のビラ撒布のゲリラ作戦を計画し、愛国勤労党の法大教授中谷武世が指導にあたり、財部全権が東京駅に到着し、浜口首相等政府高官が揃って出迎える東京駅プラットホームに於いてこの計画は実行された。
最も重要且つ危険多い行動は渋川善助が自ら進んで引き受け、渋川は緻密な行動計画を作り実行、見事に成功した。これは翌日の新聞で報道された。
中谷武世は渋川のことを「大胆不敵なビラ撒き作戦を決行するような青年」という。
昭和5年6月25日、売国条約反対全国学生同盟(中心人物、明大生渋川善助、藤村又彦、三原朝雄等)は
、ロンドン条約反対大演説会を開催し、「国民の名に
於いて1930年ロンドン条約の破棄を宣し現内閣の即時辞職を要求する」決議を行う。
7月3日には第二回演説会が開かれた。
昭和5年7月12日、愛国勤労党会津支部の単独主催でロンドン条約問題に憤慨し自殺した草刈少佐の郷里会津若松市の公会堂で「草刈少佐追悼演説会」が開かれ、渋川も会場へ駆けつけた。
この頃、青森県弘前市の伊東六十次郎会長「東門会」に、加藤春海等と共に客員となり直接指導にあたる。
二・二六事件関係者、佐藤正三、宮本誠三は同会出身

加藤春海は、昭和5年4月に安岡正篤によって作られた、東洋学を主とする私塾形態の研究機関である「金鶏学院」に入る。
同期生に血盟団事件の東大生四元義隆、池袋正八郎がいた。渋川は同学院寮に寄宿する。
同年11月からは、井上日召も同寮に寄宿した。
昭和5年9月、拓大教授満川亀太郎主催の「興亜学塾
」が設立され、11月3日に開塾式が行われた。渋川はこの塾生となる。
昭和6年1月、満鉄経営の教員養成所なる教育専門学校の教師をしていた知人から同校廃止につき存置運動
をしてくれと頼まれ、頭山満の紹介状を貰い渡満し、当時満鉄総裁の仙石貢と面会したがその効なく廃止となる。
渋川は「渡満するときは死線を越えてという決心でありましたが遺憾でありました」という。
満川亀太郎日記
昭和6年1月15日、「渋川、小島両君満州教学問題に付き渡満」
石原莞爾日記、(当時補関東軍参謀、歩兵中佐)
昭和6年1月28日「渋川氏来訪、教学問題ニツキ論題シ一泊シテ帰ル」
    1月30日「渋川帰京ノ挨拶ニ来ル」
とある。

以上は、渋川明雄様の投稿でした。

正直に言って、ロンドン軍縮があれほどまでに大合唱になったのが、まだよくわかりません。なぜあれほど多くの共感を呼んだのでしょうか。大きな危機感が国民の中にあったのでしょうか。

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梅の実

2009年06月12日 | 今泉章利
昨日今日と二日続けて、慰霊像に行ってきました。
慰霊像には、木柱の後ろに梅の木があり、二月の法要のころは真っ白な梅の花がたくさん咲きますが、今は、美しくもきれいな梅の実がなっていました。いままでも、見ていたのですが、こんなに感慨深く見たのは初めてです。

いま、慰霊像の周辺一帯は、欅を中心に、ものすごい勢いで葉が生い茂っています。慰霊像のお世話をいただく方にも、失礼だし、人が隠れていても分からないくらいで、ある意味危険なので、何回も、植木屋さんにおねがいしていました。
しかし、植木屋さんも返事ばかりでうまくないので、ついに、きのうの夜、真っ暗闇の中、ハサミを握りしめた小生は、単身、樹木と格闘、大きな袋二つの成果をあげました。今日行ってみると、まんざらではなく、まあいいかと思ったのですが、そのとき、きれいな梅の実を拾いました。全部で六つ。でもよく木をみると、あと、16個はなっていましたから、きっと全部で22個の梅の実がなっていることがわかりました。そうしましたら、これで、梅酒をつくろうという素晴らしい考えがうかび、いま拙宅で実行に移しています。
22個の梅をつかった慰霊像の梅酒!なんと名前を付けようか、悩んでいますが、どなたかアイデアありますか?

水上さんの調査を通じて、水上源一さんの深く、熱く、清い思いをしりました。だから、昨日も今日も、いつもあげる般若心経と十句観音経を何度も何度もお唱えしました。
もうすぐ7月12日がめぐってきます。
末松さん、お元気ですか?みんなお元気ですか?みょうに人恋しい気持ちになっております。
(今泉章利)
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渋川善助(その3) 渋川明雄様投稿

2009年06月11日 | 今泉章利
私が何もしない間に、コツコツと明雄様は投稿してくださっておりました。本当にありがとうございます。
以下がご投稿のものです。

士官学校退校後、第一高等学校を受験。学科試験合格するも内申不良で落ちる。
昭和2年7月、西田税の「天剣党事件」で、その同志リストに末松太平と共に名を連ねる。後に親交を深める東大生伊東六十次郎、加藤春海等もリストにあったが、西田は本人の承諾を得ずして独断で記載。
これに対し西田に抗議文を送る。しかし、盛んに西田宅に出入りし1年あまり居候した。
昭和3年4月、明治大学専門部政治経済科に入学。明大も内申で落とされそうになるが、栗原教授の特別なはからいで入学できた。以後、4、5年間東大を受験するも内申で落とされる。
沼波武夫未亡人が、一高、東大生を対象に「瑞穂寮」を経営していたが、この寮に入寮。
明大に入学してからのことを次のように言う。
「社会方面に関心を持つ様になったのは明治大学専門部に入学し、政治経済を学ぶ様になってからで、当時文明史、政治史等を研究した結果と雖も国内の事情を知り且国外的の知識を求め国家発展の為働かねばならんと思いました」と。
昭和3年9月23日、伊東六十次郎、加藤春海と共に拓大教授満川亀太郎宅を訪ねる。
同年、福島県会津出身の遠藤友四郎と後年「直心道場
」の道場長となる大森一声の組織なる「錦旗会」のメンバーとなる。
「錦旗会」は、熱烈なる皇室中心主義の下に錦旗を奉じての社会改造を理想とし、純国粋主義の宣伝に努めた団体。
昭和4年11月、左翼学生運動に対抗する目的を以て、東大、明大、拓大、日大、慶大、東農大の各大学有志によって「学生興国連盟」が創立される。加藤春海(東大)、藤村又彦、林貞四郎、山下光治(明大)等と共にその中心人物となる。そして、ロンドン条約反対運動に狂奔する。その頃を次のように言う。
「私が社会的に実際働きかけたのは其の頃で倫敦条約締結に付て論議された時からであります。我々は当時我が帝国海軍の主張する三大原則の貫徹を期して運動し私は興国連盟の代表者と共に当時の軍令部長加藤寛治大将を訪問し、大に我海軍の主張貫徹を激励しました。続いて同条約の御批准に反対の運動を為しましたが結局統帥権を干犯して条約が締結せられたのでありました」
そして、
「其の頃自分等が蹶起する時機があるのではないか」と思うようになる。
ロンドン条約反対運動では、同じく明大生で「愛国学生連盟」を組織し、その委員長であった三原朝雄(昭和51年福田内閣時防衛庁長官)がいた。
三原は当時を回顧して次のように言う。
「東京駿河台の明大キャンパスで親交を結んだ学友のうち、今なお忘れられない友人に渋川善助君がいます。・・私は渋川君と常に行動を共にしておりました・・明大生の私は、青年将校らと親しくしておりましたから、二・二六事件のときに日本にいたら、私も関係者の一人として軍の取り調べを受けていたかもしれません」と。
三原は、昭和7年明治大学法学部法律学科を卒業し、満州国政府大同学院の試験にパスし、満州に渡っていた。
北一輝は、国家改造には軍隊を手中にすること、軍隊の内応運動に着手すべきことが先決であるとし、特に青年将校を対象にすることを西田に示唆し、渋川はその青年将校等との衝にあたった。
渋川の怜悧な頭脳を西田が踏台にしたのは、北一輝の意向ともいわれる。
昭和5年2月、「明大興国同志会」を藤村又彦、林貞四郎等と共に設立しその中心人物となる。
同年5月14日、第一回講演会兼創立大会を開催する
。弁士に法政大学教授中谷武世を招く。その時の模様を昭和5年5月17日付の「明治大学駿台新報」に掲載し、新入会員を募った。

以上は渋川明雄様のご投稿ぶんでした。

(今泉章利)

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渋川善助さんのこと(その2)、渋川明雄さんの投稿です。

2009年06月10日 | 今泉章利
掲載が遅くなりましたが、渋川明雄さんからの投稿です。

大正14年10月1日、陸軍士官学校本科に第39期生として入校。
同期生で無二の親友となる末松太平は入校間もない頃、大岸頼好の紹介で「大学寮」の西田税を訪ね、後に森本赳夫、草地貞吾を連れて行くが、森本はこの男はと思う同期生を何人か連れて行き西田と会わせていた。渋川はその中の一人であった。
そして「日本改造法案大綱」を手にする。「大学寮」の講師であった西田税をはじめ、満川亀太郎、中谷武世、安岡正篤、沼波武夫とは後に関わりをもつ。
大正15年6月、両親宛に次のような手紙を送る。
「皇国の将来を思ふ時、点取虫共があくせくして居る有様が情けなくなってきます。こんな奴等に日本国を負わせることが出来るかどうかと。彼等にして戦争をやる機械にならんとするならばそれでよし、俺はその機械を動かして則天行地の大業を行ふ人間たらんという意気ごみです」
この後間もなく教官と衝突。その理由は、教官が教育者として見るべき条件として厳格な諸箇条を列挙したが、それに対して、その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だと批判。これが問題化する。自説を撤回せず、二度の重謹慎30日の処罰を受ける。
9月に祖父善太郎に次のような手紙を送る。
「人間には大きな務めがございます。人間全体に対する務めでございます。又国民と致しましては、親よりも家よりも大事な務めが御座います。君国の御為に尽すことでございます。これがつまりは親の為家の為ともなるのだと存じます。一身の出世が目的であったり致しましては決してお国の為となるとは限りません」
昭和2年4月、本科の卒業試験も終わっていたが、退校処分となり、同年5月28日に士官候補生を免ぜられる。退校処分決定者は、校長であった真崎甚三郎。
退校になったいきさつを末松太平は次のように言う。「退校になった理由は、彼が教育学の根本問題に照らして、学校幹部の教育者としての資格を批判したからだったが、学校当局をして退校に踏ん切らせたのは、意外にも些細なことだったことが、このとき永井大尉(注・士官学校本科時代の区隊長)の口を通じてあきらかにされた。それは渋川や私と同じ区隊の生徒、赤松候補生の日記がもとでだったという。赤松は軟文学を耽読していたことが理由で、処分を受けたことのある、学校当局から目をつけられている軟派中の軟派だった。が彼はかねてから渋川を尊敬していた。渋川は退校になる前に、二度の重謹慎の処分を受けるのだが、それに同情して赤松はその真情をこまごま日記につけていた。その日記がみつかったことによって、学校当局は渋川の背後にこういう軟派たちの支持があると思い込み、渋川の処分を寛大にすることはこの軟派たちをつけあがらせることになると、厳しく退校の処分に踏ん切ったという」
末松太平は渋川のことを次のように言う。
「同期生きっての秀才」
「士官学校の優等生だったころの渋川は、口も八丁、抜群の頭脳と赤鬼というあだ名通りの体躯にものをいわして時には強引に横車を押しとおした。あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう」と。
手紙から察するに、軍人に見切りをつけ革命家になろうと決心したに違いない。「俺はその機械を動かして・・・・」は、後に西田と隊付青年将校の間にあって動いていく。二・二六事件に到るまでの陰なる重要な人物なのだ。

以上、渋川明雄様からの投稿でした。

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水上研究 現状報告です。

2009年06月10日 | 今泉章利
一体何をやっているのだ!せっかく、末松さんからブログのスペースを頂いたというのに!!

本当に返す言葉もありません。現状を報告いたします。

1.仕事が忙しく、きつくいのと反比例して体力が衰え、体調を崩しております。

2.水上さんのほうは、大変貴重な資料を36点、遺品を22点、日大の卒業アルバムを見せていただきました。資料の整理中です。

3.やり残していることがあります。
どうしても前沢に行かなければなりません。それ以外は、手が出ないにしても、もう一度前沢に行かねばなりません。(東京地検にも行かねばなりませんが、それは、原稿がかなりできてからだと思っています。。)

4.今は、実は、いろはの草書を勉強中です。 水上さんや奥さまの書かれたものは、草書なので、このかなを、だいたいそれぞれ三種類、、、もちろん 例の、東京都地検と同じく わからないので、やっていますが、実に微妙で、集中してやらないとだめなのです。こんなこと小学校でやってくれればよかったのにといつも思います。

いつになるのか、焦る気持ちにさいなまれながらも、見せていただいた資料は実に感動的です。胸に迫るものがあります。

御結婚前後のお手紙、事件後のやり取り、遺書など、、いろいろな意味で一級のものと確信しています。真剣に国に殉じようとした若い立派なお二人だったと思います。
すべてを投げうち、殺されて、それでも、世間がどうであっても、正義は曲げないという強い意志を感じました。なくなって、12月の12日の奥様のメモなど涙なしには読めないものです。健気な、厳しい北海道の好奇と誤解と歪んだ同情と、、そんな中でほんとうに、奥様はまっすぐ生きようとしておられました。たったひとりのご令嬢とともに。

(今泉章利)

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