◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎再び・・・鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動」のこと◎

2021年04月17日 | 末松建比古
◎鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動」は「やまと新聞」連載のインタビュー記事8週分(1974年9月11日~11月12日》を柱にしている。
※当時 東京都港区芝公園にあった「やまと新聞」は(土日は休刊の)右翼系日刊紙であった。
当時 鈴木邦男氏は《三十代に入ったばかり》の青年だった
・・・と 前回の《お復習い》をしたところで 画像=「やまと新聞」連載記事(コピー)をご覧いただく。

 

※この「やまと新聞」のコピーは 鈴木邦男氏から(2016年8月に)郵送していただいたものである。
手紙の末尾に「字が下手で汚くてすみません よめないかもしれませんが」とあるのが 人柄を彷彿させて微笑ましい。

◎「やまと新聞」連載のタイトルは《維新運動の源流を訪ねて━━証言・私の昭和維新━》
※連載記事32~36の五回分が《「二・二六事件」末松太平氏に聞く》である。
①=大岸頼好との出会い。②=北一輝と青年将校。③=天皇と二・二六事件。④=概念規定を急ぐな。⑤=二・二六を今に生かす。
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鈴木「・・・松本清張は 皇居占拠の計画があったように書いていますが・・・」
末松「・・・そんなものはないですよ。そんなことを考えていたら、年寄りを殺すよりも、先にそっちをやっていますよ・・・」
鈴木「・・・天皇は激怒されたと聞きますが・・・」
末松「・・・天皇の御意志が判ったから、皆将軍連中も手の平を返した、二・二六事件をぶっつぶしたのは天皇ですよ。そのウラミは私にもありますよ・・・」
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※新聞(1974年)にも書籍(2015年)にも 同じような対話は登場する。
ほんの一部分だけを引用すると《物騒な発言》に映る。しかし(やまと新聞で)この発言の前後を読めば 特に物騒なことを言っているわけではないことが判る。

 

※鈴木邦男氏からの手紙の件は 当時の「末松太平事務所」に記さなかったように思う。
2016年の私は 執筆意欲が衰退して 年刊の更新數=僅か4回だけ。今泉章利氏の玉稿が頼りであった。
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★極めて個人的な蛇足★
※2021年4月17日(土)・・・即ち本日。私は満年齢で《盤寿》を迎えた。将棋盤の枡目は9×9=81。盤寿=81歳 である。
当然ながら《末松太平の81歳》と お互いの《老け具合》を比較してみたくなる。
偶々 マイナンバーカード申請用の証明写真を撮ったばかりなので 二人の写真を並べて掲載しようかと思ったりもする。
※画像参照。「やまと新聞社写真部」撮影の末松太平=68歳。その頃の私=33歳は(転勤で)2度目の福岡にいた。(末松)
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◎唐突ながら・・・「橋川文三著作集・5」のこと◎

2021年04月12日 | 末松建比古
◎JR浦和駅東口「さいたま中央図書館」で《末松太平》を検索すると 次の4件が表示される。

●末松太平著「私の昭和史/二・二六事件異聞」中公文庫。(上)(下)
●橋川文三著「橋川文三著作集・5」筑摩書房・1985年刊。2001年増補版刊。
●今井清一編集「現代日本記録全集・20/昭和の動乱」筑摩書房・1969年刊。

※今井清一編集の書籍は 昭和維新=末松太平 満州事変=若槻礼次郎 等々による記録の全集である。だが(実物が手元にないので)ここでは触れない。
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◎《橋川文三「橋川文三著作集・5」筑摩書房・1985刊・増補版=2001年2月25日刊》
※「橋川文三著作集」全10巻。第5巻は「昭和超国家主義の諸相=全7篇」と「戦争体験論の意味=全4篇」と その他の11篇」が収められている。
編集委員=神島二郎・鶴見俊輔・吉本隆明。編集協力=遠藤英雄・赤藤了勇・松本健一・三森康男。
増補版=2001年刊。末松太平逝去=1998年。増補版を「謹呈」されてあのは私である。
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◎末松太平著『私の昭和史』について
※『私の昭和史』がこれまでにあらわれた同種類の著作の中の白眉をなすことは、すでにほぼ定評のようになっている。(中略)/すでに私たちは多数の著作や資料をとおして、いわゆる昭和維新運動のことをよく知っており、それぞれの青年将校の人柄や行動の意味についても、何ほどかを心えている。しかしそれは、どちらかといえば表面だけのことであり、本当にこの時期の歴史の姿を知っているとはいえないだろう。(中略)末松さんの書物は、私たちをみちびいて、ある場所、ある時における歴史の姿をまざまざと私たちの眼前に喚起してくれる。/このことは、一つには末松さんが卓抜な記憶力の持主であることに関係する。この種の史伝ではそれはほとんど不可欠の要素である。(中略)竹内好さんが(『みすず』1963年5月号で)末松さんの文章を「達意の文章」と評していたが、私はそういう達意こそ、本来の歴史家の文章でなければならないと思う。/しかし、私は、末松さんとお会いしたとき、その文章の魅力にもうひとつの動機があることを知らされた。それは、いわば記憶の抑制とでもいうべきものである。末松さんは今でもありありと記憶に浮かんでくることのすべてを書いてはいない。そのあるものは「思い切り端折」ってある。どういう箇所でどういう記憶が切りすててあるかが、この文章のもうひとつの魅力である。これは末松さんの人柄そのものに関係している。末松さんは自分の正確な記憶をさえ普通の意味では信用していないかのようでさえある。そしてこれもまた、真の歴史家の資質を示している。/巻末の文章「大岸頼好の死」がたんなる回想記録をこえて、ほとんど芸術作品になっているという評は、三島由紀夫をはじめ多くの人たちが言うところである。私もそれには異議がないが、私個人の関心からいって、何よりも眼を洗われる思いがしたのは、篇中をとおしてあらわれる相沢三郎の姿である。私の読んだ限り、相沢中佐の人間像は、その敵も味方も、私たちに納得のゆく形で伝えてはくれなかったと私は思う。私は彼の姿をどのようにとらえるかに、ひそかに苦労していた。多くの記録がその点私を釈然とさせてくれなかった。末松さんの文章だけが、私にはいま、相沢の人間像をはじめて定着させてく
れるものであった。これは歴史研究者のはしくれとして、私が個人的に末松さんに感謝したいところである。しかし、それはそれだけではなく、昭和維新運動の全体像を構築するためにも、私に非常に多くのことを教えてくれる点なのである。
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※函入の「橋川文三著作集」には「月報」が同梱されていて 毎号3人が《橋川文三》を論じている。
「月報・5」の寄稿者は 末松太平・白井健三郎(学習院大学教授)・丸山邦夫(評論家)の3人である。

◎《橋川さんと私 末松太平》
※橋川さんと私のつきあいは、拙著『私の昭和史』を媒介にして始まりました。/この本が出てまもなくNHKテレビが、私のうちに録画どりに訪れました。そのとき私の話し相手に、橋川さんが一緒にみえました。これを機会に橋川さんとのつきあいが始まりました。/録画どりがおわったあとで、このとき同道していた高橋正衛さんが、橋川さんが拙書を読んだことにより、中公新書の一冊として刊行予定されていた『昭和維新』が書けなくなっている、と教えてくれました。/つきあい、といっても、橋川さんとの場合、それは君子の交りがそうだというように、水のように淡いものでしたが、お宅に招かれ、今井清一さんと藤原彰さんを紹介され、このお二人も交えて長談義したこともありました。また偶然というにはあまりにも度々、新宿駅南口あたりで橋川さんと遭遇しました。遭遇すると何時も近所の女子供向きの喫茶店で、小さなテーブルから体半分くらいはみださして、楽しく対話をしました。/(中略)/質問マニアの私は橋川さんに対しても、よく質問のための手紙を出しました。その一例が、橋川さんが竹内好さんと一緒にエネルギーを傾注した雑誌『中国』に残っております。
私が新生中国の麻雀のことと、解放軍の階級について質問した手紙を誌上に取りあげ、橋川さんが回答しているものです。/(中略)/亡くなられてから遺稿『昭和維新試論』を御遺族からいただきました。が、現在半ば失明状態にある私には拝見不可能です。したがってこれが、かって中公新書の一冊として刊行予定だったものと、どのように関連するのかもわかりません。
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◎《橋川文三著「昭和維新試論」朝日新聞社・1984年6月17日刊》



※「著者は1983年12月17日、脳梗塞のため死去した。編集部は本書刊行について、生前に、著者の同意を得て編集作業を継続中であった。(中略)著者は自著に『あとがき』を書くのを常としたが、本書にこれを付すことができない。/朝日新聞社出版局図書編集室」巻末の『解説』は 鶴見俊輔が書いている。(末松)
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★蛇足を少々★
ブログ「末松太平事務所」では かなり昔に「橋川文三関連事項」を記している。
◎「著作権継承者/周辺事情」2006年8月5日。
◎「2001年夢中の旅/橋川文三氏周辺事情」2006年8月6日。
・・・今回とは異なるアングルで記していて 出版社に対して立腹したことなどが 懐かしく思い出される。
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◎鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動」のこと◎

2021年04月09日 | 末松建比古
◎新しく誕生した「板橋区中央図書館」に失望したことは 前々回に記したとおりである。
※それでも懲りずに「末松太平」で検索すると、次の二冊だけが閲覧可能であった。
残念ながら「私の昭和史」は みすず書房版も 中公文庫版も 全く相手にされていない。

①・《「ドキュメント日本人3・反逆者」学藝書林・1968年刊》
②・《鈴木邦男編著「BEKIRAの淵から/証言・昭和維新運動」皓星社・2015年4月刊》
・・・①については 先日「自伝・西田派青年将校・師弟連載」で紹介したばかりなので 少し驚いた。
・・・②については 中央図書館ではなく「東板橋図書館に在る」ということであった。



※数日後 雨がシトシト昼下り。ウオーキングを兼ねて「東板橋図書館」に出掛けた。
東板橋図書館の「分類・日本史」は(中央図書館と比べれば)それなりに充実していた。
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◎《鈴木邦男編著「BEKIRAの淵から/証言・昭和維新運動」》
※この本は「昭和維新運動の当事者=9名」に「三十代に入ったばかりだった鈴木氏」がインタビューした記録である。
初出=1974年秋「やまと新聞」に8週連載。
その後《鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動」島津書房・1977年2月刊》として結実。
更に「重版~絶版」の長い歳月を経て 2015年「復刊=皓星社版」に到っている。

《第一部★9名の証言者》老壮会=嶋野三郎/三月事件=清水行之助/血盟団事件=小沼広晃/五・一五事件=川崎長光/神兵隊事件=片岡駿/士官学校事件=茨木一馬/二・二六事件=末松太平/元血盟団=重信末夫/三上卓門下生=青木啓。
《第二部★3組の対談鼎談》①赤尾敏+津久井龍雄+猪野健治/②影山正治+三上卓+毛呂清輝/③野村秋介+鈴木邦男。
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※《二・二六事件=末松太平》は P145~P165に記されている。末松太平インタビューの部分は(とりあえず)割愛。編著者の「解説」だけ引用しておく。鈴木邦男氏の「心情」が良く伝わる文章だと思う。長くなるが 御容赦いただきたい。

・・・「私の昭和史」は、昭和維新運動について書かれたものの中で、ひときわ抜きん出ている。決起者の思い詰めた気持ち、当時の情況が実に良く書かれている。「記録」でありながら、優れた「文学作品」になっている。三島由紀夫も、この本を手放しで絶賛している。この本に出会ったために、二・二六事件の虜になり、自らも二・二六事件をやろうとしたのかも知れない。それだけの魅力、いや魔力を持った本だ。
・・・末松さん自身もそうだ。不思議な人だ。僕は会うたびに叱られたし、議論を吹っかけられた。「右翼とか民族派なんて自分で言う必要はないでしょう」とピシャリと言われた。概念規定を急ぎ、自分で自分を局限する必要はないと言う。「それとも、そのレッテルがなければ、人生さみしいですか」と言う。はっきりいって、この時は「ムッ!」とした。二・二六事件の関係者だというから、こっちは聞いているのに、そんな罵倒はないだろう、と思った。もし今、二・二六事件をやるとしたら「公害反対一本でやるよ」と言った。聞くことに対して、すべてはぐらかしている気がした。当惑し、疑問を持ち、反発し・・・、その連続だった。適当にあしらわれた、と思った。

・・・しかし、違った。当時の自分は、あまりに未熟だった。今考えると、末松さんの言っていたことは当然だし、本当だった。「俺は右翼だ」と構えて会いに行った僕が間違っていたのだ。その証拠に、今は「昔、末松さんに言われたが」と、末松さんの言葉をよく紹介している。そして、自分でも再確認している。
・・・2011年の東日本大震災の後、右翼からも原発に反対する動きがあった。「右からの脱原発デモ」も行われるようになった。「自然を守れ・山紫水明・天壌無窮」と言った末松さんの言葉を思い出して、僕は参加した。同じような動機の人がたくさんいた。末松さんの指摘は、今でもあてはまる。いや「四十年後の日本人」に言っていたのかも知れない。      
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★参考までに 板橋区内図書館の検索状況を報告しておく。
※「河野司」関連=4件。「二・二六事件」関連=84件。「半藤一利」関連=282件。「保阪正康」関連=232件。
・・・ これはもう 苦笑するしかないですね。(末松)
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◎師曰く「君側の奸?」何ですか◎

2021年04月04日 | 末松建比古
◎タイトルは「子曰く」の誤植ではなく「師曰く」である。
※師=半藤一利氏=超ベストセラー「昭和史」の著者。以下は「師の教え」に逆らいながらの仮想問答である。
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◎師曰く「ついでに言いますと、二・二六事件の判決は、七月五日に出て七日に新聞発表され、たちまち十二日には第一回の死刑が執行されました。香田清貞、安藤輝三、栗原安秀以下十七人が、代々木の今NHKがある広場で、死刑となります」
・・・でも先生、十二日に死刑執行されたのは 十七人ではなく「十五人」なのですよ。無念の死を遂げた方々を冒涜しないためにも しっかり訂正した方が良いですね。

◎師曰く「陸軍の処断はまことに素早く思い切ったものでした。号外が死刑を報じ、国民の知るところとなります。家人の斎藤茂吉は詠みました。《号外は「死刑」報ぜりしかれども行くもろびとただにひそけし》号外を見ながら一般の人びとは誰もが沈黙していたのでしょう」
「後の東大総長・南原繁法学部長もうたっています。《十七名の死刑報ずる今朝の記事は食堂にゐてもいふものもなし》東大の食堂で誰もそんなことを話し合った者はいない。恐ろしい時代が来たのだろうと皆がひとしく思っていたのでしょう」
・・・でも先生、南原教授のいう記事とは《死刑執行を報ずる記事》ではなく《死刑判決を報ずる記事》のことだと思いますよ。確認した方が良いですね。
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◎師曰く「ゆっくり調べたり考えたりする余裕もなく また寺子屋をひらくことになる。」
◎師曰く「編集者山本明子さんと日本音声保存のスタッフ3人、おしゃべりをせねばならなくなった。ときには特別聴講生も加わったが、生徒4人のうち3人は戦後生まれで、すぐに『君側の奸? 何ですか』とか『統帥権干犯? 聞いたことがない』と質問が出る』
◎師曰く「とにかく杜撰きわまりないおしゃべりが、このような堂々たる一冊になるとは思ってもいなかった」
◎師曰く「ともあれ準備不足の杜撰きわまりないおしゃべりが、きちんとして文章に書き起こされ、また前よりぶ厚い一冊となったのは山本さんのおかげです」
・・・では先生、誤った記述が、何度指摘しても修正されないのも《山本さんのおかげ》なのですね。先生は単なる《かたりべ》だから 文章責任はないのですね。自称《かたりべ》は《騙りべ》という意味でもあるのですね。
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★(某某氏とは無関係の)余談を少々★

★十数年前の2月26日に、私は《君側を「きみがわ」と読んだ人》を慰霊像前で目撃している。
その日の慰霊像前は「ある愛国者団体」による「慰霊式」が営まれるのが通例で 私は距離をおいて見学していた。
その日も 恙無く式は進行し 若い団員が「蹶起趣意書」を元気に読み上げていった。
ご存じのように「蹶起趣意書」には「君側の奸臣軍賊を斬除して」という件がある。そして 若者は・・・。

★そして ごく最近「別の集団」による「君側=きみがわ」誤読が 賢崇寺墓前でもあったという。目撃者は私ではない。
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◎半藤一利氏(90歳)、2021年1月12日逝去。
超ベストセラー「昭和史」の《愚かな誤述部分》が修正されぬまま永遠に残存する と思うと 哀しい。
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◎もしも《半藤氏の功績をひとつ挙げよ》と言われたら《池田俊彦著「生きている二・二六」を世に出したこと》と答えるつもりでいる。
そして 池田俊彦氏自身も「この本の出版をお引受け下さいました文藝春秋の半藤一利氏 及び出版の労をおとり下さいました出版局次長 竹内修司氏に心から御礼申し上げます」と記している。

◎「本書は、当事者でなくては到底残し得ない秘話と実録に満ちている。とくに第二章、第三章の事件後のことが印象深い。秘密裡にすすめられた軍法会議の内幕が、これほど詳細かつ生々しく語られたことは、かってなかったと思うし、小菅刑務所に送られてのちの、すでに収監されていた昭和史を彩る左右両翼の人々の、獄中生活ぶりやキラリと光る人間素描などは、類書には見られなかった新事実であろう。(解説に代えてより)」
・・・帯カバーに記された文章も 半藤一利氏によるものである。

◎池田俊彦著「生きている二・二六」には「末松太平氏の話を聞くことを思い立った」ことも詳しく記されている。
このことは(当ブログで)報告済みと思うので 今回は触れない。
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画像=池田俊彦著「生きている二・二六」文藝春秋刊・1987(昭和62)年初版発行。
   池田俊彦著「その後の二・二六」東林出版社刊・1997(平成09)年初版発行。
・・・半藤氏は「その後の二・二六」にも「魂の再生(解説として)」という文章を寄せている。     (末松)
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◎失望!「板橋区立中央図書館」開館視察◎

2021年04月01日 | 末松建比古
   ※「板橋区は、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願って、平和の灯を設置しました・・・この平和の灯は 広島市平和公園内の平和の灯、長崎市平和公園内の誓いの火を 合わせたものです・・・平成4年3月27日 板橋区」
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※令和3年3月28日(日)。板橋区平和公園に「板橋区立中央図書館」が新築オープンした。直ぐに出掛けたいところだが「コロナ禍=自粛」で8日遅れの視察となった。といっても 毎週数回利用する「東武ストア」への道筋で エコバッグ片手の野次馬視察である。
堀真清著「二・二六事件を読み直す」の影響もあるし、コロナ禍で大型書店にも足が遠のいていることもあるし ということで 野次馬にも「新図書館の実力チェック=昭和史関連の蔵書確認」という真の目的はあった。



※以前の私は JR浦和駅東口にある「さいたま市中央図書館」を良く訪れた。ウオーキング+読書。シネコン(同一建物)+読書。年金老人の行動パターンに適合して「二・二六事件」関連書籍も充実していた。
※「板橋区立中央図書館」は「板橋ボローニャ絵本館」との複合施設である。靴を脱いでゆっくりすごせる「おはなしの部屋」や「児童コーナー」も売り物のひとつである。板橋についての資料を揃えた「桜井徳太郎コーナー」という施設もある。平和公園の展望に優れた「カフェ・ド・クリア=46席」は「50円offクーポン」で誘客している。こういう洒落た複合施設に「事件関連書籍」の充実を期待しても・・・。
・・・という予感は見事に(?)適中。書架「分類=昭和史」の寂しさに唖然とした。偶々その日だけの現象かも知れないが 背表紙に「二・二六事件」と記した書籍は《一冊だけ》しかなかった。



◎《鈴木荘一著「雪の二・二六/最大の反戦勢力は粛清された」勉誠新書・2019年11月26日刊》
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※浅学にして 鈴木荘一氏に関する知識は皆無だが どうやら「二・二六事件は皇道派と統制派の派閥争いである」と思い込んでいる方のようであった。そして「皇道派の決起失敗により 反戦勢力は根絶やしになり、統制派が派閥抗争に勝利した」という結果「統制派が軍国ファシズムを完成させて、日中戦争に踏み込み、太平洋戦争に突入する」と記している。
二・二六事件=皇道派と統制派の派閥争い。堀真清氏が「読み直す?」という対象が ごく最近も出版されていたのである。

※浅学老人(私)は直ちにチェックを開始。鈴木荘一氏には(歴史上の人物を描いた)多数の著書があることと知る。石原莞爾・徳川慶喜・松平容保・近衛文麿・乃木希典・西園寺公望・スターリン・・・。手当たり次第な印象で 人選基準が良く判らない。勉誠新書が多いようで 紀伊國屋書店の一角を「平積み」で占めたこともあるらしい。

※鈴木荘一、昭和23年生れ、東京大学経済学部卒、日本興業銀行勤務~平成13年退社。在社当時は「特に企業審査、経済、産業調査に詳しく・・・その的確な分析力には定評がある」人物であったという。退社後は歴史研究に専念し「幕末を見直す会・代表」として「現代政治経済と歴史の融合的な研究や執筆活動を行っている」という。

※鈴木荘一氏は講演も多く その一部は「映像」でチェックできる。お喋りは苦手らしく「ま~その、ま~その、ま~その」を連発する。今どき「二・二六」を「にーてんにーろく」と言う人も珍しい。カスタマーレビューには「酔っ払いじじいの放言みたい」という感想もある。書籍についてのカスタマーレビューでも「主観的な解釈が目立つ作品」と批判されている。

※講演映像では「(裁判が)非公開で実際が判らない。真相は判らない」と話す部分が気になった。当時の非公開資料は 徐々に公開されつつある。鈴木荘一氏は《池田俊彦編「二・二六事件裁判記録」原書房・1998年刊》や《伊藤隆・北博昭共篇「二・二六事件/判決と証拠」朝日新聞社・1995年刊》の存在を知らないのではないか。その程度の知識しかないのではないか。そんな疑問も脳裏を掠めた。

※私の手元には 上記の他に《東潮社現代史料室編「二・二六事件判決原本」東潮社・1964年刊》や《河野司編「二・二六事件/獄中手記・遺書」河出書房新社・1972年刊》といった書籍もある。例え部分的ではあっても「非公開部分の真実追究努力」は 数十年前から続けられてきたのである。そういう努力に気付くことなく「裁判が非公開で実際が判らない」とは、素人レベル以下の戯言にすぎない。
※補足すれば《河野司編「二・二六事件」河出書房新社刊》は《日本週報社・1957年刊》の改定増補版である。河野司《仏心会代表)は「あとがき」に「改訂出版に当り、末松太平、高橋正衛両氏の御協力をいただいたことを、ここに深謝申上げてやまない」と記している。
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※板橋区の住民が「二・二六」に関心を抱いて「板橋区中央図書館」を訪れる。書架の「事件関係本」は1冊しかない。住民は その1冊を熟読し「二・二六」に関する基礎知識を(誤って!)理解し蓄積してしまう。
「ああ 成程 二・二六事件とは《皇道派と統制派の派閥抗争》に過ぎなかったのか・・・」
板橋区中央図書館の罪は大きい。(末松)
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