◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

平成5年3月に頂いた末松敏子様のお手紙

2009年01月13日 | 今泉章利
末松先生が亡くなられて16年目、17回忌を迎えようとしております。本日、平成5年3月に小生宛に頂いた奥様のお手紙を再読させていただき、感慨を新たにいたしました。奥様には誠に失礼とは思いながらも、枉げて掲載をお許しいただき、末松先生のご霊前にささげたいとと思います。

拝啓 いろいろと有難うございました。今日こそは悪筆万々承知で御礼の御挨拶を・・・と思い乍ら、末松の遺影の前に座りますと私の心はみだれ複雑な思いが脳裏を去来して、又々一日をむなしく過ごしてしまいます。
とうとう四十九日も迫ってまいりました。早く己にかえりますよう努力致します。
何彼につけ有難うございました。私は末松をあまりにも知りませんでした。私からきこうとは絶対に致しませんでしたし、末松も家庭の中の話題には致しませんでした。ただくり返しくり返しざっと六十年間の話の中に〇〇様〇〇様・・・たくさんのお名前は耳に入りました。末松が二・二六の一人であった事は現実に私が体験?致しました事で、あの時の青森だけの空気は知っております。(あたりまえ)東京部隊のおかたがたとも友好のありますかたであるともきかされておりました。
末松の死後 週刊誌に書かれました文
あまりの恐ろしさに・・・私自身己を乱すまいの。心のつっぱりにつとめました。急性心不全、救急車で行きました病院で頂きました死亡診断の名。つねづねお世話になっておりました開業医に事の次第をお話申し上げ 長い間の御診察の御礼の言葉の時「なぜこのような」とおきき致しましたら、糖尿病の恐ろしさですとお返事を頂きました。
結婚前の末松の事、私が知る筈もございません。末松が千葉の歩兵学校に二度も学生将校として来ていたとも、あとの話題。何の縁か、お互い言葉も交す事なく結婚となりました。千葉市はいわゆる軍隊町でいろいろな砲兵。工兵。気球隊。高射砲。等。軍人兵隊さんの姿を見馴れておりますし、私の学校友達も何人も将校夫人となられておりました時代でございます。人それぞれの精神考えがあります事はあたりまえ、でも週刊誌に書かれました事。更に短期間によくもまとめたことよと思はれます長男の綴りました「父末松太平」の足跡を読み、ほんとうにほんとうに自制心を失いまして、何の涙かわからぬ涙を 子供の前でみせてしまいました。すべて死により過去となりました。今からは私の生活としてあちらのくにに行った末松と生きてまいります。
賢崇寺にもおまいりさせて頂く気になりまして、はじめてお伺いいたしまして、あのような、お手あつい扱いを頂き、また、お立派な仏事に参加させて頂き勿体なく厚く御礼申し上げます。更に昨日河野様はじめお世話人御一同様よりのお挨拶状頂戴いたしました。恐れ入りました。
末松通夜に、又告別式に御夫妻の御参列御焼香を頂きまして有難うございました。
大変御礼申し上げる事が遅くなりました。深くお詫び申し上げます。
 三月五日(平成五年)                   末松敏子
今泉様

葬式終了後、何日か経て眼科にまいりました。ちょっと雑用に追はれて御診察頂きに伺えませんで、、、と自己弁解。「コレデショウ」と週刊新潮を見せられました。看護婦さんも「知りましたヨ」という顔をされました。    

(今泉章利)

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松本清張氏の事件関連 著作・資料

2009年01月11日 | 今泉章利
渋川さんに触発されて、手持ちの松本清張氏の著作、資料を並べてみた。勿論、事件に関係したものしかないのだが。

昭和史発掘は、インターネットで調べると「1964年(昭和39年)7月6日号から1971年(昭和46年)4月12日号まで文藝春秋の週刊誌「週刊文春」に連載された。」とあった。そういえば、筆者が、中学から高校に行くころ、父の所に松本清張の秘書の方というかアルバイトの方が来ていたことを思い出す。当時ごろから、事件に対する研究が始まっていったのだと思う。河野司先生の「二・二六事件」は昭和36年、末松太平先生の「私の昭和史」は昭和38年に出版された。みすず書房の「現代史資料」や高橋正衛氏の二・二六事件が出たのは昭和40年であった。

昭和史発掘は、13巻であり、田中義一大将をめぐる陸軍機密費疑惑から始まり、取締りの石田検事の怪死から、五一五事件、特高による左翼弾圧、士官学校事件をへて、7巻から13巻までが二・二六事件関係である。正確には、相澤事件、軍閥の暗躍、相澤事件の公判、北・西田と青年将校運動、さらには安藤・山口の関係をのべて二・二六事件につなげてゆく。二・二六事件では、①2月25日、②襲撃、③諸子の行動、④占拠と戒厳、⑤奉勅命令、⑥崩壊、⑦特設軍法会議、⑧秘密審理、⑨判決、そして⑩終章として清張自身の解析を試みている。将校のみならず兵卒にも焦点を当てようとしているのは、いかにも御苦労された清張氏らしい。

昭和史発掘のうち、6巻の終わりから13巻まで、つまり次木さんの士官学校事件から終章までを「二・二六事件」として三巻にして別途刊行し、さらに、研究資料を三巻出されている。第一巻は松本清張編であるが、第二巻目からは、松本清張・藤井康栄編となっている。資料は、(1)安井藤治中将・戒厳司令部参謀長の手記、(2)間野俊夫、中尾金也判事の手記、(3)憲兵隊司令部山中平三資料(4)林銑十郎大将メモ、(5)歩一、機関銃隊、近衛師団資料 などである。

こうしてみると改めて北九州にあるという松本清張記念館を訪問したい気がしてくる。出版された資料は、ごく一部と思われるからである。(今)
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ベトナム・チャンパ王国

2009年01月11日 | 今泉章利
正月早々、仕事でベトナムに行ってきた。途中、ベトナム南中部のファンランいうところを訪れる機会を得たが、ここは17世紀の頃「チャンパ王国」であり、いわゆる南のベトナムである。徳川家康が、チャンパ王に「香木」をぜひ送ってほしいと書信を送ったといわれているが、今でも多くのチャム族が、自分たちの伝統を守りながら住んでいる。写真は現存するチャム族の王を祭る塔である。ベトナムの歴史は長い戦いの歴史でもあり、日本が終戦で「仏領インドシナ」から撤退してからも、40年近く戦争が行われた。即ち、フランス、米国と闘い、さらに11年ものカンボジアの進駐を行い、短期間とはいえ中国との戦争をへて今日に至っている。澄み切った青空に赤いレンガ作られたチャム塔を見ていると、平和なこの瞬間を何よりも大切にしなければならないと感じた。(今)
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渋川明雄さんとの勉強会

2009年01月11日 | 今泉章利
1月4日に渋川明雄さんと勉強会を行う。お互いの資料の調査方法や問題意識を交換した。渋川さんは、丹念に一般の雑誌類までの関連掲載分のリストを作成され、それを休日の土曜日に国会図書館でコピーをされる。お話によれば、研究を始めてわずか一年だそうで、これらの資料を、また、勉強方法としてそれらを筆記されて原稿用紙に埋めるというやり方である。小生の持っている資料でまだ気がつかなかった部分など勉強させていただいた。生来、怠惰な私には、このようなやり方はきわめて有意義である。

水上さんと渋川善助さんは重なっていることが多い。しかし、中身が分からない。これをどこかに探し当てなくてはならない。それには、昭和8年11月の埼玉挺身隊事件とそれに先立つ9月の所謂「不穏計画」にカギがあるのでは、という渋川さんの話を聞きながら、今までよく勉強していなかった資料を引っ張り出すとともに、まず、いろいろな意味から松本清張から読み返そうと思ったのであった。(今)

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「その後の二・二六」 湯河原の方たち

2009年01月04日 | 今泉章利
「その後の二・二六」を久しぶりに拝読して驚いた。池田さんと同じ事件で小菅に下獄されていた方たちは15名、うち湯河原関係は6名であった。亡くなられた2名を除き湯河の全員がこの刑務所におられた。宇治野、黒沢、宮田、中島、黒田、綿引の方々である。みな重刑であったのだ。宇治野さん以外の5名の方が、本文中にわずかではあるが登場してくる。水上さんの手掛かりを探していた私に、池田さんがこれを読みなさいと導いてくださったような気がした。(今)
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塀の向こう

2009年01月03日 | 今泉章利
写真は、小菅刑務所の北側の細い道で、右は綾瀬川の堤防、左は小菅刑務所の土地に新たに建設している公務員住宅の工事用の塀である。昔はこの左の塀が刑務所の塀であった。

池田俊彦さんが平成9年に出版された 「その後の二・二六」獄中交友録 という本がある。この本は、池田さんが、5年半、この小菅の獄中にあられた時のことが書かれている。本の外側にまかれている帯(何と言うのであったか思い出せないが)には、「池田俊彦君は我親友である。非常な時代を非常に生きた若者の偽はらざる記録である。 四元義隆」とある。

「池田君の短歌は上手だ。今も作っているか」と四元さんが聞いた。「この頃よく作れません。どうも安易な自己との妥協となりやすいからしばらく作らないでいます」と私が答えると、四元さんはこう言った。「それは君が短歌や俳句をほんとうに解っていないからだ。その安易な自己を否定するところにこそ歌と俳句の本質があるのだ。正直に君のようなことを言えば、いつまで経っても何も出来ない。しかし突きつめてゆけば到らぬままに真実のものが出来てくるのだ」私はその通りだと思った。しかし言葉の真意は未熟者の私には未だ遠く霞んでいたが、私の文芸観に一つの方向を与えてくれた。

石仏に紅葉かつ散る音のあり  池田さんの獄中の句である。

小生は不覚にも胸が熱くなる。池田さん、四元さんの顔が目の前にあらわれ、声もはっきりと聞こえるような気がするのだ。 (今)
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塀の向こう

2009年01月03日 | 今泉章利
綾瀬川の水を引いた掘割に何組もの鴨が泳いでいた。桜の木々はすっかり葉を落としていたが、春になればさぞ美しい風景になるのだろう。ここは東京都葛飾区小菅1丁目35番地。 塀の向こうは東京拘置所である。戦前は小菅刑務所という名前であった。(今)
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