末松先生が亡くなられて16年目、17回忌を迎えようとしております。本日、平成5年3月に小生宛に頂いた奥様のお手紙を再読させていただき、感慨を新たにいたしました。奥様には誠に失礼とは思いながらも、枉げて掲載をお許しいただき、末松先生のご霊前にささげたいとと思います。
拝啓 いろいろと有難うございました。今日こそは悪筆万々承知で御礼の御挨拶を・・・と思い乍ら、末松の遺影の前に座りますと私の心はみだれ複雑な思いが脳裏を去来して、又々一日をむなしく過ごしてしまいます。
とうとう四十九日も迫ってまいりました。早く己にかえりますよう努力致します。
何彼につけ有難うございました。私は末松をあまりにも知りませんでした。私からきこうとは絶対に致しませんでしたし、末松も家庭の中の話題には致しませんでした。ただくり返しくり返しざっと六十年間の話の中に〇〇様〇〇様・・・たくさんのお名前は耳に入りました。末松が二・二六の一人であった事は現実に私が体験?致しました事で、あの時の青森だけの空気は知っております。(あたりまえ)東京部隊のおかたがたとも友好のありますかたであるともきかされておりました。
末松の死後 週刊誌に書かれました文
あまりの恐ろしさに・・・私自身己を乱すまいの。心のつっぱりにつとめました。急性心不全、救急車で行きました病院で頂きました死亡診断の名。つねづねお世話になっておりました開業医に事の次第をお話申し上げ 長い間の御診察の御礼の言葉の時「なぜこのような」とおきき致しましたら、糖尿病の恐ろしさですとお返事を頂きました。
結婚前の末松の事、私が知る筈もございません。末松が千葉の歩兵学校に二度も学生将校として来ていたとも、あとの話題。何の縁か、お互い言葉も交す事なく結婚となりました。千葉市はいわゆる軍隊町でいろいろな砲兵。工兵。気球隊。高射砲。等。軍人兵隊さんの姿を見馴れておりますし、私の学校友達も何人も将校夫人となられておりました時代でございます。人それぞれの精神考えがあります事はあたりまえ、でも週刊誌に書かれました事。更に短期間によくもまとめたことよと思はれます長男の綴りました「父末松太平」の足跡を読み、ほんとうにほんとうに自制心を失いまして、何の涙かわからぬ涙を 子供の前でみせてしまいました。すべて死により過去となりました。今からは私の生活としてあちらのくにに行った末松と生きてまいります。
賢崇寺にもおまいりさせて頂く気になりまして、はじめてお伺いいたしまして、あのような、お手あつい扱いを頂き、また、お立派な仏事に参加させて頂き勿体なく厚く御礼申し上げます。更に昨日河野様はじめお世話人御一同様よりのお挨拶状頂戴いたしました。恐れ入りました。
末松通夜に、又告別式に御夫妻の御参列御焼香を頂きまして有難うございました。
大変御礼申し上げる事が遅くなりました。深くお詫び申し上げます。
三月五日(平成五年) 末松敏子
今泉様
葬式終了後、何日か経て眼科にまいりました。ちょっと雑用に追はれて御診察頂きに伺えませんで、、、と自己弁解。「コレデショウ」と週刊新潮を見せられました。看護婦さんも「知りましたヨ」という顔をされました。
(今泉章利)
注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
拝啓 いろいろと有難うございました。今日こそは悪筆万々承知で御礼の御挨拶を・・・と思い乍ら、末松の遺影の前に座りますと私の心はみだれ複雑な思いが脳裏を去来して、又々一日をむなしく過ごしてしまいます。
とうとう四十九日も迫ってまいりました。早く己にかえりますよう努力致します。
何彼につけ有難うございました。私は末松をあまりにも知りませんでした。私からきこうとは絶対に致しませんでしたし、末松も家庭の中の話題には致しませんでした。ただくり返しくり返しざっと六十年間の話の中に〇〇様〇〇様・・・たくさんのお名前は耳に入りました。末松が二・二六の一人であった事は現実に私が体験?致しました事で、あの時の青森だけの空気は知っております。(あたりまえ)東京部隊のおかたがたとも友好のありますかたであるともきかされておりました。
末松の死後 週刊誌に書かれました文
あまりの恐ろしさに・・・私自身己を乱すまいの。心のつっぱりにつとめました。急性心不全、救急車で行きました病院で頂きました死亡診断の名。つねづねお世話になっておりました開業医に事の次第をお話申し上げ 長い間の御診察の御礼の言葉の時「なぜこのような」とおきき致しましたら、糖尿病の恐ろしさですとお返事を頂きました。
結婚前の末松の事、私が知る筈もございません。末松が千葉の歩兵学校に二度も学生将校として来ていたとも、あとの話題。何の縁か、お互い言葉も交す事なく結婚となりました。千葉市はいわゆる軍隊町でいろいろな砲兵。工兵。気球隊。高射砲。等。軍人兵隊さんの姿を見馴れておりますし、私の学校友達も何人も将校夫人となられておりました時代でございます。人それぞれの精神考えがあります事はあたりまえ、でも週刊誌に書かれました事。更に短期間によくもまとめたことよと思はれます長男の綴りました「父末松太平」の足跡を読み、ほんとうにほんとうに自制心を失いまして、何の涙かわからぬ涙を 子供の前でみせてしまいました。すべて死により過去となりました。今からは私の生活としてあちらのくにに行った末松と生きてまいります。
賢崇寺にもおまいりさせて頂く気になりまして、はじめてお伺いいたしまして、あのような、お手あつい扱いを頂き、また、お立派な仏事に参加させて頂き勿体なく厚く御礼申し上げます。更に昨日河野様はじめお世話人御一同様よりのお挨拶状頂戴いたしました。恐れ入りました。
末松通夜に、又告別式に御夫妻の御参列御焼香を頂きまして有難うございました。
大変御礼申し上げる事が遅くなりました。深くお詫び申し上げます。
三月五日(平成五年) 末松敏子
今泉様
葬式終了後、何日か経て眼科にまいりました。ちょっと雑用に追はれて御診察頂きに伺えませんで、、、と自己弁解。「コレデショウ」と週刊新潮を見せられました。看護婦さんも「知りましたヨ」という顔をされました。
(今泉章利)
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