中央公論新社刊の《末松太平「完本 私の昭和史」》と 画像掲載の《「定本 私の昭和史」増補改版》と・・・。
「完本」と「定本」との違いは 私流の印象操作術である。自費出版で「増補改版」を作成した・・・というわけではない。
今回は《末松太平「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」》を所有している皆様への限定メッセージ。所有者以外の方々には「どうでもいいこと」の連続になるが 御容赦いただきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が《「完本 私の昭和史」中央公論新社刊》を初めて手にしたときに「あれれ・・・?」と感じたのは《解説がない》ということだった。
確かに「完本」の「帯」には「同時代書評 三島由紀夫 橋川文三」と並んで「解説 筒井清忠」と記されてはいる。しかし その「解説」とは(完本の解説ではなく)中公文庫版についての解説だったのだ。
冒頭に「本書は最初1963(昭和38)年に刊行され、その後2013年に中公文庫版が出たものの増補改訂版である」とは書かれてはいる。でも 中公文庫版の解説との違いは《最初の2行だけ》で《増補改訂部分》については一切触れていない。
はて?・・・。《解説がない》のであれば 私自身が《「完本 私の昭和史」の解説》を記すしかない。画像掲載の「増補改版」には そういう意図が込められている。
「完本」の目次には「拾遺」として8篇が加えられている。
そして巻末の「編集付記」には《本書は中公文庫版を底本として『軍隊と戦後の中で/「私の昭和史」拾遺』(1980年2月 大和書房)の第Ⅰ部を「拾遺」として収録したものである》と記されている。だが、この8篇と「二・二六事件異聞」との関連は どこにも記されていない。
昔々、高橋正衛氏(みすず書房の編集者)は、雑誌「政経新論」連載の「二・二六事件異聞」の中から 冒頭に「残生」を据え「大岸頼好との出合い~大岸頼好の死」という流れに沿って「私の昭和史」全編を構築した。そのとき採録されなかったものの「そのまた一部」を 大和書房編集者が「拾遺」として出版している。
但し、この8篇全てが「二・二六事件異聞」からの「拾遺」だったという訳ではない。その辺りのことを 末松太平が「あとがき/若干の解説」として記しているが 今回の「完本」では「あとがき/若干の解説」の部分は掲載されず「筒井氏の解説」にも反映されなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎末松太平自身による「あとがき/若干の解説」。
Ⅰについて。
拙書『私の昭和史』(みすず書房刊)は「政経新論」に「二・二六事件異聞」という題で連載したものの一部を採録したものだが、Ⅰはそのとき採録されなかったもののうち、大和書房編集子が、そのまた一部を選び出したものが主になっている。その意味においてⅠは「私の昭和史」拾遺である。
但し「赤化将校事件」は、学藝書林刊『ドキュメント日本人③反逆者』に。「青森連隊呼応計画」は『人物往来』(昭和40年2月号、特集「二・二六事件」に。「有馬頼義の『二・二六事件暗殺の目撃者』について」は河野司著『私の二・二六事件』(河出書房新社刊)に載ったものである。
「夏草の蒸すころ」のなかの三角友幾は昭和50年7月17日に亡くなった。遺書のなかに次のことばがある。「生死のことは結局何もわからぬままですが一応世を去ります」。
亡くなる数日前、7月11日の日記に「せめて明日の渋川さんたちの命日まで・・・」と書いている。その12日も過ぎ17日になって三角友幾は、二・二六事件のころに発病した脊椎カリエスが遂に癒えず、渋川が「今度会う時は別れる心配はなくなるんだね」と本人に言ったという、その時空を超えたところ、それを西田税は、青雲の涯てと表現したが、その渋川のもとへと今生を去っていった。
「続・夏草の蒸すころ」のなかの、十七の盆提灯は昭和31年の「主婦の友」三月号に載ったもので・・・(以下割愛)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎(筒井清忠解説に)補足が必要な事柄/当ブログ(2013年2月24日付)から一部を再掲。
突如 私の名前と「年表・末松太平」が登場したので、いささか驚く。1974年(みすず書房版)と2013年(中公文庫版)では「時代の空気」が異なるのはやむを得ない。解説者の役割のひとつは《執筆当時の筆者の想い》を《2013年の読者に伝える》橋渡しだと思う。そのために、筒井氏が《田村重見編「大岸・末松/交友と遺文」》を活用したことは、望外の喜びだった。
しかし ひとむかし前には「望外の喜び」だったことも 再び「同一文章」に出会ってしまうと 別の感慨が生まれてくる。
「完本 私の昭和史」掲載の「筒井解説」は全186行。そのうち52行分は「年表・末松太平」からの引用である。
「同一文章」であるが故の奇妙な部分(例えば「完本」に掲載されている三島由紀夫の書評の引用)などもある。
・・・ということで 筒井解説に対する感謝の念を前提としながらも 補足すべき事柄を記しておきたい。
補足①=「私家版/年表・末松太平」について。これは(没後1ヶ月の短期間に)私が急遽まとめたもので「ゼロックスA4版✕33枚」をホチキスで綴じたもの。冒頭に記した「作成ルール」を含めて《田村重見編「大岸 末松/交友と遺文」》に転載された。なお その後に《修正すべき箇所》を幾つか発見している。引用する際は要注意である。
補足②=「末松仲七の三男として・・・」の部分について。この説明に誤りはないが、あえて補足を加えれば、末松太平は仲七(父)とフシ(母=後妻)との間に「最初に生まれた男子」でもある。末松太平の言動に《長男》の印象が漂うのは、このためだと思う。
補足③=「主幹として雑誌『政経新論』を発刊し」の部分について。素直に読むと「末松太平がリーダーとなって、雑誌を発刊した」という印象になる。この部分は「編集兼発行人は片岡千春(政経新論社オーナー)だったこと」を省くと拙いような気がする。どうして《拙い》のかにつては、ここでは触れない。
補足④=「これに対する批判が『最後の戦い』となった」の部分につて。重箱の隅を突くようで気がひけるのだが、私の原文では「これが【末松太平「最後の」事件】の始まりとなる」と記されている。それを《田村重見編「交友と遺文」》に転載する際に「これが【末松太平「最後の」たたかい】の始まりとなる」に書き改めた。戦いでなく「たたかい」である。
半盲目状態になっても闘志満々だった末松太平は(何歳まで生きるつもりでいたかは知らないが)82歳の時点ではまだ「最後の戦い」などと思う筈がない。私が「最後の」を括弧したのは、詠嘆を込めてのことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先日「國風講座」の講師を務めた際に 当然「私の昭和史」関連の話題も登場した。
そして 最も反応があったのが《「私の昭和史」誕生に到る経緯》について簡単に触れた部分であった。
画像参照=日本読書新聞掲載記事。「名著の履歴書/高橋正衛・私の昭和史」「西田税の仏壇の前で」・・・。
西田税の命日に 西田家を訪れた高橋正衛氏は 仏壇の前に置かれてあった雑誌「政経新論」に出会った。そして・・・。
言うなれば《末松太平「私の昭和史」みすず書房刊》は《西田税のお導き》によって誕生した ということである。
1963(昭和38)年。みすず書房「私の昭和史」発行。
2023(令和05)年。中央公論新社「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」発行。
高橋正衛氏(みすず書房)と橋爪史芳氏(中央公論新社)。二人の編集者には 感謝以外の言葉がない。
それにしても 60年の歳月を超えて いまなお「私の昭和史」が(古本屋でなく)一般書店で購入できるとは、高橋正衛氏も想像しなかったことだと思う。(末松建比古)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・