◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎承前/「右翼と青森県」と淡谷悠蔵と・・・◎

2022年11月27日 | 末松建比古

⑤/表紙を開くと 擦れ筆筆ペンで「謹呈 大沢久明」と署してある。誰が謹呈されたものなのかは判らない。
冒頭は「1966年 第37回メーデー 青森県中央大会で挨拶する大沢久明」の写真が占めている。頁を繰ると「二・二六事件で大量銃殺が行われたとき、この4人が『天皇陛下万歳』を叫ばなかった」と説明されて 村中孝次、磯部浅一、西田税、北輝次郞の顔写真が並んでいる。



※この本の「序」には「二・二六事件は生きている」tという副題で「末松太平に対する悪口」などが グダグダと書かれている。
大沢氏曰く・・・事件から30年が経過した今、末松は「二・二六事件のようなものが また起こるでしょうか」と訊ねられて「思い当たることがあるのなら 日常の言動を改めていったら良い」と答えている。これは「事件を起こしたのはお前達の責任である。日常の言動が悪ければまた(二・二六事件のようなものが)起こるかも知れない」という威嚇であり、戦前の侵略政策や日中併せて千数百万人を殺傷したことへの反省がない。二・二六事件は生き続けて機会を狙っているわけである。わたしたちは、その意味で、あらためてファシズムの足音を聞いているわけである。わたしらは、あくまでも議会制民主主義をまもり、ファシズムの芽を双葉のうちにもぎとらねばならない。

※以上 私なりに整理してみたが(大沢氏の文章の拙さもあって)文意が理解できない。伝わるのは 何が何でも批判しようという「怨念?」だけである。

◎「目次」を見ると「1/二・二六事件と青森県人」~「21/叛乱将校と農民デモ」と続いて「23/末松元大尉の手紙」という章がある。
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※23/末松元大尉の手紙。
この「右翼と青森県」の旧著では、かなり重要な問題として、二・二六事件と本県の農民との関係を取上げた。それは 車力農民組合の三上徳次郞(死亡)と工藤覚たちが、五連隊で末松大尉と面接した際に「車力村にいざという時には決起するように連絡があった」と言われた
とについてであった。
ところが最近(昭和46年)でも車力村では「五連隊の末松達と共に立ち上がって一揆を起こし、やがて新しい政府を作り、彼らは主要な地位につく」ということをを、話のタネにしていると聞いて、些か驚いたのである。
私は、念のため、末松と昵懇の平井信作に(真偽の程を)聞いてくれと頼んだ。幸いに「末松太平からの返信」を借用できたので、渋谷・末松論争の真相を明らかにする資料としたい。この手紙では、大沢久明も散々やっつけられているし、淡谷悠蔵や竹内俊吉、おまけに津島文治まで出てくる。ともあれ、歴史の重要な一頁であるから、原文をできるだけ忠実に再現する。
(註/以下、大沢氏の文章が余りにも回りくどいので、大幅に割愛。手紙の要点のみを整理して記載する)
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※渋谷悠蔵の「野の記録」を読んだ私(末松)は「東奥日報/6回連載」で(小生の登場する事柄だけ)嘘を指摘しておいた。渋谷は(小生の指摘に反論し)「野の記録」はフィクションだから事実に反する嘘があっても構わないといった。「野の記録」を実録として引用した大沢も馬鹿を見たということである。大沢が書いている「工藤が青年将校と連結して百姓一揆を・・・」というのは真っ赤な嘘である。
工藤覚は(昭和4年か5年に)初年兵として機関銃隊の編入名簿に載った。「要注意兵」としてである。然し 工藤は(医務室の再検査で)即日帰郷となり(その後 兵舎に訪ねてきたこともあったが)小生の記憶からも消えた。
小生が出獄した後、東京・溜池ビルにあった「あけぼの」社の入口で、丹羽五郎(西田税の元に出入りしていた青年のひとり)と偶然出会った。その時、意外にも工藤覚が一緒にいた。その後、淡谷悠蔵と偶然に出会ったのも溜池ビルの前である。工藤覚は都合の良いときだけ、末松の部下とか教え子とかいっているらしいが、密接な関係はない。
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※大沢氏の「手紙を引用しながらの文章」は長々と続くが 何を伝えたいのか理解不能の展開なので 以下割愛。
※「23/末松元大尉」のラスト部分を紹介しておく。いかにも「日本共産党のエライ人」らしい論評が微笑ましい。
「選挙になると(二・二六事件の頃には)財閥&保守打倒を唱えていた末松太平が 今や財閥を代表する自民党を熱心に応援している。天皇を神と信じて立ち上がり、その天皇の反逆者として銃殺された二・二六の仲間たちは、地下に横たわりながら『末松よ、汝もか』と泣いているかも知れない。(呵々)」。
 ※末松太平が(遠路を厭わず青森に駆けつけて)応援したのは 竹内俊吉・青森県知事である。第五連隊大尉(末松)と東奥日報記者(竹内)の頃からの付合いが その後も続いているだけのこと。銃殺された同志たちを引き合いにするような事柄ではない。
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◎「末松太平事務所」が姿を消す前に・・?◎

2022年11月23日 | 末松建比古

◎千葉市在住の妹から届いた「末松太平の遺品の一部」から そのいくつかを 記録しておく。

①/井上孚麿著「時局国民精神読本/御製を拝して」1937年・国民精神文化研究会発売・定價六十餞。
②/齋藤瀏著「二・二六」1951年・改造社刊・定価230円。
③/重光葵著「昭和之動亂・上巻」1952年・中央公論社刊・定価230円/地方定価240円。
④/大沢久明「右翼と青森縣」1966年・文芸書房刊・定価120円。
⑤/大沢久明著作集1「右翼と青森県」1973年・北方新社刊・880円。

  

◎これらの書籍は 今では「実物」を手にすることが難しくなっている。参考までに 内容を簡単に紹介しておく。

①/誌名を正確に記せば「御製を拝して 戦争に就いての反省」である。井上孚麿氏による「はしがき」には「御製を謹解し又は奉賛しまつらむとするが如きは思ひもよらず、本書は只御製を拝して受けたる自らの感銘と反省の迹を書きしるしたる迄のことなり。大方の叱正を得れば幸甚なり」と記されている。昭和12年の発行で紙質も劣悪。傷みが激しく 頁を開くだけでもボロボロと崩れる状態である。
裏表紙に「1946・9・21 鷺ノ宮寄贈 田村」と記されている。鷺ノ宮=故・相沢中佐留守宅。田村=田村重見氏。
このあたりの経緯は《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」1993年刊》に詳述されている。

②/齋藤瀏(予備役少将)=禁固5年。齋藤氏は「昭和5年 三十余年奉職した軍を退き 特命を拝して・・・」という立場にいた。
「月日の立つのは早い。あの二・二六事件後、早くも十数年を経過した。しかもこの十数年程、我が国の歴史に轉變のあったことは、恐らく未曾有と言い得よう。そしてこの歴史轉變の中心は、あの事件を起こした青年将校等を死刑に處し、重罰を與へた所謂軍閥であることを思へば・・・」
以下省略。この本も紙質劣悪 傷み激しく頁を繰るだけで崩れる状態なので(興味ある内容だが)慎重にならざるを得ない。
※巻末に「二・二六事件部隊行動圖」と「二・二六事件民間側行動圖」という《明細なチャート図》が添付されていた。数百人の人物が(直線や矢印で)錯綜して結ばれている。大変な力作だが 事件の詳細を知らない人には《何が何だか判らない図表》でもある。
※末松太平は「民間側行動圖」に登場。「青森第五聯隊 末松大尉」だけで(一緒に検挙された)志村中尉 杉野中尉の名前はない。

③/重光葵氏は 1945年9月2日にアメリカ戦艦「ミズーリ」艦上で(全権大使として)降伏文書に調印した人物である。
その後 1946年4月に「戦犯」として逮捕され 有罪=禁固7年。1950年4月29日に巢鴨拘置所を仮出所。
本書(1952年刊)の「緒言」には「1950年3月1日 於巢鴨獄中記」と記されている。
上巻「第一編/満州事變(若槻、犬養政党内閣)」は「天剣党/三月事件/満州事變」という流れで始まる。数々の動乱の発端に「天剣党」を挙げたことには驚きを感じた。十月事件、血盟団事件を経て「上海事変」が勃発。重光氏は休戦交渉を続けるなかで(朝鮮独立運動家の爆弾テロによって)右足切断の重傷を負っている。
上巻「第二編/二・二六叛亂(齋藤、岡田海軍内閣)」は「齋藤海軍内閣/海軍軍縮問題の破綻/満州国と関東軍/廣田三原則」と続き「二・二六叛亂」に到る。その内容は「皇道派と統制派/相澤事件/士官学校事件/重臣の暗殺/犯徒との交渉/叛亂の鎮定/叛亂と外国使臣/廣田内閣の成立」という展開で記されている。この本も 傷みが激しく 頁を繰るのを躊躇うことに変わりは無い。
参考までに「第三編」以降も記しておく。「第三編/北進か南進か(廣田、林弱體内閣)」「第四編/日支事變(近衛第一次内閣)」「第五編/「複雑怪奇」(平沼中間内閣)」「第六編/軍部の盲進(阿部、米内軍部内閣」ここまでが上巻。下巻には「第七巻/日独伊の枢軸」から「第十編/降伏」までが記されている。

④/表紙を開くと「1966年 ベトナム支援デモ行進の先頭に立つ筆者大沢久明」という写真。筆者紹介=日本共産党・青森県委員長。
頁を開くと「贈呈 平井信作様 大沢久明」という署名がある。即ち「平井氏の手から末松太平の手に移った本」ということ。
平井信作(1913~1989)=作家。直木賞(1967年上期)候補。《東奥日報「五連體の将校たち/末松太平『私の昭和史』を読んで」全9回連載》の概要を紹介しておく。

「私(平井)が青森歩兵第五連隊に入営したのは 昭和9年1月10日である。その時、五連隊は満州に出兵して、留守隊であった。/私たちが幹候になると、亀居中尉が小銃の教官、末松中尉が機関銃の教官になった。/末松大尉は亀居大尉のように重厚ではなく、軽妙な感じの将校であった。日本軍人特有の重々しい臭さはなかった。/末松大尉は私たち幹候を将校集会所に呼んで、いろいろな国体観の話をした。その時、必ず志村中尉もいた。/末松大尉が『教育総監更迭事情要点』のガリ版刷りを配布したという理由で、重謹慎三十日の処罰をうけたのは、私が見習士官で応召siしていた時だった。/末松大尉は重謹慎を終えると、奥さんを貰うのだといって、汽車に乗ったのを、私たちは見送りした記憶がある。その時、亀居大尉は、末松のお嫁さんは初代千葉市長の娘だなんて言っていた。それを汽車の中で聞いていた末松大尉が、普段に似合なく、むず痒いような顔をした。/軍隊生活を呪う人は多い。その呪わしい軍隊で、私が亀居大尉と出会ったことは、地獄で仏に会ったようなものであった。/私にとっては、軍隊は二十二歳の修練の場であった。そこで私は、亀居、末松、杉野、志村の諸将校に会ったことは、私の人生に意義をあらしめた」

本題に戻して 本書の中から「19/叛乱将校の本県農民デモ計画/竹内・淡谷登場」の冒頭部分を紹介しておく。
「叛乱将校のグループの中に、農民と結びつかない限り成功しないと考えていたものがいた。五連隊将校末松太平はその筆頭であったかも知れない。『農民である兵は何故こう貧乏なのであろうか。何故貧乏の原因である小作人になったのであろうか』そのことを検討したいために、末松は大きな関心を持った」「末松は、淡谷悠蔵、竹内俊吉と三人、主として竹内の家で農民問題が取上げられた」「ある日、渋川善助が青森を訪れた。五連隊の官舎で渋川を囲み、竹内、渋谷、末松、それに渋川を案内する旧制弘前高校の学生佐藤正三が集まる。その 時、渋川は・・・(以下割愛)」。
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《以下割愛》の理由は いずれご理解いただける筈である。・・・ということで 今回はここまで。(末松)
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◎その昔「拝啓天皇陛下様」という映画もあった◎

2022年11月18日 | 末松建比古

承前。妹から届いた「ゆうパック」を開けると 末松太平の《遺品の一部》が詰め込まれていた。 
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◎2014年の夏の終わりに「末松太平が居住していた家屋」は完全に姿を消た。
大量の遺品(書籍・資料など)は箱詰されて「千葉市在住の長女」に預けられた。
そして 保管責任を負った妹は(自宅の近くに)3LDKを買い足す羽目になった。
今回届いたのは 保管された遺品の《僅か1%程度》に過ぎない。それでも 初めて存在を知った書籍も数点あって 興味深く目を通した。
そのいくつかを 急いで紹介していく予定でいる。

 

◎河野司編「天皇さま、お聞きください/二・二六事件遺詠集」1984年2月26日・河出書房新社刊。
ハードカバーの立派な本だが 何故か定価が記されていない。
表紙を開くと「拝呈 末松太平様 河野司」と 署名されていた。
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◎天皇さま、どうぞ聞いていただきたく、伏して懇願奉ります。
まえがき(註=末松の判断で要約した部分もあります)
昭和11年2月26日、二・二六事件に参加し、元内大臣牧野伸顕伯を湯河原の別邸に襲撃した隊長、陸軍航空兵大尉河野寿は、私の実弟であった。
護衛警官による拳銃弾を胸部に受けて重傷を負い、牧野伯殺害を果たせず、東京本隊に合流することも出来ず、熱海陸軍病院に投ずることになった。まさに不覚の失敗であった。
重傷の身を病床に横たえ、東京との電話連絡に一喜一憂を重ねたが、その電話も29日には打切られた。以後、東京の状況は一切判らず、憲兵の身辺監視も厳しくなり、同志将校たちとの連絡も隔絶されて、完全孤立の悲嘆に泣いた。
私が、受傷入院のことを知り、熱海の病院を訪れたのは3月1日の午後であった。この時点では 既に事件は鎮圧されており、関係将校は全員逮捕されて衛戍刑務所に収容されていた。弟も軽傷ならば当然東京に護送される立場にあった。微妙な時の訪問であったが、病院長は待ち望んでいたかのように私の見舞いを受け入れてくれた。
弟との対談などついては、既刊の「湯河原襲撃」や「私の二・二六事件」で精述したのでここには触れないが、弟の自決の決意を黙認し 資材を調達供与した「自決幇助行為」は、当時の緊迫事態の下では止むを得ない処置であり、武人として立派な最期を飾らせたとして、世論の支持も与えられたのであった.
しかし、弟の葬儀、埋葬も滞りなく執済ませ、冷静な人間的良識に立ち返ったとき、私の行為を省みて(常軌を逸脱した異状として)耐えがたい苦悩の重圧を抑止できなかった。
この日から、私は前後の見境もなく、生活源の職場を去った。私の第二の人生、波瀾万丈の「二・二六事件との因縁」の幕開きであった。
顧みて常識では想定できない異常心理の陥穽であったろう。恒産のない軍人の子、生活苦のなか、世人の白眼視のうちに、ただ我武者羅に事件の真相究明のため あらゆる資料の探求と 故人の獄中手記などの発掘集成に粉骨した。その間、戦争に追われて内地を去り、満州、北支、南支海南島と、終戦までを外地で過ごした。
敗戦により帰国。.新職場の確保を経て、昭和27年7月「二十二士の墓」を麻布賢崇寺に建立。次いで、昭和32年5月、遺書集の刊行。さらに、昭和41年2月、渋谷刑場跡地に慰霊像の建立も果たした。事件直後には夢想すら出来なかった奇跡の具現であった。顧みてこれすべて、故人の怨念の庇護による結晶であった。
今年は事件以来満48年を迎えた。半生に及ぶ事件と犠牲二十二士との宿縁は、傘寿の私に遺された人生の締め括りの機でもある。その意味からも、この機に、50年間に集まった禍々しい遺書、遺詠を取り纏め、尊皇護国、純真熱血の悲愁を訴え、未だに真相模糊たる事件の解明に資したい。
天皇を奉じて立ち、天皇自らの命によって銃殺された彼らの心情の声を、陛下は果たして聞き及んでいられるであろうか。その気持ちを込めて表題とした。
       昭和59年2月。河野司。
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◎「天皇さま お聞き下さい」という想いは 末松太平も共有していた。
天皇陛下に近づく手段として(自らの才能も顧みず)歌会始めに応募していたことは 前にも記している。
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◎2022年11月16日。中央公論新社の橋爪サンから 中間報告のメールが届いた。
「完本 私の昭和史」のカバーと帯のラフが添付されていて どちらも期待以上のものであった。(末松建比古)
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◎番外編/「土方歳三資料館」の休館に殉じて?◎

2022年11月07日 | 末松建比古

◎東京都日野市の「土方歳三資料館」が 11月13日(日)限りで「長期休館」するという。
※「時の流れもあり 個人での運営には限界を感じており 一度しばらく休館して 今後の方針を考えたいと思います」
館長の土方愛サンは「長期休館する理由」を こう述べている。「限界を感じて」の6文字が胸を打つ。

◎野田雅子/久松奈津子著「土方歳三を歩く」1988年・新人物往来社刊。 
※著者の野田雅子(江翠)サンは 毎年2月・7月の法要に合せて「二十二士の墓」の参拝を続けている。
そういう御縁もあって 当ブログでは何度か 土方歳三サンに纏わる事柄を載せている。
土方歳三資料館の休館に対する「江翠サンの感慨」も気になるところだが 江翠サンのブログ「歴女同盟」自体が(昨年以来)休止状態を続けている。
因みに「歴女同盟」休止直前の記事には「末松太平事務所」のことも記されていた。

※以上が前説。ここから本題。実は 末松太平事務所にも「一時休止のキキ」が近づいていて・・・。

 

◎何度か記していることだが 私は 大規模住宅(全14棟)の「B棟3階」と「C棟13階」を所有している。
※公的な住所(住民登録・健康保険証・個人ナンバーなど)は 1978年の購入以来「B棟3階」のままだが 実際には7年ほど前から「C棟13階」で生活している。

※画像参照= 矢印の向きに注目。実は 諸事情あって 近々に「B棟3階」に戻ることが決まっている。
隣接した棟への転居であっても 引越業者やピアノ運搬業者の手配 煩わしい手続き諸々には変わりが無い。
そして 最も頭を悩ませているのが「フレッツ光」に関する諸々の事柄である。
※何度か記したが 私は今まで「ケータイの類い」を所有したことがない。だから「フレッツ光」導入の際も「有線で結ぶ」ことしか念頭になかった。有線でなく「飛ばす」といわれても 故・坂上二郎のギャグ「飛びます! 飛びます!」が脳裏に浮かんでしまうのだ。
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◎NTT東日本「フレッツ光ネクスト」。マンション・ハイスピードタイプ(プラン2)光配電方式。
※申込み日/2014年12月14日。利用開始予定日/2014年12月25日。
ひかり電話(基本プラン)月額500円+税。ひかり電話ルーター(レンタル)月額450円+税。

※現在 私の部屋の「回線終端機器(ONU)」には「パソコン(ウインドウズ10)+brother複合機(電話器・ファックス・プリンター・スキャナー)」が接続されている。
中央通路の「光コンセント」から「ONU」迄は(壁に沿って)約2メートルの「室内光コード」が匍匐配線されている。

※間取りが異なる「B棟3階」に転居すると 私の部屋と「光コンセント」との関係が(中央通路を挟んで)反対側に移ることになる。
有線で結べば約5メートル。通行量の多い中央通路の床を「室内光コード」が横切るわけである。
※対応策はあると思う。しかし 知識欠如の82歳老人には「ブログ休止」のキキに頭を悩ます日々が続いている。一時休止の「キキ」。漢字で記せば「危機」より「機器」が相応しい。

◎それにしても《「末松太平事務所」閉鎖の理由》が《「ネットの繋ぎかたが判らない」ため》では、滑稽を通り過ぎて悲惨でさえある。誰かの指導を期待する日々。例えば「魔女の宅急便」のヒロイン(キキ)が現れて・・・。



◎千葉市在住の妹から ゆうパックが届いた。
※段ボール箱の中身は 末松太平の遺品(書籍・雑誌・写真・史料など)である。続きは 次回に・・・。(末松)
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◎「・・それから?」と「・・それでね!」◎

2022年11月02日 | 末松建比古

◎話の流れとして「東京ベイサイドツーデーマーチ・2日目=10月23日」についても記しておく。
※20㎞(正確には21.7㎞)は「川と木場と海・江戸前ベイエリアコース」。富岡八幡宮・深川不動・豊洲などを回って会場に戻る。
しかし「ベイエリアは一日で充分」という神戸市住民(數見サン)の提案で 大会2日目は欠場。二人で「御徒町駅北口集合~浅草周辺~スカイツリー周辺」を歩いてきた。
コロナ禍=歩行自粛で 浅草もスカイツリーも久しぶりの訪問。浅草新仲見世での「うなぎ定食+生ビール+日本酒」も久しぶりの会食。數見サンの(参加費3500円に縛られない)選択で満ち足りた半日となった。感謝感謝。

  

◎本年6月15日に 中公文庫「私の昭和史」在庫ゼロについての感慨を記した。
※それに併せて 中央公論・文庫編集部の橋爪サンから「新しい企画提案」があり 全て一任したとも記した。
そのまま3ヶ月余りが経過。10月7日になって 橋爪サンから「企画」は順調に進行し「2023年1月10日に結実予定」との中間報告があった。 

◎「それから?」&「それでね!」。
※ここからは 遠回しな表現を止めて「新しい企画提案」の内容を 私個人の判断で報告することにする。
勿論「現在進行形」の企画であるから 変更や修正が続出することも充分にありうることに 御留意いただきたい。

◎先ずは 中央公論新社「書籍編集局長&編集担当」サンからの文書を(要点のみ)ご覧いただく。
※「このたびは「私の昭和史/二・二六事件異聞」をあらたに単行本として刊行させていただきたくご連絡差し上げました/「私の昭和史」は2013年に弊社文庫として刊行して以来、多くの読者に読まれてまいりました。このたび上巻在庫が僅少になったことを受け、増補のうえ「決定版 私の昭和史」を単行本一冊での刊行を企画いたしました。二・二六事件を知るに外せない史料であるとともに、名文としても名高く、新たな形で今後も読者に届けていきたいと考えております。」

◎提案された企画概要を(要点のみ)記しておく。本年6月15日のメールに添付されたものである。
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※企画名/末松太平著「決定版 私の昭和史/二・二六事件異聞」(タイトル仮)
※刊行予定/2023年1月上旬(電子版も同時刊行)
※造本体裁/四六版・上製。576頁程度。
※予定価格・部数/3600円~4200円。2500部~3000部程度。
※増補内容/
〇第1部「私の昭和史」(中公文庫を底本)
〇第2部「軍隊と戦後の中で/「私の昭和史」拾遺(1980年・大和書房)」より8篇。
〇付録/三島由紀夫の書評/利用とあこがれ(1963年・中央公論)・人生の本(1967年・週刊文春)
〇付録/橋川文三の書評/末松太平著「私の昭和史」について(1963年・みすず)
〇中公文庫版の解説(筒井清忠氏)に手を加えてもらい採録(予定)
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◎本年10月27日。橋爪サンから「たびたびのご連絡を恐れ入ります」とのメールが届いた。要点のみ記しておく。
※「編集作業を進めるなかで、今更ながら気がついたことがございます。それは《みすず書房版》の写真を《中公文庫版》では取ったことです。/今回、折角の機会ですので、あらたに写真収録をしても良いのかなと思いました。/みすず書房版と同じものである必要はないと考えております。勿論同じものでもかまいませんが。」

※私自身は 最初の連絡があった時から「写真はどうするの?」と気になってはいた。
※《中公文庫版》を好意的に紹介してくれた《紀伊國屋書店スタッフによる書評的空間》の影響もあった。
「みすず書房版では渋川善助と末松太平が並んだ写真が口絵に掲載されている。好漢である。口をきつく結び、強い意志がみなぎるが、どことなく愛嬌がある。写真を見ると本書が単なる歴史史料扱いにすることが憚られる。切れば鮮血が出るかのような清冽な記録である。中公文庫版に渋川善助の写真が採られなかったのは惜しい。関心を持たれた読者は みすず書房版もぜひ探してみてほしい。(紀伊國屋書店・佐藤高廣)」 



◎橋爪サン宛てに郵送した写真は 次の6点である。取捨選択については 橋爪サンに一任した。
① 著者(昭和9年冬)/みすず書房・初版&新版の冒頭に掲載された写真。中公文庫版では上巻カバーに使用。
② 渋川善助氏と並んで/みすず書房・初版&新版に掲載された写真(末松太平が後日複写していたもの)
③★結婚式記念写真(昭和10年10月)/渋川善助氏、西田税氏、大蔵栄一氏が参列。
④★末松太平夫妻(昭和14年7月)/仮釈放後の居住地届け先(千葉市・久保三郎=義父邸の庭にて)
⑤ 大岸頼好5周忌集合写真(昭和31年)/みすず書房・初版&新版に掲載された写真。事件関係者が多数参列。
⑥★「私の昭和史」出版当時の著者/勤務先(新宿)近くだと思われるが 撮影日&撮影場所は不明。

※末松太平は 1936年3月7日に(新婚約4ヶ月で)逮捕収監。1939年4月29日に仮釈放。
1940年4月17日に長男(私)誕生。
写真③★と写真④★には「《夫婦》の昭和史」という《別の意味合い》も含まれている。
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◎掲載写真=末松太平と長男(私)。久保三郎邸にて撮影。長男(私)の「戦闘帽姿」が「戦時中=大東亜戦争」を物語っている。(末松)
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