◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号◎

2024年03月29日 | 末松建比古
今年1月、当ブログ掲載の「末松太平32回忌?」に対して、森田朋美サンから下記のコメントをいただいた。
「・・・千葉市若葉区平和公園、暖かくなったら、今泉さんと、都子ちゃんと、四人で行きましょう」
実は 現時点に於いて「末松太平の墓」を訪問した方は(親族を除けば)相沢正彦サン、中川喜英サンの二人しかいない。
そして 森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
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画像は 約30年前の昔 1994年7月に「末松太平(前年1月に逝去)の墓」を訪れた「八人!」である。
左から 私(末松太平・長男=当時54歳)、相沢正彦(相沢三郎中佐・長男)、尾島田鶴子(末松太平・長女)、末松敏子(末松太平夫人)、尾島匡則(末松太平・孫)、末松一輝(末松太平・孫)、末松行子(私の妻)という顔ぶれ。撮影=尾島正晃(田鶴子の夫)、これで「八人」になる。
相沢正彦サン(2004年2月に逝去)も 末松敏子サン(2011年9月に逝去)も 元気潑溂としていて その後の人生を 全く予感させない。

「建比古クンが会社を退いたら、一緒にやりたいことがある」
正彦サンには 顔を合せる度に 声をかけていただいていた。
「詳しいことは その時になってから・・・」という内容は 朧気ながらも推察できた。
私の脳裏を掠めたのは 相沢中佐と末松大尉が二人だけで味わった「昭和9年の(仙台での)年越しそば」の光景である。
一緒に東京に行かないか。相沢中佐の「さりげない誘い」に 末松大尉は即答できなかった。そして 昭和10年に「事件」は勃発した。
それでも 御遺族との交流は 途切れることなく続いて ついには「両家(相沢中佐夫人と末松太平)の葬儀」が重なるという《奇縁》へと導かれたのであった。

「会社を退いたら 一緒にやりたいことがある」という中佐の長男に 大尉の長男は応えるつもりでいた。
中佐の誘いは「一緒に東京に行かないか」であった。 中佐の長男の場合は「一緒に水戸に行かないか」だろうと推察していた。
しかし 私が会社を退く迄には長い時間が必要だった。 そして 長い時間を費やしているうちに 正彦サンは重い病に罹り 面会謝絶の闘病生活が続いて ついには「一緒にやりたいこと」は 幻のままに終わってしまった。
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森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
その理由は 私が《弟=末松太平・次男》に宛てたメールの中にある。

「我々夫婦は 築地本願寺の合同墓を申込みました。合同墓と併せて《永代経》を申し込めば《永代供養=管理費不要》されるので 愚息夫妻を煩わせることもありません。埼玉県在住の愚息夫妻に《千葉市平和公園の墓参》を強いるのはモラハラになりますが、築地本願寺ならば 境内に和風食堂や喫茶レストランがありますので、いつでも気軽に墓参ができます。
「老母が《清和園=特養施設》に御世話になっていた頃は、毎週欠かさず《清和園+平和公園》に通っていたのですが、老母が死去してからは、毎月1回~数ヶ月に1回と徐々に減少。愚妻が原因不明の足の激痛で遠出が困難(介助認定2)になってからは、車を手放し免許証も返納して、更に《平和公園》が遠くなりました。
「平和公園の規約では、やがて管理費の納入が途絶えると 無縁墓地(遺骨廃棄場?)に移されます。築地本願寺(永代供養+管理費不要)との差違を思えば 早めの対応が必要です。
「墓じまいをするには 平和公園の管理事務所での手続き、千葉市役所の管理事務所での手続き、石材店への依頼=工事費(遺骨取り出し+墓石を処理して更地に戻す)など、何度か足を運ぶ必要がありますが、墓地使用者(私)の責任で対応する所存です。
「両親の遺骨は、我々夫婦と同様に、築地本願寺の合同墓に申し込むつもりです。扱いは個人単位なので《4件》それぞれの手続きになります。
「手続きは(郵送不可なので)印鑑証明+実印+管理委託冥加金+永代経懇志などを揃えて、築地本願寺で行います。順番待ちの盛況で、我々夫婦はようやく《5月》に《1時間だけ》予約できました。手続きが1時間で終わらぬ場合は 改めて新規予約することになります。
「両親の手続きが無事完了しましたら、ゆっくりと《平和公園の墓じまい》の準備にかかりたいと思います」
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送信して直ぐ 弟から「了解」のメールが届いた。

千葉市平和公園の市営霊園は 末松太平本人が生前に申し込んでいたものである。
遺骨6体が収納可能であるが 僅か夫婦2体を収納した段階で《墓じまい》に踏み切るとは・・・。忸怩たる思いもあるが・・・。(末松建比古)
 
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