◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎推奨・鬼頭春樹著「実録相沢事件」◎

2013年05月25日 | 末松建比古


鬼頭春樹著「実録相沢事件 二・二六への導火線」河出書房新社刊を恵贈していただいた。
「謹呈 著者」のカードには「御批評願えれば幸甚です」と、メールアドレスが記されていた。

以下は、鬼頭氏に送ったメールの“要旨”である。
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(前略)本書の帯封コピーを見て“どういう立場から事件を捉えているのか”多少の危惧を抱いたのですが、非常に公正な立場で書かれていたので安堵いたしました。
読んでいる間は、絶えず“故・相澤正彦氏=相澤中佐のご長男”のことが念頭にありました。奇妙な表現ですが“正彦氏の霊魂と一緒に読んでいる”という気持に度々なりました。時折、目頭が熱くなりそうになった部分も多々あります。
御存知と思いますが、1993年1月16日の夕刻に“相澤よね様=相澤中佐夫人”が逝去し、その翌朝に“末松太平”が死去しました。友引の関係もあって、通夜(1月19日)葬儀告別式(1月20日)とも同じ日程となり、同志の皆様は、相澤家(喪主=正彦氏、斎場=東京都中野区)末松家(喪主=私、斎場=千葉市)の参列に苦労したようです。
(中略)相澤正彦氏は、書物執筆のために膨大な資料を集めていたようですが、着手する前に難病に侵されて、2004年2月に無念の逝去をされました。奥様から連絡をいただいて、通夜と葬儀告別式に参列した“二・二六事件関係者”は(多分、正彦氏の遺志もあったと思います)私ひとりでした。山口富永氏(長野県大町市)は高齢と遠方のため参列を断念、弔電が披露されていました。
(中略)御著書310頁の「相沢が心を許した友人を探し出すのは難しい。利害関係損得勘定を超え、友情を共に下した人間は何人いたことか」という文脈で「その四人が広く知られるが」として、末松太平を「四人」に入れていただきありがとうございました。御著書全般にわたって、末松太平が相澤中佐を慕っている気持が伝わって、感銘を受けました。
(中略)蛇足。「実録相沢事件」は、相澤家(相澤中佐のご霊前)に届いているのでしょうか。(以下省略)
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この“蛇足”の理由は、本文中で紹介されている「相沢中佐の孫」が“志村孚城氏=現在は仏心会世話役”だけだったからである。志村氏(相沢中佐の長女の令息)は「孫」に違いはないが、私には“志村陸城中尉(青森第五連隊)の令息”というイメージが強い。志村氏の柔らかな人柄(と笑顔)には、日頃から好感を抱いているが、それはそれとして、やはり「相澤姓の孫=相沢正彦氏の令息二人」にも「実録相沢事件」の刊行を報せておきたいと思ったわけである。

鬼頭氏からは即座に返信メールが届いた。私の持論=文は人なり。真摯な人柄が伝わる長文のメールである。
末尾に「なおご教授いただきました相澤淑子さまには、早速、ご挨拶状を差し上げた上で、献本させていただきます」と記されていた。
“蛇足”は無駄ではなかったということである。
「実録相沢事件」の表紙を開くと、相澤ご一家の集合写真が掲載されている。幼い正彦氏は、相澤中佐と手を繋いで写っている。正彦少年の表情に、数十年後に私が出会った“正彦壮年”が二重写しになって、熱い思いに捉われる。(末松)
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◎佐藤高廣様(紀伊国屋書店)へ謝意をこめて◎

2013年05月10日 | 末松建比古


時間つぶしに、PCで「末松太平 書評」を検索していたら、嬉しい書評に出会った。
出逢ったのは「紀伊国屋書店スタッフによる書評的空間」というブログである。

“本ブログでは、紀伊国屋書店で働くさまざまなスタッフが、自分で読んでほんとうに面白かった本・役に立った本・感動した本を、書評空間読者のみなさまに自分の言葉でご紹介しています。「プロの読み手による書評」とは申せませんが、書店スタッフがどんな本をどれだけ情熱をこめてお薦めできるものか、ご注目ください”
最近は、出版社は勿論のこと、テレビ業界も映画業界も「本屋大賞」を注視している。言うまでもなく、中公文庫「私の昭和史 二・二六事件異聞」には関わりのない世界の出来事である。が、それはそれとして、本屋大賞の仕組みを“天下の朝日新聞”も解説している時期に、書店スタッフによる書評に出遭えたことは、望外の喜びであった。

「紀伊国屋書店カタロギングサービス部・佐藤高廣氏」による 書評は、ビックリするほどの長文である。読みやすいように11のブロックに分けて書かれているが、夫々のブロックから“熱意”が伝わってくる。謝意を込めて(断片的ではあるが)紹介しておきたい。
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「昭和史の第一級史料といわれる『私の昭和史』が、遂に中公文庫のラインアップに加わった。中公文庫は昭和史史料の採録をテーマの一つとするので、加わるべきして加わった書籍といえよう。待望の復刊となる」
「本書は無味乾燥な記録史料にとどまらない誌的な香り、気品の高さ、文学的な完成度を持っている。三島由紀夫の本書への激賞が文庫解説で紹介されている。(解説は第一人者の筒井清忠氏によるもので、本書の成立や刊行時の評価、史料的な位置づけなどが適切に紹介され、参考になる。みすず書房版の既読者にもお薦めしたい)」
「著者末松太平にとって度し難い人物が辻政信である。」
「本書の底で絶えず奏でられる『鎮魂』という意味において、忘れがたい人物が渋川善助である。」
「みすず書房版では渋川善助と末松太平が並んだ写真が口絵に掲載されている。好漢である。口をきつく結び、強い意志がみなぎるが、どことなく愛敬がある。写真を見ると本書を単なる歴史資料扱いすることが憚られる。切れば鮮血が出るかのような清冽な記録である。中公文庫版に渋川善助の写真が採られなかったことは惜しい。関心を持たれた読者はみすず書房版もぜひ探してほしい」
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佐藤高廣氏の「渋川善助氏の写真のために、みすず書房版を探す」という考え方には、いささか動揺してしまった。中公文庫版における“写真の扱い方”を橋爪史芳サン(編集部)に訊かれて、最終判断を下したのは私である。文庫本特有の紙質に“人物写真”を載せたくなかった。しかし、佐藤氏の指摘も理解できるので、動揺してしまったわけである。(末松)
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◎波多江たま様の想い◎

2013年05月07日 | 末松建比古


同志胸中秘内憂 追胡万里戦辺州
還軍隊伍君巳欠 我以残生斬国讎

末松太平著「私の昭和史」の書き出しに、對馬勝雄中尉の漢詩(獄中作)が記されている。
「二・二六事件までの對馬中尉の身は、残生にすぎなかった。相沢中佐は對馬中尉に先立つこと九日、七月三日に死刑になった。(中略)十月事件のとき、一剣を抱いて相ついで脱藩上京した壮士はみな不思議にこの世を去り、当時これを東京で迎えた私一人が生き残っているのである」
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「過日は貴重な本を下さいまして恐縮いたしました。お返事が遅れましたのは十一月末頃から体調をくずし、今やっと一息ついたところです。私は事件の当時 22才位でしたので 今99才です」

波多江たまさん(對馬中尉令妹)から戴いた手紙の一部を、私の責任でピックアップして「貴重な現代史資料」として紹介しておきたい。

「事件関係者の御遺族の方々も、身内のようにして下さって、お寺に行くと全くうちとけてお話しています」
「丁戴致しました本によって、大岸さんの事(末松註=晩年のエピソード)が判って、一寸がっかり致しましたが、戦後は皆な考えが変ったと思います。でも事件に決起した人々は 国と天皇しか考えてない本当の軍人達で 之からはあのような軍人は出ないと思います」
「お父様は立派な方でしたね。大岸さんと兄と三人でお酒をのんだことが何かに書いてありました。兄は大岸さんの感化を受けてしまったようです。私は随分と其の人を知りたいと思い続けて参りました。ある本によりますと、大岸さんは事件に参加していないのに追放のようになり、其の部下の少尉が大変憤慨して自殺して上官に抗議したそうで、其の上官が自殺した少尉の父だったそうです。一人息子を失った上官は大岸大尉を放っておけず人を介して面倒を見たと書かれてありました。(大岸さんは)満州にも行っていたようですが、内地に帰られてからのことがよく判りませんでした。やはり あの当時は 軍人達も最後には神にすがるようになったのでしょうか?」
「ものすごく恨みを残して死んだ栗原さんのことも判りましたが、私の兄は始めから命はないものと覚悟していましたので、自己責任で逝ったと見え、誠に穏やかでした。せめてもの親孝行と思っています。武士らしく死んだことに誇りを感じます」
「今でも全国から知らない人が訪ねてきます。私が遺族の生き残りだからでしょう。いろいろのこと沢山ありますけれど とても書けません。本当に汚い字ですみませんが年に免じてお許しください。私の時代はもう終わりました。いろいろと有難う御座いました。心から御礼申し上げて失礼いたします」
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波多江たまさん、99歳。この気力と筆力には感服するしかない。画像参照、99歳の方が書かれたとは、とても思えない見事な御手紙である。
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波多江たまさんに関しては、今泉章利サンが当ブログに“現代史資料”として貴重な記事を載せている。

「波多江たま様との会話」2009年5月7日掲載。
「波多江さんの一喝」2009年8月20日掲載。
勿論、原文を再読していただきたいが、閲覧者の便宜を考慮して(私の責任で)一部分を紹介しておく。

要旨①「今の書かれているものは全部おかしい。軍部の派閥争いで事件が起きたような書き方をしているから、若い人たちは事件を誤解してしまう」
要旨②「この事件は(派閥闘争が原因でなく)農民の殆ど全てを占める小作人が本当に貧しい状況にあったことから起こったのであり、その後に派生した政治的な動きは、事件の真の原因ではない。当時の農民の状況を理解も勉強もしないで、二・二六事件を語るべきでない」
要旨③「よくぞ、見て来たようなウソを書く人がいて、言葉を失うことが多い」
今泉サンは、弘前在住の波多江さんを訪ねて、話を伺っている。その場の空気も体感するためにも、できれば“今泉サンの記事”の全文を読んでいただきたいと願う。

“見てきたようなウソを書く人”は多いが、それ以上に罪が重いのは“見てきたようなウソを喋る人”である。これについては、別の機会に記すつもりである。波多江たま様には“歴史の証人”として、いつまでもお元気でいていただきたいと願う。
對馬中尉も(渋川善助氏、水上源一氏も)末松太平も「皇道派」ではないのだ。私が、一部の売文家諸氏(皇道派・統制派という対比によって事件を解説する輩)に対して“敵意”を示すのは、当然だろう。(末松)
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