◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎対馬勝雄中尉の遺文集「邦刀遺文」のこと◎

2013年03月10日 | 末松建比古


ちば歩こう会「防災ウオーク・35K」に参加した。スタート=新小岩公園(JR新小岩駅)。ゴール=千葉公園(JR千葉駅)。万一に備えた“帰宅訓練歩行”だから、コースマップは存在しない。参加者それぞれが“マイルート”を選んで、勝手な方向に歩き始める。私の場合は、誰とも出会いたくないので、かなりの迂回ルートを選ぶことにしている。
ゴールする前に「末松太平の家」に立寄る予定でいた。訪問目的は「邦刀遺文」に出会うことである。義弟が居たので「邦刀遺文」を一緒に探してもらった。

「邦刀遺文」
對馬勝雄中尉の遺文集。「邦刀」は對馬中尉が好んで用いた「号」である。
編集=白井タケ・波多江たま。発行=白井タケ。箱入2冊セットの豪華本(非売品)。

末松太平著「私の昭和史」は、對馬中尉が獄中で詠んだ「漢詩」で始まっている。最初の“主役”は、對馬中尉である。そういうこともあって、久しぶりに「邦刀遺文」に対面しようと思い立ったわけである。
末松太平は、この遺文集に「津軽義民伝」を載せている。その一部を紹介しておく。
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(前略)私は、二・二六事件に於ける對馬勝雄中尉の死を思うたびに、この佐倉義民伝を思う。二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。對馬中尉に於いては、郷土津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんがための蹶起であった。正に津軽義民伝であった。部分である農民の救済は全体の国家の革新なくしては不可能である。その革新を誰いうともなく明治維新からの連想で昭和維新というようになり、これを志す将校を革新将校といっていたが、何時ともなく革新が取れて若かったから単に青年将校というようになった。(中略)對馬中尉こそは青年将校中の青年将校であった。(後略)
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「津軽義士伝」は、ほぼ同じ内容で、雑誌「史」1989年12月号にも掲載されている。その経緯は「史」に「あとがき」として記されている。
あとがき「對馬勝雄中尉の出生地は一般に青森市とされているが、正しくは稲作農家の大集合津軽平野の、そのど真ん中、南津軽郡田舎館村である。その津軽では今一冊の本が作られつつある。「津軽義民伝」はその本のために寄稿したもので、いずれはその極小部分をなすものである。が、ひとまずはその本から離れ、その本の予告紹介を兼ねて「史」誌上に、二・二六事件断章その二として、掲載させていただくことにした」
ここに「その本」と書かれているのが、今回紹介している「邦刀遺文」である。

末松太平は「その本が作られる真因」について、次のように記している。
「(前略)昨年2月(1988年)NHKは、匂坂資料なるものによって、消された真実を公開すると称し、鉦や太鼓で予告し、マスコミを総動員した上で放映し、澤地久枝の『雪は汚れていた』で、それを裏打ちした。が、真実を消し、雪で汚したのは、外ならぬNHK自身であり、澤地自身であった。彼らはいう。青年将校の尊王はイカサマで、内実はその逆の赤色ソ連と共謀の国家変革の悪逆無道であると。對馬中尉に於けるも津軽義民伝などナンセンスになる。
こういった余りにもひどい仕打ちに我慢できず、優しかった兄、對馬中尉のことを私たちも書いておこう、と令妹二人が思い立ち、慣れぬ手つきで綴方を始めている。それは、嘘八百を出たとこ勝負に書き散らし荒稼ぎする輩と雲泥の相違の、つつましやかに真実を求める敬虔な作業である」

「邦刀遺文」から、約20年の歳月が経過した。白井タケさんは逝去したが、波多江たまさんはご健在である。先日放送されたNHK「BS歴史館」でも、堂々と意見を述べておられた。
当ブログでは、今泉章利サンが(2009年6月30日付で)波多江たまさんの手紙を紹介している。どうぞ「カテゴリー今泉章利」で素早く検索して、再読していただきたい。
「(農民を救いたいための行動を)陸軍内部の権力闘争の如き解説をし、さもそれが新発見であるかの如く言っている、今の学者、マスコミ」に対する、波多江さんの「怒り」が、ストレートに伝わると思う。(末松)
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◎文春図書館「文庫本を狙え!」◎

2013年03月09日 | 末松建比古


東京都ウオーキング協会「関東を歩こう!中山道(第8回)17K」に参加した。JR上尾駅前を出発して(団体歩行で)浦和駅前まで歩く。集団行動が苦手な私は(いつものように)出発式の途中で脱出し、裏道独歩を開始する。
裏道独歩=書店探しウオーク。先ずは、上尾駅西口の書店(BOOK ACE)を覗く。中公文庫の書棚に“目的の本”を見つけたが(書棚から消えると寂しいので)購入を見送る。大宮氷川神社の参道を経由して、さいたま新都心駅の書店(紀伊国屋書店)を覗く。平積された“目的の本”を見つけたが、各1冊だけである。大型書店ということ(直ぐに補充するだろう)に期待して購入。平積台に2冊分の「空き地」が出来た。
併せて「週刊文春・3月14日号」も買う。週刊朝日(火曜発売)週刊文春(木曜発売)の2誌は“勤め人”だった頃から欠かさず購入している。朝日と文春の間には“対立”が多々あるから、両誌に目を通せば、情報が偏らずに済むという利点もある。「週刊文春」で最初に開くのは、小林信彦「本音を申せば」の頁である。続いて「シネマチャート」を読み、坪内祐三「文庫本を狙え!」に進む。

私が「週刊文春」3月14日号を開いたのは(浦和駅前にゴールして)自宅に戻ってからである。いつもと同じように「文庫本を狙え!」の頁を開いて「私の昭和史」という活字と対面する。全く予期していなかったので、ビックリした。
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歴史は風化して行くものであるが、昭和11年2月26日から77年経った今年は二・二六事件関係の新聞・雑誌記事を目にすることが殆どなかった。そんな中「二・二六事件異聞」という副題を持つ末松太平の古典的名著『私の昭和史』(初刊はみすず書房1963年)が文庫化された。(以下省略)
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坪内サンの「歴史は風化していくものであるが」という書き出しに、ウンウンと肯く。「いくものである」でなく「いくものであるが」という文脈が嬉しい。
私は「二・二六事件を風化させたくない」という想いで、当ブログを立ち上げている。今回の「文庫化」が、風化を少しでも鈍らせる“効力”になれば良いと思う。坪内サンの文章に、殊のほか喜んだのは、そういうことである。
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上尾駅前の集合場所で、親しい仲間たちと談笑。先ずは「イケ氏=元・紀伊国屋書店役員」に“文庫本”を進呈。イケ氏は、昼食休憩の場で「文庫本」を読み始めたらしい。
そういう経緯もあって、ゴール直後に「ツカ氏」から是非購入したいと声をかけられた。ツカ氏=昨年末の救急車騒動の際に病院まで付添ってくれた青年。喜んで“文庫本”を進呈したのは言うまでも無い。(末松)
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◎テレビマンユニオンからの手紙◎

2013年03月05日 | 末松建比古


例の番組に対する“周囲の人々”の反応は様々だが、それはそれとして、テレビマンユニオンからの手紙を紹介しておく。放送したのは「NHK」だが、制作したのは「テレビマンユニオン」なのである。
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2013年3月4日
テレビマンユニオン 担当:山崎(住所&電話番号&メールアドレス=省略)

末松建比古さま
早春の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
多大なるご協力をいただきまして制作された、BS歴史館 第63回『徹底検証 二・二六事件~日本をどう変えたのか?~』(NHKーBSプレミアムにて2月放送)のDVDが出来上がりましたので、お送りいたします。
またお借りしました、末松太平氏の写真も同封します。ご確認いただけますでしょうか。
早急なお願いにもかかわらず、ご協力いただき改めて感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
お忙しいなかとは思いますが、お時間のある時にDVDにて当番組を観ていただければ幸いです。
略儀ながら書中をもちましてご挨拶申し上げます。今後ともご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

BS歴史館 プロデューサー 国分禎雄、ディレクター 佐野達也、アシスタントディレクター 山崎美生
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画像参照。4枚セットに見えるが、内容は同一である。4種類の写真が使われていることに、特別の意味はない。多分、担当AD(山崎サン)の「手作業」の産物だと思う。
“多分、手作業だろう”と思う理由は「最後の部分が録画されていないディスク」が混じっていたからである。勿論、善意の贈り物に対して、不満を述べるつもりは毛頭ない。しかし、不完全ディスクを知人(例えば山口富永サン)に差し上げる訳にもいかない。苦笑しながら“お時間のある時に”戴いたDVD1枚1枚を(早送りしながら)チェックしている。(末松)
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