高齢化社会を反映して 最近のテレビ番組には「脳トレ」を意識したものが多い。
例えば 多数のタレントを集めて「都道府県の県庁所在地を挙げよ」とか「歴代の首相の氏名を挙げよ」などと「記憶力」を競わせる番組がある。番組視聴者の側も《出演者よりも早く答える》ことを目指せば それなりの「脳トレ」効果があるのかも・・・。
ブログ「末松太平事務所」は「二・二六事件を風化させない」ために開設したものである。
しかし 事件から「88年=人生ならば米寿を迎える歳月」が経過して、事件に直接関与した方々は全員が逝去されてしまった。数少ない「事件研究者」も「当時は生まれていなかった方々」ばかりだから、資料や風聞を頼りにして「引用だらけの文章」を記すしかない状況になっている。それでも「書いて頂けるだけでも有難い」ことなのだが、はて現実は・・・。
私流の「脳トレ=脳細胞活性トレーニング」のひとつは、二十二士の氏名を挙げること。丸暗記しているわけではないから 二十二士の氏名は順不同になる。失礼ながら、20番目以降になりがちな方がいるのも事実である。
2月26日の「賢崇寺法要」では、殉難重臣+殉難警察官+二十二士+その他の物故者の氏名が読み上げられ「招霊」されていく。しかし、私の脳細胞では「二十二士」を忘れず記憶していくのが、精一杯のようである。
「二十二士」といっても、個人個人の知名度に格差が生じているのは事実である。
事件に関連した記述の中に《中心人物》として扱われている者もいれば、そうでない人もいる。
こうしたことの積み重ねによって、徐々に有名無名の格差が生じていく。
東京大学出版会が(1971年に)発行した「日本陸海軍の制度・組織・人事」という箱入の大型書籍がある。
目次には「Ⅰ・主要陸海軍軍人の履歴」「Ⅱ・陸海軍主要職務の変遷」「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」「Ⅳ・その他」という項目が記されている。
「Ⅰ・主要陸海軍人の履歴」の選定基準は「①陸海軍大将(元帥)の全員/②陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)および海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官経験者の全員/③陸軍の軍司令官以上、海軍の艦隊司令長官以上の指揮官の全員/④その他、政治・軍事・経済・社会・思想等の各分野において重要な役割を果たし、実績を残した著名な軍人」となっている。「基準①~③」で選定された《エリート》と「基準④」で選定された《問題児?》が、五〇音順に混在しているところが面白い。
選定された「二十二士」は、安藤輝三、相沢三郎、磯部浅一、栗原安秀、河野寿、香田清貞、村中孝次の7名。陸軍の大岸頼好、菅波三郎、末松太平。海軍の古賀清志、三上卓も選定されている。
「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」には、各卒業年度の「優秀卒業生」が挙げられている。
◎陸軍士官学校優等卒業生=40期/竹嶌継夫(他8名)。因みに、永田鉄山(16期)辻政信(36期)も優秀卒業生であった。
◎陸士予科及び幼年学校優秀卒業生=39期/渋川善助(他4名)。40期/竹嶌継夫(他3名)。こちらにも、永田鉄山、辻政信の名前がある。渋川善助と末松太平は同期の桜、優秀な若者と凡庸な若者の「親交」の始まりだった。
◎地方当年学校優等卒業生=34期広島/西田税(他1名)。37期熊本/菅波三郎(他1名)。40期東京/竹嶌継夫(他1名)。36期名古屋/辻政信(他1名)の名前はあるが 永田鉄山は登場しない。
昭和11年7月5日。東京陸軍軍法会議で判決を下されたのは計23名。竹嶌継夫中尉は「3番目」に名前を呼ばれている。しかし、事件関連の書籍などでは、さほど目立たぬ存在に甘んじている。
澤地久枝氏は《澤地久枝「妻たちの二・二六事件」中公文庫・1975年刊》と《澤地久枝「試された女たち」講談社・1992年刊/講談社文庫・1995年刊》の中に、竹嶌継夫中尉を登場させている。
「妻たちの二・二六事件」は、澤地氏にとって《初めての作品》だったようである。本書の「あとがき」には「仏心会の河野司氏の紹介がなかったら、私は妻たちの所在も確かめ得ず、逢うことも拒否されたのではないかと想像する」と記されている。更に「連座して死んだ男たちの遺稿のうち、事件の核心にふれた主なものは、河野氏の三十年来の苦労の結晶として、近刊『二・二六事件』にまとめられている。そこから引用させていただいた遺書も多い」「『解釈は多様、事実はひとつである』と、あらゆる便宜を惜しまれなかった河野司氏・・・」とも記されている。
しかし、上記の2作品の間には「1975年」と「1992年」という歳月が流れている。
「1988年2月26日。麻布賢崇寺の二・二六事件関係者法要に参列。最近出版されたばかりの『雪は汚れていた』の著者澤地久枝氏と、参加将校の一人だった池田俊彦氏(元少尉)との間で、真相を巡る応酬あり」。
《笠原和夫(シナリオ著)・双流社編集部(資料編著)「226/昭和が最も熱く燃えた日」双流社・1989(平成元)年6月刊》掲載の「シナリオ製作日記抄/笠原和夫」に記された出来事である。
1988年2月15日の「朝日新聞」冒頭を《「2・26事件」で新資料》という記事が飾った。「匂坂主席検事官が保管していた極秘資料をが14日までに明らかになった」「NHKの要請で長男・哲朗氏が公開に踏み切った。近く特別番組として放送される」と記されている。このトップ記事には「社会面に関係記事」が続いていた。
1988年2月21日に NHKテレビが「消された真実」という《特別番組》を放映した。
その前日 1988年2月20日には NHK出版が《澤地久枝著「雪は汚れていた」》という書籍を刊行していた。
NHKと澤地氏の《タッグチーム》が、準備万端取り揃えた上で「如何にもビッグニュースであるかのように」仕立てたとしか思えない。そして、この《タッグチーム》の戦略が《法要の席での応酬》を誘発する原因となったのである。
1988年2月26日の法要に 澤地氏が(堂々と?)参列したのは何故か。ご当人には「拙いこと」を書いたつもりがないようで、間もなく《次作》を「別冊文藝春秋」1988年4月号に発表して、事件関係者の怒りをかき立てた。
《澤地久枝「二・二六事件 在天の男たちへ」》
この「別冊文藝春秋」2段組20頁にわたる長編は「匂坂春平さま。」に始まり「二・二六事件をとく最後の鍵が世に出ることを喜んでください」で結ばれている。全体を通じて、あたかも《片思い相手へのラブレター》の如き文体で、いささか不気味でもある。
この「二・二六事件 在天の男たちへ」に対し、池田俊彦氏が「文藝春秋・五月号」に反論を発表し、共感と同意を得た。
「この問題は闇の中から出て来た匂坂資料にNHKと澤地氏が幻惑されて、奇妙な新説を立てたものであるが、二月という時期に間に合わせるため、少しく結論を急ぎすぎた感があるように思われる。既刊の資料とも照合して、多くの当事者及び研究家の供覧を得て、多角度からの意見を含めて発表すべきものであったと思う。功名心に眼が眩んだのか、金儲けのためか知らぬが、歴史を曲解し世間を惑わせた罪は重い」
これは《現代史懇話会「史67」1988年9月》に掲載された《「歴史を見る眼」池田俊彦》の一部分である。
「史67」には《「『匂坂資料』信者への抗議」末松太平》を筆頭に《「歴史を見る眼」池田俊彦》《「ねじ曲げられた匂坂資料」田々宮英太郞》と、騒動をめぐる評論三篇が特集されている。
1990年5月6日に.、河野司氏が逝去された。河野氏の《騒動》への反応は(私の知る限り)どこにも記されていない。
河野氏の死後、1992年に発刊された《澤地久枝「試された女たち」講談社》は7つの短編で構成されている。二・二六事件に関係したのは「磯部浅一の妻登美子」と「雪の日のテロルの残映」の二篇である。仏心会との縁が薄れたためであろうか、二・二六の妻たちへの「配慮」は感じられない作品になっている。
「雪の日のテロルの残映」には「教育総監渡辺錠太郎陸軍大尉の次女」と「竹嶌中尉の妻だった人」の二人を混在させて話を展開するという《意図不明の手法》が用いられている。
「1979年7月12日の法要に加わった私は、河野司氏から思いがけない人を引き合わされた。竹嶌中尉の実弟夫妻とY夫妻(竹嶌との間に子をもうけた女性の代理人)である」ということから、竹嶌中尉と女性二人(浅田清子=仮名、川村キミ=仮名)との(二・二六事件と関係ない)三流週刊誌レベルの《秘話?》が展開していく。わざわざ「仮名」を用いて書くほどの(報道価値も)文学価値もなく、ある種の悪意しか感じられない。
自分が紹介したことが(十数年後に)このような「結果」を招くことになるとは・・・。在天の河野氏も悔いてるのではあるまいか。
私自身の「脳トレ」の話が、想定外の展開に到ってしまった。こうなった以上は(お読みになった方々に)誤解を与えないように 話を続ける必要があるのだが・・・。と、弁解しつつも、今回はここまで。(末松建比古)
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例えば 多数のタレントを集めて「都道府県の県庁所在地を挙げよ」とか「歴代の首相の氏名を挙げよ」などと「記憶力」を競わせる番組がある。番組視聴者の側も《出演者よりも早く答える》ことを目指せば それなりの「脳トレ」効果があるのかも・・・。
ブログ「末松太平事務所」は「二・二六事件を風化させない」ために開設したものである。
しかし 事件から「88年=人生ならば米寿を迎える歳月」が経過して、事件に直接関与した方々は全員が逝去されてしまった。数少ない「事件研究者」も「当時は生まれていなかった方々」ばかりだから、資料や風聞を頼りにして「引用だらけの文章」を記すしかない状況になっている。それでも「書いて頂けるだけでも有難い」ことなのだが、はて現実は・・・。
私流の「脳トレ=脳細胞活性トレーニング」のひとつは、二十二士の氏名を挙げること。丸暗記しているわけではないから 二十二士の氏名は順不同になる。失礼ながら、20番目以降になりがちな方がいるのも事実である。
2月26日の「賢崇寺法要」では、殉難重臣+殉難警察官+二十二士+その他の物故者の氏名が読み上げられ「招霊」されていく。しかし、私の脳細胞では「二十二士」を忘れず記憶していくのが、精一杯のようである。
「二十二士」といっても、個人個人の知名度に格差が生じているのは事実である。
事件に関連した記述の中に《中心人物》として扱われている者もいれば、そうでない人もいる。
こうしたことの積み重ねによって、徐々に有名無名の格差が生じていく。
東京大学出版会が(1971年に)発行した「日本陸海軍の制度・組織・人事」という箱入の大型書籍がある。
目次には「Ⅰ・主要陸海軍軍人の履歴」「Ⅱ・陸海軍主要職務の変遷」「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」「Ⅳ・その他」という項目が記されている。
「Ⅰ・主要陸海軍人の履歴」の選定基準は「①陸海軍大将(元帥)の全員/②陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)および海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官経験者の全員/③陸軍の軍司令官以上、海軍の艦隊司令長官以上の指揮官の全員/④その他、政治・軍事・経済・社会・思想等の各分野において重要な役割を果たし、実績を残した著名な軍人」となっている。「基準①~③」で選定された《エリート》と「基準④」で選定された《問題児?》が、五〇音順に混在しているところが面白い。
選定された「二十二士」は、安藤輝三、相沢三郎、磯部浅一、栗原安秀、河野寿、香田清貞、村中孝次の7名。陸軍の大岸頼好、菅波三郎、末松太平。海軍の古賀清志、三上卓も選定されている。
「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」には、各卒業年度の「優秀卒業生」が挙げられている。
◎陸軍士官学校優等卒業生=40期/竹嶌継夫(他8名)。因みに、永田鉄山(16期)辻政信(36期)も優秀卒業生であった。
◎陸士予科及び幼年学校優秀卒業生=39期/渋川善助(他4名)。40期/竹嶌継夫(他3名)。こちらにも、永田鉄山、辻政信の名前がある。渋川善助と末松太平は同期の桜、優秀な若者と凡庸な若者の「親交」の始まりだった。
◎地方当年学校優等卒業生=34期広島/西田税(他1名)。37期熊本/菅波三郎(他1名)。40期東京/竹嶌継夫(他1名)。36期名古屋/辻政信(他1名)の名前はあるが 永田鉄山は登場しない。
昭和11年7月5日。東京陸軍軍法会議で判決を下されたのは計23名。竹嶌継夫中尉は「3番目」に名前を呼ばれている。しかし、事件関連の書籍などでは、さほど目立たぬ存在に甘んじている。
澤地久枝氏は《澤地久枝「妻たちの二・二六事件」中公文庫・1975年刊》と《澤地久枝「試された女たち」講談社・1992年刊/講談社文庫・1995年刊》の中に、竹嶌継夫中尉を登場させている。
「妻たちの二・二六事件」は、澤地氏にとって《初めての作品》だったようである。本書の「あとがき」には「仏心会の河野司氏の紹介がなかったら、私は妻たちの所在も確かめ得ず、逢うことも拒否されたのではないかと想像する」と記されている。更に「連座して死んだ男たちの遺稿のうち、事件の核心にふれた主なものは、河野氏の三十年来の苦労の結晶として、近刊『二・二六事件』にまとめられている。そこから引用させていただいた遺書も多い」「『解釈は多様、事実はひとつである』と、あらゆる便宜を惜しまれなかった河野司氏・・・」とも記されている。
しかし、上記の2作品の間には「1975年」と「1992年」という歳月が流れている。
「1988年2月26日。麻布賢崇寺の二・二六事件関係者法要に参列。最近出版されたばかりの『雪は汚れていた』の著者澤地久枝氏と、参加将校の一人だった池田俊彦氏(元少尉)との間で、真相を巡る応酬あり」。
《笠原和夫(シナリオ著)・双流社編集部(資料編著)「226/昭和が最も熱く燃えた日」双流社・1989(平成元)年6月刊》掲載の「シナリオ製作日記抄/笠原和夫」に記された出来事である。
1988年2月15日の「朝日新聞」冒頭を《「2・26事件」で新資料》という記事が飾った。「匂坂主席検事官が保管していた極秘資料をが14日までに明らかになった」「NHKの要請で長男・哲朗氏が公開に踏み切った。近く特別番組として放送される」と記されている。このトップ記事には「社会面に関係記事」が続いていた。
1988年2月21日に NHKテレビが「消された真実」という《特別番組》を放映した。
その前日 1988年2月20日には NHK出版が《澤地久枝著「雪は汚れていた」》という書籍を刊行していた。
NHKと澤地氏の《タッグチーム》が、準備万端取り揃えた上で「如何にもビッグニュースであるかのように」仕立てたとしか思えない。そして、この《タッグチーム》の戦略が《法要の席での応酬》を誘発する原因となったのである。
1988年2月26日の法要に 澤地氏が(堂々と?)参列したのは何故か。ご当人には「拙いこと」を書いたつもりがないようで、間もなく《次作》を「別冊文藝春秋」1988年4月号に発表して、事件関係者の怒りをかき立てた。
《澤地久枝「二・二六事件 在天の男たちへ」》
この「別冊文藝春秋」2段組20頁にわたる長編は「匂坂春平さま。」に始まり「二・二六事件をとく最後の鍵が世に出ることを喜んでください」で結ばれている。全体を通じて、あたかも《片思い相手へのラブレター》の如き文体で、いささか不気味でもある。
この「二・二六事件 在天の男たちへ」に対し、池田俊彦氏が「文藝春秋・五月号」に反論を発表し、共感と同意を得た。
「この問題は闇の中から出て来た匂坂資料にNHKと澤地氏が幻惑されて、奇妙な新説を立てたものであるが、二月という時期に間に合わせるため、少しく結論を急ぎすぎた感があるように思われる。既刊の資料とも照合して、多くの当事者及び研究家の供覧を得て、多角度からの意見を含めて発表すべきものであったと思う。功名心に眼が眩んだのか、金儲けのためか知らぬが、歴史を曲解し世間を惑わせた罪は重い」
これは《現代史懇話会「史67」1988年9月》に掲載された《「歴史を見る眼」池田俊彦》の一部分である。
「史67」には《「『匂坂資料』信者への抗議」末松太平》を筆頭に《「歴史を見る眼」池田俊彦》《「ねじ曲げられた匂坂資料」田々宮英太郞》と、騒動をめぐる評論三篇が特集されている。
1990年5月6日に.、河野司氏が逝去された。河野氏の《騒動》への反応は(私の知る限り)どこにも記されていない。
河野氏の死後、1992年に発刊された《澤地久枝「試された女たち」講談社》は7つの短編で構成されている。二・二六事件に関係したのは「磯部浅一の妻登美子」と「雪の日のテロルの残映」の二篇である。仏心会との縁が薄れたためであろうか、二・二六の妻たちへの「配慮」は感じられない作品になっている。
「雪の日のテロルの残映」には「教育総監渡辺錠太郎陸軍大尉の次女」と「竹嶌中尉の妻だった人」の二人を混在させて話を展開するという《意図不明の手法》が用いられている。
「1979年7月12日の法要に加わった私は、河野司氏から思いがけない人を引き合わされた。竹嶌中尉の実弟夫妻とY夫妻(竹嶌との間に子をもうけた女性の代理人)である」ということから、竹嶌中尉と女性二人(浅田清子=仮名、川村キミ=仮名)との(二・二六事件と関係ない)三流週刊誌レベルの《秘話?》が展開していく。わざわざ「仮名」を用いて書くほどの(報道価値も)文学価値もなく、ある種の悪意しか感じられない。
自分が紹介したことが(十数年後に)このような「結果」を招くことになるとは・・・。在天の河野氏も悔いてるのではあるまいか。
私自身の「脳トレ」の話が、想定外の展開に到ってしまった。こうなった以上は(お読みになった方々に)誤解を与えないように 話を続ける必要があるのだが・・・。と、弁解しつつも、今回はここまで。(末松建比古)
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