◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「私流・脳細胞活性トレーニング」のお話◎

2024年07月29日 | 末松建比古
高齢化社会を反映して 最近のテレビ番組には「脳トレ」を意識したものが多い。
例えば 多数のタレントを集めて「都道府県の県庁所在地を挙げよ」とか「歴代の首相の氏名を挙げよ」などと「記憶力」を競わせる番組がある。番組視聴者の側も《出演者よりも早く答える》ことを目指せば それなりの「脳トレ」効果があるのかも・・・。

ブログ「末松太平事務所」は「二・二六事件を風化させない」ために開設したものである。
しかし 事件から「88年=人生ならば米寿を迎える歳月」が経過して、事件に直接関与した方々は全員が逝去されてしまった。数少ない「事件研究者」も「当時は生まれていなかった方々」ばかりだから、資料や風聞を頼りにして「引用だらけの文章」を記すしかない状況になっている。それでも「書いて頂けるだけでも有難い」ことなのだが、はて現実は・・・。

私流の「脳トレ=脳細胞活性トレーニング」のひとつは、二十二士の氏名を挙げること。丸暗記しているわけではないから 二十二士の氏名は順不同になる。失礼ながら、20番目以降になりがちな方がいるのも事実である。
2月26日の「賢崇寺法要」では、殉難重臣+殉難警察官+二十二士+その他の物故者の氏名が読み上げられ「招霊」されていく。しかし、私の脳細胞では「二十二士」を忘れず記憶していくのが、精一杯のようである。



「二十二士」といっても、個人個人の知名度に格差が生じているのは事実である。
事件に関連した記述の中に《中心人物》として扱われている者もいれば、そうでない人もいる。
こうしたことの積み重ねによって、徐々に有名無名の格差が生じていく。

東京大学出版会が(1971年に)発行した「日本陸海軍の制度・組織・人事」という箱入の大型書籍がある。
目次には「Ⅰ・主要陸海軍軍人の履歴」「Ⅱ・陸海軍主要職務の変遷」「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」「Ⅳ・その他」という項目が記されている。

「Ⅰ・主要陸海軍人の履歴」の選定基準は「①陸海軍大将(元帥)の全員/②陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)および海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官経験者の全員/③陸軍の軍司令官以上、海軍の艦隊司令長官以上の指揮官の全員/④その他、政治・軍事・経済・社会・思想等の各分野において重要な役割を果たし、実績を残した著名な軍人」となっている。「基準①~③」で選定された《エリート》と「基準④」で選定された《問題児?》が、五〇音順に混在しているところが面白い。
選定された「二十二士」は、安藤輝三、相沢三郎、磯部浅一、栗原安秀、河野寿、香田清貞、村中孝次の7名。陸軍の大岸頼好、菅波三郎、末松太平。海軍の古賀清志、三上卓も選定されている。

「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」には、各卒業年度の「優秀卒業生」が挙げられている。
◎陸軍士官学校優等卒業生=40期/竹嶌継夫(他8名)。因みに、永田鉄山(16期)辻政信(36期)も優秀卒業生であった。
◎陸士予科及び幼年学校優秀卒業生=39期/渋川善助(他4名)。40期/竹嶌継夫(他3名)。こちらにも、永田鉄山、辻政信の名前がある。渋川善助と末松太平は同期の桜、優秀な若者と凡庸な若者の「親交」の始まりだった。
◎地方当年学校優等卒業生=34期広島/西田税(他1名)。37期熊本/菅波三郎(他1名)。40期東京/竹嶌継夫(他1名)。36期名古屋/辻政信(他1名)の名前はあるが 永田鉄山は登場しない。

昭和11年7月5日。東京陸軍軍法会議で判決を下されたのは計23名。竹嶌継夫中尉は「3番目」に名前を呼ばれている。しかし、事件関連の書籍などでは、さほど目立たぬ存在に甘んじている。
澤地久枝氏は《澤地久枝「妻たちの二・二六事件」中公文庫・1975年刊》と《澤地久枝「試された女たち」講談社・1992年刊/講談社文庫・1995年刊》の中に、竹嶌継夫中尉を登場させている。
「妻たちの二・二六事件」は、澤地氏にとって《初めての作品》だったようである。本書の「あとがき」には「仏心会の河野司氏の紹介がなかったら、私は妻たちの所在も確かめ得ず、逢うことも拒否されたのではないかと想像する」と記されている。更に「連座して死んだ男たちの遺稿のうち、事件の核心にふれた主なものは、河野氏の三十年来の苦労の結晶として、近刊『二・二六事件』にまとめられている。そこから引用させていただいた遺書も多い」「『解釈は多様、事実はひとつである』と、あらゆる便宜を惜しまれなかった河野司氏・・・」とも記されている。

しかし、上記の2作品の間には「1975年」と「1992年」という歳月が流れている。
「1988年2月26日。麻布賢崇寺の二・二六事件関係者法要に参列。最近出版されたばかりの『雪は汚れていた』の著者澤地久枝氏と、参加将校の一人だった池田俊彦氏(元少尉)との間で、真相を巡る応酬あり」。
《笠原和夫(シナリオ著)・双流社編集部(資料編著)「226/昭和が最も熱く燃えた日」双流社・1989(平成元)年6月刊》掲載の「シナリオ製作日記抄/笠原和夫」に記された出来事である。



1988年2月15日の「朝日新聞」冒頭を《「2・26事件」で新資料》という記事が飾った。「匂坂主席検事官が保管していた極秘資料をが14日までに明らかになった」「NHKの要請で長男・哲朗氏が公開に踏み切った。近く特別番組として放送される」と記されている。このトップ記事には「社会面に関係記事」が続いていた。
1988年2月21日に NHKテレビが「消された真実」という《特別番組》を放映した。
その前日 1988年2月20日には NHK出版が《澤地久枝著「雪は汚れていた」》という書籍を刊行していた。
NHKと澤地氏の《タッグチーム》が、準備万端取り揃えた上で「如何にもビッグニュースであるかのように」仕立てたとしか思えない。そして、この《タッグチーム》の戦略が《法要の席での応酬》を誘発する原因となったのである。
1988年2月26日の法要に 澤地氏が(堂々と?)参列したのは何故か。ご当人には「拙いこと」を書いたつもりがないようで、間もなく《次作》を「別冊文藝春秋」1988年4月号に発表して、事件関係者の怒りをかき立てた。
《澤地久枝「二・二六事件 在天の男たちへ」》
この「別冊文藝春秋」2段組20頁にわたる長編は「匂坂春平さま。」に始まり「二・二六事件をとく最後の鍵が世に出ることを喜んでください」で結ばれている。全体を通じて、あたかも《片思い相手へのラブレター》の如き文体で、いささか不気味でもある。

この「二・二六事件 在天の男たちへ」に対し、池田俊彦氏が「文藝春秋・五月号」に反論を発表し、共感と同意を得た。
「この問題は闇の中から出て来た匂坂資料にNHKと澤地氏が幻惑されて、奇妙な新説を立てたものであるが、二月という時期に間に合わせるため、少しく結論を急ぎすぎた感があるように思われる。既刊の資料とも照合して、多くの当事者及び研究家の供覧を得て、多角度からの意見を含めて発表すべきものであったと思う。功名心に眼が眩んだのか、金儲けのためか知らぬが、歴史を曲解し世間を惑わせた罪は重い」
これは《現代史懇話会「史67」1988年9月》に掲載された《「歴史を見る眼」池田俊彦》の一部分である。
「史67」には《「『匂坂資料』信者への抗議」末松太平》を筆頭に《「歴史を見る眼」池田俊彦》《「ねじ曲げられた匂坂資料」田々宮英太郞》と、騒動をめぐる評論三篇が特集されている。

1990年5月6日に.、河野司氏が逝去された。河野氏の《騒動》への反応は(私の知る限り)どこにも記されていない。
河野氏の死後、1992年に発刊された《澤地久枝「試された女たち」講談社》は7つの短編で構成されている。二・二六事件に関係したのは「磯部浅一の妻登美子」と「雪の日のテロルの残映」の二篇である。仏心会との縁が薄れたためであろうか、二・二六の妻たちへの「配慮」は感じられない作品になっている。
「雪の日のテロルの残映」には「教育総監渡辺錠太郎陸軍大尉の次女」と「竹嶌中尉の妻だった人」の二人を混在させて話を展開するという《意図不明の手法》が用いられている。
「1979年7月12日の法要に加わった私は、河野司氏から思いがけない人を引き合わされた。竹嶌中尉の実弟夫妻とY夫妻(竹嶌との間に子をもうけた女性の代理人)である」ということから、竹嶌中尉と女性二人(浅田清子=仮名、川村キミ=仮名)との(二・二六事件と関係ない)三流週刊誌レベルの《秘話?》が展開していく。わざわざ「仮名」を用いて書くほどの(報道価値も)文学価値もなく、ある種の悪意しか感じられない。
自分が紹介したことが(十数年後に)このような「結果」を招くことになるとは・・・。在天の河野氏も悔いてるのではあるまいか。

私自身の「脳トレ」の話が、想定外の展開に到ってしまった。こうなった以上は(お読みになった方々に)誤解を与えないように 話を続ける必要があるのだが・・・。と、弁解しつつも、今回はここまで。(末松建比古)
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◎「7月12日」の逡巡。そして・・・◎

2024年07月12日 | 末松建比古
「・・・仏心会は遺族の会であって、二・二六の会ではありませんから。」
「・・・では、二・二六の会はあるか? ありません。それでいいでしょう。」
唐突の書き出しは 現代史懇話会「史89/1995」「史90/1996」に掲載された《小木曽八「二・二六は永遠なり/末松太平、晩年の手紙」》からの引写し。末松太平が小木氏に送ったという「返信の数々」の一部分である。
掲載号の「編集余情」には「・・・『二・二六は永遠なり』を書かれた小木曽八さん、心のぬくもりが、ほのぼのと伝わってくる好文章である。心友とは如何にあるべきかを、しみじみと考えさせる」と記されている。

7月12日の「賢崇寺の法要」には 参列するつもりがなかった。
「仏心会は遺族の会であって・・・」ということは、私自身も ある時期から強く意識しはじめていた。特に ここ数年は コロナ禍対策として「法要」の参列者は「仏心会」の主要メンバーに限定されていて、徐々に「遠い存在」になっていった・・・ということもある。

  

そして7月12日。 私は賢崇寺にいた。
予定を変更させた原因は、大石健一氏(読売新聞中津支局・支局長)からの電話にある。
「休みがとれたので 賢崇寺に行きます。末松さんは参列なさいますか?」
「多分 賢崇寺には行かないと思う・・・」
「賢崇寺でお目にかかれないときは どこかで会いたいので 連絡しても良いですか?」
「はて・・・」
大分県から遙々やってくる大石サンの《熱意》には 応えるのが《人の道》というものだろう。
しかし 自宅に待機していて 法要が終わる頃に《どこか》に出かけるのも億劫なはなしである。
大分県から来る人のために 直ぐ判る場所(直ぐ判る店)を あれこれ考えるのも煩わしい。
それよりも 賢崇寺に出かける方が簡単ではないか。
ということで 急遽「志」を二封(仏心会宛と慰霊像護持の会宛)用意することになった。

   

法要の様子については省略。私が(法要の場にそぐわない?)軽装姿であるのも、いつもと同じこと。
2月26日は「二・二六事件全殉難物故者◎◎回忌法要」だが、7月12日は「二・二六事件十五士◎◎回祥月忌法要」という趣旨の違いがある。勇ましい方々が来ることもないから「公安関係」の方々を煩わせることもない。
法要を終えて 直ぐに帰りたいところだが 後片付けの方々(今泉章利サンや森田朋美サン)を無視して消える訳にはいかない。玄関横のスペースに置かれた椅子に ぼんやり坐って時間つぶし。
「・・・末松さん、香田です。ブログいつも見ていますよ」
わざわざ名乗って挨拶するのが 香田サン(仏心会・前代表)の生真面目なお人柄である。

大石サンは(有給休暇で上京したのに)記者の習性を発揮して「野中サンに話しを伺うので お待ちいただけますか・・・」
《野中サン》については 今まで挨拶したこともなく 詳しいことは知らない。野中大尉の遺児=お嬢さんひとり。つまり《野中サン》は「野中大尉の兄か弟の御遺族」ということだろう。柔らかな笑顔を欠かさない(84歳の私よりも高齢の)物静かな方だとお見受けした。
玄関横のスペースでは 栗原(仏心会・現代表)サン、今泉(慰霊像護持の会・世話人代表)サン、香田(仏心会・前代表)他2名が顔を揃えて会議中。取材を終えた野中サンも「こちらに坐って下さい」と招かれていた。
・・・大石サンの奥には 毎日新聞・栗原記者の姿が見える。栗原記者は ラフな黒シャツ姿で原稿執筆中。彼の服装と比べれば 私の《軽装》は それなりにキチンとしていた筈である。

森田朋美サンに率いられて 池田俊彦少尉の墓参り。瑞聖寺=都営地下鉄「白金台駅」前。大石サンも同行して 年少者の役割(墓掃除)を果たしてくれた。
墓参を終えて 近くの「バーミヤン」へ。今泉サン、渡辺都子チャンも現われて 総勢5名の「直会」となった。(末松建比古)
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◎承前/相澤正彦「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」◎

2024年07月02日 | 末松建比古
驚いてはいけない。《末松太平「私の昭和史/二・二六事件異聞」》には《相澤中佐》が全く登場していないのだ。
1963(昭和38)年発行の「みすず書房版」から、2023(令和5)年発行の「中央公論新社版」に到るまで、《相澤》は「私の昭和史」に一度も登場していない。巻末の人名索引にも《相澤三郎》は登場せず《相沢三郎》が記されている。
《相澤三郎》《相沢三郎》・・・。末松太平が間違えたわけではない。大蔵栄一著「二・二六事件への挽歌」に登場するのも《相沢》である。大蔵栄一氏は 軍事裁判への対策として「相澤中佐の片影/昭和十一年二月十日発行」の作成に尽力された方だが それでも自著では《相沢》と記している。

判決
予備役陸軍歩兵中佐 相沢三郎
明治二十二年九月九日生
右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍事法廷は検察官陸軍法務官島田朋三郞千与審理を遂げ判決すること左の如し。
主文
被告人を死刑に処す
押収に係る軍刀一振は之を没収す

陸軍省発表(昭和十一年五月九日)の公式文書でも《相沢三郎》と明記されている。
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《相澤正彦「大岸頼好論序説(二)/敗戦との闘い」》
・・・現代史懇話会「史87/1995」平成7年5月6日発行。

《東久邇内閣》
大岸頼好は、昭和初期に青年将校運動の覚醒と原動力の一端を担い、敗戦の混沌が収縮の方向に向かうなかで、郷里土佐に帰るまで、関係者からの期待と信頼を受けた人物である。彼が世を去って十三年余の昭和四十一年に発行された『追想・大岸頼好/末松太平編集』からもその事実を窺い知ることができる。小冊子ながらも略伝を超えた深みと内容があり、これは偏に寄稿者・編者の熱い思いと力量の賜物であろう。
大岸が敗戦を目前に 和戦両様の構えでその実現を願った「天皇親政」による大政輔翼政治体制案とは、如何なるものであったか。その手稿「是々否々」の「條々」の章から、その冒頭を以下に引用する。尚、この案は彼が東久邇内閣時代に 身命を賭してその実現に取組み、幣原内閣成立後も、推移する状況を踏まえ大修正を加えて「日本人民外交史」と題して頒布している。でも、この方の主眼は、戦犯問題に対する彼の答えにあった。
「條々」の一、大政輔翼ノ綱領では「天皇絶対萬民平等ノ大義ニ則リ天皇ノ国民、国民ノ天皇タル日本ノ眞姿ヲ顕現スベキコト。内外一切ノ𦾔弊ヲ洗除シ、現内閣官制ニ先行優位スベキ御親裁官府ヲ御設置アラセラレルベキコト。」とし、以下註として五項目からなる具体案を列記している。
終戦の玉音が放送され、翌々日成立した東久邇内閣の組閣に当っても、大岸は工作に努めていたようである。入閣に意欲を見せていたといわれる真崎甚三郎を退けて、かねて懇意の小畑敏四郎を入閣させるなどしている。また、内閣発足に際しては、徹底抗戦を主張する軍強硬分子と、心情的にこれを支持する民間人を慰撫するため、首相就任放送の即時実施とその腹構えを意見具申している。大岸は あとで私たちに「首相の東久邇宮の放送は聞きましたか、かなり効果があったようですよ」と、満足げに事の経緯を話してくれたものである。

昭和二十七年夏と記憶するが、私と母は、東久邇邸からお呼びを受け、高輪の邸に参上したことがある。応接間に通され緊張してお待ちしているところへ、年配の侍女に手を添えられ着席された元宮であった。
元宮は 身を乗り出すように顔を近づけ、私の父の思い出話や 戦後の生活はどうしているかなどをお尋ねになった。そのあと「大岸君には、終戦の前後に大変御世話になりました。相澤さんの家を大岸は使っていたようだが、迷惑をかけました」と述べられた。迷惑どころか、軍の物資から、列車乗車の便宜など頂戴したこと、大岸といろいろ語り合ったことなどをお話し申上げた。元宮は、当時を偲ばれてか、やや上を向き眼をしばたたかれながら「大岸君のような人物は なかなかいないものだ、惜しいことをした」と、しみじみ呟かれた。
私どもは、その時はじめて 元宮がかなり視力を失われていることに気付いた次第で、約四十分後に退出した。その際 玄関先までお見送りいただいたのには大変感激した。元宮が終戦を通じて大岸をどのように捉え、信頼されていたかを知ることができた。私たちは、大岸が昭和二十七年一月他界したのを、この参上のあと知った次第である。

敗戦時の徹底抗戦の熱気が収まると、事務所分室になっていた拙宅で、大岸は憑かれたようにせっせと陸軍起草用紙に「日本国憲法草案大綱」なるものを書き始めた。その反古用紙は大量で、拙宅母屋の五右衛門風呂が毎日沸かせる程のもので、わたしもまた風呂焚きに精を出したものである。そのような夏の或る日、手伝いに来ていた勝木栄子女史(母の生け花の弟子)に促されて、庭から開け放たれた応接間の方を窺った。
背の高い好青年が 大岸と何やら真剣に話し合っている。ややあって その青年が興奮気味に「必ずご期待に沿うようコンタクトに全力を尽くします。なあにこんくらいのことで日本は分解したりしませんよ」と言っているのが聞き取れた。あとで、門まで送りに出た勝木女史に尋ねたところ「知らないんですか。あれが灰田勝彦ですよ」と教えられたものである。
このような間にも、大岸は主たる事務所として日佛会館(お茶の水)を拠点に活動していた。同盟通信記者、若手官僚らを通じ、サンフランシスコ放送による敗戦国日本の処理方法や、天皇の処遇に関する連合軍の情報を継続して入手した。或いは東久邇首相のラジオ放送に対する巷の反響調査も行っている。
いち早く 海外の同胞引揚げ援護の仕事にも手を伸ばし、その世論喚起のため 日比谷公会堂で「植村環・河合ミチ子女史の講演会」「巖本真理のバイオリン演奏会」なども催した。しかし これらの所謂文化活動は 進駐してきた米軍へのプロパガンダと これらを通じての接触模索にあったようで、前述の灰田勝彦の発言からもこれを窺うことができた。
終戦直後の混沌の時期もようやく終焉の兆しをみせはじめた頃(十二月二日財閥解体、日本社会党結党)、拙宅でなにやら一人で片付けものをしている大岸を見掛けた。風呂の焚き口に庭の枯枝などを集めていると、彼は反古紙や書類を抱えてきて、一緒に燃やしてくれという。その中にあったのが「是々否々」と表書きされた本人の手稿であった。
精魂込めてまとめたものであろうと思い、所持されてはと話すと、一寸頁を繰ったが、何時になく無表情で「読んでもかまわぬが、その後は他人には見せずに必ず燃やすように」と念を押された。私にとって これが大岸と顔を合せる最後となった。
・・・末松氏が亡くなる二ヶ月前、此の手稿を持参してお見せした。「これは間違いなく大岸の字だが、何時頃、何処で書いたということは勿論、見たこともない」とのことであった。

《良民良兵》
大正十年三月、大岸は士官候補生として弘前歩兵第五十二連隊に配属され、同年十月 陸軍士官学校に入校した。当時士官学校内にも浸透してきたマルクス主義への関心に加え、弘前での疲弊した農村の状況に刺激され、一旦は退校を決意するほど 国家改造への激しい情熱を燃やした。
大正十二年七月、士官学校を卒業(第三十五期)。見習士官として第五十二連隊に戻り、同連隊で少尉に任官する。しかし早々に病を得て、数ヶ月自宅療養することになる。その間に彼は日本古典の研究などを学習するが、これらに立脚して「兵農分離亡国論」を基調とする日本軍隊の構造改革を考えた。この心境の変化を後に先輩の横地誠に「マルクス変じて本居宣長になった」と漏らしている。
大正十四年五月、軍縮で弘前第五十二年隊が廃止され、大岸は青森第五連隊に移った。そこで、四月から同連隊に士官候補生として勤務していた末松太平に出会うことになる。末松は、陸士本科に入学する十月までの約五ヶ月間、大岸から薫陶を受ける。そして農民を組織して変革の主体とする思想は、末松らに継承されていく。昭和九年初秋の 青森県農民を主体とする飢餓行進計画は その典型であった。
大岸は 昭和元年十月 中尉に任ぜられ、翌年七月に仙台陸軍教導学校学生隊付に補せられ赴任する。その折り「東奥日報」記者であった竹内俊吉に「青森の一番大きい仕事は、冷害に負けないで稔る稲の新品種を作り上げることだよ。右翼も左翼もない、思想以前の問題だ」と語っている。大岸が幼年学校から陸士時代にかけて培い、その後も思惟の基底部分にあった社会主義的要素を払拭しはじめことをた意味するものだろう。
仙台陸軍教導学校での大岸は、下士官候補のなかに、兵農分離亡国論を柱とする社会変革への同調者を養成することに務めた。然し、教導学校の創立そのものは、当時の陸将宇垣一成の「軍民一致」構想に端を発するもので、国民の中核層として「除隊する良兵」の放出を目的とし、軍隊はそのために「良兵」の培養元たらしめんとするものである。
スローガンは「良兵良民」。従ってこれには先ず兵の直接指導者である下士官を、その趣旨に沿った指導者たらしめなければならない。このような考えは、陸軍に国民統合の中軸としての機能を発揮せしめると同時に、国防の底辺を拡大することによって、高度国防国家の建設を目指したものである。これは「軍は民族生存の最高意志である。よって総てのものはこの軍に奉仕すべきである」とするルーテンドルフの思想に通ずるものであった。
これに対して大岸は、後顧の憂いなき郷土から「良兵」は生まれるとする。そのスローガンは「良民良兵」で「良兵良民」に相反する。この発想は、大正末期に旭川連隊で少尉に任官した村中孝次が「軍事扶助」をめぐる問題で、農村出身の兵とその家の立場に立って、軍に強く意見具申していることにも窺うことができる。
因みに昭和六年の「三月事件」は、宇垣首班内閣を 目論んだ未遂事件で、ルーデンドルフ信奉者の永田鉄山が宇垣らの示唆で起案したとされる。永田はこの蹉跌を他山の石として、腹心幕僚の結束と、軍中枢への進出をはかった。
そして当面の障碍となる村中、磯部を、陥穽による士官学校事件で軍組織外に放逐することに成功する。村中等は言うところの啄木鳥の戦法にまんまと嵌められたわけである。
昭和五年 天長節を期して 大岸はパンフレット「兵火」を 関係する青年将校を中心に全国規模の配布を実行した。その第二号に「現在日本に跳梁跋扈せる不正罪悪━宮内庁、華族、政党、財閥、赤賊等々━を明らかに摘出して、国民の義憤心を興起せしめ正義戦闘を開始せよ」と記した。所謂「兵火事件」である。この時期に青年将校運動を具体的にリードしつつあったのは海軍側であるが、その指導者藤井斉は「兵火」を一読して、これで陸軍同志との提携ができたといわしめた程のものであった。だが、ここで問題なのは、軍内部の改革という発想を脱却し去ったことである。仙台陸軍教導学校での約四年間に亘る隊務生活の中で、大岸は好むと好まざるとに拘わらず、軍への成員志向と「隊務専心」義務が拡大し、その拠り所としてこれを天皇信仰に求めていったと考えられる。(つづく)
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「史86」「史87」と続いた「大岸頼好論序説」の《つづき》は「史88」に掲載されなかった。休載の理由について「史88」の「編集余情」には記されていない。それは「史89」でも「史90」でも同様だった。相澤正彦氏の状況についても知らされることはなかった。
参考までに 数年を遡って《末松太平の場合》における「史」の対応を記しておく。
《末松太平「二・二六事件断章(その十)/獄内人間模様」》は「史79/1992」に掲載された。そして 次号「史80」の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」と記されている。
そして「史81/1993」の「編集余情」には「昭和維新運動の受難者、相沢ヨネさん、末松太平さんが相次いで亡くなられた。追懐の情を新たにする二篇」と記されている。その「二篇」は この号に掲載された《「相沢ヨネさんを悼む」山口富永》と《「回想の末松太平」池田俊彦》である。

   

「大岸頼好論序説」の中断は 相澤正彦氏の健康状態が原因だったようである。
しかし、平成7年、平成8年・・・、相澤氏直筆の年賀状は「何の気配」も感じさせなかった。平成11(1999)年の年賀状「今年は是非おさそい致したく思いおります」に 私は心躍らせ「おさそいされる日」を心待ちしていた。
「相澤氏が病床にある」と知ったのは何時頃だったのか はっきりとした記録がない。病床見舞いは、奥様から「申訳ありませんが 難病なので・・・」と謝絶されていたので 過酷な病状は推察できた。当時は健在だった私の母(末松太平夫人)にも情報は伝わっていて「相澤さん、大分悪いらしいね・・・」と心配していた。
2004年の年賀状は「相澤夫妻の連名」に変っていた。そして これが「相澤正彦氏」から戴いた「最後の年賀状」になった。(末松建比古)
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