◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・第1楽章◎

2022年08月25日 | 末松建比古

◎時は昔 2月26日の午前10時過ぎ。所は 渋谷区宇田川町 二・二六事件慰霊像の前。
※当時の私は 賢崇寺の法要に向かう前に 慰霊像に立ち寄るのが定番であった。
JR原宿駅で降りて 慰霊像まで歩く。慰霊像から渋谷駅前まで歩いて そこからバスで賢崇寺に向かう。
時には 高橋正衛サンとバスの中で偶然に出逢って 一緒に賢崇寺の坂を登ったこともあった。



◎時は昔 慰霊像の前には 数十人のコワイ雰囲気の方々が集結していて「慰霊式」が行なわれていた。
※周辺には 仏心会の方々の姿も見受けられたが 皆様おとなしく後方に控えているようだった。 
ある集団が主催する「慰霊式」では 某老人(Nセンセイと呼ばれている)が 勇ましいアジテーション演説をしている最中だった。
「現在の日本社会は 腐りきっている。腐敗した社会を是正するには もはやテロしかないと 今は亡き末松太平さんも言っている。諸君は 末松太平さんの生前の言葉を肝に銘じ 今こそ立ち上がらねばならない」
愕然とした。「もはやテロしかないと 末松太平さんも言っている」とは どこで仕入れたネタであろうか。
末松太平が「テロの奨め」の類いを表明したことは一度もない。Nセンセイが 勝手に名前を利用しただけのことである。

※以上は 当ブログ「2007年4月19日掲載」の一部を引用したものである。
その時のタイトルは「困惑そして沈黙・長崎市長射殺事件」で やはり「テロがらみ」の内容であった。
「長崎市長射殺事件が勃発して以来 何となく平常心ではいられない状況が続いている。これは『テロ事件』と遭遇する度に繰り返されるモヤモヤとした心象なのだ。/それなりの『義』があったとはいえ 二・二六事件は紛れもない『テロ事件』のひとつである。言うまでもなく暴力団員による今回の事件と『十把一絡げに論じられたくない』という思いはある。しかし 一般市民の印象は 多分・・・というあたりで 次第に気が重くなってくる」
・・・という前置きのもとに 慰霊像前での出来事が記されていた。

◎テロに関して言えば 末松太平著「私の昭和史/二・二六事件異聞」に書かれているなかに ヤバイ部分があるのは事実である。
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※「どうだ、大同団結がどうの、改革案がどうのと、四の五のしつめんどくさいことにかかずらわっていても仕様があるまい。結局は誰か一人が犠牲になって、日本の一番の害を除けばいいだろう。おれが一人でやるから、貴様東京でお膳立てしないか」と私は渋川善助に提案した。渋川は同意した。
「ところで一番の害は誰かね」「やはり牧野伸顕だ」「いまでもやはり牧野か。ではそれを誰にも相談せず、二人だけでやろう」
当時青森発夜の七時の夜行にのると、翌朝七時半に上野に着き、その急行はまた夜の七時に上野を発ち、翌朝七時半に青森についた。土曜日に隊務を終わって夜青森を発ち、日曜日の朝東京に着き、なにごともなければ、月曜日の朝、何食わぬ顔で連隊に出勤することができる。目的達成が可能ならば、火曜日水曜日になっても、病気とかなんとかでとりつくろえる。
もう羽織はいらなかった。和服で袴を着け、臍の下あたりに、満州以来愛用のモーゼル二号と、別に予備に弾丸を填めた替弾巣を一緒にしてハンカチに包み、しまいこんだ。
東京通いは、せっせと一ヶ月ばかり続けた。四回か五回になった。その度に渋川は私の顔を見るや「こんども駄目だ。なにも言わずに帰ってくれ」をくりかえすだけだった。
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※Nセンセイが 慰霊像前の集会で「もはやテロしかないと、末松太平さんも言っている」と コワイ雰囲気の方々に「テロ実行」を煽り立てたのも 二・二六事件以前の「むかしばなし」を ねじ曲げて利用しただけのことかも知れない。



◎安倍晋三元首相射殺事件から まもなく2ヶ月。マスコミ各社によって「旧統一教会と政治家の関係」が次々と報じられている。
※安倍晋三元首相が(森友学園疑惑・加計学園疑惑・桜を見る会問題など)政権を私物化していたのは確かだと思うし 旧統一教会との深い関係も明らかになりつつある。マスコミ各社の追求は当然のことである。
しかし 最近気になるのは 追求の方向が「本筋を離れはじめている」ことである。例えば 旧統一教会関連の催しで挨拶していた。例えば 旧統一教会関連の出版物に寄稿していた。エトセトラエトセトラ。こうした「枝葉末節」に熱中すればするほど 追求すべき本筋(安倍元首相の政権私物化疑惑)が有耶無耶になっていく。まさかや~! しんけん? 疑えば 国民の関心を「旧統一教会」に向けようと試みる 岸田内閣のしたたかな戦略かもしれない。

※画像の左端=下村博文サン。右端=末松行子サン。2015年4月25日撮影。背後に警護の方の背中が見える。
これを眺めると 安倍晋三サンの場合の「背後の警護が疎かだったこと」が意味ありげに思えてくる。
言うまでもなく 安倍派の下村博文サンは「旧統一教会との関係」を追求されている政治家のひとりである。
だからといって 末松行子サンが進行役をつとめているのが「旧統一教会関連の集会」であることにはならない。(末松)
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コメント

◎令和四年八月・賢崇寺からの葉書/そして…◎

2022年08月15日 | 末松建比古

拝啓
事件から八十六年もの時が流れました。本年も七月十二日の法要に際し、ご丁寧なお手紙やご供物を賜り、誠に有難う御座いました。お陰様で、賢崇寺藤田俊英大和尚により、八十七回忌の法要を無事終えることができました。賢崇寺様より、コロナの状況から、厳しい時が続いているとのお話しがあり、お寺様のご意向に従い、二月と同様、法要には、香田、野中、田中、今泉が、皆様のお気持ちと共に出席させて頂きました。九十六歳の安田さまは、御用心のため欠席されました。
なお、渋谷区宇田川町にある慰霊観音像につきましては、慰霊像護持の会が、法要の朝、献花参拝をさせて頂きました。
私共は、今後とも、慰霊に誠を献げてまいります。何卒、ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申上げます。敬具。
令和四年(2022年)八月
一般社団法人 仏心会 慰霊像護持の会(東京都港区元麻布1-2-12 賢崇寺内)




※上記は 77回目の「終戦の日」に届いた葉書。北柏駅前局の消印から 投函者=今泉章利サンと推察できる。
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※「事件から86年の時が流れて」という文面に誘発されて 「事件から30年の時が流れた」頃にタイムスリップ。
1966年。某誌に掲載された「二・二六事件随想/三十年」を紹介しておく。筆者は末松太平である。

※数年前 私は静岡の有志でいとなまれた二・二六事件慰霊祭に列席した。場所は清水の鉄舟寺だった。
慰霊祭のあとは歓談の席となった。そのとき 二・二六事件のころ憲兵だったといふ参列者のひとりが、当時は静岡市に住んでをられた対馬勝雄中尉の岳父のことを披露した。
対馬中尉が処刑される日のことだったといふ。この元憲兵は職業柄、岳父をたづねたといふ。如何に職業柄、とはいへ、気の進まない訪問だったといってゐた。岳父はちゃうど一献かたむけてゐるところだったといふが、この非情の訪問を快く迎へて「どうだ、一緒に祝ってくれないか。婿のため、いま祝杯をあげてゐるところだ。対馬は三国一の花婿だよ」といふ意味のことをいったといふ。岳父は陸軍の退役中佐だった。すでに故人である。私は元憲兵の話をききながら、対馬中尉の結婚時のことを思ひかへしてゐた。
対馬中尉が結婚したのは、昭和九年の暮れだったはずである。十一月二十日事件が進行している最中だった。当時私は千葉の歩兵学校に在学中だったが、弘前の三十一連隊から派遣されて豊橋の教導学校区隊長をしてゐる対馬中尉が上京するといふので、私は東京の知合のうちで落合ふことにした。
ちゃうどそのころ満州事変の論功行賞が発表になってゐて、対馬中尉も私も金鶏勲章の仲間だったので、知人のうちでは、それを祝っての赤飯、鯛のお頭付の膳が供せられた。が対馬中尉はなぜか落着かず、そはそはしてゐた。私がいぶかると初めて「実は結婚するんで今日はその家財道具の結納品が届くんですよ」と打明けたが、すぐに腹を決めて「まあ、いいや。仲介人の中隊長の奥さんが何とかしてきれるでせう」と腰を据えて盃を手にした。その時「金鶏をもらふより旭日のほうがいいのですがね」と対馬中尉は冗談をいった。
金鶏勲章は生きてゐる限りもらへる年金つきだから、最初にもらふ金は少ない。が勲功の点では一級低い旭日章だと、一時金だから金鶏勲章に比べて、はるかに貰ふ金額が多い。金鶏をもらたって年金の前途は知れたもの。どうせもらふ金なら、いっぺんに多くもらっておいたほうが特である。対馬中尉の冗談は、そのことをいってゐるわけだった。が、この冗談はただの冗談でをはらず、そのとほりになった。年金は二度もらっただけで、対馬中尉も私も金鶏勲章は取上げられた。
元憲兵の話がをはったあと、隣席にゐた寺平忠輔氏が私に述懐した。「私は当時佐倉の連隊にゐて反乱軍鎮圧のため出動したのだが、若し上から撃ち合ひを命ぜられても絶対に部下に射撃は命じないと、連隊の若い将校ののあいだで申し合せできてゐました」と。
寺平氏は私より三期か四期後輩で、当時佐倉の連隊の中尉だった。盧溝橋事件の時は大尉で北支の特務機関補佐官をしてをり、拡大、不拡大で苦労したやうである。『毎日グラフ別冊・日本の戦争』の中に、停戦交渉に宛平県城内に乗り込むため、城壁を単身、縄をつたってよぢのぼっている寺平大尉の写真が載ってゐる。

「私の昭和史」は一期先輩の伊地知進さんにも進呈したが、その後で会った私は、伊地知さんから突然「僕が二・二六事件後の八月の異動でクビになったのは、太平さん、あんたのせいだよ」といはれた。今更、うらみつらみをいってゐるのでないことはわかったが、初めてきくことなので、済まない気がしないでもなかった。
「いまごろになって、そんなことをいふとは、あんたも人が悪いですなあ。どうしてですか」と私はききかへした。伊地知さんは、そのいきさつを話してくれた。
二・二六事件が起こったとき、青森のわれわれは師団長の許可した意見具申の電報を軍中央部に打つと同時に、このほうは勝手だったが、東京に呼応するやう各地の同志にも電報を打った。それらはみな発信局に留め置きになってゐたと、あとで豊多摩刑務所に面会に来た事件当時の連隊長からきかされたのだったが、福岡の連隊にゐた戸次中尉に宛てた電報は届いてゐて、事件のあとで、その電報が問題になり、戸次中尉の先輩の伊地知大尉が福岡の連隊の中心人物ということで、クビになったといふのである。たしかに私が発信人である電報がもとで、伊地知大尉はクビになったわけである。
が、しかし、この電報によって福岡の連隊を中心に、一つの動きがあったとも伊地知さんはいった。即ち、民間の清水芳太郎氏一党が、炭鉱からダイナマイトを持ち出し、伊地知大尉ら青年将校有志と一緒に関門海峡を渡って、東京支援に馳せ参じようと計画をすすめたといふことである。が、既に関門海峡は厳重に警戒されてゐて、東京支援は実行不可能と判断し、いたずらに焦燥するだけにをはったといふ。
「私の昭和史」を進呈したのが縁で、私がこれまで全然知らなかった、戸次中尉に宛てた電報が巻き起こした福岡地方の波紋を、伊地知さんから聞くことができたわけだが、若しこの事実を前から知ってゐたら「私の昭和史」に書いておくのだったにと惜しまれた。
二・二六事件は、各地からの呼応も、とりたてていふほどのこともなく、孤立した東京だけの狼火にをはった。事前に何の連絡もなく、青森のわれわれが寝耳に水であったやうに、各地方の同志も、急なことだっただけに、いたづらに焦燥するだけにをはったやうで、その例は伊地知さんからきいた福岡の例だけにとどまらなかったやうである。これを、寺平さんから聞いた佐倉の連隊の若い将校達の動向と思ひあはせる と、時期、方法の問題と共に、二・二六事件は、もったいないことだったと私は思ってゐる。
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※「事件から30年」の頃には 静岡の有志だけに留まらず 各地で「慰霊祭」が行なわれていたことが推察できる。コロナ禍の影響で 賢崇寺の法要も自粛状態が続いている近況と比べると 隔世の感にとらわれる。
※それはそれとして 某誌掲載「二・二六事件随想/三十年」に対しては 違和感が拭いきれない。というのは「ゐる」とか「をはった」とか 末松太平が書く筈がなく 某誌の発行責任者が(自分なりの方針で)勝手に書換えて掲載したと思われるからである。
「勝手な書換え」といえば 桶谷秀昭著「昭和精神史」文春文庫版に対する怒りを 以前に記したことがある。この本には「末松太平著・私の昭和史」も度々引用されていたが 原文を勝手に「いふまでもなかった」とか「まざってゐた」とか「ちゃうど」などに書換えられてい
た。これが「毎日出版文化賞」受賞作品なのだから 日本の文化も「しやうがない」と「いふ」しかない。(末松)
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