◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎春は名のみの・・・/故・相沢正彦氏を偲んで◎

2007年03月10日 | 末松建比古
昨日の続きです。

松本健一著「昭和天皇伝説」の序の章は「大洗の海岸で」というタイトルである。この章を読んで、私は「この文庫本との出会い」に感謝した。本を呉れた義弟に感謝した。
松本氏が「のちに血盟団の盟主となる井上日召が精神修行の道場とし、海軍軍人をふくんだ青年たちを糾合して国家改造運動の拠点となした、その護国堂ではないのか?」という場所を訪ねたときのことが書かれている。
大洗の護国寺の境内で、松本氏は「日召翁像」と出会う。境内の案内板には、血盟団事件、昭和維新、五・一五、神兵隊、二・二六事件、などが記されていたという。
私は「血盟団事件」については不案内だが、無期懲役の刑を宣告された「菱沼五郎」氏が、戦後「茨城の県会議長」を務めていたという話は、心に残った。
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「水戸大洗」という地名を聞くと、相澤正彦氏を思い出す。
全く同じ日に、相澤氏は実母を亡くし、私は実父を亡くした。お互いに(東京と千葉で)同時進行の葬儀を済ませて、数日後に私たちは「初めての対面」となった。
相澤氏は、水戸を度々訪れて「いろいろな方々」との交流を深めているようだった。川崎長光氏が「元気」なことも教えていただいた。相澤中佐と末松大尉のようなお付き合いをしていただき、末松太平の墓参もしていただいた。
蛇足だが、末松太平の墓は「身内」しか知らない。相澤正彦氏は、末松未亡人(当時は元気だったのですよ!)にとって「身内同様の存在」だったのだ。

当時の私は「会社勤め」をしていた。相澤氏は「建比古クンが会社を退いたら、一緒にやりたいことがある」と言っていた。そして「会社が休める日に、一泊で水戸に行こう」と誘われたりもした。
水戸の「いろいろな方々」を紹介していただくことに、興味はあった。やがて、私は会社勤めを辞めた。でも、相澤氏との「約束」は実現しなかった。相澤氏が賢崇寺に顔を出さなくなり、末松敏子からの電話にも出られなくなっていたからである。相澤氏は(私が想像していた以上の)重病に罹っていたのである。

ある日、相澤氏の奥様から、電話を頂いた。葬儀のお知らせだった。
連絡をいただいた「二・二六関係者」は、私だけである。通夜に駆けつけると、直ぐに遺族控え室に案内され、長い闘病生活についての詳細を伺うことが出来た。
告別式では、山口富永氏(長野県在住)の弔電が披露された。後日知ったのだが、山口氏は当時「長期入院していた」らしい。因みに、山口氏は、相澤中佐夫人の葬儀の際には「弔辞」を述べている。蛇足だが、末松太平の葬儀では「弔辞」はなかった。喪主の私に、その気がなかった。
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画像は、我家のベランダ。雑用(定期棟総会とか)が重なっていて、ウオーキングに出かける余裕がない。
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