◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

サンクト ペテルスブルグ と 日露戦争(2)

2009年05月29日 | 今泉章利
ここサンクト・ペテルスブルグは、バルチック艦隊の基地ででした。 30分ほど北に行ったとことろに フィンランド海峡というのがあります。半分は橋で、海峡の真ん中に島があり、そこからは、東京湾トンネルみたいな海底トンネルになっています。真ん中の部分は島になっていて、そこに、艦隊がつながれていていたそうです。それがバルチック艦隊で、日露戦争のため、喜望峰を回ってインド、シンガポールを経て対馬で、我が連合艦隊と戦い負けたのです。1904年、明治38年の5月27-28日のことでした。ちょうど105年前のことでした。なんだかこんな日に、ペテルスブルグにいるのは不思議な気がします。

なお、対馬の日露戦争といえば、筆者の祖父、今泉義道の父、原道太海軍大尉(当時)が軍艦扶桑の水雷長として活躍したことがあったそうです。

この戦争で、日本の運命も変わっていきます。。。

この町には、凱旋門があります。トルコに勝ったというものですが、日露戦争でロシアに勝った日本に大喝采と最大の敬意を払ったのが、そのトルコでした。

今はとてもいい季節で、連日抜けるような青空、だんだん白夜が近づいていますが、夜の11時でも、十分に明るく、美しい建物の上に上弦の月が輝いておりました。

(今泉章利記)
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今、ペテルスブルグにいます。

2009年05月29日 | 今泉章利
あわただしかった出張が、ここロシアのペテルスブルグで終わり、これからパリ経由で帰国します。
昨日は、シエラザードを作曲したした方のお孫さんのリムスキーコルサコフさんという原子力物理学者にお目にかかりました。
チェルノブイリの話や、おじい様のリムスキーコルサコフさんのこと、ソ連時代の宇宙飛行士の話など楽しい半時を過ごすことができました。モスクワと違い、権威主義的でなく、自由な気風があり、美しい町並みがどこまでも続くすばらしい町でした。
なお、一緒に食事をしたレストランは、よくドストエフスキーが来られたところとか。

たぶん、ある基準を設ければ世界一きれいな町だと思います。

水上さんの関係で訪問した函館の水産学校の方からメールをいただきました。平澤さんという人が書かれた「叛徒」に水上さんのことが出ていると書かれてあった。

(今泉)

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御無沙汰しています。アジアの未来

2009年05月23日 | 今泉章利
やはり、サラリーマンは厳しいですね。

ベトナムから帰り、昨日今日は、日経新聞主催の「アジアの未来」という会議に出席していました。大変に、刺激的な会議でした。二日連続の会議で、ダボスの会議よりよほど質が高いかもしれません。

一日目は、ベトナムのグエン・タン・ズン首相、マレーシアのマハティール、今日は、韓国の首相、二階経済大臣、シンガポールのリー・クアン・ユーさん、中国やインドの政治家などが出てアジアを語っていました。心配で気になるところはいくつもありましたが、こんな風に、アジアの指導者がやってきて、議論し、質問に応じているのはなんとも不思議な感じがしました。

明後日からまた一週間、出張です。今度は、ロシアに行きます。モスクワとはじめてゆくサンクト・ペテルスブルグに行きます。

土曜に帰りますが、一日置いて、月曜日から、二日続けて、東京のあるホテルで、国際会議を行います。

ちょっとばて気味です。昔は何と言うことはなかったのに。

本当は、、事件に関することも、ものすごくたくさんある報告事項あるのですが、手が回りません。ご容赦ください。でも、おって、少しずつ報告します。少しご報告したものもありますが、、弘前の訪問、瀬棚の訪問、函館の訪問、水上さんの遺品、アルバム、など、、山ほどあります。でも、水上さんの輪郭が少し見えてきたのが救いです。

後は、学生運動を整理しなければなりません。

(今泉章利)

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水上源一さんのころの日大について

2009年05月11日 | 今泉章利
皆様

日大、日本大学については勿論ご存知でしょうが、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
小生は、マンモス大学という感じを持っています。昔、高校を卒業して、大学に入れず、駿台という予備校も落ちて、三崎町の予備校に通っていたことがあります。まわりは日大だらけで、目の前の白山通りで、古田体制打破というデモや
バリケードストライキをやっていました。

だからそういうイメージを持っているのですが、水上源一さんのご卒業された法文学部政治学科は、わずか17名、先生は、24名。
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友に。

2009年05月09日 | 今泉章利
友に。

君は忽然と幽冥境を異にした。僕は、君のいなくなった部屋に、肉親の方たちとともに入り、まるで部屋のどこかに君がいるかのような錯覚にとらわれながら、君の戦いの跡を眺めていた。そこには、僕からの手紙もあった。様々な仕事が置き放しのままにされていた。

帰りの車で僕は泣いた。悲しかった。君には弱いところがあった。しかし、このぼくにはもっと弱いところがある。僕はもっともっとだらしのない人間だ。君は、いつも優しかった。人間にやさしかった。僕にはない優しさだった。僕のようなまだら模様の優しさとは違う優しさだった。

何にもない君の部屋には、君の魂魄だけが漂っていた。。

人は、思い出があると悲しい。たくさんあればある程、悲しみが増す。僕にはもう思い出はいらない。もういくら泣いても泣ききれないほどの思い出がある。
僕は、僕にむかって投げつけられた運命の糸や紙切れを拾い集めて、下を向きながら、整理をしていこう。命のともしびが消えるまでのわずかなあいだに、君の分も含めて、急いで、整理をしよう。

友よ。僕にその最後の力を絞り出す勇気を与えて呉れ賜わらんことを。

(今泉章利)
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水上さんのご両親のお墓(連休報告2)

2009年05月09日 | 今泉章利
北海道の瀬棚にある水上源一様のご両親源五郎様とまつ様、お兄様ご一家のお墓をお参りしてまいりました。
このお寺は日蓮宗龍光寺で、今は廃線なのですが、昔あった瀬棚の駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。

まつ様は、昭和11年7月12日、ご子息源一様が処刑されたとき、嫁であるはつね様に「源一の起こした事件は、歴史に残る立派な事件だ。だから、遺骨は堂々と胸を張って持って帰るように。」と言われたそうです。
しかし、遺骨を抱き、何も知らない宣子様をつれて、瀬棚の駅に降り立った20歳のはつね様に対する人々の対応はあまりにもむごいものでした。

お骨の箱には、荒縄が縛ってあり、国賊の遺骨を見せしめのようにして、村の人たちは、寺までのあいだ、きっと好奇と冷たい目で見ていたのでしょう。駅から寺まで行列ができたということでした。
勿論特高警察や憲兵もいたと思います。お寺の和尚さんも、お墓にも入れられず、お骨を安置するのが精いっぱいだったと思います。

源一さんの御ねえさまのイノ様のご長男から、父親である湯浅兵次郎(ひょうじろう)様あての遺書を見せていただきました。

国の為よよぎの露と消ゆるとも 天より吾は国を守らん  源一

昭和拾壱年七月九日
為兵次郎兄

とありました。この遺書は、もともとはつね様がお持ちであったものではないらしく、昭和12年4月10日付の消印で、北海道瀬棚郡東瀬棚村真駒内 水上はつ様となっておりました。差出人は、和歌山県高野山 準別格本山 浄菩提院 となっておりました。この封書には、このほか二通の遺書があったそうですが詳細はわかりません。はつね様は、この封筒を受け取られた時は、どんなお気持ちであられたでしょうか。はつね様がおられたその家で、その遺書を見せていただいたのでした。

(今泉章利)

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連休お疲れ様でした。波多江タマさまとの会話(連休報告1)

2009年05月07日 | 今泉章利
皆様、連休お疲れ様でした。

私は、5月4日、對馬中尉の妹であられる波多江タマさまと、弘前で、ほぼ一日 話をしました。 對馬中尉の生まれ育った田舎館村の垂柳(たるやなぎ)にも行きました。對馬様のご遺言の「にもありました神明さまにもお参りをしてきました。

小作の話は、おばあ様とよくお話いたしました。タマさまは、この事件の今の書いてあるものはほとんど全部おかしい。軍部の派閥あらそいで事件が起きたような書き方をしているから、若い人たちは、まったく二・二六事件を誤解してしまうだろうと憂いておられました。この事件は、派閥の話ではなくて、農民のほとんどすべてを占める小作人が本当に貧しい状況にあったことから起こったのであり、その後に派生した政治的な動きは、真の原因ではない。農民の状況を理解も勉強もしないで二・二六事件を語るべきでなく、間違っているといわれました。

あまりにも農民や人々が貧しいから、何とかしなければというのが根源であるのに今の二・二六事件の書き方は間違っていると、94歳のタマ様は静かにいわれました。

(今泉章利)
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ひろ坊様へ 車力村小作農民組合のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊さま 細かくなくて申し訳ありませんが、私の理解していることを書きます。私が、末松太平先生からいただいたコピーは、どこかの本の一部で、たぶん、青森県史とかそういうものの一部と思いますが、出典を示すものがないので、どなたが書かれたのかわかりません。が、それから理解しているものです。ここには大正15年から昭和の初めにかけての車力村の小作争議が書かれています。政党色など一切ない人々の命の叫びの中に、末松先生は何かを感じ、私に、二・二六事件だと言われたのだと思います。

大正13年の岩木川の氾濫で、車力村は、田圃も家も水につかりました。おまけに、霜、霰の冷害が一帯を襲い、産業のほとんどすべてといってよい米は七分作、五分作、三分作、皆無作となってゆくのでした。一方、当時の農業は小作人が耕して小作料を地主にはらうやり方でしたが、この小作人が地主に払う小作料は、とても多いものでした。
この頃、小作料は、全国平均で収穫の50%をこえていましたが、青森県では54%でした。さらに、津軽北部では、75%という記録もあるような状況でした。この数値だけでも驚くのですが、実際に地主から田んぼを借りるためには、前作米という契約と同時に一年分の小作料(お金)を払わなければなりませんでした。そしてこの年の秋には、もちろんそれとは別にお米で払うというものでした。所が話はこれで終わりません。当時の伝統では、さらに、礼米といって、地主に対して小作人は、4年に一度、一年分のお米を地主に収めなければなりませんでした。つまり、実際の小作料とは、54%なら67%に、75%なら94%のお米を毎年平均収めることになるのでした。信じられないけれどこれが実態でした。そして、そこに冷害や水害が襲ったら、すべてを取られて小作人はなすすべがありませんでした。目の前で、地主は、米蔵を建て、百姓は残りのわずかなお米で暮らしていたのです。勿論、小作料を払わなければ、小作人は追い出されるのでした。この話はもっと書こうと思いますが、大正13年の岩木川の氾濫、、、大正15年の5月1日のメーデーの日に、車力村の鎮守の森から、青森県で初めてのメーデーが起こったのです。
参加したのは、車力をはじめ、木造町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、山茂木、芦野、下牛潟、などから650名であったそうです。そのスローガンには「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人から飯茶碗を取り上げるな」「小作料を負けろ」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ」と行進し、農民組合の発祥の地として、全国新聞などで、車力の名前が紹介されたと書いてあります。

昭和のはじめと言えば、大岸さんも西田さんも、末松さんも、もちろん国民もその矛盾は強く感じていました。しかし、天皇の名において制定された明治憲法およびその政府は、そのような昔の農業の体制ととも存在し、それを変えさせまいという強い意志を、警察を擁する内務省の実際的なゲバルト(暴力)で封じ込めていったのでした。

ひろ坊様、今度また、車力村にいって当時を知っている昔の長老に話を聞こうと思っているのです。私の知らないことなど御教えくだされば幸いです。

(今泉章利)

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河野進氏ご逝去

2009年05月03日 | 今泉章利
河野司先生のご二男であられます進様が4月26日、心臓の御病気のため享年60歳でご逝去されました。ここに謹んでご報告申し上げます。御家族の方には心よりお悔やみ申し上げます。

進様は、晩年、お父様(河野司さま)とお母様(河野華江さま)を通じての河野壽様を書こうとしておられたようですが、残念なことでありました。なお、河野華江さまのお妹様は92歳でお元気であられることを聞きました。お元気なうちにお伺いしたいと考えております。

また、お兄様の道思(みちただ)さまは、進様よりも御年長のため、河野司先生の家に来られた方につきもう少しご記憶らあられるようですので、こちらもお伺いしていろいろとい話を聞こうと思っております。

(今泉章利)

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ひろ坊さまへ 車力村のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊様

先日、報告申し上げました「小作争議」は、昭和48年に、車力村役場が編纂した、「車力村史」というものの一部であることが判明いたしました。この本は、非売品なのですが、先日ようやく手に入りました。634ページの大作です。

これと関連してですが、1977年に作間雄二おいう方の書いた「戯曲 西津軽郡車力村 -ある日本の医師の物語ー」というのも入手いたしました。岩淵先生を「石淵先生」にしていられましたが、当時の様子が伝わってくるようです。

末松先生はこのような生活に根ざした改革こそが昭和維新の本質であると言われておりますが、このような維新活動方針は大岸頼好の考えと合流し、維新活動は青年将校の中でも一番貧乏だった對馬中尉のような方たちとするのだと言われています。はっきりとはいわれていませんが、頭での維新活動ではないものが、末松先生の維新の基本というように私は理解しております。

(今泉章利)

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