◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「渋皮善助」氏の慨嘆◎

2015年03月31日 | 末松建比古


ウオーキングの途中で いつものように大型書店を視察。なんとかという出版社の「歴史入門シリーズ④」が目に留まった。シリーズ④は「2・26」特集。表紙には「昭和維新は成らず 青年将校たちの戦い」の文字もある。いわゆるムックスタイルで外観は悪くない。
言うまでもなく、この種の出版物に「真実」を求めようとは思わない。当時を知らない世代に「表層」を把握してもらうだけでも、それなりの意義がある。新しい「二・二六事件の関連本」が書店に並ぶだけでも、なんとかという出版社に感謝しなくてはいけない。
しかし、内容的には「トンデモ本」の一種だったので、ガッカリしてしまった。何しろ「渋皮善助」が登場する本なのだ。別のページには「渋谷善助」も登場する。要するに「その程度のレベル」の入門シリーズだから、立腹する方が悪いのかもしれない。

この出版物の内容は、複数の人間によって記されているらしい。題材ごと(例えば、相澤事件とか高橋是清とか)の筆者名が記してないから「らしい」と推察するしかないが、事件の捉え方が混乱している。
それにしても「青年将校の“格差社会と政治腐敗の打破、農村の貧困を救うため奸臣を取り除く、などは後付けの理由で、革命熱と陶酔によって決起した」というような解説はヒドスギルのではないか。

表紙に奇妙な数字が大きな文字で記されている。自決2人+処刑16人+民間人2人。合計20人。
軍事裁判によって処刑された人数(自決を含む)のつもりだろうが、計算が合わない。
賢崇寺の墓碑には、相澤中佐を加えて「二十二士」が刻まれている。この「トンデモ本」が数え忘れた「ひとり」は誰だったのだろうか。

こういう類の書物に遭遇した場合、河野司氏や末松太平が健在だった頃であれば、抗議をして訂正させた筈である。河野・末松が逝去した後でも、池田俊彦氏が健在であれば、穏やかに反論を記したと思う。
この本には、池田俊彦著「生きている二・二六」が度々引用されている。他の方々の著作が殆ど引用されていないのが、不思議といえば不思議である。

余談(予断?)を少々。歴史入門シリーズの続刊は「新撰組」である。二・二六事件に“渋皮善助サン”が登場したように、新撰組に“肘肩歳三サン”が登場するのではないかと心配している。

画像は国立公文書館の展示資料。ストロボ&三脚使用禁止を守れば、写真撮影できるのが嬉しい。(末松)
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◎「国民新聞」休刊の報せについて◎

2015年03月19日 | 末松建比古


山口富永氏(大正13年生)から手紙が届いた。数年前の電話で「貴方の父上の歳を超えてしまった」と笑っていたが、卆寿を超えても若々しい“発信力”を持続していることには感服させられる。

《お変わりありませんか。
国民新聞の私の記事をみてもらいたく、おおくりします。
御尊父様のことを書いておきました。私もこのごろ眼が不自由になってきました。
「国民新聞」が廃刊になり、最後の一文となりました。
御尊父様を私に紹介してくれたのは、山田恵久さんでした。

「わが昭和史メモ」として
1・真崎大将の墓を訪ねて
2・近衛上奏文の歴史的意義
3・岩淵辰雄に刺客をさしむけた東条軍閥政権
4・日本崩壊の始まりの銃声
5・末松太平大尉の二・二六を連載しました。(後略)》

山田恵久氏は「国民新聞」の編輯兼発行人である。末松太平が逝去した際には(父親の交友関係に疎い私のために)いろいろと御尽力いただいている。そういうこともあって「国民新聞」廃刊の報せは、いささかショックであった。



画像参照。1992年(平成4)7月25日、山田恵久氏のカメラでセルフタイマー撮影した写真である。
末松太平の「米寿」を祝う会。西千葉駅前のみどり鮨に、末松夫妻を招待し「御祝」を贈ったのは、以下の6名。前列左端が相澤正彦氏(相澤中佐・長男)、右端が山田恵久氏、後列左から今澤栄三郎氏、山口富永氏、田々宮英太郎氏、今泉章利氏の皆様である。
末松太平が死去したのは翌年1月17日だから、この写真が“最後の晩餐”になってしまった。

「国民新聞」平成27年3月25日号。巻頭に掲げられた山田氏の挨拶を紹介しておく。
《冠省 明治23年に徳富蘇峰が「言論報国」の理念を掲げて創刊した小紙「国民新聞」は、この程つひに矢玉尽き、刀折れ、「言論千早城」は落城。三月二十五日をもって休刊することになりました。リーマン・ショック以前からの超過債務が重しになり、もうこれ以上前に進める状況ではなくなりました。挙句に一月末にわたくしが悪性脳腫瘍に罹患してゐることも判明し、小紙の発行は残念乍ら断念せざるを得ません。 
読者の皆様には長い間ご愛読いただきまして、まことに心より感謝を申し上げます。なほ三月十二日以降は購読料をご送金なさいませぬやう宜しくお願ひゐたします。ありがたうございました。敬具。/国民新聞社主幹 山田恵久》

《「国民新聞」の復刊を希う常連執筆者の声》が掲載されている。
《「国民新聞」は国体護持を願う全ての人々に開かれている。同志の中にあっても、皇統、憲法、TPP、原発等々、必ずしも合致しない諸点があったが、山田主幹は、本来戦うべき敵は誰なのかを見極め、同志の優れた論考は、ともに同じ紙面に載せた(後略)。飯嶋七生》
思いをこめた文章を寄せているのは16名。私が親しくさせていただいている方々では、森田忠明氏と山口富永氏のお二方が「常連執筆者」であった。
《(前略)幸ひ現今では不治の病といふのでもないのですから、先進医学療法の駆使によって可及的速やかに障碍を軽減し撃退し、美酒も待つほどに。一日も早くもとの健康体を取り戻して戦線復帰を果たされますやう、ただただお祈りするばかりです。》
森田忠明氏の祈りが胸に迫ってくる。

「国民新聞」最終号(第19202号)掲載。山口富永「わが昭和史メモ(四)」
「末松太平大尉の二・二六事件 ― 軍服を着た百姓一揆だった」(末松)
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