◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「政経新論」を追いかけて・・・◎

2023年01月30日 | 末松建比古
◎末松太平に関連する資料が「ゆうパック」で届いた。差出人=末松太平の長女(私の妹)。
・・・私の要請「親父の遺品の中に『政経新論』があれば・・・」に応えたものだが 結果は「一冊だけ・・・」だった。

  

◎「政経新論」1962(昭和37)年10月号。創刊から数えれば「第二巻第10号」にあたる。
目次(右写真)参照。この号には「二・二六事件異聞」が掲載されていない。その理由は何故か?。
1962年2月号「蹶起の前後(その2)」の末尾には「一応ここで筆を止める」と記されていた。
そして この年の8月に「二・二六事件異聞」は高橋正衛氏の目に停まり 翌年2月に「みすず書房版」に結実する展開となる。筆を止めた「連載」が掲載される訳がない。

◎しかし・・・「筆を止める」と記してから数ヶ月後。連載「二・二六事件異聞」は復活していた。
●1962年6月号「映画『脱出』について」。8月号「刑場の写真」。
●1963年8月号「夏草の蒸す頃」。9月号「続・夏草の蒸す頃」。
この4編は《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年2月・大和書房刊》に《拾遺》されている。

◎話を「1962年10月号」に引き戻す。目次の「達磨」は末松太平が描いている。
多分「巻頭言/人づくり」と「復権維新論/同じ穴の護憲論と改憲論」も 末松太平が(無記名で)書いたと思う。
目次には(編集者のミスで?)筆者名が記してないが 田尻隼人氏の随筆「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の憶い出」が心に残る。
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★《抄録/田尻隼人「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の思い出」》
「政経新論誌上、末松兄によって描き出される二・二六事件の秘められた数々の物語のうち、たまたま渋川善助君の登場するごとに、あの紅顔端正な在りし日の故人の面影が、髣髴として瞼に烙きつけられるように浮かんでくる。/その交わりは、さほど深かったとはいわれない。渋川君が大森一声(曹玄)君らの直心道場の一室に、細君と二人睦まじく暮らしておった時代の短い期間であった」
「毎年十二月十四日には、彼は直心道場の青年十人ばかりを引き連れて、小石川水道端町の道場から、朴歯の下駄音高らかに肩いからせて、意気軒昂、徒歩で高輪泉岳寺の義士の墓に参拝する。帰路また徒歩で、夜すでに遅くに西八丁堀にある私の家内の店『安兵衛』に立ち寄り、おでんで酒を酌み交わしながら大いに気勢を上げる。私は彼らを近くの寿司屋に連れて行き、一個三餞の安寿司を振舞ったものだが、実に愉快な情景気分を味わい得て充分であった。」
「昭和十年の十二月、例のとおり義士祭参拝の帰途、渋川君は一行と『安兵衛』に寄って痛飲歓談、来春の再会を約して元気旺然として帰って行かれた。それが彼との最後の酒盛りであり、最後の別れとなったのである。」
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◎「政経新論」1962年10月号の「主役」は《後藤四郎「頭目・王蔭武(前編》」》。堂々21頁の力作である。
・・・冒頭に「政経新論」編集者が掲載意図を示している。編集者(末松太平)の描いたカットも載っている。
「道義国家を理想とした満州建国の蔭には、日本から行った多くの青年の献身があった。しかし、その献身の甲斐なく満州建国は歪曲され遂にその国は消滅した。が、これら青年の献身は満州国の消滅とともに抹殺されていいものではない。これはそういう意味における一青年士官の記録の断片である。」
   
◎後藤四郎氏は「二・二六事件異聞」にも度々登場。「完本・私の昭和史」の索引には「17」の頁が記されていた。
「頭目・王蔭武(後編)」が掲載された筈の「政経新論・1962年11月号」は 手元にない。
昔々 千葉市登戸五丁目の末松邸を全壊して売却撤退した際に 大量の廃棄物に紛れて消失したのだと思う。(末松)
コメント

◎追悼・鈴木邦男様/そして・・・これから◎

2023年01月28日 | 末松建比古
◎《鈴木邦男さん死去/新右翼団体「一水会」創設/79歳》
※1月28日(土)早朝。朝日新聞を開くと 鈴木邦男氏の逝去が報じられていた。
「作家・評論家の鈴木邦男さんが、11日、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去した。/葬儀は家族で営んだ。/一水会が後日、お別れの会を開く。/18年頃からはパーキンソン病などで療養していた・・・」
※ここ数年 鈴木サンの消息が気になっていた。ネットで検索しても 古い記事しか現われない。
表舞台から消えたのは何故か?。ご病気だろうと推察はしていたが(私より若いのだから)元気に復帰すると信じていた。

※1974(昭和49)年。鈴木邦男氏と末松太平は「やまと新聞・記者」と「私の昭和史・著者」という立場で 初めて出会った。鈴木氏は「その日の印象」を 機会あるごとに語ってきた。例えば「末松太平を全く知らない人=坂本龍一氏」に・・・。
例えば「末松太平を◎◎である人=保阪正康氏」に・・・。

  

※当ブログを少し遡ると《◎鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動」のことなど》という記事に辿り着く。2021年4月9日に記している。
4月17日には《◎再び 鈴木邦男編著「証言・昭和維新運動・・・》を記している。写真は その際のものを再掲した。末松太平の視線の先に鈴木氏が居るのだと思うと 感慨無量である。鈴木氏の御冥福を祈りながら どうぞ再読していただきたい。
こうして「末松太平と交流した人」が またひとり減ってしまった。無念なことである。
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◎話は ここからガラリと変わる。
※「・・・私事ですので、本文を公開しないように、お願い申し上げます」というコメントが「初めての方」から届いた。対応はどうする?。
私事ですので」というのは(末松太平と直接関係のない)△△についての質問のことである。
今まで△△について考えたことはなかった。それでも「判る範囲のこと」を「初めての方」のメールアドレスに送信した。
「ある大学」で「事件関係の研究」をしている方からの依頼である。無視する訳にはいかない。

※その翌日に「初めての方」から 次の質問がメールで届いた。
●質問「・・・次の研究対象を視野に入れて 仏心会の幹部に連絡してみようと思います。仏心会のホームページに連絡先が記してないので、差し支えなければ教えていただきたく・・・」
●返答「・・・連絡先のない《不思議なホームページ》である理由は 個々の問合せに対応する余裕がないためだと思います。仏心会の所在地は《賢崇寺内》ですが 仏心会専任の担当者は居ません。電話を取るのは僧侶の方々です。問合せに対しては《世話人の誰か》の連絡先を伝えるしかなく・・・」
仏心会のホームページは 世話人代表の香田サンが《自費》で開設したものと聞いている。送り手からの一方通行になるのも無理ないことだと思う。
※要するに 余程の重大事でない限りは《仏心会=遺族の会》への質問は慎むべき・・・ということである。
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◎ここから先は「冗談」の領域である。苦笑と共に読み捨てていただきたい。
   
※「二・二六事件研究の第一級史料。決定版。」と謳われたからには 研究者からの問合せに応える責務がある。なにしろ「資料」から「史料」に格上げされたのである。著作権継承者が嬉しくなるのも当然ではないか。とはいえ 全ての質問に応えることはできない。その時その時 気分次第ということになる。
※質問者の「住所・電話番号・メールアドレス」を記したコメントは「私信」である限り「非公開」とする。
但し「私信」扱いにするのは 原則として「初回だけ」である。公開・非公開の判断は 一任していただきたい。
「二・二六事件関係者の談話室」である以上は 質疑応答の内容も「共有」したいのだ。(末松)
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◎「第一級史料」の心構えとは・・・◎

2023年01月21日 | 末松建比古

◎書籍広告「中央公論新社/1月の新刊・話題書」が 朝日新聞の1月21日(土)朝刊に掲載された。
・・・この瞬間 1月10日(火)の広告「中央公論新社/1月の新刊・話題書」は 後続に座を譲ったわけである。/「新刊登場」という晴れ舞台は 長くは続かない。期待通りの実績が望めなければ 表舞台から早々に消えるしかない。

  

◎画像左=本日の昼下り。ぶらり訪ねた「三省堂書店/仮店舗」4階売場。
・・・下段右端に「私の昭和史」。左端に《保阪正康著「世代の昭和史」朝日新聞出版刊》が見える。
保阪著「世代の昭和史」は「新たな『国民の歴史』が誕生!/『戦争要員世代』と『少国民世代』からの告発」という内容らしい。日本近代史の「▼▲」と称される「半藤一利・保阪正康/連合軍」の縄張りの中で いつまで「新参者=私の昭和史」は生きていられるか。
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◎「真摯に正義感をもって生きた、ある青年将校の記録」「二・二六事件青年将校の真実を知る、第一級史料」。
・・・これが「中公文庫版」の「帯」に記された惹句である。「帯」だけを読む人には「ある青年将校の自叙伝」だと思われたかも知れない。
この「中公文庫版の帯」が伝えていたイメージは 今回の「完本の帯」によって急変する。
◎「二・二六事件研究の第一級史料、決定版」「自らの体験を克明に綴った貴重な記録に関連文書を増補」。
・・・これが「完本版」の「帯」に記された惹句である。
かくして「ある青年将校の(個人的な)記録」は「事件研究の(普遍的な)第一級史料」へと格上げされたわけである。(微苦笑)

◎「第一級史料」と認識されることは(細部の事柄までも)他者に引用されるケースが増えることでもある。
・・・《末松太平「私の昭和史」の記述によれば・・・》という表記は 今までも多数の著作に登場してきた。
その殆どは《二・二六事件に詳しい人》による引用だったが 中には《知識不足としか思えない輩》が摘まみ食いした「愚書」もあった。
・・・引用に耐えうる「史料」であるためには 細部末端に到るまで「正しい情報」であることが肝要である。
最近の私が 一般の方には「どうでもいいこと」を(クドクドと)書き続けるのは こういう思いによるものである。 
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◎「みすず書房刊/私の昭和史」に「40箇所の註」が(高橋正衛氏によって)附されたことを 前回記した。
・・・この「40箇所の註」は「中公文庫版」を経て 今回の「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」に引継がれている。余裕のある方は どうぞ「註」にも目を通していただきたい。この「註」を全て含めた上での「第一級史料」なのだ。
・・・実は「みすず書房刊/新版」の「註」の末尾には(本文の)一部を取り消すことが記されている。
「134頁下段2行目の大関大尉が片倉少佐の親戚であることは、事実でないので取り消します(末松)」
この部分を「中公文庫版」で確認すると 削除されたのは「親戚になるとかで」の8文字である。
「みすず書房刊/初版」だけを頼りとして「十一月二十日事件」を論ずる人は皆無だと思うが 万一を怖れて ここに記しておく。
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神田書店街から大手町方面へ向かう。中央公論新社(読売新聞ビル19階)の前を通過して NHK放送博物館まで足を伸ばす。

 

NHK放送博物館の展示には「撮影禁止」の注意表示が多いが この「二・二六事件関係」のコーナーには「撮影を推奨する」表示が置かれている。表示には「♥マーク」もついている。
「兵に告ぐ 勅命が発せられたのである・・・/今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗を止めて軍旗の下に復帰するようにせよ・・・/お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈っているのである・・・」
NHKのラジオ放送によって(短期間で)事件終結の機運が生まれたのだと さりげなく自慢したいのかも知れない。
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◎「我家の昭和・平成・令和史」。家人(1月3日生れ)は 誕生日を機に 運転免許証を返上し クルマも売却した。
「就活も 婚活も知らず 終活期」。一昔前 某葬儀会社主催の「川柳コンクール」で 賞金3万円をゲットした拙作である。(末松)
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◎「1月17日」という日の記憶◎

2023年01月17日 | 末松建比古
◎「高齢化 細るNPO法人/阪神・淡路大震災きょう28年」。1月17日 朝日新聞朝刊第1面の見出し。
※「お命日を目前の『完本』の出版、きっとお父様もお喜びのことでしょう」。1月2日 江翠サンからいただいたコメント。
●1995(平成3)年1月17日 午前5時46分 阪神・淡路大震災発生。亡くなった方 6434人。
●1993(平成5)年1月17日 午前8時33分 末松太平逝去。朝日新聞の見出を転用すれば「きょう30年」ということになる。

 

◎1962(昭和37)年2月20日発行 月刊「政経新論」二月号/二・二六事件特集号。
※この号には《連載 二・二六事件異聞「蹶起の前後」その二》が掲載されていて 文末には「二・二六事件異聞・終」と記されている。
曰く「私が政経新論創刊以来、二年余にわたって書きつづった『二・二六事件異聞』は、一応ここで筆をとめる」とある。

※「処刑が終わるのを合図に練兵場の噪音は余韻も残さず静まった。その静まりのなかに、塀のそばの民家からの、朝のラジオ体操の放送がながれてきた。/かの子等はあをぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ/西田税の歌である。/青雲の涯にいったのかどうかはわからない。ただ『天皇陛下万才』の叫びを私の心に刻みつけて、再び会うことも話し合うこともできない、それだけにどこか遙かな遠い涯にいったことだけは事実である」。これが「連載 二・二六事件異聞」最終回のラスト7行である。まさに「末松太平=西田派青年 校」に相応しい幕切れであると思う。

※しかし「私の昭和史/みすず書房版」の最終章は「政経新論連載」の最終回ではない。(編集者の意図で)異なる章に変えられている。
三島由紀夫氏の書評「殊に全編を読み来たって、エピロオグの『大岸頼好』の章に読みいたったときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない」。もしも「私の昭和史/みすず書房版」が(編集者が手を入れずに)「政経新論」掲載順のままだったら・・・。多分 三島氏の感銘(全編を読み来たって、エピロオグの・・・)は得られなかったに違いない。

◎1963(昭和38)年2月20日発行「私の昭和史/みすず書房版」の「目次」を(未読の方のために)記録に留めておく。
※まえがき「『私の昭和史』は二年ばかりにわたって『政経新論』誌上に たどたどしく私の体験を書き綴ったものの大部分である。大部分といったのは、一冊の本にまとめる便宜上、一部を削除したものである」。
二年余にわたる連載を取捨選択して「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」の三部構成に仕立てたのは みすず書房編集部の高橋正衛氏の功績である。
※「Ⅱ」の後半「蹶起の前後=雑誌連載の最終章」に続くのは「青雲の涯」で 村中孝次氏のことが記されている。
そして「Ⅲ・大岸頼好の死」が(みすず書房版の)最終章となる。

※1962年2月に連載を終了した「二・二六事件異聞」は 1963年2月に《末松太平著「私の昭和史」みすず書房刊》として登場する。その経緯については 次回に報告したいと思う。
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※写真右。《月刊「政経新論」1962年2月号/二・二六事件特集号》の掲載記事。
《昭和10年7月11日「粛軍に関する意見書」陸軍歩兵太尉/村中孝次 陸軍一等主計/磯部浅一》。
村中氏と磯部氏が軍を追われることになった「問題の文書」であるが 堂々34頁(!)というボリュームに圧倒される。

※参考までに「二・二六事件特集号」掲載の他の記事も紹介しておく。
●「蹶起趣意書」昭和11年2月26日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 他同志一同。
●「二・二六事件の謎」河野司。
●「判士長の手記」吉田中将(北一輝、西田税両氏の判士長=裁判長)の上申の一部と日記の一部を抜粋。
●「編集後記」今号の編集意図と解説。(末松)
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◎広告「中央公論新社1月の新刊・話題書」について◎

2023年01月10日 | 末松建比古
◎2023年1月10日(月)朝。朝日新聞を開いて 先ずは「中央公論新社の出版広告」に目を通す。
●佐藤愛子著「幸福とは何ぞや」増補新版・1100円。大反響 重版続々。
●原田ひ香著「三千円の使い方」770円。重版続々78万部突破。
・・・広告スペースの配分を見れば 広告主の期待度の違いは一目瞭然である。

  

◎2022年6月15日11時。「中央公論新社の橋爪です」というメールが届いた。これが「完本」出版の発端となった。
※「久しぶりの 突然のメールを恐れ入ります。/お元気でお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?/さて、ご連絡をさしあげましたのは・・・」
私は「全て 橋爪サンにお任せします」と返信しただけだった。そして 約半年が経過して「完本」は「1月の新刊」に到達した。

※「私の昭和史/中公文庫版」は「在庫ゼロ」になるまで約10年かかった。では「完本」を待ちうける運命は 如何なものであろうか。
末松メール「在庫ゼロになる日まで 長生きしたいと思います。でも 100歳を超えてしまうかもしれませんね」
橋爪メール「建比古様が100歳になるより前に、しっかり売るようにがんばります。が、長生きはぜひなさってください」
初版部数は(文庫版の)三分の一程度に抑えてはいる。しかし(内容的にも価格的にも)書店で見掛けて衝動買いする類いの本ではない。
在庫ゼロ」に辿り着くまでの道程は 果てしなく遠いのだ。
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※「完本」出版の発端から発刊に到るまで 中央公論新社の「校閲」が又々 その実力を発揮した。
「私の昭和史/みすず書房版」が「中公文庫版」として復刊する際に 数々の「?」が指摘され修正したことは(このブログで)報告済みである。
例えば「索引」では「三角友畿 満井佐吉 水上源一」の順が「水上源一 三角友畿 満井佐吉」の順に修正されている。
水上源一氏を「みなかみ」と誤読している書物は意外に多い。例えば《筒井清忠著「二・二六事件と青年将校」2014年・吉川弘文館》89頁では 名前の横にわざわざ「みなかみげんいち」とルビを振っている。

※水上源一=みずかみげんいち。井上宣子サン(水上氏の遺児)に「今更 変なことを・・・」と確認して 苦笑された頃が懐かしい。
※「索引/中公文庫版」と「索引/完本版」では各項目の掲載頁が変更され 更に「拾遺」による項目も加わった。多少の「頁漏れ」は許容範囲の内だろう。

◎2022年12月2日。橋爪サンからメールが届いた。質問「解良武夫氏は何とお読みするのでしょうか? 御教示ください」
※解良武夫氏は「索引/中公文庫版」では「か行」の筆頭にいた。そして「索引/完本版」では「か行」の24番目に移行した。
解良氏が登場するのは1頁だけである。解良武夫という文字にルビはない。音読しない限りは「カイラ? ケラ?」の違いに気付くこともない。前回見逃した箇所を 今回は発見し直ぐに修正する。中央公論新社「校閲」の眼力には感服するしかない。

※それに比べて 平凡社の「校閲」は お粗末と言わざるを得ない。又々・・・と思われるだろうが「例の件」のことである。
例の件=半藤一利著「昭和史」。百万部突破の超ベストセラーになっても「7月12日に《17人》が死刑執行された」という「酷い誤り」は修正されないままである。初版のまま(30刷を楽々超えて)順調に売れるのであれば 多少の誤り程度では「版を改める気にはなれない」ということであろうか。
※渋谷悠蔵著「野の記録」が(誤りを指摘されて)ノンフィクションではなく「自伝的大河小説なのだ」と居直った経緯は 昨年12月に記した。それと同様に 半藤一利著「昭和史」も「大河小説である」と居直ってしまえば良いのかも知れない。
いずれにしろ《7月12日に17人》という誤りだけは 早急に修正していただきたいものである。(末松)
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◎「1月5日・本日の新刊本です」「え?」◎

2023年01月06日 | 末松建比古


◎「1月5日。本日の新刊本(人文)です」
※ネット検索していたら「ジュンク堂池袋本店」の店員サンが こんな画像を掲載しているのを発見した。
背表紙だけが見えている新刊本と 表紙がバッチリ見えている新刊本とでは 第一印象が全く違ってくる。
上野千鶴子サンの著書(多分売れます)と 末松太平の著書(多分なかなか売れません)の表紙を並べていただいたこと。
ジュンク堂の店員サンに感謝感謝である。

◎続けて《小山俊樹サンのTwitter》を 運良く発見。こちらは 1月3日付の記事である。
※「中央公論新社様から 1月の新刊『完本 私の昭和史/二・二六事件異聞』をご恵投賜りました・・・」
「(私の昭和史は)昭和維新活動を活写した幾多の書籍中で 最も価値の高いものの一つ/(今回の拾遺には)有用な文が多い。例えば『映画「脱出」について』では、岡田首相を女中部屋で見逃した実在の士官と末松の会話があり・・・/ノンフィクションを越えた史実の重みを感じられるのです」・・・好意的な紹介が嬉しい。
※「小山俊樹氏」をネット検索する。帝京大学文学部史学科教授。1976年生れ。著作に《中公新書「五・一五事件/海軍青年将校たちの『昭和維新』》があり サントリー文芸賞を受賞している。 ※小山サンの年齢に吃驚。末松一輝(末松太平の孫)よりも年下である。当時のことは「資料文献の類い」に頼るしかない。
上記に引用した部分でも「尾島曹長」を「士官」と誤記しているが 筆者の年齢を考えれば「間違えるのも仕方ない」ことかも知れない。

◎今回のタイトル。「1月5日・本日の新刊本です」「え?」
※「2023年1月10日初版発行」と記されている本なので「え?」。一瞬オドロイタというわけですね。
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◎江翠サンにも(ご自分のブログ「歴女同盟」で)「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」を紹介していただいた。
※「お父上の著作や資料を保管されて 情報を発信し続けられる建比古様のご努力も有難いこと」と 面映ゆいことも書いていただいた。
「歴女同盟」を検索して ご一読いただきたい。
※江翠サンの紹介文は 今回の「完本」で「拾遺」された『有馬頼義の「二・二六事件の暗殺者」について』が中心になっている。
小山サンの紹介も「拾遺」された『映画「脱出」について』が中心になっていた。

※確かに どちらも《「私の昭和史」拾遺》であることに間違いはない。
しかし どちらも《「二・二六事件異聞」拾遺》ではないのである。
・・・え? どういうこと?。この辺りのことも含めて 私自身が《「完本 私の昭和史」解説》を書くつもりでいる。(末松)
コメント

◎健康な一年でありますように◎

2023年01月01日 | 末松建比古
◎2023年元旦。
※二・二六事件を風化させないことを願って 微力ながら 本年も(老骨に鞭打ち)発信を続けます。
お気軽に コメントを寄せていただければ 幸いです。



※初笑い♥老化現象証明写真。左写真/2006年(66歳)。右写真/2022年(82歳)。
左写真と右写真の間に「16年」が経過。私自身の「退化」は一目瞭然だが それと同様に 背後の慰霊像「傷み」が進んでいることになる。。
私自身の「衰え=老化」は笑うことができても 慰霊像の「傷み=老朽」を笑うわけにはいかない。
事件を風化させないという願いには こういうことも含まれている。

※橋爪サン(中央公論新社・文庫編集部)から戴いた年賀状。
「年をまたぎましたが・・・1月10日の発売 待ち遠しいです。大切に長く売ってまいります」
長く売らねばならない本(なかなか売れない本)を「中公文庫版」に続けて「完本」として出版していただけること。橋爪サンのご厚意と勇気には 感謝以外の言葉はない。
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祝♥「歴女同盟」復活! 
ご自分のペースで のんびりゆっくり 更新して下さい。(末松)
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