◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(12)千葉から東京杉並へ◎

2023年03月21日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1940(昭和15)年。/末松太平=34歳~35歳。私=誕生。》
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◎「住居移転許可願」1939年12月23日。
 
「太平儀 東京飛行機研究所ニ就職セルニ依リ左記ニ移転致シ度 保証人連署ヲ以テ及願候也。/東京市杉並区天沼2丁目・・・/末松太平。保証人・千葉市登戸町2丁目・・・久保三郎。」
「右許可する。千葉警察署長 地方警視 齋藤小重郎。」


◎1940年4月。富士飛行機青年学校、開校。
・・・末松太平は 創立間もない「富士飛行機/東京蒲田」という会社に「青年学校」を作ることを頼まれる。多分 若者を集めるために「青森での顔」を期待されたのだと思われる。
★初公開原稿★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/末松太平直筆ノート(原稿の下書き)。》
「昭和15年の2月。私は(青森に旅立つために)5年ぶりに上野駅に行った。二・二六事件のとき 志村・杉野と一緒に弘前拘置所から護送されて以来の上野駅だった。私は『少年工募集』のため青森に行こうとしていた。/仮出獄した私は 妻の実家で静養したあと 青年学校の創立を頼まれて 東京蒲田にあった富士飛行機株式会社に就職した。まだ整備過程の会社だった。/昭和14年の暮れまでに 青年学校の整備は一応整った。あとは生徒となる少年工を募集するだけであった。/しかし この頃は『日支事変』のさなかで 少年工の募集は厚生省に統制されていた。富士飛行機は(創立出来立てで)割当申請をしていなかった。残された道は『縁故募集』しかなかった。/縁故といえば 私には青森しかなかった。私は竹内俊吉に縁故募集を依頼した。/この頃は戦争景気で 大手工場はみな軍需会社に転換しており 各会社が小学校卒業生の争奪戦を演じていた。割当制は 統制する厚生省の施策だった。/この激しい争奪戦の中で 竹内俊吉は『東奥日報』の組織を通じて応援すると言ってくれた。富士飛行機の人事課も 竹内俊吉の好意に縋った。私は上野駅から久しぶりに青森に発つことになった。」
★資料★・・・・・・・・・・
《成田嘉郎「末松建比古宛、弔意状」1993年1月20日。》
「私共(成田、村上、柏村=青森在住)は、昭和15年4月に開校された富士飛行機青年学校の第1期生。末松先生には短い期間でありましたが薫陶を受けた者達です。/思えば先生と最後にお会い致しましたのは、平成3年9月23日に我々3人が登戸のご自宅をお訪ねしたときでございました。その時は、誠にお元気で(耳が少し遠くなっておりましたが)記憶もしっかりしておりまして、富士飛行機青年学校時代のことから、二・二六事件に関連することなど、長時間にわたってお話を・・・(後略)」

◎19401940年4月17日。長男・建比古(つまり私)誕生。

◎富士飛行機青年学校は無事に開校。しばらくして 菅波三郎大尉が釈放される。
・・・末松太平は 菅波三郎を「校長」に推薦し、自らは「満州」に渡る。
・・・満州では「協和会」周辺で、それなりの役割「教練科長」を努めていたらしい。
★証言★・・・・・・・・・・
《北沢治雄「追想・大岸頼好(記念誌)」1966年発行に掲載。》
「(満州では)末松さんの発案で、関東軍、政府、協和会、民間同志による会が作られた。会の名称は『阿呆会』といった。」


★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平「国境の町で/二・二六事件異聞」/雑誌「政経新論」連載から》
「昭和十五年の十一月の下旬に、私はしばらく籍をおいていた新京の『満州国協和会中央本部』に辞表を出して、日本に帰るまえに北満を旅行した。そのころ青森の五聯隊が駐屯していた東部国境の緩陽を訪ね、軍旗を遙拝しておきたいと思ったからだった。/二・二六事件のあった年の八月の定期異動で、当時の五聯隊の青年将校は、ほとんど散り散りに転任されていた。軍当局は、かねて小面憎く思っていた五聯隊青年将校グループを、二・二六事件を契機に潰滅させた。」
「軍人会間の大広間いっぱいに五聯隊の将校、准士官、下士官が集まった。といっても士官学校出の将校はわずか数人で、しかも私が聯隊を去ってからの士官候補生で、任官したばかりの見知らぬ顔だった。あとは下士官出身の将校や、準士官、下士官ばかりで、みな懐かしい顔だった。/こんな顔ぶれにしたのは工藤支配人の才覚だった。私はまだ要注意人物だった。(以下省略)」
★注記★・・・・・・・・・・
この「二・二六事件異聞/国境の町で」は みすず書房刊「私の昭和史」に載っていない。大和書房刊「軍隊と戦後の中で/『私の昭和史』拾遺」にも載ってない。そして 中央公論新社刊「完本・私の昭和史」にも載っていない。つまり「完本」とは「完全に全部を収めた本」という意味ではないということである。
末松太平自身は「書籍に載らなかった作品」にも愛着があって 自ら「コピー版」を作成して配布していた。この「国境の町で」以外にも いくつかの「コピー版」が残されている。
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