◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎2024年・7回目の年男・・・◎

2024年01月09日 | 末松建比古
 

謹賀迎春。今年もよろしくお願い申上げます。
7回目の年男。果たして「8回目」を迎えられるかどうか。自信はないけど頑張ります。

新年早々 いささか落ち着きのない時間を過ごしております。
大晦日に 森田朋美サン(慰霊像護持の会・世話役)から電話がありまして・・・。
朋美「こんにちは。(森田忠明サンに)電話代わります・・・」
用件は 森田忠明サン主宰の「勉強会」への協力依頼。要するに「講師」のようなものでしょうか。
忠明「場所と日時が決りましたら 連絡しますので よろしく」

大晦日特有の慌ただしい心理状態のなかで ついつい承諾。
問「参加者は何人ぐらいですか?」答「十数人ぐらいでしょうか」
それ以外の事柄は何も確認しないままで ついつい承諾。
電話を切って 冷静になって 初めて「おいおい、どうする・・・」と自問自答する始末。

 

「末松太平」から想起される「勉強会」のイメージ。(注:クリックすると画像拡大)
古くは 壮年時代の「血盟団、五・一五、神兵隊、二・二六事件の真相を聴く会」。

 

白髪の高齢期を迎えても 半盲目状態の晩年を迎えても 機会さえ与えられれば「勉強会」に出かけて「二・二六事件の精神・誠心」を語り続けていた。
右の写真は 末松太平「最後の熱弁」直後の光景。池田俊彦元少尉(右から二人目)と一緒に講師を務めている。

度々記してきたことだが 私は(末松太平が死去するまで)二・二六事件関係の知識は皆無だった。
1963年2月《末松太平著「私の昭和史」みすず書房》が発刊された当時も、57歳と22歳の親子に「対話」はなかった。
末松太平の葬儀でも「追悼の辞」は割愛するしかなかった。喪主(私)に「事件関係の知識」がないから どなたに「追悼」していただけばよいのか 皆目見当がつかなかったのである。
葬儀の後も(知識ゼロに起因する)混乱が続き 困惑した私は 急遽「年表・末松太平」を作成することにした。
1993年2月24日に「年表・初版」が完成。それを頼りに 末松太平未亡人(母)と「賢崇寺の法要」に初参列。事件関係の皆様に(まともな!)御挨拶をすることができたのだった。

森田忠明氏主宰の「勉強会」の参加者が どのような知識を求めているのかは判らない。聴講生の顔ぶれも判らない。
未知の方々を前にして 二・二六事件について語れといわれても 研究者ではない私には 論理的な解説や 時系列的な説明をすることはできない。要するに「二・二六事件異聞」どころか「二・二六事件余聞」にも達していないレベルであって・・・。
さあ どうする・・・。

江翠サンから 嬉しいコメントをいただいた。
「紙碑」という発想に出会えて 孤老の心に温もりが蘇った。(末松建比古)
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1 コメント

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昭和99年。 (江翠)
2024-01-12 11:00:18
 年が改まり10日が過ぎました。
今年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の今頃は、『完本 私の昭和史』が書店に並んだのでしたね。
今年は昭和でいうと99年だそうで(!)
幼い頃「明治100年」というので大人が騒がしくしていた事を思い出します。今年、来年は「昭和」の総括とか回顧する風潮が強くなるかもしれません。
そんな中、2.26事件も風化してゆく…、縁故の方々が遠い存在となり事件そのものも忘れられてゆくのは時代の流れ故仕方のない事かもしれません。でも「紙碑」あればこそ。慰霊塔が朽ちようと、人々が忘れようとも、優れた史料、「紙碑」がありさえすれば我々は時間を超えて考え、去った人々も蘇ることが出来ます。
歴史上看過してはならない事件を、今後どう扱ってゆくのか、「売る」ことのためでない視点を書店の方々が持っていて下さることを望みたいですね。
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