◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎末松太平著「軍隊と戦後のなかで」◎

2006年01月30日 | 末松建比古
◎末松太平著「軍隊と戦後の中で/「私の昭和史」拾遺」大和書房刊。1980年2月26日初版発行。
みすず書房刊「私の昭和史」とは異なり、ほとんど話題にならなかった著作です。
大和書房の担当者の熱意もあって 朝日新聞に「出版広告」が掲載されている。


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目次1=赤化将校事件/青森連隊の呼応計画/刑場の写真/夏草の蒸すころ/続・夏草の蒸すころ/素描・竹橋事件/有馬頼義の「二・二六暗殺の目撃者」について/映画「脱出」について/。
目次Ⅱ=回想・大岸頼好(少尉殿と士官候補生・大岸少尉と「兵農分離亡国論」・坂本龍馬のような人)/悲哀の浪人革命家・西田税/剣花詩腸/。
目次Ⅲ=聞きわけ、言いわけ/曙の児等よ 海原の児等よ/チイ・ファン・ラ・マ/横隊行進の味/永仁の壺/アカシアの花の散る頃/五分のつきあい/死!こわくない/切手のはなし/道草を食う/上下方向、水平方向/反「八甲田山死の彷徨」の風土/将校は芸者である/アラブの詩「日本の乙女」/虚仮の一念/私の幻想/。
目次Ⅳ=防衛談義/。
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●本の帯に記されたコピー。
「一元軍人の 戦中・戦後の 心の軌跡」
「二・二六事件を頂点とする青年将校運動の中心的人物だった著者の一貫してなにものにも曇らされぬ反時代的姿勢が見たものは何であったか━━ 軍隊と戦後の中での生きざまを淡々とした筆致で綴った本書は、一つの昭和史の貴重なる証言を映す鏡となるに違いない」

●奥付に記された著者紹介。
末松太平(すえまつ・たへい)
1905年北九州市に生れる。小倉中学校、広島幼年学校を経て、1927年陸軍士官学校卒業。1935年陸軍大尉、二・二六事件により起訴され、陸軍の軍法会議で1937年1月禁錮四年の判決を受け免官。1939年出獄。現在ベストン株式会社勤務。
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●不肖の息子(つまり私です)の感慨。
「現在=勤務」の文字が、鋭く迫ります。この「現在」とは「1980年」ですから、末松太平は75歳で(僅かながらも)まだ年収があったわけですね。不肖の息子は、現在65歳で無職の年金生活者。意欲や気力の差は情けない限りです。
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コメント

◎田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」◎

2006年01月21日 | 末松建比古


つれづれなるままに記事を掲載していきます。
話題が、あちこちに分散しますが、悪しからず。
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◎田村重見氏(故人)は、元軍人、元北海道公立高等学校長。
・・・私家版「大岸頼好・末松太平/交友と遺文」を1993年に刊行。

《本書から・・・田村重見「まえがき」》
「1993年1月20日、故末松太平の告別式に参列し、遺体と対面、遺影を仰ぎつつ、過ぐる半世紀に亘って知遇を得たことを感謝しつつ回顧した。そして、尊敬する大岸頼好、末松太平両巨人に係わる記録の作成を思い立った。/大岸頼好は旧陸軍青年将校による革新運動の創始者、先駆者でありその中核的存在であった。また、末松太平は大岸頼好のよき理解者、推進者として、一心同体見事な同志的結合を以て戦前、戦中、戦後を共に歩んだ。両者は、二・二六事件の幇助者又は同類者として、陸軍大尉の階級で旧陸軍を追われ、若しくは予備役となった。そして生涯二・二六事件の意義を背負って生きた。」
「敗戦の年の五月、熊谷陸軍飛行学校仙台分校で、第十六期甲種少年飛行兵と第三期特別操縦見習士官の地上準備教育を担当していた私は、陸軍航空本部と軍需省兼務の指令により、軍需省航空兵器総局生産戦指導部に着任した。部長は桑原海軍中将、主査は明石寛二陸軍少佐だった。この異動は(学友中沢昂・成田正志郎の)大岸頼好への推挽によって実現したものと知らされ、その後は阿佐ヶ谷の大岸家に寄寓して日夜声がいに接した。大岸家及び(文部省と同じ庁舎にあった)軍需省の生産戦指導室は、五・一五、二・二六両事件の生存者の梁山伯の様相があり、ここで末松太平の知遇を得て、千葉市登戸の末松家をしばしば訪れるに至った」。
「敗戦処理が終了するや、大岸頼好、末松太平相計り、財団法人『在外戦災者協力会』を設立して、在外同胞の帰国援助活動を展開した。その活動の実際については(本書に掲載の)勝谷善次の報告書に譲る。この仕事も一段落して解散したが、私は末松太平の配慮によって、鷺ノ宮の故相沢中佐留守宅に居住を許され、手許に集まってきた飛行学校の教え子である十数名の少年飛行兵復員者やその友人達と生活を共にしつつ、都内の清掃工事や防空壕埋立て工事に従事した。この仕事も一年余で、栄養失調と過労のため病を得て帰郷し、やがて教職についた」。
「偉大な人物に接して受ける影響は極めて大である。四十余年の教職を全うし得た自分のバックボーンは何であったろうか。いつもこのことを考えて思い当たるのは、大岸頼好と末松太平の両者から受けた教訓であり影響である。特に、敗戦の混乱期に、お茶の水の日仏会館を根拠にして、次々と血相を変えて訪れては徹底抗戦を叫ぶ、厚着海軍航空隊、陸軍予科士官学校などの将校達を、冷静に説得して暴発を未然に防ぎ、証書必謹、太平の実現に尽心した姿が脳裏にあった。冷静沈着不動の姿であった。」

★補足解説★・・・・・・・・・・ 
私は、田村氏の依頼に全面協力して「年表・末松太平」を提供。他に「家族の写真」や「私信」も提供した。
田村重見氏「あとがき」には『大岸、末松両家の支援及び転載を快諾された現代史懇話会(編集兼発行人 田々宮英太郎)に感謝しつつ筆を擱く』と記されている。(末松)
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コメント

◎「末松事務所」本日開設◎

2006年01月18日 | 末松建比古

◎2006年1月18日。
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◎二・二六関係者の便宜を図る為に「末松太平事務所」を、本日開設致しました。

◎事務所開設の主旨は「二・二六事件」の記憶を、継続させるためです。
・・・既に、事件から65年以上の歳月が過ぎ、生存する事件関係者は、僅かになりました。
事件関係の「法要」は、毎年2回行われています。2月26日、7月12日。東京都港区・麻布賢崇寺。
法要の御案内や報告も、当プログに掲載する予定です。
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末松太平という人物を知らない方のために、先ずは「人物紹介」から・・・。

★資料/人物紹介★・・・・・・・・・・
《松岡英夫著「歴史と現在」1975年・田畑書店刊》
「末松さんの名著『私の昭和史』が出たのは、もう十数年になる。この本を読んで大きな感銘を受けた私は(中略)以来、極めて親しい交わりを結ぶことになった。/末松さんの後半生は結局二・二六事件の意味を背負って過ごすことになる。いつか末松サンが私に『私は二・二六事件で死んだ仲間を代表して生きているものと思っている。だから、あれが元青年将校の生活か、などと批判されるようなことがあっては、死んだ仲間に申し訳ない』と語ったことがある。/このことや、そのほかいろんなことを考え合わせて、二・二六事件を語る人は、末松さんが最適任者だと思う。」
・・・紹介。そして「松岡英夫氏と末松太平の対談」。対談の内容は いつか機会を見てご紹介したい。

★資料/人物紹介★・・・・・・・・・・
《保阪正康著「昭和史 忘れ得ぬ証言者たち」2004年・講談社文庫》
「すえまつたへい 1905~1993年。福岡生れ。陸士卒。西田税を知り青年将校運動に関係。27年(昭和2年)少尉。/青森の歩兵第五連隊配属。陸軍戸山学校に甲種学生として派遣され、青年将校らと民間右翼の『郷詩会』に参加。/二・二六事件では青森連隊の大尉で直接参加しなかったが支援運動で免官となり、禁錮四年の刑に服す」
《同書「第1章・歴史に生きる実像」から》
「眉毛が濃く、意志の強い眼光、そして会話の合間合間にも時に視線は鋭くなる。口調は穏やかだが、許す者と許さざる者とを明確に区別している。末松太平という旧軍人は、そう表現する以外にないほど、姿勢のはっきりした人物であった。/末松という名を聞いて、今や昭和史の中にすぐ位置づけられる人はそれほど多くはない。だが、二・二六事件を戦後においてなお語った人物で、これほど青年将校の心情を判りやすく説明した者はいない。/末松は、やはり昭和史研究家として名高い高橋正衛の助力を得て、『私の昭和史』という名著を残したが、この書は二・二六事件に至るまでの青年将校の動きを明確に示してくれている。」
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・・・ということで 先ずは「事務所開設のご挨拶」とさせていただきました。
皆様も お気軽に「談話」をお寄せ下さい。
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