◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(18)仏心会概史◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1957(昭和32)年。/末松太平=51歳~52歳/私=16~17才。》
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◎1957年2月26日。麻布賢崇寺「22回忌法要」 

◎1957年。《河野司編「二・二六事件」日本週報社刊》

  

・・・仏心会代表・河野司氏。河野寿大尉(湯河原の病院で自刃)の実兄。
・・・処刑直後(1937年)事件関係服役者名簿(憲兵隊に協力依頼)を作成。/留守家族の慰問訪問を開始。同時に、遺書・手記・関係書類の蒐集に奔走した。
・・・事件の概要が、正確に把握できるようになったのは、まさに「河野司氏の功績」である。
・・・河野司氏には多数の著作があるが、初心者向きには《河出文庫「私の二・二六事件」》が判りやすい。

★重要資料★・・・・・・・・・・
《「仏心会概史」。平成7年に河野進氏が作成したものである》


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●1936(昭和11)年7月12日。/第一次死刑執行(15名)。
・・・死刑執行後、栗原勇大佐(栗原中尉の父)の主唱で遺族会の賛同を得る。
・・・後日、遺族会の名称を「護国仏心会」と名付け、栗原勇氏を代表とする。目的は、遺族の物心両面の相互扶助、故人の慰霊法要、合同埋葬の実現。後に事件関係資料の調査蒐集が加わった。

●1936年10月12日。/賢崇寺において「最初の慰霊法要」を営む。遺族10家参列。
●1937年2月26日。/事件1周年。当局の警戒酷しい中、賢崇寺で事件殉難の重臣・警察官を合わせた「全物故諸霊の追悼法要」を行う。/以来、2月26日の法要は「全殉難者を合祀」して行うこととなる。
●1937年8月19日。/第二次死刑執行(4名)。後日、4名の分骨も賢崇寺に合祀し、22霊となる。
●1938年2月26日。/「全殉難者3回忌法要」。
●1944年。/空襲激化により、会員の疎開相次ぐ。
・・・栗原代表も離京の事態となり、10月以降は月例法要(毎月12日に行われていた)その他、一切の活動を停止。
●1945年4月15日。/戦災により賢崇寺焼失。

●1947年4月。/賢崇寺仮本堂建立。
●1950年3月。/河野司(中国から帰国後、福岡市に在住)が東京に転居。
・・・栗原勇代表(大阪府に在住)の委嘱により「護国仏心会」の再興に着手。

●1951(昭和26)年7月12日。/「護国仏心会」を「仏心会」と改称。代表=河野司。
・・・「再興第1回法要(16回忌法要)」を賢崇寺で営む。7遺族及び関係者の計15名参列。月例法要を再開。
●1952年7月12日。/「二十二士之墓」建立。開眼供養を行う。参列者120名。
●1954年4月。/栗原前代表、東京に復帰。同年10月に死去。
●1955年2月26日。/「全殉難者20回忌法要」にあたり、遺品・資料等の初めての展示を行う。
●1956年7月12日。/21回忌法要。
・・・これ以後、月例法要を取りやめ「2月26日」と「7月12日」の年2回となる。
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この頃の写真。千葉市登戸の自宅前で弟と。
・・・この門柱は現在(年表初版の作成時)もあるが、2階部分は改築した。

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《「年表・末松太平」1958(昭和33)年。末松太平=52歳~53歳。私=17歳~18歳。》
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◎潮干狩りを楽しむ「末松太平と仲間」の家族たち。
・・・我家(千葉市登戸五丁目)から遠浅の海までは徒歩10分。潮干狩り+我家で小宴。
・・・この「グループ」は「同じ会社の社員達」だと思えるが 社名は不明。
・・・末松太平の「勤務先」の人達なのか「知人の会社」の人達なおのか 今では知りようがない。
・・・撮影年月日も不明。もしかすると「1956年~57年」辺りかも知れない。

◎この頃、私は「防衛大学での集まり」に(末松太平から)誘われる。
・・・「元軍人」としての「思い」もあったと思うが 貧困家庭の世帯主としては「授業料不要」が魅力に感じたのだと思う。
・・・私は「親父の誘い」を拒否。防衛大学の催しには弟が同行した。
(数年後 弟も「普通の国立大学」に進学した。)

◎1958年2月26日。賢崇寺「全殉難者23回忌」法要。
・・・この日初めて「殉難警察官」の遺族が参列した。

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《「年表・末松太平」1959(昭和34)年。/末松太平=53歳~54歳。私=18歳~19歳。》
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◎1959年4月。「アジア同志社」を中心として、事件関係社の「大赦」請願書を提出する。
・・・法務省からの回答は「既に昭和20年9月2日に勅令により大赦になっている」とのこと。
・・・当局から「証明書」を取り 各遺族に通知する。

◎1959年7月12日。「大赦報告墓前祭」開催。参列者=180名。
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