◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

北海道瀬棚郡・今金(いまがね)町の26歳の若者と水上源一

2009年02月22日 | 今泉章利
BSフジというところで「ザ・ノンフィクション 山のバカヤロウ!!登山家 栗城(くりき)史多」という番組を見た。今金(いまがね)という北海道の瀬棚郡の町である。
栗城という少年はここで生まれ育った普通の少年だったのに、あるきっかけから、山に登ることになる。24歳までにエベレストを除く各大陸の最高峰を、無酸素で制覇した。 エベレストは、酸素が三分の一しかないから死の山と言われれている。彼は、このたび、マナスルにのぼった。無酸素で、8千メートル級の山だ。
小生の記憶にマナスル登頂記念で 昔、記念切手が出たことを覚えている。その山だ。
番組では、雪の今金を映している。ああ、この下には日本一きれいな清流、後志利別(しりべしとしべつ)川がながれている。そして冬の朝日は爆発的に美しい。
この今金は、明治41年に水上源一さんが生まれ育ったところだ。そして水上さんは昭和11年、27歳でこの世を去った。
エベレスト無酸素登頂に挑戦している26歳の栗城君の成功を願いたい。なお、栗城君のお父様は、今金町でメガネ屋さんをしておられる。

何年か前の一月、小生は雪深いこの地を訪れた。誰も知らないこの町のタクシー会社の前に「水上」というお名前の立派な家があった。夜、居酒屋で農協の方と知り合ったのも懐かしい思い出である。

(今泉章利)

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水上さんの日大時代 さらに調べること

2009年02月22日 | 今泉章利
(1)水上さんの日大時代

昭和3年4月日大専門部政治科入学

昭和6年4月日本大学法文学部政治学科入学

昭和9年3月政治学科卒業

(2)電信兵のこと

昭和9年7月兵役延期中

昭和9年12月1日に電信補充兵として入隊  同 昭和10年5月10日除隊


(要調査)
①日大在学中の先生・交友関係と思しきひと

1.高松茂雄  2.永井良吉  3.渋川善助 4.大森一声(曹玄)

5.山内一郎 。。。

②徴兵延期についての規則

③電信補充兵とは なぜ6かげつなのか  訓練場所は?

(今泉章利)

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最近分かった事など (メモ)

2009年02月20日 | 今泉章利
詳しく書く時間がないのですが、最近のメモです。順不同です。渋川明雄さんには資料をはじめ大変にお世話になっております。

1.湯河原襲撃を受けた牧野伯爵の3月1日に東京に帰るまでの足取りがわかりました。
2.ビリヤード場にいた警察官の動きも少しですがわかりました。
3.水上さんの作業用の年表を改定しています。
4.直心道場の大森曹玄さん(後の臨済宗妙心寺派 花園大学学長)の事件とのかかわり、渋川善助さんのかかわりなど、ご自分でインタビューに応じた筆記録を渋川様よりいただきました。大森さんは日大に入られ、関東大震災の時に中退されました。直心道場の渋川さんと水上さんの関係解明に一歩、ほんの少し近づきました。
5.綿引正三さんの小菅の話を読みました。
6.国家主義者で様々な提言を行っていた永井了吉さんという方の自伝と筆記録読みました。永井さんは浪人人生を送っておられましたが、水上さんが日大におられたころ、日大総長の依頼によって日大の教授(土木)をしておられました。直接は関係ないかも知れませんが、この頃の日大で、水上さんは様々な影響を受けられたと思います。もう少し、日大の資料を調べたいと思います。
7.埼玉挺身隊事件と不穏事件の水上さんの役割は、やはりキーだと思います。水上さんは、かなりかかわっているのです。
8.法要が終わったら、湯河原に行き、山本寅太郎さんへのインタビュー、現場のレビューをしたいと思っています。
9.東京地検へはなかなか行けません。なんとか頑張って、河野大尉の憲兵調書だけでもきちんと写したいと思っております。
10.デカブリストの妻たちは、澤地さんのものとは異なり、ネクラーソフというロシアの詩人による格調高い叙事詩で、トゥルベッカーヤ公爵夫人とウォルコンスカヤ侯爵夫人をうたったものでした。ウォルコンスカヤ侯爵夫人は、目の大きな美しい人でしたが、夫の流刑地のシベリアまで、冬の道を気の遠くなるような努力をしてたどり着き、流刑地の刑務所の中に駆け込み、地下の作業場で働く夫の元に行ったのでした。農奴解放を主張した夫は、爵位を剥奪され、死刑の身であったのです。
(1825年12月14日の、正義感にあふれた若い貴族たち反乱で、彼らは蜂起したのが12月であったことから、12月を意味するロシア語のデカブリストと呼ばれていました。)

(今泉章利)

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73年目の二・二六事件法要

2009年02月19日 | 今泉章利
今年も二・二六事件のご法要が近づいてくる。
ご法要は、一切のものをすてて、心静かにお参りをすることである。
事件に関係された全殉難物故者の御霊に、ひたすら手を合わせたいとおもう。
私の存じ上げていた先輩たちもほとんどが鬼籍に入られた。実際の意味での事件のご遺族、関係者は数えるほどになった。初心に帰り、一人の参列者として、皆様と等しく焼香をさせていただきたいと願っている。
湯河原の光風荘の訪問者が、二万人に達したという話を聞いた。ありがたくも悲しい。胸が何かでいっぱいになる。歴史が、冬の空の奥の果てまでつながっている気がするのである。

(今泉章利)
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梅窓院のこと 渋川明雄様コメント

2009年02月15日 | 今泉章利
渋川明雄さま

先日、いろいろと教示頂き誠にありがとうございました。また、本日も貴重なコメントを下さり深謝申し上げます。
でも、、青年将校の下宿って、、青山のどの辺なのでしょうか。確かに、あそこは高級地ですから、お金がなければそんなに住めませんよね。片倉さんの証言初めて知りました。
なお、写真は、白井タケさまのお墓参りの帰りに撮った、現在の梅窓院です。

(今泉章利)



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片倉衷に感動した菊池寛と吉川英治 当時の東京

2009年02月15日 | 今泉章利
松本清張の昭和史発掘は「菊池寛賞」を受賞し、本2009年が生誕100周年になるという。北九州市は「松本清張記念館」を作り、松本清張氏の資料整理を実際まとめておられた藤井康栄氏を館長として運営を行ってきた。このたびその記念館そのものが「菊池寛賞」を受賞したそうで、藤井康栄館長が表彰の写真に写っていた。先日、昭和11年4月の改造という雑誌が手に入ったので、読んでいたら、菊池寛の「日記」と題する事件に関する感想が載っていた。

二月二十六日。
午前九時半ごろ、出入りの新聞配達が電話をかけてくれて凶変を知る。「東京日々」へ電話をかけたが、いく度かけてもお話し中である。事件の容易ならざるを思ふ。。。昼頃「東京日々」より電話あり、連載小説の督促である。騒動で小説が休載になるものと、それが不安の中のわづかな慰めだと思っていたのでガッカリする。。。夜、陸軍省の公報ありて輪郭が漸く分る。  
二月二十七日。
凶変の直接の影響は無くとも、その結果言論文章に対する大弾圧の時代来たらば、さぞかし不快ならんと思ふ。。。。大阪ビルの文藝春秋社へ行く。社員は皆来ている。夜に入りて、XX聨隊の兵士たち、大阪ビルに入り来る。茲に聨隊本部になるという。帝都の中央ビルディングが、軍隊の陣営となるなど、まことに夢想だにせざりし変事なりと思ふ。
二月二十八日。
終日在宅。「俳諧名作集」を読む。芭蕉を初め、蕉門の人々、蕪村、白雄、大祇等の名作に世の不安をまぎらす。  
二月二十九日。  
戒厳軍の活躍に初めて安堵の思あり。午後、文藝春秋社へ行く。夕方銀座に出て、社員三,四と食事をなす。「岡田首相死せず」の号外出る。凶変中の変、一縷の明るさを覚ゆ。
三月一日。
この日発表された片倉少佐の言動に、最も感動す。

一方、貧しい境遇を潜り抜けて国民の人気作家となった吉川英治は、この日、二・二六事件の兵士たちにキャラメルを配ったという。(これは、松本健一先生の御講演で聞いたのだが、私はまだこのことを確認できずにいる。※)

私は、何も菊池寛を批評する気でこのようなことを書いたのではない。一方、青森で歯を食いしばって生きておられた淡屋悠蔵さんの本によれば、青森の窮状を訴えるため、朝日新聞の荒垣秀雄さんに呼ばれて東京に来て、市川房江さんなどと日比谷であわれた時、まるで場違いの人間が忽然と東京に現れ、こじきと間違われそうになるような雰囲気を伝えている。

また、丸山真男の本をみても東京のある所得層以上の人は、ほとんど事件の意味が飲み込めない状況であったどころか、普通の人たちは、軍服を着た人をすべて同じと見ていた節があるような気がするのである。 (今泉章利)

※ 「私の吉川英治」(昭和38年)に長谷川時雨の妹の長谷川春子(洋画家)が、「時代は吉川さんも三上於菟吉(注:時雨の夫で当時、吉川英治とともに流行作家であった)も、年も仕事も壮気あふれて旺んな年頃で、二・二六事件を前後したころ、陸軍の武藤章大佐、根本中佐あたりといっしょに赤坂で会したころ。」とあり、吉川さんは、軍人とも会っておられたらしい。。


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正気の歌 再考(2)

2009年02月15日 | 今泉章利
実は、せっかく書いたものが全部消えてしまった!ので、書くなよということかもしれないのですけど、、勉強のためにもう一度、、書くことにします。
正気の歌の歴史の部分 9-23です。われわれがほとんど知らない、、当時のひとは当たり前に知っていた歴史の話です。カタカナで書くところもありますが、すみません。追って修正します。

9.世 ヲ隆(注:盛衰のこと)無きにあらず 正気時に光を放つ
10.乃ち(すなわち)大連(おおむらじ)の議に参じ 侃侃 ク雲(くどん=ゴータマ=仏教)を排す
11.乃ち明主の断を助け 焔焔伽藍を焼く  (神道を守り仏教を排す)
12.中郎嘗て之(注:正気のこと)を用ひ 宗社盤石安し (鎌足)
13.清丸嘗て之を用ひ 妖僧肝胆寒し  (和気清麿)
14.忽ち瀧口の剣を揮ひ 虜使頭足分る (藤沢の瀧口で元の使いを斬った事)
15.忽ち西海の風を起し 怒涛胡分を殲す
16.志賀月明かなるの夜 陽りて(いつわりて)鳳輩となりて巡る (建武の中興で藤原の師賢が詠んだ歌「思うふことなくてぞ見まほしほのぼのと有明の月の志賀の浦波」から。師賢は建武の中興の礎となった。)
17.芳野戦かんなるの日 又 帝子(=護良親王)の屯(ちゅん)(=難)に代わる (村上義光)
18.或は鎌倉の窟に投じ 憂憤正にえんえん (護良親王)
19.或は桜井の驛に伴い 遺訓何ぞ慇懃なる (楠親子)
20.或は天目山に殉じ 幽囚君を忘れず(小宮山友信の武田勝頼の自殺に殉ず)
21.或は伏見の城を守り 一身萬軍に当る(鳥居元忠、家康のため伏見で萬軍に対す)
22.承平ニ百歳 その気常に伸ぶるを獲たり (江戸の平和は二百年続いた)
23.然れども其の鬱屈するに当たりては 四十七人を生ず (赤穂浪士)

このへんの歴史は我々は断片的にしか知らないし、まったく知らないものもあれば、知っていても 教え方が全く違うので感じも異なります。私は鎌倉に育ったので、大塔の宮の護良親王の土牢を知っています。
護良親王の最期、切り殺そうとした侍の刀を歯でおさえ、恐ろしい形相で亡くなったとも聞きました。護良親王の着ておられた大きな緋色の着物も見た覚えがあります。ずいぶん大柄なかただった
ようでした。

土牢の奥深くして秋の風 春汀(今泉義道)  

(今泉章利)

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正気の歌 再考(1)

2009年02月15日 | 今泉章利
1.天地正大の気、粋然として神州に鍾る(あつまる)。
2.秀でては不二の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ。
3.注いでは大瀛(えい)の水となり、洋々として八洲を環る。
4.発しては萬朶の桜と為り、芳香与に類い難し。
5.凝つては百錬の鉄となり、鋭利兜を断つべし。
6.盡臣皆熊羆、武夫尽く好仇。
7.神州誰か君臨す、万古 天皇を仰ぐ。
8.皇風六合に洽く(あまねく) 明徳太陽にし(ひとし)

昔、家に藤田東湖という本があって、この歌を父が嬉しそうに話していたのを思い出します。この歌は「正気の歌」といって、水戸の藩士、藤田東湖が弘化二年(1845年)40歳の時書いたものです。

この詩は、何と言うのかよく知りませんが、五言が対になって、37あります。書いたものは、そのうちの8です。

このあと、日本歴史にある天皇を支えたこと、武士道に殉じたこと、国を守ったことなどが23まで並び、37までが皇室を尊ぶことを誓うのです。

これには、おそらく二・二六事件当時の将校ならだれでもが持っている感慨だったと思うのですが、つまり父のようなノンポリも知っていたものだったのですが、今の私たちはほとんど知りません。理解もできません。これで、歴史を理解しようとしても難しいですね。ただ、ある意味でコンパクトですので自分の勉強を兼ねて残りを書いてみたいと思います。
参考文献は、昭和18年に中村孝也という歴史学者の書いた「藤田東湖」という本です。
(今泉章利)

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バレンタインデー

2009年02月14日 | 今泉章利
夜の9時頃、門のチャイムがなった。下の義父たちが何事かと玄関に出てきている。
夜の訪問者は、近所のYさんだった。あすがバレンタインということで、下の義父と小生に、和光のチョコレートを持ってきてくれたのだった。
Yさんは、Yちゃんと呼んでいるのだが、われわれが引っ越してきたときはまだ幼稚園であったのに、いつの頃からか毎年、バレンタインデーにはチョコレートを呉れるようになった。小学生のころはほんとに駄菓子のようなチョコレートだったのに、今は御勤めもしていて、立派なチョコを持ってきてくれる。その続いている気持ちが嬉しくも有難い。
そういえば、義母も小生にチョコレートをずっと下さっていて、何とも面映ゆいが、こういう気持ちは、正直にいえば、男性である小生には理解しがたい。わが社ではもうニ十年ぐらい前から禁止されているし、チョコレート屋の宣伝に踊らされてという感じはあるのだが、こういう女性の感覚はもうひとつよく分かっていない。

女性の感覚と言えば、昔、長谷川時雨さんの語り口や木村治美さんなどのものでびっくりした事があったが、考えてみると紫式部や清少納言の時代から、結構強烈なメッセージを発している。本でなくともマリアテレサなど強烈な行動主張もある。

澤地久枝さんの有名な「妻たちの二・二六事件」があるが、これなどは、男性どもが抜けていた所を、後ろからガーンと叩いたような感じで、内容や書き方に議論があるのは承知しているが、一本やられたという感じである。以前、半藤一利さんとある会でお目にかかった際「あの本は当時編集長だった僕が、澤地さんに書いてみてはどうかと言ったんだよ」と言われたことがあり、実話は知らないが、切り口はよく、大当たりだったと思う。
(批判の大きいものは、史実をつかって澤地さんご自身の価値観を述べようとしているのではないかというのが最も多いが、正しいか。史実に本当に表れたその妻たちの価値観はどうであったのかー波多江さんのお手紙や当時のもう少しやなどから水上初子さんの場合もよく検証したいと考えている。)

先日、二・二六事件とは少し異なるが、類似性の有無を求めて、青年将校がロシアで立ち上がったデカブリストの乱を調べていたのだが、その時に「デカブリストの妻たち」というのがあるのがわかった。資料を入手できたら、19世紀と20世紀の事件の妻たち、、興味を持って読もうと思っている。

(今泉章利)

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白井タケ様のお墓参りに行ってまいりました。

2009年02月13日 | 今泉章利
平成19年(2007年)8月14日に亡くなられた白井タケ様のお墓参りに今日行ってまいりました。白井さまは、對馬勝雄中尉の妹様に当たります。
お墓の裏には、清観院貞室慈光竹媼大姉 行年九十七才とありました。
御主人さまは、白井解次様で平成元年十月六日 行年九十七才とありました。タケさまと同じ年でした。場所は、1種(ロ)7号9側4番丙 都立青山霊園 です。

私が梅窓院の隣の青山のお宅をお邪魔したのは、ご主人さまが亡くなったばかりの時だったような気がします。それから本当にいろいろとお話をしてくださいました。

白井さまのご主人は、父の近歩三におられ、父は戦前戦後とずいぶんとお世話になったようです。事件の時は、中橋討つべしの急先鋒で、中橋さんからの父宛の指令を片端から破って捨てていたようです。どこに陣取っておられたのか存じませんが、詳しく父からも解次様からも聞かなかったのは残念に思います。もう少し調べたいと思いますが、、。解次様はしかしその後、今度は對馬様のご遺族として、タケ様と一緒に仏心会のご遺族席におられたようです。

昭和44年、小生が大学の試験を受けるとき、父が、大学紛争もあるし鎌倉から行くのは大変だから白井さまの家に泊まるように言ってくれたのを思い出しております。結局はお邪魔しませんでしたが。

お墓には、白井さまが結構お好きだったお酒をお持ちして、小生も少々頂いてお墓にかけ、ゆっくりとお経をあげ、お参りしました。冬の桜並木越しにもう一度、お墓を振り返ると、黒いきれいな猫がお墓に入ってゆくのが見えました。食べ物があると思ったのでしょうか、、それとも小生の差し上げたお酒を少しなめたのでしょうか。
銀座線の外苑前駅の梅窓院はいまはすっかり変わり近代ビルの後ろに門があり、隣の白井さんのお宅は、紀伊国屋ビルだったかそんな名前になっていました。でも懐かしいエレベーターなどは何となく昔のままのような気がしました。
今日は、春一番が吹いて、すっかり暖かくなり、駅の温度計は15度を指しておりました。(今泉章利)


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水上源一さんのこと

2009年02月10日 | 今泉章利
話が飛んでばかりいて、一体、水上さんの論文はどうなったのかと渋川さんから叱られそうなので、状況(頭の中のですが)を書いてみます。私は、水上さんのことを片時も忘れていません。考えているのです。

1.水上さんの生い立ち(本籍は仙台士族)今金、函館の時代まで
2.初子様の生い立ち 前沢、 ご親戚の佐藤さん(紫雲荘) 状況
3.東京での戸籍。住所。二人の出会い。結婚。お金のこと。宣子さんの誕生。
4.日大時代 専門学校と大学 授業の内容。 大学での成績。
5.昭和はじめの状況(その1:不況と共産主義)
6.昭和はじめの状況(その2:政治の腐敗と絶望)
7.昭和はじめの状況(その3:国家主義、様々な右翼運動、捨石運動へ)
8.昭和はじめの状況(その4:栗原中尉との出会い。)
9.昭和はじめの状況(その5:渋川善助さんとの出会い、直心道場)
10.昭和はじめの状況(その6:埼玉挺身隊事件とその詳細、水上さんの行動)
11.二・二六事件(その1:事件の概要) 
12.二・二六事件(その2:東京地検の資料から。水上さんの供述)
13.二・二六事件(その3:湯河原襲撃事件再現、東京地検の資料、及び湯河原町の証言)
14.二・二六事件(その4:陸軍軍部と軍事法廷。その法的再考。政治的再考)
15.二・二六事件(その5:湯河原班裁判の構成、法務官、判士、匂坂資料、松本清張資料)
16.二・二六事件(その6:湯河原班 求刑と判決)
17.二・二六事件(その7:獄中の水上さんと奥様、刑の執行)
18.二・二六事件(その8:未解明事項、今後の研究課題)
19.残された家族 「妻たちの二・二六事件」再考と水上家同穴の誓い
20.牧野伸顕について
21.水上源一と二・二六事件(まとめ)

こんなものでしょうか。。まだまだ資料も不十分。手が届かないのです。
一番の難関は、当時の右翼とは何であったのかと云うことです。今の街宣車、一回いくらの集団と違って居ることはわかります。生き様だという松本健一先生の言葉もわかります。でも、、わからないのです。水上さんを右翼だと切り捨てるなら、当然、栗原さんも、磯部さんも香田さんも安藤さんもみんな右翼です。この事件は右翼テロ運動だったのでしょうか。一君万民を言う片倉さんは右翼ではなかったのでしょうか。水上さんは確かに政府の作った右翼リストにありますが、当時の、平均的な一君万民思想を持った国民のほとんどは右翼だったのでしょうか。今の私たちは左翼なのでしょうか。波多江さんが、小生におっしゃった、、あななたちには理解できないと思います。どんなことよりも国のことを考えていた人たちの気持ちはわからないと思います。でも私にはあなたたちの気持ちがわかりません。平気で総理大臣を辞めるようなことは想像もできないのです。と云う言葉を、ここブラッセルでかみしめているのです。。 (今泉章利)

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Revolt in Japan (日本の叛乱)

2009年02月10日 | 今泉章利
こちらでのハードワークを終え、最後に、仲のいい友達と二人きりで話をしました。

ベン・アミ・シロニーさんの「日本の叛乱」の原著を見せました。この人は、日本の歴史に興味があって、とても感動する話だといっていました。

Revere the Emperor, Destroy the Traitors (尊王討奸)
armed with this slogan, on February 26, 1936, rebellious Japanese troops led by member of the Young Officers' Movement (青年将校運動)seized the center of Tokyo and murdered several prominent officials.
The Young Officers wanted a "Showa Restoration" (昭和維新)where by political and economic power would be restored to the Emperor and poeple.
The privileged classes (特権階級)were to be abolished, wealth redistributed, and the state, rather than big business, was to control the economy.
Although the rebelion was surpressed in four days, it dramatized ideological clashes and factional strife within the Imperial Army and the tentions between civil and military authorities.

この本の表紙の折込のところに書かれた文章です。 さらに この事件は多くの日本人の心を揺り動かし、1970年に切腹した三島由紀夫についても言及しておりました。
時差で、眠れず、体はきつく、、還暦の身にはこたえます。
なお、この本は、シロニー氏の博士論文で、プリンストン大学から1971年に出版されました。(今泉章利記)

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禁断の書 人類進化の研究 丘浅次郎 大正4年

2009年02月10日 | 今泉章利
この本をご存知の方は珍しいと思います。この本が好きな人は、少し問題かもしれません、、
いやあ、禁断の書ですね。読んではいけません。
人類の進化です。
支配するものとされるものの立場から、キリストもモハメッドもみんなばっさりです。
「精神的思想的方面の自然の復讐」
「人類の将来」
「生命の寿命」「団体の生存競争」「文明の弊の源」
「動物生活と戦争」「死に関する研究」
「動物の千里眼」
「生物学上より見たる民族の闘争」

強制信条(注:思想統制)を行った場合の結果。、、権力者が支配するためによく用いる思想は、土着の神への信仰がおおいこと。この強制信条を行うには、逆らうもの弾圧すること。そうすると、人々の間に強いプライドと自惚れが生まれる。

批判を許さない神様を強制的に信仰させられると、人々は「触らぬ神にたたりなし」と云うことになるが、本当にたたりはないのか、、放っておくとどうなるか、、、

その答を、「年賦でたたる神様」の項で述べている。即ち、つけが廻って 異常なプライドの高まりと他の民族との軋轢が生ずる。

大正4年の本です。丘さんが捕まらなかったのは不思議ですが、これだけぽんぽんと明快に、言っているのに、大正4年の今は明治憲法下で何でもいえるいい時代だと言っているのも不思議です。。。

北一輝はこの本を読んだとのことです。 私の買った古本にメモがあり、これは日本の敗戦を予期したものか とありました。(今泉章利記)

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注:ネットWikipediaからの引用です。
丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、動物学者。遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。帝国大学理科大学選科修了。ドイツ留学ののち、山口高等学校教授、1897年高等師範学校教授、1929年東京文理科大学講師。

蛭、ホヤなどの分類、発生について研究し、カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka, 1891などに学名をつけている。また、進化論の啓蒙活動に貢献し、旧制中学の生物学教科書を多く執筆した。1925年帝国学士院会員、日本動物学会会頭。『丘浅次郎著作集』全5巻がある。

東京文理科大学が母体の一つとなった筑波大学の生物学類標本室には、ホヤ類の正基準標本が20点ほど所蔵されている。




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光風荘のこと(6) 牧野峯子訊問調書から(その3)

2009年02月10日 | 今泉章利
。。。

在宅者中間違いのあったのは、皆川さんの死亡と看護婦の森さんの負傷で其他は、異常なく脱出致して居ります。

然し私は皆川さんの顔付きは少しも存じません。

而して私共は一緒に山の上の方に避難致しましたが XXXXXXXXX
湯河原町XXXXXの家に参りましたが、其の分 誰人であるか存じませんでした。そして、今朝迄 其の家に居りましたが、主人は安全を期する為、XX不明ですが、夜明け前、警察Xから自動車が参り、主人単独で何れかに参られました。XXXの行き先は只今の処、私共家族も存知居りません。

其の内私共は、當湯河原町宮上旅館天野屋に参り、只今、滞在中であります。

尚、参考迄申し上げて置きますが、事件の前夜、伊藤屋旅館に起居し通勤して居りました炊婦 田附モト と云う女中が廃物を棄てる為 外に出ました際、見知らぬ男がモトに対し、湯殿裏は他に通行し得るやと尋ねたそうです。

此の旨を亡くなりた皆川さんに申し上げたそうですが、あとから考えXXX何かご参考と存じ申し上げて置きます。

牧野峯子(自筆、拇印)

XXXXや ○は、調書が、ペン書きでかつ草書で、かつ、修正箇所が多くあり、今の時点でよみきれ無かったものです。

今後、光風荘の山本保存会長とお目にかかり、現地の方のお話を聞き取りたいと思います。

今、小生は、ベルギーに居ります。久しぶりに時間が取れて、一気に書くことができました。教会の鐘が鳴っております。ブラッセルはとても寒く、雪が、、ほんの少しですが降りました。  (今泉章利)


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光風荘のこと(5) 牧野峯子訊問調書から(その2)

2009年02月09日 | 今泉章利
。。。

参りましたが、雨戸を打ち叩けば却って侵入者に主人の所在を知らせることになると考え、少し○考えて居ります中、○○○断崖下を見ますと兵隊さんが居るのを目撃致しまして、兵隊さんが救援に来て呉れたと直感致しました。

之と前後して玄関の方向に○つて発煙を認めましたので、最早猶予すべきでないと思い、廊下の雨戸を森さん森さんと叩き、急を告げました。○○○ は、森さんは既に此の事を察知致しておりまして非難準備整いており、XXXXX

この際、和子及女中二名も出て参りまして六名一緒となり下方断崖に面した戸外に立って進退に窮して居ります際、XXXX
崖下道路に抜刀した兵隊さんが居るのを認めました。

私は始めて兵隊さんが助けに来たのでなく、其の兵隊さんが襲撃者であることを察知いたしました。

この間、和子は非難口を求めて湯殿に通ずる方向に参りましたるに、XXXXXX
と申し、主人は六畳間の地上に座して仕舞いました。

すると和子は、下方に居る兵隊さんに対し「助けて」と叫びましたら、降りて来いと申しましたそうです。

私は主人を励まし、行ける処まで行きましょうと湯殿裏に参りました際、上の方から降りて来た人々に助けられて柵を越え避難した次第であります。それで、この間、看護婦の森さんが六畳の外に居ります際、下方から射たれて負傷したようであります。
然し、半ば夢中で居りましたから其の間に多少の相違があるかも存じませんから、此の点を為念申し上げて置きます。

続く

注:○とかXについては、小生が読みきれなかったものです。この調書は、珍しく、ペン書きの草書体でかつ、消したり、改定した部分がたくさんあり、毛筆とは違った難しさがありました。

(今泉章利)
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