◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(21)慰霊像建立準備事務所◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1964(昭和39)年。/末松太平=58歳~59歳/私=23~24才。》
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★資料★・・・・・・・・・・
《河野進作成「仏心会概史」から。》
「1962(昭和37)年に(処刑場跡地に)慰霊観音像の建立が決定されていた。



◎1964年3月末。「記念慰霊像建立準備事務所」開設。
・・・「慰霊像建立資金」の募金活動を開始する。
◎「慰霊像建立に着手した日」の記念写真。
・・・河野司氏など5名の隣には「二・二六事件殉難者慰霊碑建設地」と書かれている。
・・・この時点では「建設予定地」は平地だった。この写真からは「二十七尺の台座の上に十三尺の観音像が姿を現した」という除幕式の光景は、全く想像できない。写真の背後に見える高い壁は(これから除去される筈の)陸軍刑務所時代の遺物であるに違いない。



◎「慰霊像建立」の趣意。
「この地は陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名とそれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官、この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を厚め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。」
・・・上記は「慰霊像」の台座に刻まれた碑文の後半部分だが、慰霊像建立着工の時点でも《これに近い主旨》が読み上げられたと思う。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社刊・1982年3月20日初版。》
・・・この著には「護国仏心会の誕生」から「事件満四十五周年追悼法要」に至るまでの苦難と執念の記録が綴られている。そして「二十二士の墓」や「慰霊像」に纏わる苦難の数々も細かく記されている。
「北一輝先生の未亡人(昭和27年3月3日没)の十年祭を迎え(杉並区の北家に関係者二十余名が集まり)法要を営んだ時のことである。法要後の歓談の席で、小早川秀浩氏(渋谷区選出・岡崎英城氏秘書)から『元陸軍刑務所跡地が、近々米軍の接収から解除され、渋谷区役所など庁舎建設の予定地になる』との話が出た。」
「話はいつか(その刑場跡地の)払下げを受けられないものかという方向に進み、顔の利く小早川氏に動いてもらい、私も積極的に協力して実現に努力するということに、発展してしまった。昭和三十六年のことである。」
「建設準備事務所の構成は、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀浩、監査役藤田俊訓。末松氏には随時、相談相手として協力願うこととし、今後募金その他金銭出納監査の厳正を期するために、賢崇寺の藤田住職にも一役買っていただくこととし、事務所は、私のもうひとつの会社である三昭化成株式会社(都心の田村町)の一室をあてることにした。」
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◎1964年4月。長男(私)が「総合広告代理店」に就職する。
・・・東京学芸大学は(当時)教員養成専門の大学で、一般企業志望者は「自分で」就職先を捜すしかなかった。/会社受験は「1社」だけ。「NHKの制作部門」である。
・・・思いがけず、末松太平が「コネ」を紹介してくれた。コネ①=NHK広報室長(後のNHK会長)前田氏。コネ②=竹内俊吉氏。民間放送連盟会長、青森県知事。/父も息子も「筆記試験を自力で通過すれば、コネで合格」と、超楽観的だった。/そして、最終面接(と健康診断)に到達し「不合格」となった。集団面接(5人づつ)で試験官を相手に「喧嘩」したのである。
・・・慌てて「2社目」に挑戦。今度も最終面接で「口論」になりかけた。救世主は(偶々傍聴していた)齋藤社長で「正直に答えているのだから、次の質問に進みなさい」との助言。こうして無事に「総合広告代理店(ラジオテレビ部企画制作課)社員コード6411」の誕生となった。
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