◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎2・26と5・15/偶然の暗合◎

2024年05月15日 | 末松建比古
  

5月15日(水)12時30分~13時30分。
指定された時間に合せて 夫婦同伴で「築地本願寺」を訪問。無事に「合同墓(第二期)」の申込みが完了した。
「書類は入金日より4週間程度で郵送いたします」とのこと。契約書類=合同墓管理受諾証明書+合同墓納骨届/納骨法要の御案内等。6月中旬になれば、契約書類が届いて「納骨手続き」が可能になるわけである。

申込みが完了したのは「末松建比古+行子」+「末松太平+敏子」=計4名。とりあえず「納骨手続き」の対象になるのは2名だけ。千葉市若葉区平和公園(市営墓地)の処理を済ませてからの手続きになるが 急ぐつもりはあまりない。
この世から「末松家の墓=末松太平夫妻の墓」が姿を消すことに 惜別の思いがあるのも事実である。
麻布賢崇寺の「二十二士の墓」も、言うなれば「二十二士限定の合同墓」である。しかし「二十二士」の方々には「それぞれの墓」も現存している。栗原家の墓、水上家の墓、河野家の墓、今泉家の墓は、賢崇寺の墓地にある。
2月26日の法要では 事件に所縁の方々が「招霊」されている。来年の法要では 末松太平の霊魂が(招霊された皆様を相手に)墓じまいについて蘊蓄を傾けている光景が 霊視できそうな気がする。

実は 3月29日の《千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号》には、江翠サンから「私信コメント」を戴いていた。
「ひょっとしたら『墓友』になるのか?」というタイトルで 心温まる内容が綴られていたが 個人情報が満載の「私信」だったから 全文公開というわけにはいかなかった。
「・・・銀座に出かける折は ちょっとお参りに寄る築地本願寺に まさか末松様ご一家が・・・。そして順当にいけば その先何年か後に『墓友』になる日がやってくる・・・」
江翠サンのお住まいは 築地本願寺(東京都中央区築地)の隣町。末松太平が存命ならば(引越蕎麦の代わりとして)早速「平和観音」を描いて贈ったかもしれないが・・・はて。

江翠サンとは 2013年7月の「初コメント」以来の 長い長いおつきあい。時には 長文のメールを交換することもある。しかし 今まで一度も顔を合せたことはない。同じ日に「賢崇寺」を訪れていても 出会うこともない。不思議な不思議な御縁である。
因みに 橋爪史芳サン(中央公論新社「完本 私の昭和史」担当者)の場合は 一度だけ顔を合せている。即ち 10年程前「中公文庫版」完成の際に一度だけ。 しかし 今回の「完本」は 一度も顔を合せないままで 完成している。
…顔を合せたことがない理由は 礼儀を知らないから?。人見知りが激しいから?。理由はいろいろ。森田朋美サンの診断は、大人気(オトナゲ)がないから!。
森田朋美サンの提案「暖かくなったら 今泉サン 都子チャンを誘って 平和公園(墓地)に行きましょう…」は、墓じまいと共に霧散する。朋美サンには「築地本願寺の件」を話しているが「墓じまいの件」までは伝えていない。これも 私のオトナゲナイ一面である。



築地本願寺の申込みが「5月15日」になったのは 偶然に過ぎない。
申込(電話受付)が殺到していて 順番にスケジュール表を埋めていった結果 指示されたのが「5月15日」だったというだけのことである。
私は 毎朝飲用している「ロコモア=2ヶ月分360錠」の蓋に 飲み始めの日付を記している。飲み始め=2月26日になったのは偶々のこと。その前の瓶が空になったからで 意図してのことではない。そして 飲み忘れすることもあって 空になったのが5月14日・・・。以下省略。(末松建比古)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント

◎査定は「才能あり」?「才能なし」?◎

2024年05月08日 | 末松建比古


「プレバト!」というテレビ番組がある。司会=浜田雅功。毎週木曜日19時、TBS系列局で放送している。
才能あり?、凡人?、才能なし?・・・。芸能人が「才能査定ランキング」に挑む番組である。査定の対象は、俳句、水彩画、色鉛筆画など様々な分野にわたっていて、新しく「スクラッチアート」が加わった。全面が黒色コーティングされたA4版の用紙を「竹製スティック」で削ると、下地の色彩が表われる。何色が表われるのか削ってみるまで判らない。一期一会の境地である。
画像参照=スクラッチアートの実例。「二・二六事件慰霊像」と「平和観音」。番組に触発されて、私が描いたものである。才能あり 才能なし…?。皆様の査定は 如何であろうか。

「二・二六事件慰霊像」も「平和観音」も、私にはごく身近な題材であるが、後者(平和観音)については 多少の説明が必要かも知れない。
ということで《現代史懇話会「史・№81」1993》から「回想の末松太平」の一部分をご紹介しておく。筆者は池田俊彦少尉(無期禁錮)である。
「・・・私はいま、末松さんからいただいた沢山の絵を前にして想い出に耽っている。得意の向日葵、こけし人形、埴輪の馬、観音と不動明王の絵、砂時計、反核の絵が並んでいる。向日葵の絵には『ゴッホのひまわり三億円 俺のひまわりタダ 親父が生前よく言っていた タダより高いものはない』。また 面白いのは自画像で、顔を隠して反戦反核の札が掛っている。そして『鈴鳴らし 鈴ならし 反戦反核ひとり旅』と書いてある。末松さんは現在の昭和維新は、公害との戦いだと言っておられた。
「末松さんが話し出すと、二、三時間は瞬く間に過ぎてしまう。しかし、あの声はもう聞かれない。私の部屋には、末松さんの画かれた平和観音の像が額に入れて掲げてある。観音様は末松さんのような顔をしている。・・・」

スクラッチアート「平和観音」は 末松太平が描いた「平和観音」を模写したものである。
我家の居間にも(末松太平の画いた)平和観音の像が額に入れて掲げてある。



末松太平は絵を描くことが好きだった。少年時代の私が「千葉公園に行って絵を描こう」と長距離散歩に誘われた日のことは、今なお懐かしい想い出である。ひたすら歩くだけで 飲食休憩などは全く念頭にない「貧乏親父」でもあった。
晩年になっても 絵を描くことは続けていた。池田俊彦氏が記しているように「友人知人に絵を贈る」ことが 楽しみのひとつになっていた。
画像参照。長期入院しているMH氏の病室に「末松太平の絵」が飾られている。MH氏は 青森県黒石小学校の元校長で 竹内俊吉氏(東奥日報記者/青森県知事)~JT氏(元校長/青森県教育委員会)~MH氏(元校長)という人脈を通じて 末松太平の《熱烈な信奉者》になった。

末松太平の遺品の中から発見した《一通の手紙》を紹介する。
MH氏から頂いた通信は 100通近く保管されていて 親交の深さを物語っていたが 中でもこの《一通》には「私の知らない物語」が秘められていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
末松大尉殿 御進呈
1、昭和維新の志士★★(註/達筆で読めない)失敗とはいえ、くびられ官位剥奪追放の憂き目・・・
2、青森県を第二の故郷とし、いつまでもこよなく愛し下さる、あったかい お心ばせ・・・
3、晩年の人生に出会った 末松~神~村方ラインの不忘の友情・・・等々
退職一時金をすべて私するに忍びず、右の条々を考えて、私が国家に代わり、県民を代表し、大尉殿に捧げます。あほうみたい(呵々)な男、たった二人の間のこと・・・。こんな世界も、オツなもの…?
神先生の霊共に 御笑納を・・・、村上方一
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記は 青森銀行の「札束サイズの封筒」に記されていた 村上氏の文章である。
封筒の中には かなりの金額が 封入されていたと思う。
退職後の生活資金でもある「一時金」を進呈することは 奥様の同意なくしては行えない筈である。

私の手許には「村上氏ご一家との写真」も数点遺されていて 裏面には村上氏による解説が記されている。
その一例。写真の裏に《53.10.30(月)》と記されている。1978(昭和53)年、末松太平=73歳。
「1.知事ご弔問(註:竹内俊吉青森県知事)の途中のお立寄り。/2.老志士のくだけた良いおじいちゃんぶりの長時間の光栄に浴する面々。/3.3才児最幼は だっこまでされてサ。こいつ未来の女志士になれるか? 呵々。/4.大尉殿の彫りの深い責任もてるこの笑顔、日本人放れ(こんな言い方 叱られるカナ)してるナ。/村方写」
「1.玄関前での一葉。/2.これは視線をそらし(現役時代だったら一喝!もの。呵々)何か沈思のかっこう。/3.次回のご来宅には もっと沢山撮っておこう。/村方写」
写真には 村上夫人+お孫さん(女児)3人+末松太平=5人が写っている。

末松太平の描いた《平和観音》は いろいろな方々の手許に届けられ いろいろなエピソードを生み出した。
それに対して 私の描いた《スクラッチアート・平和観音》は 愚息にさえも興味を抱いてもらえない。呵々。(末松建比古)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント (2)