◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その2)

2009年04月26日 | 今泉章利
4月22日に渋川明雄様から、渋川善助さんにかかるメール(その2)を頂きました。これは、4月14日に頂いたものの続きで、以下が、渋川明雄様からの投稿です。大変に貴重なものです。

QTE
大正14年10月1日、陸軍士官学校本科に第39期生として入校。
同期生で無二の親友となる末松太平は入校間もない頃、大岸頼好の紹介で「大学寮」の西田税を訪ね、後に森本赳夫、草地貞吾を連れて行くが、森本はこの男はと思う同期生を何人か連れて行き西田と会わせていた。渋川はその中の一人であった。
そして「日本改造法案大綱」を手にする。「大学寮」の講師であった西田税をはじめ、満川亀太郎、中谷武世、安岡正篤、沼波武夫とは後に関わりをもつ。
大正15年6月、両親宛に次のような手紙を送る。
「皇国の将来を思ふ時、点取虫共があくせくして居る有様が情けなくなってきます。こんな奴等に日本国を負わせることが出来るかどうかと。彼等にして戦争をやる機械にならんとするならばそれでよし、俺はその機械を動かして則天行地の大業を行ふ人間たらんという意気ごみです」
この後間もなく教官と衝突。その理由は、教官が教育者として見るべき条件として厳格な諸箇条を列挙したが、それに対して、その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だと批判。これが問題化する。自説を撤回せず、二度の重謹慎30日の処罰を受ける。
9月に祖父善太郎に次のような手紙を送る。
「人間には大きな務めがございます。人間全体に対する務めでございます。又国民と致しましては、親よりも家よりも大事な務めが御座います。君国の御為に尽すことでございます。これがつまりは親の為家の為ともなるのだと存じます。一身の出世が目的であったり致しましては決してお国の為となるとは限りません」
昭和2年4月、本科の卒業試験も終わっていたが、退校処分となり、同年5月28日に士官候補生を免ぜられる。退校処分決定者は、校長であった真崎甚三郎。
退校になったいきさつを末松太平は次のように言う。「退校になった理由は、彼が教育学の根本問題に照らして、学校幹部の教育者としての資格を批判したからだったが、学校当局をして退校に踏ん切らせたのは、意外にも些細なことだったことが、このとき永井大尉(注・士官学校本科時代の区隊長)の口を通じてあきらかにされた。それは渋川や私と同じ区隊の生徒、赤松候補生の日記がもとでだったという。赤松は軟文学を耽読していたことが理由で、処分を受けたことのある、学校当局から目をつけられている軟派中の軟派だった。が彼はかねてから渋川を尊敬していた。渋川は退校になる前に、二度の重謹慎の処分を受けるのだが、それに同情して赤松はその真情をこまごま日記につけていた。その日記がみつかったことによって、学校当局は渋川の背後にこういう軟派たちの支持があると思い込み、渋川の処分を寛大にすることはこの軟派たちをつけあがらせることになると、厳しく退校の処分に踏ん切ったという」
末松太平は渋川のことを次のように言う。
「同期生きっての秀才」
「士官学校の優等生だったころの渋川は、口も八丁、抜群の頭脳と赤鬼というあだ名通りの体躯にものをいわして時には強引に横車を押しとおした。あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう」と。
手紙から察するに、軍人に見切りをつけ革命家になろうと決心したに違いない。「俺はその機械を動かして・・・・」は、後に西田と隊付青年将校の間にあって動いていく。二・二六事件に到るまでの陰なる重要な人物なのだ。
UNQTE

以上が、渋川明雄さんの投稿です。水上さんの場合、このようなご自分で書かれたものなどが少なくて、手がかりが少なくて困っています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

お願い 注の意味です。

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

私のこのブログの最後には次のような注があります。

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

これは、ブログなので、正確性を欠いたり、思い違いがあったり、単なる書き違いや打ち間違えなどがあって、もし、何の注意もなく次から次へとコピーが広がると間違えが、インターネット感染してしまう恐れがあるのを防ぐこともその目的のひとつです。
すごい人になると、プログラムで自動的に取り込んでこのブログを「公開」しているかたもおられます。考え方は、まだまだ練られていないし、後で読んでおかしいものは都度修正しています。なるべくアップデートするようにしたいのですが、混乱を生ずるので、その日付のままで修正しているのもあります。

やはりそのうち何かの形にしたいと思いますので、この注のとおり、お使いになるときはご一報いただければと思います。なにとぞ御理解、ご協力方、宜しくお願い申し上げます。

(今泉章利)

コメント

ひろ坊様へ 車力村小作争議と政治、そして国民 (追加)

2009年04月26日 | 今泉章利
追加です。

寝るとき、あーーあれを書いていなかったと思いましたが、とてもしんどかったので寝ました。追加します。

まず、この組合名は、タイトルには書きましたが、「車力村小作農民組合」だったようです。そして、車力村の人たちは、あまり権力に屈せず、自ら行動を起こすということで注目されていたのかもしれません。。

もう一つは、農民救済の問題です。これも詳しく調べなければなりませんが、私の理解のポイントは、次の三点です。
(1)農民救済法は、いくつか出されたと思います。しかし、当時の議会のシステムは、現在の日本憲法と異なり、衆議院も貴族院も同じ力を持っていたということです。つまり、両院の賛成がなければ、廃案になります。衆議院から送られてきた法律案を、貴族院が修正して送り返したら、その修正を認めない限り、法案は成立しません。農民救済法は何回か廃案となり、修正を受け、骨抜きになったと理解しています。詳しくは、さらに勉強したいと思います。

(参考)当時の憲法のもとでは、どんなに衆議院で頑張っても、貴族院との、あるいは、枢密院との妥協なくしては、法律の成立は不可能でした。主権者は天皇であり、もちろん、明治憲法を変えることは思いもよらないことです。明治憲法の規定においては、衆議院を除いて国民の意思が反映される所はほとんどなかったと理解しております。地方知事は、政府の任命制ですし、政党は、伊藤博文が作った政友会が基本になっております。そして選挙は、知事のもと地方官僚や警察を実際の手先に使った内務大臣、そして警保局長などが、時の政権の意向を受けて、選挙妨害を行うのですから大変です。話すと長くなるのですが、要は、政友会(正確には立憲政友会)も立憲民政党も等しく、中央官僚、地方利権者たちと複雑で密接な関係があり、明治憲法における国民は、本当に限りなく無力に近い存在でありました。

(2)救済の実施に当たっても問題がありました。小作人に対する救済米に対し利子をとるというものです。昨日述べたあの小作料にこれが上乗せされたらいったい小作人はどのように生きてゆくのでしょうか。しかしそれよりも、もっと激しく彼らを傷つけたものは、小作人は、流れもので何をしでかすか分からない人間だから利子をとるのが当然だというような議論にあったということのようです。これは、小作人の方たちの人間性を否定されたということです。どんなにお辛かったでしょうか。そして話が複雑になるのは、ここに金貸しが登場するのです。あるいは、地主が金貸しになるのです。はじめはいいよ いいよと言っておいて ある時から変身し 借金の返済を迫るのです。裁判所からの取り立てに「あとはカマと仏壇しかない。これを取り上げられたら首をくくるしかない。」と相談に駆け込んだという多くの人たちのことが、淡谷悠蔵氏の本に書いてあります。また、娘売りという話も起こってくるのです。この話も別の機会にしましょう。

(3)最後の、そして最大の問題は、国民、特にインテリの無関心でした。
朝日新聞の荒垣編集局長が現地に行っての全面的な報道でも、都会の、たとえば東京では「かわいそうに」というような目線を下に向けた「同情」しかありませんでした。せいぜい学生が募金箱を持つようなものでした。淡谷さんが、市川房枝に頼まれて向かった日比谷公園のしゃれたレストランでは、ご立派な婦人活動家たちは、一瞥しただけでした。(それどころか淡谷さんは乞食と間違えられそうになったりして、場違いのご自分を感じられたのでした。)だれも、抜本的な問題に触れようとしない、理解していない、触れられないといったほうがいいのでしょうか。。よくわかりませんが、、東北の農民の問題はどこかの出来事でした。私の知っている千葉県の手賀沼の周りの農民たちは冷害もなく、誰も無関心であったという話をその地のお寺の住職から聞きました。

以前、菊池寛の二・二六事件事件当時の日記を、このブログにのせたことがありますが、まったく認識も理解もしていない、それどころか、雑誌の連載が気になってしょうがないというような感覚だったのをご記憶の方もおられると思います。当時東大の学生だった丸山真男の事件の日を回顧する文の中にも、まるで、そのようなもの、つまり、日本の小作人を柱にした農業システムが危機にひんしていることに対する認識をまるで持っていなかったのでした。憲法のシステムが大問題を起こしていたのです。その点、北一輝は違いました。もはや日本を変えるためには、明治憲法体制を崩す以外にないということで、国家改造法案を書いたのです。

多くの人たちは様々なことから国家の危機を感じていましたが、若き陸軍将校たちはこの農民問題を肌身に感じのだと思います。そして、このような政治がなぜ放置されているのだ。という青年の正義感はいやがうえにも高まってゆくのです。そして詳しくはわからないが、明治憲法の中では絶対的な限界があることを敏感に感じ取っていたような気がします。

備考:ひとり貧乏人の中で育ち貧乏の辛惨を知っていた吉川英治は、本当に貧乏で現場で死にかけて、人に騙されて、それでも人がよくて、努力家で人気作家になった人でしたが、、事件を知るや雪の中の蹶起した兵隊にキャラメルを配ったという話をきいています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その1)

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

4月14日、渋川明雄様から、渋川善助さまの貴重な記事が送られてきました。このあとさらに(その2)が続く予定です。以下は、明雄様の記事です。

QTE
明治38年12月9日福島県若松市七日町61番地にて、父利吉、母ヨシの長男として生まれた。当時渋川家は家長である祖父渋川善太郎のもとに海産物問屋を営んでいた。
会津若松市立第二尋常小学校卒業、福島県立会津中学校第二学年を修業、小中学校を首席で通した。
大正9年、軍人の道を志向して家業を弟達に託し、仙台地方幼年学校に入学。
同校を経て陸軍士官学校予科に入学。予科入学式当日、入学宣誓文を朗読する。
大正13年11月21日兵科発表があり、志願通り歩兵となる。この日父利吉宛の手紙。
「今日です。愈々兵科発表がありました。今講堂から帰って来た所です。志願通りに歩兵になりましたから御安心下さい。本たうの軍人になる第一歩です。全く愉快です。しかし叶はないで飛んだ人々は実際気の毒です。何人か泣いていました。唇を噛みしめて、目に涙を一杯に溜めて居る人の顔みては嬉しさうな色も出しかねます。いづれ後から色々申上げます。今日は気が立って居ますからこれで失礼します。皆様によろしく」
大正14年3月14日、陸軍士官学校予科を326人中2番の成績で卒業。卒業時には恩賜の銀時計を拝受し、裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を行う。題は「日露戦役ノ世界的影響」。その要旨は、
「日露戦役は、国内のみならず東洋、西洋諸国に対し政治、外交、思想、軍事上に多大な影響を与えた。
第一は、日本は立憲国であるが日露戦役の勝利による影響で随所に立憲運動の流行が見られた。
第二は、日露戦役は亜細亜解放戦役であり国民的運動を深めた。
第三は、世界外交上に大きく影響を及ぼした。
第四は、国民が熱誠なる忠義心をもって統治者に仕えれば戦争に勝利し健全な国家を作ることができることを知らしめた。
今や日本の思想界は憂慮すべきものがあるが、日本国民が真剣味をもって君国の為に戦えば感慨の情、切なるものがある・・・と結ばれている」
陸軍士官学校予科卒業後、士官候補生として郷土の若松歩兵第二九連隊に配属される。相澤三郎中佐、一期後輩の竹嶌継夫中尉も同連隊出身。二・二六事件で刑死後、菩提寺の本覚寺に渋川、竹嶌の位牌が並べて置かれた。
歩二九に於ける教官は小野寺信少佐で、同人の「偉大なる精神に感化を受けるところ大」であった。
UNQTE

大変によく分かる内容です。普通のものは、みんな、二次資料の写し書きなので、なんだか熱が入らないのですが、お読みいただいてこれがそうでないことがよくお分かりいただけると思います。お手紙のこと、後の昭和天皇の御前での講演、なにか運命を感じます。心が熱くなるのを禁じ得ません。ありがとうございました。次を期待します。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

御礼 

2009年04月25日 | 今泉章利
なんだか 恥ずかしいですが、4月21日に 一挙に記事を4本のせたからか、よくわかりませんが、121万7千275ブログ中、6千947番目のアクセスとの報告がGOOからありました。読んでくださった方、本当にありがとうございました。忙しいなんてごめんなさい。頑張ります。

(今泉章利拝)
コメント

ひろ坊さまへ

2009年04月23日 | 今泉章利
ひろ坊さま

コメントありがとうございました。いま、めちゃくちゃ忙しくてもう少し待って下さい。これは、末松太平先生が、小生にお教えくださったものです。私もひろ坊さまに質問がありますしありがたい限りです。以下は、ひろ坊さまの4月15日に頂いたコメントです。「突然にすいません」と副題がありました。

車力村出身の者なんですが『二・二六事件の出発点』とありますが、どういう事なんでしょうか?
よろしければ教えていただけたらと思います。
ちなみに、私も田舎に田畑を残して今は都会に住んでいる一人です。

以上がひろ坊様のコメントでした。このような質問本当にうれしい限りです。すぐに答えられずにごめんなさい。 恐縮ながらもう少しお待ちくださいませ。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

コメント

渋川明雄様の「研究テーマ」(その2)

2009年04月22日 | 今泉章利
以下は、4月11日に渋川さんからお送りいただいたものです。

私の研究テーマは、「澁川善助と昭和維新運動そして二・二六事件」です。
二・二六事件について善助さんは、憲兵による第一回訊問調書で、「今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考えるべきものではありません。斯くの如く分けて考えるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、当事者たる私には説明の出来ないものであります。相澤中佐が永田中将を刺殺して後、台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで絶対の境地であります」と言います。
また、池田俊彦さんは「生きている二・二六」の序章で「いま現代史を研究する人々、歴史家や評論家は、明治以来、今日に到る日本の歩んできた道を様々な角度から研究し、これに対して意義づけをしている。そして大東亜戦争を日本を亡ぼした悪として意義づけ、二・二六事件も、戦争に到る一段階として、その歴史的意味を見出そうとしている。これ等の人々の著書は、事件に悪意を抱く人も、好意を持つ人も、知り得る限りの資料を集めて様々な角度から論評しているけれども、真の歴史的意義を理解しようとせず、また渦中の人々の個々の真情を汲みとっていないように思われる。事実に対する分析も多くは表面的で、内面の肝心な観察に欠けているように思われてならない。
憲兵隊が作成したと称せられる裁判の法廷の記録も、事実ではあっても単に事実の羅列であって、陳述の真意を理解していないようである。
私はいままでに書かれたものが間違っているなどと言う気持ちは毛頭ない。唯、私の事件に対する感触は若干違ったものがあるが、それは私があの人達と生命をかけてやった事件であり、是非善悪を超えた魂の結びつきがあるからである。
老境にさしかかったいま、私は熱い思いを、あの過ぎ去った日々に投げかけている」と、言います。
二人の言っていることを重ね合わせると、遠因近因とか分けて考えるのではなく、表面的な事実分析で終わることなく、内面を観察し、個々の真情を汲みとることによって、是非善悪を超えた絶対の境地での魂の結びつきを分析していく。ということになると思うが、その中の要素、主観と客観、同調、統合、整合。
善助さん自身、説明のできないものと言っているから、難しいなあ・・・・。
竹山護夫氏の論文、興味ありますので早速「史学雑誌」第78編第6号、7号、第82編第1号、「日本のファシズム」「近代日本政治思想史」の5冊を購入発注いたしました。届いたらじっくり読みたいと思います。が、今泉さんと違い、もともと理解力に乏しいところに年齢を重ねて低下してきたので、本についていけるかどうか。

以上渋川様の4月11日の投稿でした。
(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント (1)

渋川明雄様の 「研究テーマ」(その1)

2009年04月21日 | 今泉章利
私が3月27日に、渋川明雄様に研究テーマをお教えいただきたいとお願いしましたら、次のようなコメントを頂きました。以下は渋川明雄様のコメントです。

研究というほどのことはありませんが、これは自己啓発のためです。
私のテーマは、「澁川善助と昭和維新運動」です。
昭和初期激動の時期に青春のエネルギーを、昭和維新運動に心血を注いだ善助さんの「生きざま」を直接関係者の証言を中心に浮き彫りにし、善助さんの叫びの中から日本人である自分の中に何かが欠け、また死滅してしまっている精神を覚醒させ、決して民族・国粋主義ではなく、グローバルなる現代に見合った「日本精神」を模索しようというものです。(うまく言えないのでちょっと変かな)善助さんについて語られたものは結構多くその資料を400字詰原稿用紙に書き写したら1000枚近くになりました。まだ増えると思います。
善助さんは同志の間では「昭和の高山彦九郎」と言われていたようで、中橋照夫(明大生)は「昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない」(二・二六事件第一回公判)と善助さんについて言っています。
高山彦九郎は、延享四年(1747年)上野国に生まれ、寛政五年(1793年)に割腹自殺した「尊皇即討幕」の大誓願を開眼し、皇政復古による維新翼賛の運動を礎石した人物(「高山彦九郎」唐澤道隆著、昭和18年)で、五・一五事件関係者の三上卓は「烈々たる気宇、不抜の信念、山の如き風格、火のような意志、それに手放しで泣ける大丈夫の涙」(「高山彦九郎」三上卓著、昭和15年)と高山彦九郎を評しています。
また、よく坐禅をしていたので「お上人」との愛称もあり(三角友幾手記)とても世話好きであったという一面もあります。
善助さんを知るとまさに高山彦九郎と重なってきます。
真剣に生きた善助さん。七生報国。今もどこかで闘っているんでしょうね。
略歴は次回にて。
(以上、渋川明雄様のコメントでした。)

コメントに書かれている「1000ページにわたる渋川さんにかかる記述」については、私は一度拝見していますが、しかも几帳面な字で、鉛筆で書き写しておられました。そのお気持ちは、写経にも通づるものあり。の感を深くいたしました。ワープロやいい加減な理解でとりあえず行こうというような小生、誠に、忸怩たるものあり、汗顔のいたりなどであります。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

明治憲法下における政治機関と憲法外の政治機関

2009年04月21日 | 今泉章利
近代史を理解しようとするときに、小生を悩ませるものは、(1)明治憲法のもとにあった国家機関(憲法的機関)と、(2)憲法における主権者たる天皇への輔弼ということで設けられた国家機関(憲法外機関)の両方が存在することである。
おまけに、それぞれの関係が複雑だったり議会の関係も今のそれと違っていたりするので、勉強ノートとしてメモしたい。なお、天皇は、主権者であり、統治権の総攬者(一手に掌握して治める)であられる。(このメモは長谷川正安氏の著作などからであるが、いろいろと議論がある筈で、特に、伊藤博文を参考に、今後、もう少し自分なりに整理したい。)

(1)明治憲法のもとにあった国家機関(憲法的機関)
①全面的規定
・裁判所(天皇の名による裁判)
・帝国議会(立法権の協賛) 貴族院と衆議院
②部分的規定
・内閣(天皇の国務の輔弼)
・枢密院(天皇に対する重要国務の諮詢)

(2)憲法における天皇への輔弼ということで設けられた国家機関(憲法外機関)
①元老(内閣総理大臣を選出して天皇に奏請)
②軍事参議官
③陸軍参謀本部(統帥権の輔弼)
④海軍令部(同上)
⑤内大臣(常時輔弼)
⑥宮内大臣(皇室事務の輔弼)

自分は、宮内大臣と内大臣をよく理解していなかった。内閣総理大臣の職務権限がどのように明治憲法に規定されているのか。。調べたい。

二・二六事件の蹶起趣意書で「所謂 元老、重臣、軍閥、財界、官僚、政党は此の国体破壊の元凶なり。」とあるが、この意味を、実際の機構とその人間とをあてはめて理解したいのである。恥ずかしくも遅きに失する感はあるが。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

崩壊期の政党政治

2009年04月21日 | 今泉章利
馬場恒吾というジャーナリストが、政党の実体は、会社と同じく資本金の大きさによる。主義や政策は第二義的の重要さしかない といった。
そして政治の費用は際限なくふくらみ、買収などで選挙に勝っていた代議士たちはいつしか没落崩壊するのだ と述べている。

昭和二年の事である。

1000万人の人々は、1年半まえに、ようやく勝ち得た普通選挙権を初めて、衆議院選挙で実施すべく若槻内閣が解散するのを待っていたのに、憲政会の若槻は、加藤高明なきあと頼みとしていた鉄道省の金づるが、スキャンダルでダメになったので、金のめどがたたず、結局、解散はやめた。
かわりに、政友本党の床次(とこなみ)との談合によって政権のたらいが回り始めたのであった。

備考:このたらいまわしの技は、いまでも小沢や、自民党名人によって引き継がれている。

水上さんはこの年、函館商船学校を卒業していろいろと考えていた時期かもしれない。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

コメント

テポドン追加 原爆、水爆のこと

2009年04月21日 | 今泉章利
追加です。

原爆、水爆についてついでだから言っておきたいと思います。一般に、原子力爆弾のことを知っている人は言わない。言っている人は、知らない。。。といわれています。もちろん私は後者です。


で、テポドンの話ですけど、これは核弾頭を運ぶ輸送機械ですから、爆弾は思いのままに、日本でもどこでも運んで爆発させ、人を殺すことができます。だから、このミサイルはどんな名前がついたって、北が原爆事件をやり、ミサイルの実験までやっているのは明らかに核戦争を考えているということです。北がどんな言い訳をしても、明白なことで、アメリカもロシアも中国もフランスも英国も および非常任理事国も、ぜんぶが認めたということです!!去年の12月のことです。

ミサイルが運ぶのは、核弾頭です。

広島、長崎のときの重量は重さが約4トンでした。ずいぶん重い爆弾で、これは飛行機、つまり、B29でやっと運んで落としたのです。

広島に落とされた爆発力はTNT火薬換算で13キロトン つまり13000トンの爆弾で14万人が亡くなりました。
あの昭和20年3月10日、一夜にして12万人が亡くなられた東京大空襲で使った爆弾が2000トン(2キロトン)ですが、広島の原爆は爆発力の点では、その東京大空襲の7倍のものでした。

今の原爆、水爆の重さは極秘ですが、その一番小さいもので、70キログラム程度といわれております。その爆発力は広島の約半分。大型の戦車から打つのだそうです。

いま、大陸間弾道ミサイルに乗せている水爆のサイズは、TNT火薬換算で475キロトンの第三世代といわれるものす。つまり 広島の40倍の爆発力を持つものです。(重量はミサイルの大きさにも関係するので極秘とされています。)大型ミサイルは一概には言えませんが運ぶものは4から8トンぐらいなものでしょうか。 広島の被害から計算すると600万人が一挙に死ぬことになります。これが、アメリカに5000発、ロシアに5000発、英国に200発、フランスに550発、中国に450発あるのです。単純計算すれば、6000億人が死ぬことになります。(現在世界の人口は、約70億人だそうです。)

SALT2でも他の細かい交渉でも、その後、核軍縮は全く進んでいません。だから、最近、オバマ大統領がが、メドベーチェフ大統領とこの話をしたことはすごいことなのです。

IAEAの事務局次長をめぐって、日本の天野大使が立候補して落選、再立候補すると新聞で報道されていますが、この複雑で、人類が抱えている最大問題のひとつを如何に解決するか彼の見解が見えてこないと批判されています。普通、国際会議で議論している人たち(日本人はなぜか、小生は一人も知りません、、)は、核軍縮に関して、相当勉強していて、多くの本や論文を発表しています。

天野さんがどぶ板選挙で戦うとか、外務省が何とか事務局長のイスをとって日本の国際間でのプレゼンスを高めたいとかいう発想や、外務省のホームぺエージにあるように、非核三原則が日本の方針ですーなどというぐらいでは、嘘をつきながら爆弾を作り、大陸間弾道級のミサイルを発射している国に、いうことを聞かせることができるはずがありません。それどころか、今、原発を作りたいというアフリカなどの国は40カ国以上もあります。その問題をどのような方程式で解いてくのか。何が外生変数で、何が内生変数で、求められるものは、微分値なのか積分値なのか。ターンパイクはあるのか。それが問われているのだと思います。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

コメント

唯物史観の二・二六事件をめぐって

2009年04月19日 | 今泉章利
前回書いたように、竹山護夫氏は、唯物史観を静的分析と言われている。読者の中にひょっとして動的分析でないのか、、と思った方もいるかもしれないが、竹山氏は「既に論理化され、整合統一されたあまりに純粋度の高い原理復帰主義思想をそのまま眺めて、そこから二・二六事件を解釈する」のは静態的な分析であると述べている。唯物史観の人にとっては厳しい批判である。

正直に言って、唯物史観の二・二六事件とはどんなものか関心を持ったので、藤原彰氏の論文を入手しようとしたが果たせず、氏の「天皇制と軍隊」という本を買ってみたが、はじめに次に様なことが書かれていた。

「日本のファシズムにおいて、そのもっとも主要な推進力となり、最終的に政治権力を掌握したものは軍部であった。資本主義の全般的危機の段階における反革命の暴力として、ファシズムが出現するとき、軍部が主要な役割を演じた例は多いが、とりわけ日本においてそれは決定的意味をもっていた。」とあり「天皇制の支配機構の再編強化と軍部の政治的領土の拡大という形で、ファシズム支配が確立した。」

これは「日本の軍隊の革命と反革命」という1969年の一橋大学の「社会学研究」に掲載されたものだそうだが、にいきなり、何の説明も定義もなく、結論を断定しきったこのような文章をみて、私はヨハネの福音書の冒頭の文章を思い出した。そして、、政党のパンフレットを思い出した。
ものごとは、事実から出発しなければならない。しかし、この文章は、結論を書いているのである。藤原氏は、証明抜きに、この結論を事実とまず決めつけているようにも読める。そして、彼は、この結論に、事実を貼り付けようされているような気がする。なんだか、とてもさみしい思いがした。事実は、自らの主張に都合よく並べ替えたり切り貼りするものではない。人間は、歴史的な事実に対してもっと謙虚でなければならないと思う。竹山道雄氏の感慨もそのようなものであったのだろうと思った。

藤原彰氏は1922年生まれ。陸士出身で、終戦後東大の史学科を卒業。一橋大学で教えていた。南京事件の発言で有名な人である。その弟子は、いまおられるかどうかわからないが、神戸の大学の教授で、二・二六事件の専門家として有名である。先日、私が慰霊像を清掃しているとき、代々木のネームプレートをつけたおばさまたちをひきつれて、見学に来られたことがあった。あなたは誰だというので、小生の父のことを言ったら、それは陸士の何期ですねというので、いや違います。47期です。といったらバツが悪そうだったので、でもよくご存知ですねと付け加えたら、私は二・二六事件の専門家ですからと言っていた。そうしたら、その女性の人たちはその先生に、拍手をしていた。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

テポドンどう思いますか

2009年04月15日 | 今泉章利
今日、4月14日、国連安保理で北朝鮮のミサイルを非難する議長声明が採択された。でもいったいみんなどこまでわかっているのだろう。

少し前、テポドンどう思いますか?と若い人にいきなり聞かれた。続けて、国際法違反ですか。飛んだら日本の感情は変わると思いますか 迎撃ミサイルはどうなるのですか、、 と来た。むうっーー。
そりゃあおっこってきたら大問題だし、、変わると思うけど、、こちらのミサイルも当たるかどうか分からないし、、数秒の判断だから、、もごもごと答えたが、頭で整理できていない自分がもどかしかった。

以下は、自分なりに整理したとりあえずの答えと追加の情報である。

北朝鮮は、一般的に人工衛星打ち上げなのだから、国際法上何の間違いも落ち度もないと主張しているが、自分が10月に核実験を行い、世界の非難を受け、安保理は次の決議1718号を行った。

・北朝鮮が2006年10月9日に行った核実験を非難
・北朝鮮に対し、これ以上の核実験と弾道ミサイルの開発・発射の中止を要求
・北朝鮮に対し、核拡散防止条約と国際原子力機関(IAEA)への復帰を要求
・北朝鮮に対し、既存のあらゆる核計画と大量破壊兵器を、完全な、検証可能な、不可逆的な方法で放棄することを決定し、核不拡散防止条約とIAEAが定める条件に厳格に従って行動することを決定

(訳が正しいかよく分からないけど一応正として、、)

つまり、爆弾の実験とミサイルの開発。発射をやめろと、みんなで、つまり、アメリカもロシアも中国もフランスもイギリスの常任理事国も日本などの非常任理事国も公式に決議した。議長声明も公式の議決で、いずれも国際法的力を有する となっている。 言いかえれば この決議に逆らうやつは どんな目にあっても 知らないよという いわば お墨付きなのだ。なぜこんなにみんな怒ったかと言えば、大量殺りく兵器の開発の恐ろしさを知っているからだ。北のような国が、日本に脅威を与える。そしてもし、日本が本格的に開発し始めたら世界第二の日本の工業力をもってすれば数千発でも造ってしまうかもしれない。そして他もやり始めて、映画のように誰かがミサイルのボタンを押してしまったら、人類は絶滅するのだ。!だからバカなこと、おろかなこと、はやめろと言っているのである。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

内務省 週報

2009年04月13日 | 今泉章利
なかなか書けなくて申し訳ありません。

最近は、国会図書館で、内務省の週報を閲覧しています。

これは、二・二六事件以降の内務省の察保局が昭和12年までまとめたもので、昭和11年は、4月27日に第1号ができ、12月末までに36号と、特輯号などと区別が3冊で、39冊がまとめられているものです。また昭和12年には2月6日までに4冊がまとめられています。
もちろん出版する目的でなく、内務省が、その警察力で入手した情報のかなりのエッセンスをまとめたものですが、目的はあくまで、二・二六事件に対する国民の動向、第二の二・二六事件が発生するかを見極めることなどが主目的です。
具体的には、海軍、陸軍、元神兵隊員、遺族の動向、橋本欣五朗、真崎、大岸、頭山満など、、さらには直心道場などにも報告が及んでいます。

これは、勿論極秘だったので、幻の資料と言われていましたが、当時の察保局長の萱場軍蔵氏が国会図書館に寄贈されたもので、誠に貴重な内容になっています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント (1)

御酒が飲めなくなりました。

2009年04月06日 | 今泉章利
硬い文章ばかり、、少々疲れました。歴史学なんて、というきでずっといたのですけれど、結構、やっぱり大変な社会なんですね。
身の丈に合わせた自分に尺度を移したいと思います。

話は変わりますが、最近、明かに体質が変わってきているような気がしています。肌の表面に潤いがなく、風呂を出てクリームでも塗らないとカサカサになってしまうという思いを初めてしました。かゆくなるのです。
それから、お酒を飲むと、夜中に頭が痛くなってくることです。なんとも情けないことなのですが、思い当たる節はあります。私は、お酒が飲めなかったのです。、40年近く前に会社に入った時には、お酒が飲めなくてほんとうに苦労しました。飲むと頭が痛くなったり、二日酔いになったり、苦しい思いをしました。それを会社の仕事だというわけで、一生懸命に飲むように努力をして、今日まで来たような気がします。。そして最近、急に、元に戻って、お酒がのめなくなったのかもしれません。。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント (1)