◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「7月12日」の逡巡。そして・・・◎

2024年07月12日 | 末松建比古
「・・・仏心会は遺族の会であって、二・二六の会ではありませんから。」
「・・・では、二・二六の会はあるか? ありません。それでいいでしょう。」
唐突の書き出しは 現代史懇話会「史89/1995」「史90/1996」に掲載された《小木曽八「二・二六は永遠なり/末松太平、晩年の手紙」》からの引写し。末松太平が小木氏に送ったという「返信の数々」の一部分である。
掲載号の「編集余情」には「・・・『二・二六は永遠なり』を書かれた小木曽八さん、心のぬくもりが、ほのぼのと伝わってくる好文章である。心友とは如何にあるべきかを、しみじみと考えさせる」と記されている。

7月12日の「賢崇寺の法要」には 参列するつもりがなかった。
「仏心会は遺族の会であって・・・」ということは、私自身も ある時期から強く意識しはじめていた。特に ここ数年は コロナ禍対策として「法要」の参列者は「仏心会」の主要メンバーに限定されていて、徐々に「遠い存在」になっていった・・・ということもある。

  

そして7月12日。 私は賢崇寺にいた。
予定を変更させた原因は、大石健一氏(読売新聞中津支局・支局長)からの電話にある。
「休みがとれたので 賢崇寺に行きます。末松さんは参列なさいますか?」
「多分 賢崇寺には行かないと思う・・・」
「賢崇寺でお目にかかれないときは どこかで会いたいので 連絡しても良いですか?」
「はて・・・」
大分県から遙々やってくる大石サンの《熱意》には 応えるのが《人の道》というものだろう。
しかし 自宅に待機していて 法要が終わる頃に《どこか》に出かけるのも億劫なはなしである。
大分県から来る人のために 直ぐ判る場所(直ぐ判る店)を あれこれ考えるのも煩わしい。
それよりも 賢崇寺に出かける方が簡単ではないか。
ということで 急遽「志」を二封(仏心会宛と慰霊像護持の会宛)用意することになった。

   

法要の様子については省略。私が(法要の場にそぐわない?)軽装姿であるのも、いつもと同じこと。
2月26日は「二・二六事件全殉難物故者◎◎回忌法要」だが、7月12日は「二・二六事件十五士◎◎回祥月忌法要」という趣旨の違いがある。勇ましい方々が来ることもないから「公安関係」の方々を煩わせることもない。
法要を終えて 直ぐに帰りたいところだが 後片付けの方々(今泉章利サンや森田朋美サン)を無視して消える訳にはいかない。玄関横のスペースに置かれた椅子に ぼんやり坐って時間つぶし。
「・・・末松さん、香田です。ブログいつも見ていますよ」
わざわざ名乗って挨拶するのが 香田サン(仏心会・前代表)の生真面目なお人柄である。

大石サンは(有給休暇で上京したのに)記者の習性を発揮して「野中サンに話しを伺うので お待ちいただけますか・・・」
《野中サン》については 今まで挨拶したこともなく 詳しいことは知らない。野中大尉の遺児=お嬢さんひとり。つまり《野中サン》は「野中大尉の兄か弟の御遺族」ということだろう。柔らかな笑顔を欠かさない(84歳の私よりも高齢の)物静かな方だとお見受けした。
玄関横のスペースでは 栗原(仏心会・現代表)サン、今泉(慰霊像護持の会・世話人代表)サン、香田(仏心会・前代表)他2名が顔を揃えて会議中。取材を終えた野中サンも「こちらに坐って下さい」と招かれていた。
・・・大石サンの奥には 毎日新聞・栗原記者の姿が見える。栗原記者は ラフな黒シャツ姿で原稿執筆中。彼の服装と比べれば 私の《軽装》は それなりにキチンとしていた筈である。

森田朋美サンに率いられて 池田俊彦少尉の墓参り。瑞聖寺=都営地下鉄「白金台駅」前。大石サンも同行して 年少者の役割(墓掃除)を果たしてくれた。
墓参を終えて 近くの「バーミヤン」へ。今泉サン、渡辺都子チャンも現われて 総勢5名の「直会」となった。(末松建比古)
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◎承前/相澤正彦「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」◎

2024年07月02日 | 末松建比古
驚いてはいけない。《末松太平「私の昭和史/二・二六事件異聞」》には《相澤中佐》が全く登場していないのだ。
1963(昭和38)年発行の「みすず書房版」から、2023(令和5)年発行の「中央公論新社版」に到るまで、《相澤》は「私の昭和史」に一度も登場していない。巻末の人名索引にも《相澤三郎》は登場せず《相沢三郎》が記されている。
《相澤三郎》《相沢三郎》・・・。末松太平が間違えたわけではない。大蔵栄一著「二・二六事件への挽歌」に登場するのも《相沢》である。大蔵栄一氏は 軍事裁判への対策として「相澤中佐の片影/昭和十一年二月十日発行」の作成に尽力された方だが それでも自著では《相沢》と記している。

判決
予備役陸軍歩兵中佐 相沢三郎
明治二十二年九月九日生
右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍事法廷は検察官陸軍法務官島田朋三郞千与審理を遂げ判決すること左の如し。
主文
被告人を死刑に処す
押収に係る軍刀一振は之を没収す

陸軍省発表(昭和十一年五月九日)の公式文書でも《相沢三郎》と明記されている。
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《相澤正彦「大岸頼好論序説(二)/敗戦との闘い」》
・・・現代史懇話会「史87/1995」平成7年5月6日発行。

《東久邇内閣》
大岸頼好は、昭和初期に青年将校運動の覚醒と原動力の一端を担い、敗戦の混沌が収縮の方向に向かうなかで、郷里土佐に帰るまで、関係者からの期待と信頼を受けた人物である。彼が世を去って十三年余の昭和四十一年に発行された『追想・大岸頼好/末松太平編集』からもその事実を窺い知ることができる。小冊子ながらも略伝を超えた深みと内容があり、これは偏に寄稿者・編者の熱い思いと力量の賜物であろう。
大岸が敗戦を目前に 和戦両様の構えでその実現を願った「天皇親政」による大政輔翼政治体制案とは、如何なるものであったか。その手稿「是々否々」の「條々」の章から、その冒頭を以下に引用する。尚、この案は彼が東久邇内閣時代に 身命を賭してその実現に取組み、幣原内閣成立後も、推移する状況を踏まえ大修正を加えて「日本人民外交史」と題して頒布している。でも、この方の主眼は、戦犯問題に対する彼の答えにあった。
「條々」の一、大政輔翼ノ綱領では「天皇絶対萬民平等ノ大義ニ則リ天皇ノ国民、国民ノ天皇タル日本ノ眞姿ヲ顕現スベキコト。内外一切ノ𦾔弊ヲ洗除シ、現内閣官制ニ先行優位スベキ御親裁官府ヲ御設置アラセラレルベキコト。」とし、以下註として五項目からなる具体案を列記している。
終戦の玉音が放送され、翌々日成立した東久邇内閣の組閣に当っても、大岸は工作に努めていたようである。入閣に意欲を見せていたといわれる真崎甚三郎を退けて、かねて懇意の小畑敏四郎を入閣させるなどしている。また、内閣発足に際しては、徹底抗戦を主張する軍強硬分子と、心情的にこれを支持する民間人を慰撫するため、首相就任放送の即時実施とその腹構えを意見具申している。大岸は あとで私たちに「首相の東久邇宮の放送は聞きましたか、かなり効果があったようですよ」と、満足げに事の経緯を話してくれたものである。

昭和二十七年夏と記憶するが、私と母は、東久邇邸からお呼びを受け、高輪の邸に参上したことがある。応接間に通され緊張してお待ちしているところへ、年配の侍女に手を添えられ着席された元宮であった。
元宮は 身を乗り出すように顔を近づけ、私の父の思い出話や 戦後の生活はどうしているかなどをお尋ねになった。そのあと「大岸君には、終戦の前後に大変御世話になりました。相澤さんの家を大岸は使っていたようだが、迷惑をかけました」と述べられた。迷惑どころか、軍の物資から、列車乗車の便宜など頂戴したこと、大岸といろいろ語り合ったことなどをお話し申上げた。元宮は、当時を偲ばれてか、やや上を向き眼をしばたたかれながら「大岸君のような人物は なかなかいないものだ、惜しいことをした」と、しみじみ呟かれた。
私どもは、その時はじめて 元宮がかなり視力を失われていることに気付いた次第で、約四十分後に退出した。その際 玄関先までお見送りいただいたのには大変感激した。元宮が終戦を通じて大岸をどのように捉え、信頼されていたかを知ることができた。私たちは、大岸が昭和二十七年一月他界したのを、この参上のあと知った次第である。

敗戦時の徹底抗戦の熱気が収まると、事務所分室になっていた拙宅で、大岸は憑かれたようにせっせと陸軍起草用紙に「日本国憲法草案大綱」なるものを書き始めた。その反古用紙は大量で、拙宅母屋の五右衛門風呂が毎日沸かせる程のもので、わたしもまた風呂焚きに精を出したものである。そのような夏の或る日、手伝いに来ていた勝木栄子女史(母の生け花の弟子)に促されて、庭から開け放たれた応接間の方を窺った。
背の高い好青年が 大岸と何やら真剣に話し合っている。ややあって その青年が興奮気味に「必ずご期待に沿うようコンタクトに全力を尽くします。なあにこんくらいのことで日本は分解したりしませんよ」と言っているのが聞き取れた。あとで、門まで送りに出た勝木女史に尋ねたところ「知らないんですか。あれが灰田勝彦ですよ」と教えられたものである。
このような間にも、大岸は主たる事務所として日佛会館(お茶の水)を拠点に活動していた。同盟通信記者、若手官僚らを通じ、サンフランシスコ放送による敗戦国日本の処理方法や、天皇の処遇に関する連合軍の情報を継続して入手した。或いは東久邇首相のラジオ放送に対する巷の反響調査も行っている。
いち早く 海外の同胞引揚げ援護の仕事にも手を伸ばし、その世論喚起のため 日比谷公会堂で「植村環・河合ミチ子女史の講演会」「巖本真理のバイオリン演奏会」なども催した。しかし これらの所謂文化活動は 進駐してきた米軍へのプロパガンダと これらを通じての接触模索にあったようで、前述の灰田勝彦の発言からもこれを窺うことができた。
終戦直後の混沌の時期もようやく終焉の兆しをみせはじめた頃(十二月二日財閥解体、日本社会党結党)、拙宅でなにやら一人で片付けものをしている大岸を見掛けた。風呂の焚き口に庭の枯枝などを集めていると、彼は反古紙や書類を抱えてきて、一緒に燃やしてくれという。その中にあったのが「是々否々」と表書きされた本人の手稿であった。
精魂込めてまとめたものであろうと思い、所持されてはと話すと、一寸頁を繰ったが、何時になく無表情で「読んでもかまわぬが、その後は他人には見せずに必ず燃やすように」と念を押された。私にとって これが大岸と顔を合せる最後となった。
・・・末松氏が亡くなる二ヶ月前、此の手稿を持参してお見せした。「これは間違いなく大岸の字だが、何時頃、何処で書いたということは勿論、見たこともない」とのことであった。

《良民良兵》
大正十年三月、大岸は士官候補生として弘前歩兵第五十二連隊に配属され、同年十月 陸軍士官学校に入校した。当時士官学校内にも浸透してきたマルクス主義への関心に加え、弘前での疲弊した農村の状況に刺激され、一旦は退校を決意するほど 国家改造への激しい情熱を燃やした。
大正十二年七月、士官学校を卒業(第三十五期)。見習士官として第五十二連隊に戻り、同連隊で少尉に任官する。しかし早々に病を得て、数ヶ月自宅療養することになる。その間に彼は日本古典の研究などを学習するが、これらに立脚して「兵農分離亡国論」を基調とする日本軍隊の構造改革を考えた。この心境の変化を後に先輩の横地誠に「マルクス変じて本居宣長になった」と漏らしている。
大正十四年五月、軍縮で弘前第五十二年隊が廃止され、大岸は青森第五連隊に移った。そこで、四月から同連隊に士官候補生として勤務していた末松太平に出会うことになる。末松は、陸士本科に入学する十月までの約五ヶ月間、大岸から薫陶を受ける。そして農民を組織して変革の主体とする思想は、末松らに継承されていく。昭和九年初秋の 青森県農民を主体とする飢餓行進計画は その典型であった。
大岸は 昭和元年十月 中尉に任ぜられ、翌年七月に仙台陸軍教導学校学生隊付に補せられ赴任する。その折り「東奥日報」記者であった竹内俊吉に「青森の一番大きい仕事は、冷害に負けないで稔る稲の新品種を作り上げることだよ。右翼も左翼もない、思想以前の問題だ」と語っている。大岸が幼年学校から陸士時代にかけて培い、その後も思惟の基底部分にあった社会主義的要素を払拭しはじめことをた意味するものだろう。
仙台陸軍教導学校での大岸は、下士官候補のなかに、兵農分離亡国論を柱とする社会変革への同調者を養成することに務めた。然し、教導学校の創立そのものは、当時の陸将宇垣一成の「軍民一致」構想に端を発するもので、国民の中核層として「除隊する良兵」の放出を目的とし、軍隊はそのために「良兵」の培養元たらしめんとするものである。
スローガンは「良兵良民」。従ってこれには先ず兵の直接指導者である下士官を、その趣旨に沿った指導者たらしめなければならない。このような考えは、陸軍に国民統合の中軸としての機能を発揮せしめると同時に、国防の底辺を拡大することによって、高度国防国家の建設を目指したものである。これは「軍は民族生存の最高意志である。よって総てのものはこの軍に奉仕すべきである」とするルーテンドルフの思想に通ずるものであった。
これに対して大岸は、後顧の憂いなき郷土から「良兵」は生まれるとする。そのスローガンは「良民良兵」で「良兵良民」に相反する。この発想は、大正末期に旭川連隊で少尉に任官した村中孝次が「軍事扶助」をめぐる問題で、農村出身の兵とその家の立場に立って、軍に強く意見具申していることにも窺うことができる。
因みに昭和六年の「三月事件」は、宇垣首班内閣を 目論んだ未遂事件で、ルーデンドルフ信奉者の永田鉄山が宇垣らの示唆で起案したとされる。永田はこの蹉跌を他山の石として、腹心幕僚の結束と、軍中枢への進出をはかった。
そして当面の障碍となる村中、磯部を、陥穽による士官学校事件で軍組織外に放逐することに成功する。村中等は言うところの啄木鳥の戦法にまんまと嵌められたわけである。
昭和五年 天長節を期して 大岸はパンフレット「兵火」を 関係する青年将校を中心に全国規模の配布を実行した。その第二号に「現在日本に跳梁跋扈せる不正罪悪━宮内庁、華族、政党、財閥、赤賊等々━を明らかに摘出して、国民の義憤心を興起せしめ正義戦闘を開始せよ」と記した。所謂「兵火事件」である。この時期に青年将校運動を具体的にリードしつつあったのは海軍側であるが、その指導者藤井斉は「兵火」を一読して、これで陸軍同志との提携ができたといわしめた程のものであった。だが、ここで問題なのは、軍内部の改革という発想を脱却し去ったことである。仙台陸軍教導学校での約四年間に亘る隊務生活の中で、大岸は好むと好まざるとに拘わらず、軍への成員志向と「隊務専心」義務が拡大し、その拠り所としてこれを天皇信仰に求めていったと考えられる。(つづく)
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「史86」「史87」と続いた「大岸頼好論序説」の《つづき》は「史88」に掲載されなかった。休載の理由について「史88」の「編集余情」には記されていない。それは「史89」でも「史90」でも同様だった。相澤正彦氏の状況についても知らされることはなかった。
参考までに 数年を遡って《末松太平の場合》における「史」の対応を記しておく。
《末松太平「二・二六事件断章(その十)/獄内人間模様」》は「史79/1992」に掲載された。そして 次号「史80」の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」と記されている。
そして「史81/1993」の「編集余情」には「昭和維新運動の受難者、相沢ヨネさん、末松太平さんが相次いで亡くなられた。追懐の情を新たにする二篇」と記されている。その「二篇」は この号に掲載された《「相沢ヨネさんを悼む」山口富永》と《「回想の末松太平」池田俊彦》である。

   

「大岸頼好論序説」の中断は 相澤正彦氏の健康状態が原因だったようである。
しかし、平成7年、平成8年・・・、相澤氏直筆の年賀状は「何の気配」も感じさせなかった。平成11(1999)年の年賀状「今年は是非おさそい致したく思いおります」に 私は心躍らせ「おさそいされる日」を心待ちしていた。
「相澤氏が病床にある」と知ったのは何時頃だったのか はっきりとした記録がない。病床見舞いは、奥様から「申訳ありませんが 難病なので・・・」と謝絶されていたので 過酷な病状は推察できた。当時は健在だった私の母(末松太平夫人)にも情報は伝わっていて「相澤さん、大分悪いらしいね・・・」と心配していた。
2004年の年賀状は「相澤夫妻の連名」に変っていた。そして これが「相澤正彦氏」から戴いた「最後の年賀状」になった。(末松建比古)
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◎幻の名書《相澤正彦著「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」》国民新聞社刊◎

2024年06月26日 | 末松建比古
相澤正彦氏(相澤三郎中佐の御長男)は 相澤中佐が刑死直前に記した遺言で「相澤家・第十三代」を託された。幼少の身で「第十三代」を託された正彦氏は 相澤家の「当主」として 戦中戦後の混乱期を乗り切ることになる。
今回は 相澤正彦氏の「幻の著書」をご紹介。相澤家(東京都中野区鷺宮)を舞台に展開した「戦後混乱期の記録」には、知られざるエピソードも多々含まれている。 


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《大岸頼好論序説/敗戦との戦い》
・・・現代史懇話会「史」№86・1994(平成6年12月号)

◎はじめに◎
大岸頼好は、ここに改めてその軌跡を紹介するまでもなく、大正末期から昭和の終戦直後の混乱期にかけて、所謂革新運動(昭和維新)の先駆性を遺憾なく発揮し、時代を駆け抜けていった傑物である。北一輝、西田税らとは、その天皇論をめぐり若干の主要点の相違から、革新陣営内において対峙的に位置づける捉え方が一般的である。(以下、4行割愛)
昭和2年12月、いわゆる「怪文書」にはじまり 幾多の檄文、論文、大綱案に類するものを 公然・非公然裡に世に出してきたが、これは本人の精神理念に基づき、激動する時局を見据える理想・意識の昂まりと、迸る情念のなせる業とみるべきであろう。いみじくも、敗色漂いはじめた昭和十九年春、満州交易会社を設立して新京にあった大岸は、同志の問いに対して「(私は)相変わらず抽象論を言っていますがネ、もっともな抽象論は もっともな具体論だと思ってる・・・」と煙に巻いて、ここらが大岸哲学の神髄のあるところと捉えられたりしていたようである。
本文末尾に抜粋を紹介する『是々否々』(原文のまま)一巻は、大岸の筆に成る、国体明徴と天皇親政に裏打ちされ、一部の停戦をも視野に入れた戦争遂行案とも謂うべきもので、敗戦の年の三月、大岸(当時、満州交易株式会社常務)は東京出張という名目で、本土に帰還の前後から構想を練り、五月初め頃より一気呵成に筆で浄書したものである。(以下、6行割愛)。

  

◎相見える◎
私が大岸頼好の名前を知ったのは、父(相澤三郎)が青森から秋田の歩兵連隊に転じた昭和七年秋頃である。当時、三日にあげず深更まで、民間人も交えた軍人達が客間に集まり、酒宴での声高な論争、襖ひとつ隔てた私の寝所では、到底寝付かれるものではなかった。しばしば「何が国家、社会ですか!」と、母が客人に説教することもあったが、不思議なほど父の声は聞こえてこなかった。そうした日常生活のなかで、大岸さん、末松さん、その他の方々が父と関わっていることを、朧気ながら知ったわけである。
私が 大岸ご本人と相見えるようになったのは、昭和十二年、父の一周忌も終わった夏の盛りだったろうか。中野区鷺宮の拙宅に 白絣絣の和服姿で颯爽と現われたものである。それ以降、父への御参りと称して、しばしば訪れるようになった。結局、言うところの同志たちと、夜遅くまで酒宴となるのが常であった。
中村義明、末松太平、吉原政巳、三上卓、大庭春雄、林正義、八木春雄、その他陸海民間を問わず、その時々の必要に応じて組み合わせがなされたようであったが、その辺りのことは私の認識外であった。(以下、数行分を割愛 修正)
支那事変が深まるにつれて、大岸さん十八番の歌は軍国歌謡、軍歌に変り、その中でも「愛国行進曲」は大層お気に入りのようだった。その愛国精神は私なりに理解できたが、時の時流に乗って動いているのではないかという疑念にかられたものである。
太平洋戦争に突入した翌年、昭和十七年の秋だったと思う。拙宅を訪れた大岸さんに、応接間で話し相手になつて頂いた。以前からの疑念が深まるばかりなので「あんまり軍の尻馬に乗りすぎると、今に振り落とされますよ」と精一杯の嫌みをぶつけたつもりだった。が、例の通り、ニヤニヤ私の顔を眺めているだけである。腹に据えかねて「おじさんは狸だね」と つい口走った。しかし、大岸さんは意に介せぬ様子で 丁度茶菓子を運んできた母に 破顔一笑 呵々大笑 上機嫌の様子であった。(以下、約7行分を割愛修正)

◎手稿『是々否々』◎
昭和十九年晩秋の頃だったか、ひょっこりと満州からの出張で大岸さんが来訪した。既に時局は表面的な戦意高揚とは裏腹に、蔭の部分ではかなりの腐食・腐敗が進行しており、冷静に見て、このままで敗北は免れぬところと感じていた。そこで大岸さんに「このままでは敗けてしまいませんか」と云うや「否、日本は不滅です」と即座に強く否定した。
その理由づけとして、以前にも拝聴したことのある日本精神論を語られた。そのあとで語気を和らげ「戦争に限らず勝負事というものは、勝敗を度外視し無心になったとき、勝てるものなんですよ」と諭され、畏れ入ったものである。
佐郷屋義昭は 昭和十八年頃 京城で懇談した際に 大岸が「戦争なんか後回しにすれば良いのに、でなければこれは負けだ。軍人なんか全部堕落していて、もはや皇軍なんかではない」と、かなり大声で話し、その声は外に立っている憲兵にも聞こえていただろうと(「回想・大岸頼好」で)述べている。(以下 6行割愛)。
昭和二十年一月十八日、最高戦争指導会議。同二月四日より、ヤルタ会談。同二月十六日以降、本土制空権の事実上潰滅。
こうした戦況を踏まえた大岸は、一時停戦を視野に入れた戦争遂行案の構想を抱いた。この構想を成文にまとめたことは、冒頭に述べたとおりである。
大岸は その以前からも拙宅を週に一、二回は同志達との連絡場所にしており、小磯内閣が倒れたあとは、近衛公に出馬してもらわなければ、など様々な話しを耳にしたものである。それは 大岸自身が近衛公に直接会い、また要路の関係者とも頻繁に会っていたことを覗わせるものであった。
(以下、25行を割愛。この部分は『是々否々』の解説が主で 時系列の混乱を避けるため割愛した)
尚、昭和二十年六月、応召という名目で陸軍省入りした大岸は、当時お茶の水にあった日仏会館を拠点とし、敗戦前後の混乱期に 大岸一流の政治工作、実践行動を推し進めていった。その間にも 例によって拙宅が連絡場所に使われていた。
しかし私も勤労動員で航空軍需工場での徹夜作業、東北方面への疎開準備などに追われ、大岸さんとゆっくり話す余裕はなかった。従って 沖縄陥落 近衛公のソ連特使申込み 鈴木首相のポツダム宣言無視声明などについて 大岸さんがどう考え、どう関わっていったか、当時は知るよしもなかった。
ただ、七月初め(父の命日の前後だったか)、家の客間で太田良先生(頭山満翁の愛弟子)が大岸に「アメリカでは東京を一瞬にして吹き飛ばす程の爆弾が、既に出来つつある」と熱心に話していたが、彼も情報を得ていただろうに 真面目な顔で頷きながら拝聴していたのが印象的だった。
『是々否々』の原文は、陸軍起草用・B4版29行用紙✕30枚に筆書きされ、1行に27文字の運びで統一しており、前言16枚、條々14枚に納められている。
ここに前言の一部を紹介する。(以下、43行割愛)。
(以下次号)
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冒頭に《幻の著書》と記した。《幻》のまま消えた原因については 稿をあらためて・・・。(末松建比古)
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◎徹子の部屋??・太平の部屋!!◎

2024年06月19日 | 末松建比古
築地本願寺の合同墓(第二期募集)窓口を訪れ「末松太平夫妻+私夫妻=4件」の登録を完了。正式書類も無事に届いた。
次のステップは 末松太平夫妻が眠る「千葉市営・平和公園墓地」を訪れ 諸手続を済ませることである。

  

6月13日。妹夫妻とJR稲毛駅前で合流。妹の愛車(ナンバープレート「226」)に便乗して 先ずは「平和公園管理事務所」へ。ここで「改葬許可申請書」に「埋蔵収蔵証明の押印」を受けて、最初の関門をクリア。末松太平夫妻の墓へと向かう。
久しぶりの墓参は「墓じまい直前の墓参」でもある。記念撮影は欠かせない。撮影結果はご覧のとおり。セルフタイマーの設定ミス(僅か2秒でカチャリ)で・・・。墓石の下から哄笑が聞こえた。
次の関門は「千葉市役所生活衛生課」を訪ねて「改葬許可証=千葉市長名義」を貰うこと。平和公園近くの人気蕎麦店で小休止。新築移転したばかりの千葉市役所に向かう。駐車場周辺工事が進行中の状態で 妹夫妻も「初めて足を踏み入れた」とのことだった。改葬許可証を入手して 次にすることは《石材店にお骨の取り出しとお墓の撤去工事の相談をして日程を決めます》なのだが とりあえず今日はここまで。
今後の課題は《取り出した骨壺2箇》の運び方。骨壺のサイズは7寸(東日本)と5寸(西日本)があるらしい。直径約22㎝✕高さ約25㎝=9430CCの壺が2個。千葉市若葉区の墓地から東京都板橋区の我家まで「脊柱管狭窄症(間歇性跛行)に悩む84歳老人=私」が 交通機関を乗り継いで 2個を抱えて・・・。そして納骨の際には 我家から築地本願寺まで 2個を抱えて・・・。

   

予定業務は全て完了。 千葉市役所の近くにある「妹夫妻の住居」に案内される。
妹が 私に見せたかったのは「末松太平の部屋」である。

2014年に「末松太平(1993年逝去)が住んでいた家」は取壊され 更地になった。
その際に「末松太平の遺品=書籍&史料類」は 近くに住む妹(末松太平長女=千葉市美浜区在住)に預けられた。
妹は 段ボール数十箇分の遺品を保管するため 自宅以外に「3LDK」を買い足し 緊急対応した。
当時 このことを《「◎番外篇/遺品資料移動大作戦◎」2014年7月29日付》で報告している。

最近 全室をリフォームしたらしく 案内された「末松太平の部屋」も《壮観》ともいうべき変貌を遂げていた。
ズラリ並んだ書棚は リフォーム業者が仕上げたものだが 完成までには多少のトラブルもあったらしい。
妹曰く「だって 書棚が完成すれば隠れて見えなくなる壁紙なのに わざわざ高級品を貼っちゃうんだもん・・・(苦笑)」
10年振りに「末松太平の蔵書」と対面する。記憶を辿れば 当時廃棄処分した大量の《紙の山》には「日本及日本人」や「不二」「四国不二」といった雑誌や 自費出版の印刷物が多数含まれていた。全てを保存するのは到底不可能だった。
画像=対面した蔵書の一例。青森放送の記念出版「竹内俊吉集成」1988年12月発行。豪華箱入・2巻セット(竹内俊吉の世界+竹内俊吉の時代)。内容ギッシリ 重量ズッシリ。
2巻の表紙は「棟方志功オリジナル版画」で飾られている。末松太平は「竹内俊吉の時代」に全3篇(1934年・1935年・1940年)を寄稿している。

例えば《白井タケ+波多江たま共著「邦刀遺文」自費出版箱入2冊組》・・・。「末松太平の部屋」の蔵書リストは いずれ公表する予定ではいる。
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今回のタイトル「徹子の部屋? 太平の部屋!」・・・ということで 蛇足を少々。
昔々 私は2度ほど「徹子の部屋」を訪れ 黒柳徹子サンと会話している。テレビCMの打合せのためである。
事前に所属事務所の社長サンから「チャック(徹子サンのこと)にCMプランを押しつけちゃだめよ。どうして私がこんなことしなくちゃいけないの と反発されるから・・・」とアドバイスされていた。
「例えば ◎◎とか ✖✖とか どうですか?」「あ それ面白いわね。こうすれば もっと面白くなるわね!」。ミーティングは和気藹々。撮影本番当日もスタジオに笑顔が溢れた。(末松建比古)
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◎「定本 私の昭和史/二・二六事件異聞」増補改版◎

2024年06月11日 | 末松建比古


中央公論新社刊の《末松太平「完本 私の昭和史」》と 画像掲載の《「定本 私の昭和史」増補改版》と・・・。
「完本」と「定本」との違いは 私流の印象操作術である。自費出版で「増補改版」を作成した・・・というわけではない。
今回は《末松太平「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」》を所有している皆様への限定メッセージ。所有者以外の方々には「どうでもいいこと」の連続になるが 御容赦いただきたい。
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私が《「完本 私の昭和史」中央公論新社刊》を初めて手にしたときに「あれれ・・・?」と感じたのは《解説がない》ということだった。
確かに「完本」の「帯」には「同時代書評 三島由紀夫 橋川文三」と並んで「解説 筒井清忠」と記されてはいる。しかし その「解説」とは(完本の解説ではなく)中公文庫版についての解説だったのだ。
冒頭に「本書は最初1963(昭和38)年に刊行され、その後2013年に中公文庫版が出たものの増補改訂版である」とは書かれてはいる。でも 中公文庫版の解説との違いは《最初の2行だけ》で《増補改訂部分》については一切触れていない。
はて?・・・。《解説がない》のであれば 私自身が《「完本 私の昭和史」の解説》を記すしかない。画像掲載の「増補改版」には そういう意図が込められている。

「完本」の目次には「拾遺」として8篇が加えられている。
そして巻末の「編集付記」には《本書は中公文庫版を底本として『軍隊と戦後の中で/「私の昭和史」拾遺』(1980年2月 大和書房)の第Ⅰ部を「拾遺」として収録したものである》と記されている。だが、この8篇と「二・二六事件異聞」との関連は どこにも記されていない。

  

昔々、高橋正衛氏(みすず書房の編集者)は、雑誌「政経新論」連載の「二・二六事件異聞」の中から 冒頭に「残生」を据え「大岸頼好との出合い~大岸頼好の死」という流れに沿って「私の昭和史」全編を構築した。そのとき採録されなかったものの「そのまた一部」を 大和書房編集者が「拾遺」として出版している。
但し、この8篇全てが「二・二六事件異聞」からの「拾遺」だったという訳ではない。その辺りのことを 末松太平が「あとがき/若干の解説」として記しているが 今回の「完本」では「あとがき/若干の解説」の部分は掲載されず「筒井氏の解説」にも反映されなかった。
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◎末松太平自身による「あとがき/若干の解説」。
Ⅰについて。
拙書『私の昭和史』(みすず書房刊)は「政経新論」に「二・二六事件異聞」という題で連載したものの一部を採録したものだが、Ⅰはそのとき採録されなかったもののうち、大和書房編集子が、そのまた一部を選び出したものが主になっている。その意味においてⅠは「私の昭和史」拾遺である。
但し「赤化将校事件」は、学藝書林刊『ドキュメント日本人③反逆者』に。「青森連隊呼応計画」は『人物往来』(昭和40年2月号、特集「二・二六事件」に。「有馬頼義の『二・二六事件暗殺の目撃者』について」は河野司著『私の二・二六事件』(河出書房新社刊)に載ったものである。
「夏草の蒸すころ」のなかの三角友幾は昭和50年7月17日に亡くなった。遺書のなかに次のことばがある。「生死のことは結局何もわからぬままですが一応世を去ります」。
亡くなる数日前、7月11日の日記に「せめて明日の渋川さんたちの命日まで・・・」と書いている。その12日も過ぎ17日になって三角友幾は、二・二六事件のころに発病した脊椎カリエスが遂に癒えず、渋川が「今度会う時は別れる心配はなくなるんだね」と本人に言ったという、その時空を超えたところ、それを西田税は、青雲の涯てと表現したが、その渋川のもとへと今生を去っていった。
「続・夏草の蒸すころ」のなかの、十七の盆提灯は昭和31年の「主婦の友」三月号に載ったもので・・・(以下割愛)
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◎(筒井清忠解説に)補足が必要な事柄/当ブログ(2013年2月24日付)から一部を再掲。
突如 私の名前と「年表・末松太平」が登場したので、いささか驚く。1974年(みすず書房版)と2013年(中公文庫版)では「時代の空気」が異なるのはやむを得ない。解説者の役割のひとつは《執筆当時の筆者の想い》を《2013年の読者に伝える》橋渡しだと思う。そのために、筒井氏が《田村重見編「大岸・末松/交友と遺文」》を活用したことは、望外の喜びだった。

しかし ひとむかし前には「望外の喜び」だったことも 再び「同一文章」に出会ってしまうと 別の感慨が生まれてくる。
「完本 私の昭和史」掲載の「筒井解説」は全186行。そのうち52行分は「年表・末松太平」からの引用である。
「同一文章」であるが故の奇妙な部分(例えば「完本」に掲載されている三島由紀夫の書評の引用)などもある。
・・・ということで 筒井解説に対する感謝の念を前提としながらも 補足すべき事柄を記しておきたい。

補足①=「私家版/年表・末松太平」について。これは(没後1ヶ月の短期間に)私が急遽まとめたもので「ゼロックスA4版✕33枚」をホチキスで綴じたもの。冒頭に記した「作成ルール」を含めて《田村重見編「大岸 末松/交友と遺文」》に転載された。なお その後に《修正すべき箇所》を幾つか発見している。引用する際は要注意である。
補足②=「末松仲七の三男として・・・」の部分について。この説明に誤りはないが、あえて補足を加えれば、末松太平は仲七(父)とフシ(母=後妻)との間に「最初に生まれた男子」でもある。末松太平の言動に《長男》の印象が漂うのは、このためだと思う。
補足③=「主幹として雑誌『政経新論』を発刊し」の部分について。素直に読むと「末松太平がリーダーとなって、雑誌を発刊した」という印象になる。この部分は「編集兼発行人は片岡千春(政経新論社オーナー)だったこと」を省くと拙いような気がする。どうして《拙い》のかにつては、ここでは触れない。
補足④=「これに対する批判が『最後の戦い』となった」の部分につて。重箱の隅を突くようで気がひけるのだが、私の原文では「これが【末松太平「最後の」事件】の始まりとなる」と記されている。それを《田村重見編「交友と遺文」》に転載する際に「これが【末松太平「最後の」たたかい】の始まりとなる」に書き改めた。戦いでなく「たたかい」である。 
半盲目状態になっても闘志満々だった末松太平は(何歳まで生きるつもりでいたかは知らないが)82歳の時点ではまだ「最後の戦い」などと思う筈がない。私が「最後の」を括弧したのは、詠嘆を込めてのことである。
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先日「國風講座」の講師を務めた際に 当然「私の昭和史」関連の話題も登場した。
そして 最も反応があったのが《「私の昭和史」誕生に到る経緯》について簡単に触れた部分であった。
画像参照=日本読書新聞掲載記事。「名著の履歴書/高橋正衛・私の昭和史」「西田税の仏壇の前で」・・・。
西田税の命日に 西田家を訪れた高橋正衛氏は 仏壇の前に置かれてあった雑誌「政経新論」に出会った。そして・・・。
言うなれば《末松太平「私の昭和史」みすず書房刊》は《西田税のお導き》によって誕生した ということである。

1963(昭和38)年。みすず書房「私の昭和史」発行。
2023(令和05)年。中央公論新社「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」発行。
高橋正衛氏(みすず書房)と橋爪史芳氏(中央公論新社)。二人の編集者には 感謝以外の言葉がない。
それにしても 60年の歳月を超えて いまなお「私の昭和史」が(古本屋でなく)一般書店で購入できるとは、高橋正衛氏も想像しなかったことだと思う。(末松建比古)
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◎「末松~神~村方ライン」の周辺◎

2024年06月04日 | 末松建比古
つい先日「◎◎書房」のWサンの来訪を受けた。Wサン=自分史アドバイザー。写真集、句集、随筆集、論文、研究書、画集、絵本・・・、要するに「自叙伝・自分史作りを中心に、少部数から大部数まで承ります」という立場の方である。
私について「それなりのリサーチ」をしているから 自費出版を勧誘するようなことはしない。「完本 私の昭和史」などの話をして「今後もよろしく・・・」と帰っていった。

「自費出版」という領域に、私自身は興味が無い。しかし《田村重見編「大岸頼好・末松太平/交友と遺文》や《河野司篇「遺詠集」》など 諸先輩が自費出版した書籍の数々は 今なお「貴重な史料」として高い評価を受けている。 それを思えば 自費出版に興味がない私にも「埋没している資料」を(何らかの方法で)後世に遺す責務がある訳で・・・。
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「埋没している資料」をピックアップ。
先ずは 前々回「平和観音」関連の話題で登場した「末松~神~村方ライン」の周辺から・・・。

 

《末松太平「軍隊と戦後の中で」大和書房刊=1980年2月26日初版発行》の「あとがき」から・・・。そして 続けて「本文」を・・・。
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◎「反『八甲田山死の彷徨』の風土」は「日本読書新聞」(昭和48年2月8日号「わが町・わが本」)に書いたものである。当時東京周辺の数人の読者から「日本読書新聞」を通じて「陸奥の花」の歌詞、楽譜の希望があった。その都度、青森市の神保氏を煩わして希望に応じたが、その人たちの私への礼状には、老母にねだられて・・・という点が共通していた。老母の年齢は判で押したように、いずれも八十余歳だった。
神氏がはじめて「青森放送」のテレビで「陸奥の花」楽譜発掘の顛末を放送したとき、楽譜希望者が殺到し、それに応じるため、放送後しばらくは、神氏は嬉しい悲鳴をあげたという。
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◎《反「八甲田山死の彷徨」の風土》
私にとってのわが町は少年時代しかいなかった生れ故郷の門司(北九州市)でもなく、今住んでいる千葉市でもない。やはり、青森県、なかでも津軽の町々ということになる。
青森市郊外の歩兵第五連隊に十年在職した。二十歳から三十歳まで、二・二六事件で軍職を去るまでの十年間だった。花にたとえれば、その盛りの情熱に生きたころだった。それに「花と竜」の風土に育った私には、縄文時代から途中を抜かして近代に短絡したといわれる津軽の風土が、私の心奥の欠落部分を補填するかのように思えて、津軽への愛着を深めることになったようでもある。そのせいで津軽には軍隊時代の兵たちを含めて、旧知旧友も多く、生れ故郷の九州への玄関口東京駅から汽車に乗ることより、東北へ向かう上野駅からの汽車の旅をすることのほうが多くなっている。昨年十二月にも津軽に行くため私は上野駅を発った。約一週間津軽の町を遍歴して旧知旧友に会うためだった。
遍歴は当然青森市から始まり、そこで先ず数人の人に会った。そのとき、地元だけに新田次郞の『八甲田山死の彷徨』に関連したことが、話の中心になった。
私が十年間在職した歩兵第五連隊が『八甲田山死の彷徨』の素材になっている雪中遭難の悲劇を歴史に持つ連隊である。日露戦争に先立つこと二年、明治三十五年一月二十三日に、八甲田山麓を経て三本木に抜ける雪中行軍をするため兵舎を出発した歩兵第五連隊の集成大隊が猛吹雪にあい、八甲田山麓で二百十名中、十一名の生存者のほか、全員凍死した。このとき概ね時期を同じくして、逆コースを雪中行軍した弘前の歩兵第三十一連隊、福島大尉の指揮する一隊三十七名は、予定どおり全コースを踏破して全員無事兵舎に帰還した。この二つの連隊の雪中行軍をからませて小説スタイルに構成したのが新田次郞の『八甲田山死の彷徨』である。

旧軍の廃止によって歩兵第五連隊は兵舎も取払われて跡形もなくなったが、自衛隊創設により、同じ隊番号を持つ第五普通科連隊が、別の場所だが青森市内に駐屯した。昨年この五連隊が柴田連隊長統率のもと、雪中遭難のときと同じ日時、同じ編成、同じコースでの弔行軍を決行し成功した。が、その後で「陸奥の花」という雪中遭難を弔った歌の楽譜探索に柴田連隊長は執心することになる。歌詞の作者は大和田建樹、作曲者は当時青森師範学校の音楽教師だった北村季晴である。が、柴田連隊長が入手できたのは歌詞だけで、楽譜がなかった。歌うことも演奏することもできなかった。雪中遭難を弔った歌はほかに何種類かある。そのいずれも楽譜がわかっていて歌うことができる。なかでも「しら雪ふかくふりつもる」にはじまる「陸奥の吹雪」はひろく歌われ、私のいた時代の第五連隊でも盛んに歌われていた。
七年前の昭和四十一年、同じように「陸奥の花」の楽譜探索に執心したグループがいた。古い青森師範学校出身者グループである。
故あって探索の中心になったのは 当時青森市内長島小学校長の神保氏であった。神氏は先ず後輩の津軽の柏木小学校長村上方一氏に協力を求めた。
村上氏には、ことし八十四歳の母堂がおられる。この母堂が村上氏に「陸奥の花」を謳って聞かせた。村上氏は母堂の謳うにつれ、歌詞を筆記して神氏に送った。それは歌詞としては完璧に近かったが、母堂の歌った歌曲がそのまま楽譜になるわけではなかった。神氏はしかし、これに勢いづけられ、更に探索を続けた。一年あまりして偶然のことから神氏に朗報がもたらされた。後輩の弘前時敏小学校長大谷誠蔵氏関係から問題の楽譜が届けられたのである。
それから五年後のことになるわけだが、柴田連隊長としては楽譜発掘に執心はしたものの、これといって妙案があるわけではなかった。が試みに小学校時代の級友村上方一氏に相談してみた。この試みは如何にも誂向きだった。簡単に柴田連隊長は神氏との連絡がつき「陸奥の花」の楽譜を意外に早く掌中におさめることができた。

昨年は雪中遭難七十周年だった。それを記念しての第五普通科連隊の弔行軍でもあった。雪の消えた六月、楽譜を得た柴田連隊長は、新田次郞が『八甲田山死の彷徨』のなかで、死んでも階級の差が歴然としているといっている青森市幸畑の雪中遭難将兵の墓地で七十周年墓前際を催し、そのとき軍楽隊に「陸奥の花」を演奏させ、隊員にも歌わせた。
「陸奥の花」の歌詞は八十五行の長編で、最後に和歌一首が添えてある。内容は死の間際の将校と兵の友愛を哀切に描いたものである。興津大尉と、それを抱くようにして、一緒に凍死していた軽石一等卒のことをモデルにしたようである。
私が昨年の津軽遍歴で最初に会った人々というのは、神、村上両氏をはじめ青森師範学校出身者のグループであり「陸奥の花」の楽譜発掘に関係した人々だった。その時 カセットに収めてあった「陸奥の花」を聴いた。神氏や村上氏は何度聴いても涙が出るといっていた。
柴田連隊長は、かねて連絡のある雪中遭難遺族関係者の何人かから『八甲田山死の彷徨』に対しての憤激を訴えられていた。それを代表する意味もあって柴田連隊長は新田次郞に抗議した。人体実験と背中遭難を総括し、死者を鞭打つことは、地元の人が大切にしている雪中遭難者への感情を逆なでするものだという趣旨だったという。これに対し新田次郞の弁明は、フィクションだから了承してほしい、ということだったという。

新田次郞は『八甲田山死の彷徨』では当世流に階級による将兵離間、反軍、軍民離間の概念を取ってつけたように所々に挿入し、雪中遭難を「人体実験」と総括している。「陸奥の花」に盛られたような将兵友愛の事実は抹殺し、将兵離間の状況を叙述することに熱心である。「陸奥の花」は一番を知っていれば、あと何番あっても歌えるという種類の歌ではない。全編知っていなければ歌えるといえない長い歌曲である。
が、村上氏の母堂、大谷氏の母堂、いずれも八十余歳の老母が、少女時代愛唱したこの歌を、多少の転訛はあるであろうが、子の小学校長に、今に忘れず歌ってきかせるというのである。いわき市の 神氏らの大先輩である阿部忠治郎氏は著書の、青森師範生徒愛唱歌集『母校の歌』の解説のなかで 歌集に採録されている「陸奥の花」ぬふれ、「私がこの歌を教わったのは小学校六年の時である。何しろ六十年も昔のことである。学芸会の時合唱、後半は先生(明治三十八年青森師範卒業の方)の独唱、先生が歌っているうち、涙声になったのは今も深く印象に残っている。どこの学校でも音楽会などにこれが歌われると紅涙をしぼらせたという。」といっている。
この阿部氏に、神氏は「陸奥の花」の楽譜探索を頼まれたのである。前に「故あって」といったのはこのことである。これらの事実をみても少なくとも津軽では、当時軍民離間はなかったといっていいようである。「陸奥の花」の楽譜探索をし、それを聴いて涙するのも、旧五連隊関係者ではなく、軍に対して民といわれあ青森師範関係者である。新田次郞は柴田連隊長の抗議に対し、フィクションだから・・・と弁明したというが、それが弁明になるのもかどうか。『八甲田山死の彷徨』の性格からいって、作家である新田次郞氏御自身が先刻承知の筈である。(1973.2)
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上記は「日本読書新聞~軍隊と戦後の中で」に掲載されたものであるが、他にも「雪中遭難」に関連した作品は いくつかある。
例えば「わが國最大の雪中遭難 末松太平」という「どこかの雑誌に書いた作品」が 手許に遺されている。
「A4版ゼロックス✕8枚綴じ」の長編で、図面が2枚、写真が2枚(昭和6年3月の偵察行軍集合写真=末松太平スキー隊長の姿もある)。内容は「まえがき/行軍の目的・準備/遭難第一日/遭難第二日/遭難第三日/遭難第四日/救援・後藤伍長を発見/あとがき・弔行軍」という8部構成。かなりの力作だが「掲載誌不明」では 資料価値半減と言わざるを得ない。

   


「末松~神~村上ライン」関連の資料の中に《柴田連隊長からの手紙》が遺されていた。
柴田氏は(青森を離れ)東京都杉並区の公務員宿舎に居住していた。
「謹啓 朝晩涼しくなって参りましたが 末松様には如何お過ごしでしょうか。私 本年七月まで青森の第五普通科連隊長を勤めて居りました柴田と申す者であります。安本様から末松様を御紹介を受け 旧陸軍と自衛隊の差こそあれ 同じ五連隊に籍を置いたものとして非常に嬉しく存じて居ります。私の隊員に対する精神教育は旧歩兵五連隊の伝統ある堅忍不抜、質実剛健を中心としたものでした。奇しくも旧歩兵五連隊も第五普通科連隊も創立記念日が五月一日であり、私は此の日には連隊の隊員を幸畑の墓地に連れて行き、在青の五連隊出身の先輩に昔の話をして戴いたものです。(中略)
昭和七年に歩兵第五連隊が弔行軍をされたことは 地元の新聞から聞きました。しかし新聞社にも当時の記事が見当たらず残念に思って居ましたので 是非御体験をお聞かせ戴きたいものです。(中略=新田次郞関連の記述)尚 同封の「陸奥の花」は(中略)七十周年の慰霊祭に九師団の音楽隊に演奏して貰ったものです。素晴しい曲で涙せずには歌えません。音楽隊が練習中のものをテープに取ってきてありますので、若しお目にかかる機会があれば持参いたします。
初めての御手紙に拘わらず不躾に冗長になりました事をお詫び申上げます。九月二十日。柴田繁」

画像左の印刷物は「雪中行軍における指揮官の心得」と題された(50頁を超えるボリュームの)報告書である。
表紙には「雪中行軍の写真」と共に 報告者「第5普通科連隊長 1等陸佐 柴田繁」と日付「昭和47年4月26日」が明記されている。細部に至るまで懇切丁寧に記された報告書は 柴田連隊長の人柄を髣髴させている。
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神保(かみ・たもつ)=明治42年8月12日出生~昭和49年3月26日逝去(64歳)。
《「不忘」創刊号/神保先生一周忌追悼記録集》40頁。発行=「不忘」を支える会(青森市)。表紙には「呈 末松大尉殿」とペン書きされていて、村上氏から送付された冊子だと判る。
私の手許には 神氏未亡人(美代様)の手紙2通が遺されている。①=末松太平宛て ②=末松敏子(未亡人)宛て。奥様の人柄が伝わる丁寧な御手紙である。どちらの手紙にも「竹内(俊吉青森県知事)さん」が登場する。停年を迎えた神氏が(県会議員にと煩くつきまとわれ困っていた時に)末松太平の計らいもあって 竹内知事により青森県人事委員に任命された・・・という経緯。
「末松~神~村方ライン」には「末松夫妻~神夫妻~村上夫妻ライン」という一面もあったようである。村方?、村上?、表示の混在は 村上方一氏が自らを「ムラホウ」と称していたためである。(末松建比古)
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◎2・26と5・15/偶然の暗合◎

2024年05月15日 | 末松建比古
  

5月15日(水)12時30分~13時30分。
指定された時間に合せて 夫婦同伴で「築地本願寺」を訪問。無事に「合同墓(第二期)」の申込みが完了した。
「書類は入金日より4週間程度で郵送いたします」とのこと。契約書類=合同墓管理受諾証明書+合同墓納骨届/納骨法要の御案内等。6月中旬になれば、契約書類が届いて「納骨手続き」が可能になるわけである。

申込みが完了したのは「末松建比古+行子」+「末松太平+敏子」=計4名。とりあえず「納骨手続き」の対象になるのは2名だけ。千葉市若葉区平和公園(市営墓地)の処理を済ませてからの手続きになるが 急ぐつもりはあまりない。
この世から「末松家の墓=末松太平夫妻の墓」が姿を消すことに 惜別の思いがあるのも事実である。
麻布賢崇寺の「二十二士の墓」も、言うなれば「二十二士限定の合同墓」である。しかし「二十二士」の方々には「それぞれの墓」も現存している。栗原家の墓、水上家の墓、河野家の墓、今泉家の墓は、賢崇寺の墓地にある。
2月26日の法要では 事件に所縁の方々が「招霊」されている。来年の法要では 末松太平の霊魂が(招霊された皆様を相手に)墓じまいについて蘊蓄を傾けている光景が 霊視できそうな気がする。

実は 3月29日の《千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号》には、江翠サンから「私信コメント」を戴いていた。
「ひょっとしたら『墓友』になるのか?」というタイトルで 心温まる内容が綴られていたが 個人情報が満載の「私信」だったから 全文公開というわけにはいかなかった。
「・・・銀座に出かける折は ちょっとお参りに寄る築地本願寺に まさか末松様ご一家が・・・。そして順当にいけば その先何年か後に『墓友』になる日がやってくる・・・」
江翠サンのお住まいは 築地本願寺(東京都中央区築地)の隣町。末松太平が存命ならば(引越蕎麦の代わりとして)早速「平和観音」を描いて贈ったかもしれないが・・・はて。

江翠サンとは 2013年7月の「初コメント」以来の 長い長いおつきあい。時には 長文のメールを交換することもある。しかし 今まで一度も顔を合せたことはない。同じ日に「賢崇寺」を訪れていても 出会うこともない。不思議な不思議な御縁である。
因みに 橋爪史芳サン(中央公論新社「完本 私の昭和史」担当者)の場合は 一度だけ顔を合せている。即ち 10年程前「中公文庫版」完成の際に一度だけ。 しかし 今回の「完本」は 一度も顔を合せないままで 完成している。
…顔を合せたことがない理由は 礼儀を知らないから?。人見知りが激しいから?。理由はいろいろ。森田朋美サンの診断は、大人気(オトナゲ)がないから!。
森田朋美サンの提案「暖かくなったら 今泉サン 都子チャンを誘って 平和公園(墓地)に行きましょう…」は、墓じまいと共に霧散する。朋美サンには「築地本願寺の件」を話しているが「墓じまいの件」までは伝えていない。これも 私のオトナゲナイ一面である。



築地本願寺の申込みが「5月15日」になったのは 偶然に過ぎない。
申込(電話受付)が殺到していて 順番にスケジュール表を埋めていった結果 指示されたのが「5月15日」だったというだけのことである。
私は 毎朝飲用している「ロコモア=2ヶ月分360錠」の蓋に 飲み始めの日付を記している。飲み始め=2月26日になったのは偶々のこと。その前の瓶が空になったからで 意図してのことではない。そして 飲み忘れすることもあって 空になったのが5月14日・・・。以下省略。(末松建比古)
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◎査定は「才能あり」?「才能なし」?◎

2024年05月08日 | 末松建比古


「プレバト!」というテレビ番組がある。司会=浜田雅功。毎週木曜日19時、TBS系列局で放送している。
才能あり?、凡人?、才能なし?・・・。芸能人が「才能査定ランキング」に挑む番組である。査定の対象は、俳句、水彩画、色鉛筆画など様々な分野にわたっていて、新しく「スクラッチアート」が加わった。全面が黒色コーティングされたA4版の用紙を「竹製スティック」で削ると、下地の色彩が表われる。何色が表われるのか削ってみるまで判らない。一期一会の境地である。
画像参照=スクラッチアートの実例。「二・二六事件慰霊像」と「平和観音」。番組に触発されて、私が描いたものである。才能あり 才能なし…?。皆様の査定は 如何であろうか。

「二・二六事件慰霊像」も「平和観音」も、私にはごく身近な題材であるが、後者(平和観音)については 多少の説明が必要かも知れない。
ということで《現代史懇話会「史・№81」1993》から「回想の末松太平」の一部分をご紹介しておく。筆者は池田俊彦少尉(無期禁錮)である。
「・・・私はいま、末松さんからいただいた沢山の絵を前にして想い出に耽っている。得意の向日葵、こけし人形、埴輪の馬、観音と不動明王の絵、砂時計、反核の絵が並んでいる。向日葵の絵には『ゴッホのひまわり三億円 俺のひまわりタダ 親父が生前よく言っていた タダより高いものはない』。また 面白いのは自画像で、顔を隠して反戦反核の札が掛っている。そして『鈴鳴らし 鈴ならし 反戦反核ひとり旅』と書いてある。末松さんは現在の昭和維新は、公害との戦いだと言っておられた。
「末松さんが話し出すと、二、三時間は瞬く間に過ぎてしまう。しかし、あの声はもう聞かれない。私の部屋には、末松さんの画かれた平和観音の像が額に入れて掲げてある。観音様は末松さんのような顔をしている。・・・」

スクラッチアート「平和観音」は 末松太平が描いた「平和観音」を模写したものである。
我家の居間にも(末松太平の画いた)平和観音の像が額に入れて掲げてある。



末松太平は絵を描くことが好きだった。少年時代の私が「千葉公園に行って絵を描こう」と長距離散歩に誘われた日のことは、今なお懐かしい想い出である。ひたすら歩くだけで 飲食休憩などは全く念頭にない「貧乏親父」でもあった。
晩年になっても 絵を描くことは続けていた。池田俊彦氏が記しているように「友人知人に絵を贈る」ことが 楽しみのひとつになっていた。
画像参照。長期入院しているMH氏の病室に「末松太平の絵」が飾られている。MH氏は 青森県黒石小学校の元校長で 竹内俊吉氏(東奥日報記者/青森県知事)~JT氏(元校長/青森県教育委員会)~MH氏(元校長)という人脈を通じて 末松太平の《熱烈な信奉者》になった。

末松太平の遺品の中から発見した《一通の手紙》を紹介する。
MH氏から頂いた通信は 100通近く保管されていて 親交の深さを物語っていたが 中でもこの《一通》には「私の知らない物語」が秘められていた。
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末松大尉殿 御進呈
1、昭和維新の志士★★(註/達筆で読めない)失敗とはいえ、くびられ官位剥奪追放の憂き目・・・
2、青森県を第二の故郷とし、いつまでもこよなく愛し下さる、あったかい お心ばせ・・・
3、晩年の人生に出会った 末松~神~村方ラインの不忘の友情・・・等々
退職一時金をすべて私するに忍びず、右の条々を考えて、私が国家に代わり、県民を代表し、大尉殿に捧げます。あほうみたい(呵々)な男、たった二人の間のこと・・・。こんな世界も、オツなもの…?
神先生の霊共に 御笑納を・・・、村上方一
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上記は 青森銀行の「札束サイズの封筒」に記されていた 村上氏の文章である。
封筒の中には かなりの金額が 封入されていたと思う。
退職後の生活資金でもある「一時金」を進呈することは 奥様の同意なくしては行えない筈である。

私の手許には「村上氏ご一家との写真」も数点遺されていて 裏面には村上氏による解説が記されている。
その一例。写真の裏に《53.10.30(月)》と記されている。1978(昭和53)年、末松太平=73歳。
「1.知事ご弔問(註:竹内俊吉青森県知事)の途中のお立寄り。/2.老志士のくだけた良いおじいちゃんぶりの長時間の光栄に浴する面々。/3.3才児最幼は だっこまでされてサ。こいつ未来の女志士になれるか? 呵々。/4.大尉殿の彫りの深い責任もてるこの笑顔、日本人放れ(こんな言い方 叱られるカナ)してるナ。/村方写」
「1.玄関前での一葉。/2.これは視線をそらし(現役時代だったら一喝!もの。呵々)何か沈思のかっこう。/3.次回のご来宅には もっと沢山撮っておこう。/村方写」
写真には 村上夫人+お孫さん(女児)3人+末松太平=5人が写っている。

末松太平の描いた《平和観音》は いろいろな方々の手許に届けられ いろいろなエピソードを生み出した。
それに対して 私の描いた《スクラッチアート・平和観音》は 愚息にさえも興味を抱いてもらえない。呵々。(末松建比古)
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◎84歳・・・終活実行適齢期?◎

2024年04月22日 | 末松建比古
朝日新聞・2024年4月21日朝刊。死亡記事(写真付)。
「佐川満男さん(歌手、俳優)。12日、胆嚢炎で死去。84歳。葬儀は近親者で営んだ。・・・」
「60年に歌手デビュー。61年以降、NHK紅白歌合戦に4度出場した。ヒット曲に『今は幸せかい』などがある。
俳優としてNHK連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』などに出演。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。・・・」

「佐川満男=84歳」という文字が 私(84歳)に特別の感慨をもたらした。
厳密に言うならば 佐川サン(1939年11月9日生れ)が逝去した時点では、私(1940年4月17日生れ)は未だ「84歳直前」だったのだが・・・。

 

画像は「30歳」の佐川満男サン。1969年12月24日。場所は「博多東急ホテル=今は存在しない」の13階にあった「トップオブハカタ」で、九州朝日放送の人気ラジオ番組「ジャンピングディスク」クリスマス特集(午前0時~1時)を放送中の情景である。
この日の放送台本には「提供・日米コカコーラボトリング/構成・末松建彦」と記されている。転勤生活4年目の私(広告会社勤務)は、地元の人脈にも恵まれて「他社の仕事」も依頼されていた。この番組の構成もそのひとつで「出演者=渡久山アナ+松坂ユッコ」も、コカコーラ宣伝部の田島サンも、親しい友人たちだった。
因みに「1969年の末松太平」も周囲の人脈に恵まれて、三島由紀夫と対談(學燈社「伝統と現代」9月号)したり、三島由紀夫に(私以外の末松家4人が)観劇&会食に招待されたりしていた。

「・・・どうでした、佐川さん、ミニミニ歌謡ドラマを演じた感想は」
「・・・いやあ、ひどいですね、こんなにひどい台本を演らされるとは思わなかった」
佐川サンは 会場で募った一般女性を相手に(歌の一節を交えたコントを)マジメに演じてくれた。 
「・・・今からユッコちゃんの恋人探しをやります。立候補なさる方は前に出て来て下さい」
このコーナーには 佐川サンの参加は考えていなかった。予期せぬ(佐川サンの)飛び入りで画像の情景となった。

末松太平の遺品から「1969年の日記」の一部を転載する。
◎6月9日/母が93歳で死んだ。
◎6月11日/葬儀のため郷里、大里に着いた。
◎6月13日/博多に行って建比古に会う。建比古の嫁さん候補に会う。
◎6月14日/大里を発った。これで親のうちがなくなった。「実家」がなくなったのである。故郷喪失である。

 

画像=1970年の秋。東京。TBSラジオ番組「雪印クリーマ歌の広場」の公開録音風景。
佐川満男サンがこの日のゲストで 末松行子サンが生CMの担当をしている。
約一年ぶりの「再会」だが 松坂ユッコサンは(この年の5月末に)末松行子サンに変身して東京の生活を始めていた。
余談だが 佐川満男サンは未だ独身だった。そして この翌年に(伊東ゆかりサンと)結婚した。

1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷台で割腹自刃した。
私は「歌の広場」の公開録音(毎回異なる団地商店街で行っていた)を終えて会社に戻る途中で、カーラジオの「臨時ニュース」を聞いた。瞬時に心を過ぎったのは《末松太平の反応は・・・?》ということだった。
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「佐川満男さん 胆嚢炎で死去 84歳」という死亡記事は、84歳の私への《天啓》かも知れなかった。
今まで以上に《終活》に勤しまなければならない。末松太平の遺品処分(史料・書籍類)に集中しなければいけない。

今年の2月17日に「國風講座」講師を務めた際に、数人の方から「持参された史料類を撮っても良いですか」と声をかけられた。
そのひとり「三島由紀夫烈士命 森田必勝烈士命 墓前 日輪祭実行委員会 委員長」のHサンには《學燈社「伝統と現代」昭和44年9月号》を貸与した。この号には《対談「軍隊を語る」三島由紀夫✕末松太平》が、全21頁というボリュームで掲載されている。
Hサンにも「撮っても良いですか・・・」と言われていた。しかし、この場で21頁全てを撮るのは大仕事である。初対面の方ではあったが「返却は急がないから・・・」と貸与するのが「仁義」というものだ。

終活の開始とか 遺品史料類の処分とか 最近の私は高らかに「進軍ラッパ?」を吹きならしている。
それならば「返却は急がない」ではなく「進呈しますよ」という対応もあった筈である。
しかし 私の手許から「対談/三島由紀夫✕末松太平」が姿を消していた間は 何となく不安定な気分になった。
「いろいろな人が近づいてくると思いますが どんなに望まれても 書籍や史料を貸しては駄目ですよ」
相沢正彦サンが(末松太平が死去した直後に)末松太平未亡人に戒めた言葉が蘇ったりもした。
いうまでもなく貸与した雑誌は「長い間 洵にありがとうございました」という名刺を添えて返却されている。
Hサンの人柄は「洵に」という文字に表われている。誠に、実に、真に、洵に…。文字は人なり。私流の性格判断である。
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1989~90年「84歳の末松太平」のことも記しておく。
「末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことができない状態だった。」(池田俊彦著「生きている二・二六」文芸春秋・1987年刊)。
末松太平は「草のことば 二・二六外伝」「二・二六事件異聞」「二・二六事件断章」という《事件シリーズ3部作》を執筆している。
そして「二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末」が掲載されたのは「84歳のとき」である。現代史懇話会「史・70」1989年7月号。
1990年9月。末松太平は慶応病院に19日間入院し、三度目の手術を受けた。それでも執筆を止めることなく「史・74/1990年12月号」には「二・二六事件断章(その五)事件第一報」が掲載されている。
天眼鏡を片手に 乱れた大きな文字で書き続ける半盲目の84歳・・・。終活に勤しむ「84歳の私」には真似の出来ない姿である。(末松建比古)
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◎読売新聞西部本社(福岡県)筑後版◎

2024年04月02日 | 末松建比古
読売新聞の大石記者から 封書が届いた。
「前略 二月にお訪ねした折には たいへん御世話になりました。本来取材ではなく 個人的な研究のためお会いしたいという趣旨でしたが、折角の機会でもあり、私の昭和史の紹介という形で記事にさせて頂きました。
「筑後版掲載ですが、末松太平さん出身の北九州版でも後日掲載されるよう頼んでおりますので、載りましたらまた送付いたします。
「お聞きしたことの何分の一も盛り込めませんでしたが、誌面の制約もあり、御容赦戴ければ幸いです。
「末松様のお話を伺い、二・二六事件の意義を改めて考えねばならないとの思いを強くしました。ぜひまたお訪ねし、御指導頂きたく存じます。」



大石健一記者の著名入り記事は「完本 私の昭和史」の紹介がメイン。 末尾にはわざわざ「570ページで税込み3980円。全国の主要書店やインターネットで販売している」と書き添えてある。
「・・・独自に事件の分析を続けている建比古さんは『分厚い本だが、電子版で購入してくれる人もおり、若い世代にも関心を持ってもらえているようだ』と話す。/・・・2月26日には、東京の賢崇寺で法要が営まれ、建比古さんも新型コロナ禍を経て数年ぶりに参列した。『2・26事件は陸軍の派閥争いだったという説など、父たちの思いや実情と違う話が流布されている。事件から88年がたった今も政治不信が言われており、この本を通して社会のありかたを考えてもらえればありがたい』と離している。」

あ~あ・・・。思わず苦笑したのは 2点並んで掲載された写真。
毅然と背筋を伸ばした老人(右)と 姿勢の悪い老人(左)では 撮影当時の年齢が違う。・・・些か苦しい自己弁護。
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《老老夫妻=私&妻》の住居には(毎年一度)地元の民生委員サンが「状況確認」に訪れる。
「ご心配ありがとうございます。お陰様で何事もなく・・・」が例年の定番だったが 今年は会話をいろいろと・・・。
老老夫婦が(C棟からB棟に)転居した理由、家人(介助2認定)の現状、そして愚息(B棟に居住していた)の現況・・・。
「サンシティでは 有名な存在で・・・」「・・・?」「秀才で ハンサムで・・・」「・・・?」「二・二六事件のことをネット発信していらっしゃる・・・」「・・・!」「私の父も軍人だったので・・・」「・・・!」

玄関先での立ち話なので 会話の流れも混濁する。
説明するまでもなく「秀才で ハンサムで・・・」と言われていたのは 私のことではない。
何よりも嬉しかったのは 民生委員のYサン(女性)が「ブログ・末松太平事務所」をご存じだったこと。 
今まで以上に 民生委員サンが「心強い味方」に見えてきた。
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「一般社団法人 仏心会+慰霊像護持の会」から葉書が届いた。
本来なら「仏心会の公式ホームページ=休止状態」に掲載される内容だが 代行して発信しておく。

拝啓 去る二月二十六日の八十九回忌法要は、賢崇寺藤田俊英大和尚により、無事円成いたしました。法要に際し、丁重なるご芳志、お供物を賜り、誠に有難く心より御礼申上げます。
コロナが収まってまいりましたので、日本全国から、二十数名の方のご参加を頂き、心静かな法要を営むことが出来ました。九十八歳の安田様は、ご用心にため欠席されましたが、七月のご法要にはぜひ出席したいと言われています。なお、悲しい残念なおしらせです。仏心会理事として永年ご尽力頂いた安藤日出雄様が昨年十一月二十七日八十八歳でご逝去されました。慎んでご報告申上げます。
私共は、今後とも、慰霊の誠を捧げて参ります。何卒、変らぬご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申上げます。敬具。
令和六年(二〇二四年)三月

「一般社団法人 仏心会」の横には「代表理事は香田忠維より栗原重夫に交代いたしました」と記されていた。
栗原重夫氏について 特別の紹介はない。(末松建比古)
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◎千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号◎

2024年03月29日 | 末松建比古
今年1月、当ブログ掲載の「末松太平32回忌?」に対して、森田朋美サンから下記のコメントをいただいた。
「・・・千葉市若葉区平和公園、暖かくなったら、今泉さんと、都子ちゃんと、四人で行きましょう」
実は 現時点に於いて「末松太平の墓」を訪問した方は(親族を除けば)相沢正彦サン、中川喜英サンの二人しかいない。
そして 森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
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画像は 約30年前の昔 1994年7月に「末松太平(前年1月に逝去)の墓」を訪れた「八人!」である。
左から 私(末松太平・長男=当時54歳)、相沢正彦(相沢三郎中佐・長男)、尾島田鶴子(末松太平・長女)、末松敏子(末松太平夫人)、尾島匡則(末松太平・孫)、末松一輝(末松太平・孫)、末松行子(私の妻)という顔ぶれ。撮影=尾島正晃(田鶴子の夫)、これで「八人」になる。
相沢正彦サン(2004年2月に逝去)も 末松敏子サン(2011年9月に逝去)も 元気潑溂としていて その後の人生を 全く予感させない。

「建比古クンが会社を退いたら、一緒にやりたいことがある」
正彦サンには 顔を合せる度に 声をかけていただいていた。
「詳しいことは その時になってから・・・」という内容は 朧気ながらも推察できた。
私の脳裏を掠めたのは 相沢中佐と末松大尉が二人だけで味わった「昭和9年の(仙台での)年越しそば」の光景である。
一緒に東京に行かないか。相沢中佐の「さりげない誘い」に 末松大尉は即答できなかった。そして 昭和10年に「事件」は勃発した。
それでも 御遺族との交流は 途切れることなく続いて ついには「両家(相沢中佐夫人と末松太平)の葬儀」が重なるという《奇縁》へと導かれたのであった。

「会社を退いたら 一緒にやりたいことがある」という中佐の長男に 大尉の長男は応えるつもりでいた。
中佐の誘いは「一緒に東京に行かないか」であった。 中佐の長男の場合は「一緒に水戸に行かないか」だろうと推察していた。
しかし 私が会社を退く迄には長い時間が必要だった。 そして 長い時間を費やしているうちに 正彦サンは重い病に罹り 面会謝絶の闘病生活が続いて ついには「一緒にやりたいこと」は 幻のままに終わってしまった。
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森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
その理由は 私が《弟=末松太平・次男》に宛てたメールの中にある。

「我々夫婦は 築地本願寺の合同墓を申込みました。合同墓と併せて《永代経》を申し込めば《永代供養=管理費不要》されるので 愚息夫妻を煩わせることもありません。埼玉県在住の愚息夫妻に《千葉市平和公園の墓参》を強いるのはモラハラになりますが、築地本願寺ならば 境内に和風食堂や喫茶レストランがありますので、いつでも気軽に墓参ができます。
「老母が《清和園=特養施設》に御世話になっていた頃は、毎週欠かさず《清和園+平和公園》に通っていたのですが、老母が死去してからは、毎月1回~数ヶ月に1回と徐々に減少。愚妻が原因不明の足の激痛で遠出が困難(介助認定2)になってからは、車を手放し免許証も返納して、更に《平和公園》が遠くなりました。
「平和公園の規約では、やがて管理費の納入が途絶えると 無縁墓地(遺骨廃棄場?)に移されます。築地本願寺(永代供養+管理費不要)との差違を思えば 早めの対応が必要です。
「墓じまいをするには 平和公園の管理事務所での手続き、千葉市役所の管理事務所での手続き、石材店への依頼=工事費(遺骨取り出し+墓石を処理して更地に戻す)など、何度か足を運ぶ必要がありますが、墓地使用者(私)の責任で対応する所存です。
「両親の遺骨は、我々夫婦と同様に、築地本願寺の合同墓に申し込むつもりです。扱いは個人単位なので《4件》それぞれの手続きになります。
「手続きは(郵送不可なので)印鑑証明+実印+管理委託冥加金+永代経懇志などを揃えて、築地本願寺で行います。順番待ちの盛況で、我々夫婦はようやく《5月》に《1時間だけ》予約できました。手続きが1時間で終わらぬ場合は 改めて新規予約することになります。
「両親の手続きが無事完了しましたら、ゆっくりと《平和公園の墓じまい》の準備にかかりたいと思います」
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送信して直ぐ 弟から「了解」のメールが届いた。

千葉市平和公園の市営霊園は 末松太平本人が生前に申し込んでいたものである。
遺骨6体が収納可能であるが 僅か夫婦2体を収納した段階で《墓じまい》に踏み切るとは・・・。忸怩たる思いもあるが・・・。(末松建比古)
 
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◎笑談「松本清張の昭和史」異聞◎

2024年03月16日 | 末松建比古


千葉の恵みを召し上がれ・・・。千葉市美浜区在住の妹(末松太平長女)から 宅配便が届いた。
箱の中身は地元「オランダ家」の御菓子いろいろ。そして《保阪正康「松本清張の昭和史」中央公論新社刊》。初版発行=2024年2月25日。
妹曰く「先日 書店に行った時に 表紙だけ見て衝動買いしてしまった。でも 私には不要本だから・・・」 

画像参照。松本清張の「昭和史」、末松太平の「昭和史」、どちらの表紙カバーも「二・二六事件」の報道写真が使われている。妹が(勘違いして)衝動買いしたのも無理はない。私自身は 先日 池袋の「ジュンク堂書店」と「三省堂書店」に立ち寄った際に「松本清張の・・・」を目にしているが 手に取ることはしなかった。当然ながら《松本清張「昭和史発掘」文春文庫版》は所有しているし 細部までチェックもしている。保阪正康氏が今更(その本をネタにして)何を書こうが興味はない。
「清張史観の核心を突く。」「『清張史観』の今日的意義とは。」「・・・戦後30年を経て、清張史観はいかに評価されるべきか。清張から『時代の記録者』としてバトンを託された著者がその核心を伝える。」
帯カバーを読めば 中央公論新社が出版した意図は 朧気ながらも理解はできる。でも「ムムム・・・」という思いも消すわけにいかない。

保阪正康氏は 以前にも《青年将校が要人を殺害する残虐性》について記しているが 本書でも同様である。
「2006年2月、『週刊文春』に、ある内務省関係者の遺族から斬殺現場の写真が持ち込まれている。私はそれを見てコメントを寄せたのだが、この青年将校たちの暴力性のなかに、度しがたいほどの人間性の退嬰を見る思いがした」「しかし、本質的に二・二六事件で語らなければならないのは、こうした青年将校たちの暴力ではなく・・・」
例えば 松本清張「昭和史発掘」の「秘密審理」の章には(ある法務官の「手記」からの引用として)渡辺教育総監が惨殺された模様が記されている。
「・・・(すず子夫人は身を以て制止せられたが)将校は拳銃を乱射し、下士官塀は縁側に機関銃を据えて射撃した。大将も拳銃を以て之に応戦せられたようである。とうとう大将は倒れてすでに絶命せられたにも拘わらず、叛乱将校は大将の頭部肩等に数刀を浴びせかけ、見るに堪えない残忍なことをした・・・」
これは、ある法務官が「他から聞いた話」を「手記」にまとめたものだという。当時公表されていた範囲での「公判記録」でも この辺りの「暴力行為」の数々は記されている。
保阪正康氏が 今更ながらに「惨殺現場の写真を見て衝撃を受けた」のは 当時(2006年)も奇異な言動に思えた。当時の「ブログ・末松太平事務所」には この辺りの「奇異な印象」が記してある。
そして今 保阪氏はわざわざ「青年将校の暴力性」に触れていながら 直ちに「しかし・・・」と方向を転じている。初歩的な「印象操作」の試みだと思えば 腹も立たないけれども・・・。



しかし、私が述べたいのは、保阪正康氏への表層的な批判ではなく・・・。
私も方向を転じて《保阪正康「松本清張の昭和史」》刊行による「プラス」の面にも目を向けようと思う。

先日立ち寄った「ジュンク堂書店」の「現代史書架」には「二・二六事件関連」が僅か数冊。最新刊が《末松太平完本 私の昭和史」昨年1月刊》という惨状(!)であった。何故か《保阪正康「松本清張の昭和史」》は、離れた場所に並べられていた。
そして「三省堂書店/池袋西武店」は更なる惨状(!)で、二・二六事件関連は「完本 私の昭和史」一冊だけであった。せめてもの救いは、少し離れて平積みされている「松本清張の昭和史」の存在だった。

《保阪正康「松本清張の昭和史」》の巻末には《好評既刊》として 次の3冊が紹介(広告)されている。
①/松本清張著「歴史をうがつ眼」/司馬遼太郎との10時間も及んだ伝説の対談「日本の歴史と日本人」、青木和夫を相手に清張史学のエッセンスを語った表題作ほか、日本とは何かを問う歴史講演・対談集。単行本初収録三篇。
②/玉居子精宏著「忘れられたBC戦犯 ランソン事件秘録」/1945年3月、日本軍が仏領インドシナ北部の町で多数の捕虜を殺害したランソン事件。その顛末と、裁きを受けた将校たちの思索を手掛かりに日本人が避けられない問題に向き合う。
③/末松太平著「完本 私の昭和史 二・二六事件異聞」/昭和維新運動の推進力であった「青年将校グループ」の中心にあった著者が、自らの体験を克明に綴った昭和史の第一級史料。関連文書などを増補した決定版。(解説 筒井清忠)。
・・・この3冊を「広告」として紹介したのは(保阪氏の意志ではなく)中央公論新社編集部の金澤氏だと思う。

「松本清張の昭和史」掲載の「今読む『昭和史発掘』/保阪正康+加藤陽子(司会・田中光子、特別参加・藤井康栄)」の中で 保阪氏は次のように語っている。
「・・・たとえば、僕が『二・二六を知りたいけれど何を読めばいい?』と聞かれたら、まず高橋正衛さんの『二・二六事件 増補改版』を薦めます。『昭和史発掘』はそういう入り口から一段ステップしたところにある本ですね。これからは、松本さんの本がより手に取られなければならないと思う。若い人が、入門書を読んで基本的なことを頭に入れた後、さて次へ進もう、という時に必ず松本さんに出会う、そういうことだと思います。」
・・・高橋正衛の本を読み、次に松本清張の本を読んだ「若い人」が、更なる次を志し《好評既刊・第一級史料》を思い出して・・・。ホップ ステップ ジャンプの三段跳び。それに応えて万歳三唱。

高橋正衛著「二・二六事件 増補改版」から「まえがき」の一部を(裏話と共に)紹介しておく。
「末松太平氏は常に私のよき助言者であり、とくに青年将校の横断的結合という点について教えられるところがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口氏、西田さん、末松氏に伝わる、反乱軍将校の考え方や気持ちを、もう一度考えてみたいということであった。/昭和40年7月12日」
この本の「初版発行」は1965(昭和40)年8月25日。「増補改版/初版発行」は1994年2月25日。
この長い間には様々な葛藤があって、末松太平は(1990年頃に)高橋正衛と訣別し、強硬に「まえがきから名前を削除しろ」と申入れて、それに対する高橋正衛の回答は・・・(以下省略)。(末松建比古)
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◎「1936年7月12日」の真実◎

2024年03月09日 | 末松建比古


「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを 氏が受け継ぎ語り伝えて・・・」
民族革新会議の公式ブログで 過分なご紹介をいただいたからには これからも 老骨に鞭打ち《語り伝えて》いくしかない。

私が(来賓挨拶で)語り伝えた「7月12日」のことは、末松太平著「完本 私の昭和史/蹶起の前後(その二)」にも載っている。しかし「ドキュメンタリー」として書かれてはいないから、代々木練兵場の訓練のことなどは 全く登場していない。
来賓挨拶の《ネタ元》は、末松太平直筆の「未公開」原稿にあった。この原稿には(書込・訂正・削除など)推敲を重ねた痕があり、筆者の執念が感じられる。当人しか知り得ない「事実」も記述されている。ブログ掲載には長すぎるかも知れないが 敢えて全文掲載することにした。
・・・敢えて「未公開」と謳ったのは、掲載誌(紙)の類いが未だ見当たらないが故である。



◎画像は「未公開原稿」の一部分。以下は「未公開原稿」の全文である。
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 弘前の拘禁所には二十日間いた。その間に青森の聯隊から兵がひとり、哨令違反で入ってきた。歩哨に立っていて居眠りしていたのを巡察将校に見つけられたのだった。看守が可哀相な兵だ、と言っていた。家に心配のある兵は、人の眠るときに眠れず、その寝不足のため、かえって眠って悪い時に眠る。
 拘禁所にいる間に、師団法務部長の簡単な調べがあった。師団長に意見具申したり、電報を打ったりしたことと、私が佐藤正三に旅費をやったことなどが、叛乱幇助になるということだった。
 三月二十六日に東京へ送られることになった。一度青森に出て、東北線の夜の七時の急行に乗るのだった。
 一人に憲兵と看守が一人づつ附いたので、三人で六人の護衛に、憲兵大尉が総指揮をした。合計十人の一行だった。軍服に手錠は目立つというので、和服に袴に手錠をかけ腰縄をうち、それを上から二重廻しで隠した。青森で汽車が出るまでしばらく駅長室で休憩した。中の温もりで曇った硝子戸越しに、駅前の街の鈴蘭灯がぼんやり眺められた。雪切りを終わった街路に綿雪が音も無く降っては消えていた。

 翌朝着いた東京も曇り空だった。上野から三台の自動車に分乗して衛戍刑務所へ向かった。刑務所に着くとすぐ着換室で囚衣に着換えた。その時、帯を解いた志村中尉の嚢から、勅語勅論集が床に落ちた。捕われの身になってもなお膚身から話さなかったのだった。
 この時、私の脳裏に、さっき上野駅で自動車に乗るとき見た戒厳指令部の腕章をつけた大尉のことが急に蘇ってきた。我々を待ち構えていた三台の戒厳司令部の自動車の他に、もう一台、前の硝子に戒厳司令部と貼紙した自動車が並んでいた。その車に戒厳司令部の腕章をつけた大尉が、着飾った若い妻とその母らしい女性を、はしゃぎながら案内して、一緒に乗るとどこともなく走り去った。官物私用である。
 戒厳司令部ができて、民間の自動車を臨時に徴用すると、早速それを私用に使う。そんな将校が取締りの側に立ち、手錠打縄の身になお勅諭勅語を離そうとしない将校が囹圄の身になる。こんな階調の乱れが、将来の国策にどんな現象を生むだろうかと思った。
 弘前から附いてきた看守は、三人が着換えるはしから、羽織袴を片付けていた。兵隊の入営日に、軍服に着換える新入兵の着てきたものを、父兄が始末する風景に似ていた。着換えが終わって別れるとき三人の看守は、途中汽車の中では、お陰様で東京見物ができますと、喜んでいたのに、お身体を大切に、と泣きそうな顔で言った。
 監房に入ろうとするとき、近くの監房に栗原のいるのが見つかった。暗い中に栗原の顔がほの白く、夕顔の花のようだった。私を見て、いたずらっぽく笑った。しかし翌日はもう、その監房にはいなかった。

 獄中暦日なしで、はっきりしたことは憶えていないが、東京に来て一週間位して、私の予審が始まった。どこかの師団から増加派遣になったらしい予審官の軍用行李の上には、陸軍刑法講義録が乗っていた。
 この頃は、濡れても苦にならないほどの雨がよく降った。塀に沿った赤煉瓦道を伝って調室に通うと、調室に近いあたりは、塀越しに枝を差伸べた民家の大きな八重桜が盛りを過ぎて、一面に散った花瓣が雨に汚れていた。
 獄舎の外は兵隊が警戒していて、物珍しそうに監房を覗きこんだりする兵もいた。雨の降る夜は、怠けて監房のすぐ前の軒端に雨宿りして、樋を伝う雨音を伴奏に流行歌を歌う兵もいた。動物園の檻の中の猛獣を、子供が怖がらないように、叱る能力を失った将校を怖がるには及ばなかった。

 予審は私が三回位、続いて志村、杉野がそれぞれ二三回、大雑把に調べられて中断された。どうして引続き調べないのかなと思っているうち、蹶起将校の裁判が始まった。塀に沿った赤煉瓦道を、私たちの監房の前を、行列を作って裁判に通った。
 私の監房は、この赤煉瓦道に近いので、この行列が良く見えた。何もすることのない毎日だったので、この行列の行き帰りを送り迎えすることが、しばらくは私の日課だった。裁判が休みらしく行列が通らない日は、何か物足りなかった。
 ほとんどが黒紋付の羽織袴で、白足袋に畳表の草履を履いたり、桐の駒下駄を履いたりしていた。顔は覆面で隠されていたが、体つきで誰彼は判った。雪の多かったこの年は、雨も多く、その度に行列は難渋していた。手錠をはめた不自由な手で、袴の裾をからげたりしていた。
 季節は移って、行列の人々も羽織を脱ぐようになったかと思うと、そのうち夏姿も一人二人見られるようになった。

 行列は、六月のはじめ頃から見られなくなった。論告があって、判決を準備しているのだろうと思っていた。渋川の残した日記によれば、論告のあったのは六月五日となっている。
 この間に、我々三人の予審は無雑作に終わった。初めの頃より、予審官の態度が好意的になっていた。
 七月が近づいても雨は減らず、暑さは加わってきた。調室にいる予審官に、多摩川の船遊びの回書が廻ってきたりしていた。

 七月五日に、久しぶりに行列の出て行くのが見られた。判決を聞きに行ったのだった。渋川の日記の七月四日のところに「夕方、裁判宣告申渡ノ為メ、明五日午前九時ヨリ開廷ノ通知アリ。理髪ヲ行フ。之ガ最後ノ理髪ナルベシ」とあるから、前日の夕方知らされたようである。t続けて「叛乱幇助トカ、事件関係民間被告ノ公判モ開カレザル模様ナレバ、判決ハ当分遅ルルモノト思ヒ居タルニ案外早カリキ」ともある。
 刑が重かったことは、あらましを看守から聞いた。詳しいことは聞こうとはしなかった。

 判決の日は日曜日で、渋川の日記に「朝来曇天、公判ノ頃、暫時日照ス」とあるが、翌六日は「朝細雨、本降リトナリ終日止マズ」とある。この日に監房の入換えがあって、死刑になる十七人が一棟に集まった。監房が十七房だったのも不思議な一致だった。同じ日記には、その部屋割りが書いてあるが、第一房に安田、それから村中、水上、高橋、竹嶌、中橋、坂井、対馬、香田、栗原、丹生、安藤、田中、林、磯部、中島の順序で、端の第十七房が渋川だった。
 もうこの頃になると、お互い話し合うこと位は寛大にしたとみえ、七月七日の同じ日記に「夕ヨリ夜ニカケテ皆残念々々ト語ル。死ンデモ死ニ切レヌト云フ。士官学校ノ寝室ノ如キ感アリ。楽シ」とあって、士官学校時代、消燈ラッパが鳴ったあと寝室で、週番士官に「早く寝ろ」と毎度のように叱られながら、その裏をかいて、よく無駄話をして楽しんだことを偲んでもいる。

 判決があってからは、面会や差入れで赤煉瓦道は賑やかになった。差入れは処刑の日が近づくにつれ増えてきた。手提籠に入った果物や、木箱の菓子などが、ここには不似合いな華やかな風呂敷に包まれたりして運ばれていた。運ぶ看守も、服装を改めていて、何かこれからお目出度いことでも始まりそうな気配だった。しかしそんな情景とは別に、刑務所の一隅、風呂場の裏に、処刑場は完成を急いでいた。風呂には大分前から、風呂が壊れたといって、入れてくれなくなっていた。

 処刑の日は、十二日だった。
「七月十二日(日)朝晴、今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ッテ夜ニ入ッテハッキリ解ッタ」と、渋川は書き遺している。
 前日の夜は、お互いの話声が、間に一棟を隔てているのに、私たちのところまで、はっきり聞こえてくるようになった。夜が更けるに従って、詩を吟じたり、お経や祝詞をあげているのも聞こえてきた。私はいつものように就寝の鐘を合図に、獄則通り寝床に入ったけれど、容易に寝付かれそうもなかった。渋川の般若心経をあげる声が特に耳を離れなかった。そのうち暫くまどろんだようだったが、眼が覚めてみると、まだ暗かったが明け方近い感じだった。話声は昨夜のままだった。夜通し話していたのだろう。残る同志の名を呼んで、あとを頼む、などとも言っている。
 夜が次第に明けると、一面の靄である。すると突然、君が代の合唱が起こった。続いて天皇陛下万歳を三唱、大日本帝国万歳を三唱、あとは士官学校の校歌を歌う者もいた。

 靄が晴れかかった頃、赤煉瓦道に沿って、看守が一定の間隔をとって墸列した。とみるうち、元気で行けという声がしたかと思うと、第一の組の五人が、間の一棟の獄舎の蔭から現われてきた。先頭から将校のときの古参順に、香田、安藤、竹嶌、対馬、栗原と並んで来た。一人一人に看守が一人づつ附添い、看守長が一番左に附添っていた。看守長は左手に目隠しにするらしい白布を捧げていた。
 新しい夏の囚衣が死出の晴衣だった。いつもの覆面は今日はしていず、新しいスリッパを履いていた。そのスリッパの音も軽く、通り過ぎていった。墸列の看守は、通り過ぎる一人一人に、挙手の礼をして見送った。

 靄がまだ晴れぬ頃から、代々木練兵場では激しい空砲射撃が始まっていた。機関銃や軽機関銃が、ひっきりなしに射ち続けていた。処刑が迫るにつれ、それはひときわ激しくなった。しかし、その射撃の音も、実弾の音を紛らすことを出来なかった。天皇陛下万歳の絶叫と同時に、実弾特有の重い鋭い音がした。

 第一回が終わったのは、午前七時という。
 第二の組は、丹生、中島、坂井、中橋、田中の順だった。
 第三の組は、安田、高橋、林の年少将校と、民間の渋川、水上の年長者だった。
 
 第三回が終わったのは、八時三十分という。
 処刑が終わると、練兵場の射撃はぴたりと止んだ。反動で一瞬真空のような静けさになった。その静けさの中を、ラジオ体操の放送が近処の民家から流れてきた。七月十二日は「朝晴」と、渋川は日記に書いている。

 みんな天皇陛下万歳を叫んで死んで行った。奉勅命令に反抗したというけれど、それもこれで帳消しだろう。
 もっとも、奉勅命令は聞いていないと、みんなは法廷で言っていたと看守から聞いた。後で聞くと、山口大尉が間で握りつぶしたから、聞いていないのが本当ということだ。
 しかし、奉勅命令に反抗したことを楯にとって、裁判は進められた。錦の御旗が担ぎ出されたわけだが、昔から担ぎ出された錦の御旗に本物はないそうだ。裁かれる身になって、奉勅命令がどうのこうのと言ってみても仕方はない。被告人の国体観は━━と犯罪の一環として訊かれる国体観に何の意義もないように。

 この日から、監房が一棟そっくり空いた。看守も勤務が軽減されただろう。二・二六事件もこれでクライマックスは終わった。
 昼頃、黒い衣の坊主が、もののけのように、スーッと廊下を通り過ぎていった。
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以上が「獄舎の中」から伝える「七月十二日の真実」である。当然「獄舎の外」から伝える「七月十二日の真実」も知りたくなる。

「・・・ここに三角友幾氏の二・二六事件処刑前後のことをしるした手記があるから、その一部を抜粋して、当時の事情の一斑を知る参考にしよう」
《末松太平著「完本 私の昭和史」/夏草の蒸すころ》に登場する三角友畿氏(松本市郊外で長期療養中)は、渋川善助に兄事していた方である。抜粋された手記も「獄中の渋川善助」を中心に記されている。
「七月七日、面会許可の通知が来た。嗚呼何もかもお終いだ。」
「七月十日、朝早く出かける。今日は直ぐ面会出来た。憲兵に身体検査をうけ、法務員の身許調べをうける。例によって渋川さんの甥になり済ましている。係員も全然気がつかぬでもあるまいが、大目に見ているのであろう。
「奥さんに導かれ、渋川さんの圄両親、御兄弟、奥さんのお母さんと兄さん、渡辺さん御夫妻と面会所に入る。八畳敷ばかりの土間だ。
「直ぐ正面の机の前に、紋付姿の渋川さんが立っておられる・・・・」以下省略。
「完本 私の昭和史」には 渋川善助の遺体を霊柩車で落合火葬場に運び 荼毘に付すまでが 丁寧に記されている。

末松太平=獄の内から見た光景。
三角友幾=獄の外から見た光景。
渋川善助を念頭において併読すれば「七月十二日」の真実が見えてくる。(末松建比古)
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◎民族革新会議の公式ブログから◎

2024年03月07日 | 末松建比古
「令和六年 二・二六事件殉国烈士慰霊祭」の報告が「民族革新会議」の公式ブログに掲載されている。
慰霊祭の式次第。烈士に対し黙祷。国家斉唱。導師の読経に合せて参列者全員の焼香。そして 来賓紹介・・・。



ここでは「来賓=私に関する部分」だけをピックアップ。慰霊祭の詳細は「公式ブログ=大熊雄次氏報告」でお読みください。
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「そののち、水谷浩樹氏より本日ご参加いただいたご来賓の紹介があり、かって青森歩兵第五連隊に所属し、二・二六事件に加わった末松太平氏のご子息である末松たけひこ氏(八十四歳)をご紹介いただきご挨拶を賜った。
「氏は本慰霊祭にも人知れず毎年のように訪れ、遠くから見守っておられたそうである。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ、語り伝えておられる。
「この日もご挨拶の中で、処刑場のあった、まさにこの場所で拘束されていた際、隣接の教練場での射撃訓練に紛れて処刑が行われたが、空砲での訓練と実弾発砲では音に大きな違いがあり、当日は同志の処刑を傍で実感することになり、大変つらい思いをされたという生々しいお話しを伺った。」

「昨年の二月二十六日、産経新聞に掲載された末松太平氏の著書『私の昭和史』の書評。二・二六事件関連書籍の名著である」
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来賓挨拶(私)に続く式次第。「青年日本の歌」奉唱。國士會會長の挨拶。民族革新会議副議長の挨拶。主催者の謝辞。そして お開き。

「完本 私の昭和史」の紹介を載せていただいたこと。全く予期していなかったので 吃驚した。
掲載された画像は 先日講師を務めた「國風講座」のレジュメに載せていたもの。水谷サン(國風講座の参加者)のご配慮によって「民族革新会議」のブログ閲覧者にも紹介していただけた。担当の大熊サンにも感謝感謝である。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ 語り伝えておられる・・・」
水谷サンと大熊サンの御厚意によって「完本 私の昭和史」に関心を持つ人が 一人でも増えてくれれば嬉しい。

冒頭の写真二点。自分では「まだ壮年」に見えると思っていたので「現実=もう老人」を見せられて・・・。レ・ミゼラブル。嗚呼無情。
左の写真=樹木の横に立ち 周囲と同じ姿勢を保っているつもりの(紅一点ならぬ)老一点。
右の写真=水谷サンの隣で カメラにガンを飛ばす(頑なそうな)老一点。

「老一点」の日常は 家人の指令で食品スーパー巡り。脊柱管狭窄症に悩まされ(痛み耐えつつ)間欠性跛行。顔で笑って心で泣いて・・・自分自身は「物静かな老人」に見えてるつもり。写真見るまで そのつもり。
自己の思いと他人の目。食品スーパーの女性には「頑なそうな老人」と見られてる!?。写真眺めて 自戒して・・・。(末松建比古)
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◎映画「叛乱」と「珍説忠臣蔵」との間に◎

2024年03月01日 | 末松建比古
2月26日の朝 新聞を開いて(予期しながらも)失望したことは 既に記した。
・・・というのが前説で 二人の新聞記者の「心意気」の一端を紹介するのが 今日の本題になる。
画像参照。左=読売新聞記者・大石健一氏の著名入り記事。右=毎日新聞記者・栗原俊雄氏の著名入り記事。

  

「左」は 大石サンが我家を訪れた際にいただいたもの。
「事件関係者が 徐々に世を去って・・・」「御遺族には 遺品資料の保管が負担になって・・・」「賢崇寺に預けたりもしたが それも次第に無理になって・・・」「防衛庁の施設に寄贈したら 個人情報ナントカ法が出来て 資料閲覧が難しくなって・・・」「襲撃した相手の記念施設に(襲撃側の)遺品資料を寄贈する方もいて・・・」「三上卓氏の関連施設は岐阜県にあるけれど・・・」「末松太平関連の遺品資料は 愚息に負担はかけたくないから・・・」。以下省略。
こうした「講釈」の流れに沿って 大石サンが取材した「磯部浅一記念館」の話になった。

「右」は 今泉章利サンから(賢崇寺で)いただいたもの。
栗原記者は 10年ほど前から「賢崇寺法要」の取材を続けていて 今泉サン(慰霊像護持の会・世話人)サンを主役に置いた記事が多い。今年も積極的に取材して ロビーでPCに書込んでいた。
栗原記者とは(かなり以前に)今泉夫人の紹介で名刺交換したことがあるが 顔も忘れていた。先方も顔を忘れているようで 挨拶することもなかった。

ここで唐突に話題を変える。AI(人工知能)が生み出した「珍説 二・二六事件」の紹介である。
最近は NHKテレビのニュースでさえ「ここからは人工音声がお届けいたします」が当たり前になっている。
パソコンの検索すれば「AIチャットツール」が素早く対応してくれる。
しかし 珍回答が表示されることも時にはある。そして「珍説」が「事実」として世間に撒き散らされる。



◎「慰霊像護持の会」は、末松太平氏に関連する組織であり、彼の名前を記念して設立されました。末松太平氏は、日本の陸軍士官学校卒業生であり、二・二六事件に連座したことで禁錮刑を受けました。彼の息子である「末松太平大尉の御長男」が、慰霊像の前で挨拶を行ったこともあります。
この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。慰霊像護持の会は、末松太平氏とその関連の歴史に敬意を示し、彼の名前を後世に伝える役割を果たしています。

◎末松太平氏は、日本の歴史的な人物であり、彼の名前は特定の出来事と関連しています。
末松太平氏は、日本の陸軍士官学校を卒業した軍人でした。彼は二・二六事件に連座し、禁錮刑を受けました。この事件は、1936年に発生した日本の軍事クーデターであり、陸軍内の一部の軍人が政府に対して反乱を起こしたものでした。
慰霊像護持の会は、末松太平氏に敬意を表し、彼の名前を記念して設立されました。この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。
末松太平氏とその関連の歴史について学ぶことは、日本の歴史を理解する上で重要です。

◎今泉章利さんは、日本の歴史的出来事である「二・二六事件」に関連して知られています。彼は、事件に突然巻き込まれ、ロウゴの身となり、国賊として出獄した後、生涯を閉じた人物です。
「二・二六事件」は、1936年2月26日に発生したクーデター未遂であり、青年将校たちが政治的な野心を排除し、真の皇軍の姿に戻すべしと、昭和維新を成し遂げようとした事件です。この事件は、日本の歴史において重要な出来事であり、多くの人々によって研究されています。
今泉章利さんは、父である今泉義道少尉の行動や事件について、追悼式や法要などで語っており、その姿勢と生き様は、事件の背後にある人間ドラマを浮かび上がらせています。

◎今泉章利さんは、二・二六事件として知られる1936年のクーデターに参加した日本の青年将校でありました。彼は安田優少尉としても知られています。以下は、今泉章利さんと、彼の兄である対馬勝雄中尉が事件に参加した経緯の一部です。(★ 流石に呆れ果てて以下は割愛。末松)

・・・この 抱腹絶倒 前代未聞の「末松太平に関わる珍説」は「COPILOT=コパイロット」が作成した文章である。
2月28日に発見したものだが 翌日には(末松関係のこの記述は)消滅していて 再読出来なかった。
最近は AIチャットツールを頼りに 論文やレポートを作成する輩も多いと聞く。珍説を根拠にした(二・二六事件についての)論文やレポートが登場する可能性も ゼロではない。

1954年に《新東宝映画「叛乱」佐分利信監督、阿部豊応援監督》が公開された。二・二六事件を初めて描いた作品として話題を呼び 千葉市の映画館では(原作者・立野信之と末松太平の)トークショーが行われたりもした。
「珍説忠臣蔵」の公開は その前年(1953年)のことである。古川緑波(大石内蔵助)伴淳三郎(吉良上野介)などの人気喜劇俳優がドタバタを演じた。赤穂浪士の討ち入りは 元禄15年(1702年)の出来事である。それから「250年」の歳月が経過して 蹶起行動をドタバタで演じた喜劇映画が誕生した。 
「二・二六事件」は 昭和11年(1936年)の出来事である。新東宝映画「叛乱」に続いて「事件」は何度も映画化されたが 全て真面目に制作された。しかし 事件から「250年」が経過して 西暦2186年を迎える頃には 忠臣蔵の場合と同様に・・・。
現在上映中の「身代わり忠臣蔵」では ムロツヨシが「上野介と実弟」を一人二役で演じている。250年も過ぎれば「喜劇」にされても仕方ない。例え喜劇「二・二六事件」が制作されたとしても 笑って見過ごすしかない。

しかし 現在は僅かであっても「事件参加者の子息や兄弟」が健在でいる。人工知能による「偽史」の発信は 笑って済ませることではない。(末松建比古)
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