goo blog サービス終了のお知らせ 

◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎今更気づいたことの数々

2025年08月11日 | 末松建比古

一日一日、一刻一刻、gooブログの消える日が近づいている。幸いに「Abemaブログ」への引越しには成功したが、それで全てが問題解決したわけではない。

最大の問題点は、2023年のいつ頃からか、当時使用してい私のメールアドレス(So-net)が消滅していたことである。気づいたのは年末近くだったので「2024年の年賀状」に「メールアドレスが変わりました(outlook.com)」と書き添えることができた。

現在のアドレス(outlook.com)利用第1号は、2024年1月1日付、正盛サン(会社時代の後輩=6代目の社長を勤めた)から届いたメールだったが、その後、さまざまな場面で交信されてきたので、迂闊にも「メールアドレス変更を知らない人々」がいることを忘れてしまっていた。

あれれ?・・・と感じたのは、交友会(退職者の交友組織)名簿の末尾に掲載されている「逝去者リスト」で「Mサン」の名を見たからである。Mサンは、CMディレクター時代に「Mチーム」の一員としてお世話になった方である。訃報はいつも事務局からメールで届いていた。しかし「Mサンの訃報」はメールで届かなかった。事務局は「So-netアドレス」に送信したのだと思う。

「私の昭和史/二・二六事件異聞」出版でお世話になった(中央公論新社の)橋爪サンのメールも、私の記録によれば「2022年12月23日」が最後になっている。言うまでもなく「So-netアドレス」での送受信である。特に連絡しあうこともないまま、2年余が経過したのだが、もしも今、何か事柄が発生しても、橋爪サンからのメールは(昔のアドレスに送信され)私に届かない。橋爪サンは 私の住所も電話番号もご存じだから「音信不通」になるわけではないけれど・・・。

ある日

 

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◎gooブログ終了対応「追悼・釋静敏」ファイル◎

2025年08月04日 | 末松建比古

gooブログ終了への対策として「年表・末松太平」をプリントアウトして クリアファイル(120頁)に収めた。その後「末松太平事務所」は移転成功、Amebaブログに《「末松太平事務所/二・二六事件異聞」二・二六事件の精神を風化させないために!》が新設されている。しかしながら 新しいブログの扱いに慣れるまで(gooへの投稿終了日まで)は こちらを利用するしかない。但し、記述は「まもなく消滅」を前提とした短期掲載ということになる。

気づいていた方もいるようだが、今まで「goo」には「◎末松太平事務所/二・二六事件異聞」と並行して「◎黄昏ギャラリー/末松太平事務所Ⅱ」というブログが秘かに(?)進行していた。秘かにした理由は「個人情報満載」の内容だったからである。

「個人情報」の主役は「末松太平未亡人」であった。末松太平の逝去後も R母(私の母)は気丈な日々を過ごしていたが、高齢になるにつれて 徐々に認知症が進行し 最後は「特別養老施設」の一室で命を終えた。

私は、末松太平の健在だった頃から(東京都ウオーキング協会の会員として)長距離歩行を兼ねて千葉市の実家に顔を出すように心がけていた。R母=老母。ブログは「R母視察報告」で埋まっていった。

gooブログ消滅を前に「末松太平事務所」は、転居完了している。しかし「末松太平事務所Ⅱ」は、このまま消滅させることにした。R母が死去した後も「事務所Ⅱ」には「私の入院生活」や「私の昭和史・中公文庫版の刊行」など、それなりに「ネタ」はあったが、次第に《書かない方が良い事柄》が増えていき「事務所Ⅱ」の存在理由がなくなっていた。

「事務所Ⅱ」から「R母視察」に関わる部分もプリントアウトして、クリアファイル(120頁)に収めた。タイトル=追悼・釋静敏。R母の法名である。

「R母視察報告」は 身近に介護問題を抱えている方々には「参考になる」部分を含んでいたと思う。R母は寿命を終え、千葉市営霊園に納骨され、やがて築地本願寺の合同墓に移された。

プリントアウトしてみると(ブログで見るよりも)印象が強烈になる。特に「清和園」での画像の数々は、末松敏子の生涯を貶めることになりかねない。

画像参照、バック・トウ・フィーチャー。久保敏子だった時代まで遡ることにした。少女だった時代(千葉市長のお嬢様だったのだ)から駆け足で「R母の一生」を辿ってみる。最終エピソードは「完本 私の昭和史/二・二六異聞」の刊行である。「中公文庫版」からお世話になってきた「中央公論新社・橋爪史芳サン」の姿もチラリと登場している。

「末松太平事務所Ⅱ」は「Abemaブログ」に移転することはない。既に「Ⅱ」に掲載された記事の殆どは削除されている。しかし…。「追悼・釋静敏」には「年表・末松太平」には記されなかった情報も含まれている。新出発する「Abemaブログ」が「二・二六事件の精神を風化させないために!」と謳うからには、何らかの工夫を準備しておく必要があるのかも知れない。(末松)

 

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◎「アメーバ」からのメール◎

2025年08月01日 | 末松建比古

2025年7月31日(木)19時23分。「Ameba」から「インポートが完了しました」というメールが届いた。

「この度は、アメプロお引越し機能をご利用いただきましてありがとうございます。ブログのお引越しが完了いたしましたので、お知らせいたします。/ お引越し処理結果。 アメーバID=XOISANX。お引越し元ブログ記事件数=468件。お引越し成功記事件数=459件。/ いますぐアメプロをご利用いただけます。」

ブログ特有のサービス機能はそれぞれ異なるから、引越し出来なかった記事が《僅か11件だけ》ということに感服した。

画像参照。7月30日に届いていたメールである。この時点では「お引越し完了のお知らせまで1週間ほどお待ちください」と記されていた。続けて「お引越し完了のお知らせは、アメーバID登録時のメールアドレス宛にご連絡いたします。完了メールが届くまでは、お引越し元のブログのパスワードを変更したり、退会しないようにご注意ください」とも記されていた。

「1週間ほどお待ちください」は当然のことと理解していた。ところが直ぐ翌日に「インポート完了」の連絡が届いたので「まさかや~」と吃驚した。

実は「ブログの引越し先」として最初にトライしたのは「はてなブログ」であった。しかし 最終段階まで到達しながら「圧縮~解凍」の手順が理解できず、トライを重ねても完了できなかった。何度目かの失敗に呆れ果て 気分転換に「アメーバブログ」も試してみることにした。何故か「アメーバ」では「圧縮~解凍」という手順が必要なかった。その先が良く判らないので あいまいなままトライを終了。そして数日後に「お引越し完了」のメールが届いた。

存続を諦めていた「二・二六事件を風化させないための記録」が そのまま引き継がれたことは 私にとって「奇跡」のようなものである。ブログ「末松太平事務所」には「ここだけしか書かれていないこと」や「ここだけに遺されていたこと」が少なからず存在している。これらの「史料」が消滅せずに遺されたことに、心から感謝したい。

笑ってしまうのは「XOJISANX」と記入したつもりが「XOISANX」として登録されてしまったことである。私は ウオーキングの世界で「還暦オジサン~黄昏オジサン」として存在してきた。私の本名を知らない方々からも「オジサン」と呼ばれて親しまれていた。私のブログ自体も ウオーキング仲間の交流から誕生したものである。それが今回「オジサン」から「オイサン」に変更されてしまった。オジチャンからオイチャンへ。生まれ変わって 余命を頑張り抜くしかない。

日常生活の場合は 転居先を確保した上で引越し準備にとりかかる。ブログの場合も同様で 引越し作業が不成立状態の「はてなブログ」にも転居先が「XOJISANX」として確保されている。タイトルは何故か「XOJISANXの日記」である。一般的な常識では「ブログ=日記」ということなのだろう。勿論「末松太平事務所」の痕跡は皆無である。

「朝日新聞」2025年8月1日朝刊の死亡記事。「上條恒彦さんが7月22日、老衰で死去した。85歳だった。葬儀は親族で営んだ」。昔々 私が広告代理店のCMディレクターだったころ 上條恒彦サンに(某社のCMその他の広告に)出演していただいたことがある。それにしても「老衰=85歳」という記述は、同年齢の私にも適応できるわけで・・・(以下省略)。

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◎gooブログ終了対応「新版/年表・末松太平」ファイル◎

2025年07月30日 | 末松建比古

gooブログのサービス終了に伴い「末松太平事務所」の運命も 風前の灯火。さて、どうするか。

取りあえずの方策として「年表・末松太平」の全てをプリントアウトして「クリアファイル・60ポケット」に整理して収めた。

画像は《「新版/年表・末松太平(24)それぞれの生き方」1969(昭和44)年》から《「(25)三島由紀夫×末松太平」1970年》にかけての部分である。こうして 60ポケット120ページに収めてみると、85歳老人の感覚では(パソコン画面で眺めるよりも)活字媒体で眺める方が詠みやすいし シックリとくるのである。 

全120ページに収めてみると 更に内容を充実させていきたくなる。というわけで 徐々に周辺資料を加えていき ご覧のような状況になってきた。

画像は《◎「新版/年表・末松太平」(33)「軍隊と戦後のなかで」◎》から《1980年》《1981年》《1982年》の部分だが、資料として「昭和56年 西田初子氏死去」を追加したり「太平と一輝」のスナップ写真を並べてみたり・・・と、賑やかな見開きページに変貌している。

特に「当時の末松太平家」の画像が懐かしい。その後 この土地は某社に売却されて 今ではマンションに姿を変えている。

画像は《◎「新版/年表・末松太平」(40)87歳、余命との戦い◎》の後半部分。

86歳の末松太平は「国民新聞・1992年2月25日号」の座談会「二・二六事件を現代に問う」に出席し、87歳の末松太平は、河野進氏の初来訪に応じたり・・・。それなりの日々を送っていて、当人も周辺の人々も まさか「翌年1月17日に死去」という運命が控えているとは 予測もしていなかった。

「末松太平が遺した最後の記念写真」は(ブログ版の作成時点では)今泉&河野サンとのツーショット(9月20日撮影)だと思っていた。しかし今回、1992年11月14日撮影の「最後の記念写真」を発見。 ファイル版に追加掲載することができた。

最後のツーショット写真の「相棒」は、洋画家の櫻井通天画伯である。通天氏ご夫妻は 末松家を度々来訪していたようである。そして、末松太平が死去したあとも 末松未亡人は「通天氏の個展」に顔を出したり「通天絵画集」に寄稿したりしていた。

現在、我家の居間には、通天画伯による力作が飾られている。。

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◎2025年7月12日

2025年07月12日 | 末松建比古

 

昨日 九州在住の大石サン(読売新聞記者)から電話があった。

「私は 参議院選挙の取材に追われて 賢崇寺の法要に行けませんが 末松さんのご予定は・・・?」「7月12日の法要には(私は遺族ではないので)参列しません」「・・・?」

賢崇寺に於ける「二・二六事件法要」は(コロナ禍に影響された数年間を経て)新しい形に姿を変えたようである。即ち「遺族だけによる法要」ということで、その変化に気づかなかった私は、今年の2月26日、賢崇寺に遅れて到着したために、玄関の内鍵が閉められていて、ショックに見舞われたものである。

2月26日の法要の場合は、招霊される二・二六事件関係者の中に「末松太平 招霊」も含まれているから、私も「遺族」として参列することができる。しかし、7月12日の法要の場合は・・・。居心地悪さを我慢するよりは 敬遠する方が賢明というものだ。

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◎現在休止中/・・・やがて消滅◎

2025年06月29日 | 末松建比古

 

「ブログ・末松太平事務所」は現在休止中。そして、再開を考慮するまでもなく「gooブログ」そのものが、まもなくサービスを停止するという。
サービス停止と共に「ブログ・末松太平事務所」も完全消滅。「二・二六事件」に関する様々な記録が、全て消失するのは無念の極みだが、宿命として甘受するしかない。

末松太平の「墓じまい」と競い合うかのように 末松太平事務所に届いた「ブログじまい」の通告。
人生はホップ ステップ ジャンプ・・・そして衰退。 私自身にも「命じまい」の兆候が 徐々に現れ始めている。

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今後も「二・二六事件に関する事柄」を発信したいと願うなら、当ブログの引越しという手段が残されている。ブログの引越しや、引越しデータの作成についての方法も提示されている。しかし 情けないことだが85歳の老人には もはや引越しするだけの気力が残されていない。とはいえ 約20年にわたる「末松太平事務所」の記述のなかには「霧散させたくないもの」も多々残されている。そういうことで テーマ2つを限定して(加筆修正をしながら)プリントアウトすることにした。

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◎テーマ1◎「新版/年表・末松太平」(1~41)+(ドキュメント死・5編)+(余録・10編)+(資料)。

「年表・末松太平」は、末松太平死去の直後に急遽作成したもので「田村重見編/大岸頼好・末松太平・交友と遺文」や「筒井清忠解説/私の昭和史」などに転載されていた。しかし、内容的には不備な部分が多いので「新版」をブログ掲載していた。今回のプリントアウトでは、ブログ掲載版に大量の加筆修正、画像や関連資料も加えて「完全版」と言えるものが完成した。

◎テーマ2◎「黄昏ギャラリー/末松太平事務所・Ⅱ」老母末松敏子視察シリーズ。

こちらは、2006年頃に開設した「二・二六事件とは全く無関係のブログ」である。殆どプライベートな内容で「日記」のようなもの。今回 加筆修正しながらプリントアウトしていると 老母が健在だったころ(最後は重度の認知症だったのだが)の思い出が 奔流のごとく蘇ってきた。

テーマ1と2、プリントアウトしたものは それぞれが80ポケットのファイルブックに納まった。背表紙のタイトルは「新版/年表・末松太平」と「追悼/釋静敏」。この世に2冊だけ存在する貴重な資料である。

ブログ引越しの案内には「書籍化機能」の説明もあるが全く関心がない。面識ある「自費出版専門の出版社」サンからも連絡があったが、丁重にお断りをした。

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《若杉良作著「天皇を覚醒させよ/魔女たちと宮中工作」2025年・講談社刊》が「謹呈 著者」として送付されてきた。若杉氏は「新潮45」元編集長。かなり以前に取材要請に応じて 飯田橋駅近くの喫茶店で逢ったことがある。

《末松の長男・建比呂氏にお会いした際、「千鳥の栞、宗教法人千鳥会編」と題された手書きの原稿用紙の束を見せていただいたことがある。どうやらそうした題名の刊行物があり、誰かが書き写した・・・》。建比呂氏=私。まあ、訂正を求めるほどのことでもない。

宗教法人千鳥会のことは 末松太平著「私の昭和史」の最終章「大岸頼好の死」の中で詳しく記されていた。この辺りの事柄は 若杉良作著「天皇を覚醒せよ」でも引用されている。ついでに記せば 私が「千鳥の栞」を所有していることを若杉氏が知ったのは「ブログ・末松太平事務所」を読んでのことである。

今までにも 二・二六事件研究者の方々から「末松太平事務所」が機縁となって 連絡を受けるケースが(時折ではあるが)存在していた。今回の「ブログ閉鎖」は 情報発信の手段を失うことでもある。今まで続けてきた「二・二六事件を風化させない」という努力を放棄するような気がして 内心忸怩たるものがあるのは事実である。

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◎末松太平夫妻「納骨法要」無事終了

2025年05月25日 | 末松建比古
2025年5月24日(土)。築地本願寺。
納骨法要=参列11名。

  

「合同墓資料請求を承りました」
2024年3月2日。築地本願寺コンタクトセンターから届いたメールが

 末松太平夫妻の「墓じまい」は 
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◎末松太平夫妻「遺骨取り出し」無事完了◎

2025年04月12日 | 末松建比古

 

◎末松太平夫妻「遺骨取り出し」完了。
日時/2025年4月12日(土)午後。
場所/千葉市若葉区「平和公園」千葉市営霊園。
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昨年の6月に千葉市役所を訪れ、必要書類を提出して「改葬許可証」を受領していました。そして、直ちに「墓じまい」に着手する予定だったのですが、あれやこれやとありまして・・・。この度 ようやく「遺骨取り出し」を完了することができました。

末松太平夫妻の遺骨を納めた「骨壺」と一緒に記録写真をパチリ。撮影者=木村石材店の職人サン。職人サンから注意「骨壺のひとつは 非常に重いので 扱いに気をつけて下さい」末松敏子の骨壺は(ごく一般的な)陶器でしたが、末松太平の骨壺は(洒落た模様入りの)石器だったのです。
思い起こせば 末松太平の葬儀は(大小4つの会場が提供されて)想定外のスケールでありました。葬儀社への支払いも想定外の金額で、用意された「骨壺」も、想定外の石器高級品・・・。末松太平の葬儀、末松敏子の葬儀・・・。当時のことがあれこれと 脳裏に蘇る「平和」なひとときでした。

「末松家」の墓石は(木村石材店によって)撤去され、区画内は更地に戻ります。撤去工事が完了したら、平和公園管理事務所に「返還届」を提出して「墓じまい」も完了。
提出書類=①一般墓地使用許可証(使用者名/末松建比古)、②返還届、③使用料返還金申請書、④管理料返還金申請書。・・・③と④は、使用料&管理料は年間一括支払いで、月割りで返還される申請書であります。
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◎末松太平夫妻「納骨手続き/納骨法要」予定。
日時/2025年5月24日(土)12時00分~。
場所/築地本願寺。

後日 御報告する予定です。(末松建比古)
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◎二・二六事件/ドラマ化すれば「時代劇」?◎

2025年03月28日 | 末松建比古





私の知る限りでは「二・二六事件関連の新刊書」は《末松太平著「完本 私の昭和史」2023年1月・中央公論新社刊》を最後に、姿を見せていない。/本年2月26日の「朝日新聞」朝刊には《三浦由太著「二・二六事件研究」郁朋社刊》の書籍広告が掲載されていたが、新刊書ではない。奈良新聞の書評によれば「現時点における二・二六事件研究の頂点」とのことだが、ムムムム・・・というのが、私個人の率直な感想である。

3月26日「朝日新聞」夕刊で《伊吹亜門著「路地裏の二・二六」》という書籍の存在を知った。事件関連の新刊本である。思いがけない情報に出会って心が躍った。「エンタメ季評」という書評欄で 大矢博子サン(書評家)が、3冊の「時代小説」を紹介している。
①/高瀬乃一著「梅の実るまで 茅野淳之介幕末日乗」新潮社刊。②/澤田瞳子著「しらゆきの果て」KADOKAWA刊。③/伊吹亜門著「路地裏の二・二六」PHP研究所刊。・・・江戸時代の幕末や、鎌倉時代から明治までの話と並んで、昭和10年~11年の話が、同じ「時代小説」として括られていることには吃驚した。
書評に曰く《昭和10年の相沢事件から翌年の二・二六事件までの約半年の間に架空の殺人事件を挿入することで、この時代の空気を見事に描き出した・・・》。大矢サンの解釈では「時代が大きく動く中を生きた人々を描いた小説」は「時代小説」ということになるらしい。

今までにも「二・二六事件」と「ミステリー」を融合させたエンタメ作品は存在していた。
なかでも《宮部みゆき著「蒲生邸事件」毎日新聞社刊》と《山田正紀著「マヂック・オペラ」早川書房刊》は、多くの読者を獲得、新聞や週刊誌の書評にも度々取り上げられていた。例え「エンタメ本」であっても「事件関連」の書籍や書評は「二・二六事件を風化させない」ためには有効である。しかし、なかには要注意の書籍や書評も紛れ込んでいる。
「(本書は)青年将校が唱えた〝東北地方の貧しき農民を救う〟なる理念が、単なる予算獲得の方便に過ぎなかったことを浮かび上がらすなど・・・」というのは「マヂック・オペラ」についての書評で「二・二六事件の隠された真相に迫る」というタイトルがつけられている。事件関連の知識が乏しいままに「賢しらげなこと」を書き散らした好例、と言えるかもしれない。

「二・二六事件」と「時代劇」となれば「俳優・小笠原弘/1927~2006」を避けては通れない。
《新東宝映画「叛乱」1954年公開》で「栗原安秀中尉」を熱演していたのが 小笠原弘である。そして、今になっても「栗原中尉=小笠原弘」というイメージは消えることがない。/小笠原弘は「蟹工船」1953、「潜水艦ろ号未だ浮上せず」1953、「日本敗れず」1954で、青年将校を演じていたが、新東宝が時代劇中心に変貌して「小笠原竜三郎」に改名。1957年には、松竹映画に移籍し「小笠原省吾」に改名。1961年にフリーになり「小笠原弘」に戻った。
映画の全盛時代からテレビの時代へ。BS朝日「暴れん坊将軍」に登場する小笠原弘は、本庄山城守や石川伊予守といった悪役を演じて、最後に将軍吉宗に成敗されてしまう。

大老が襲撃された「桜田門外の変」は、1860年(安政7)に発生し、首相が襲撃された「二・二六事件」は、1936年(昭和11)に発生した。どちらも《むかしむかし・・・》の出来事である。
例えば今、9歳の少年が「(89年前の)二・二六事件」に抱くであろうイメージは、1949年に、当時9歳だった私が「(89年前の)桜田門外の変」に抱いたイメージと、さほど変わりはないだろう。
降る雪や 明治は遠くなりにけり。昭和初期に詠まれた中村草田男の名句である。明治大正昭和・・・三代過ぎれば遠くなる。昭和平成令和・・・も同じこと。 昭和は遠くなりにけり。「路地裏の二・二六」が「時代小説」の範疇で語られたとしても、静かに眺めているしかない。
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◎返歌?/余生でも晩年でもあり昨日今日・・・◎

2025年03月19日 | 末松建比古

余生でも晩年でもなし去年今年(塙 誠一郎)
余生でも晩年でもあり昨日今日(末松建比古)
84歳11ヶ月になっても「気力」はなんとか持ちこたえることができる。だが「体力」の衰退については予測不能の領域にある。
間もなく85歳を迎える老人には《急がなくちゃ、急がなくちゃ!》という事柄が山積している。

 

2023年度に国内で実行された「墓じまいを含む改葬」は10万件を超えたという(厚生労働省)。
2024年6月には「末松太平夫妻の墓」も「墓じまい&共同墓への転葬」を行う予定でいた。/しかし、想定外の出来事が発生して、予定は中断、現在に至っている

末松太平夫妻それぞれの「法要」は 喪主(私)の勝手な判断で「三回忌法要」が最後になった。
賢崇寺の「法要」の場合は 本年2月26日が「九十回忌」であった。/私なりの解釈で「仏心会・代表」でなく「会長」として称えたいのは、栗原勇氏(初代=護国仏心会)、河野司氏(二代目=仏心会)である。お二人のご尽力によって「仏心会」が創設され確立されたことは、周知の事実である。/お二人の亡き後は、③河野進氏、④安田善三郎氏、⑤香田忠維氏、⑥栗原重夫氏が「世話人代表」という立場で「仏心会」を守り続けてきた。なお、正確を期するならば、香田氏と栗原氏については「仏心会・代表理事」と記すべきかも知れない。
「護国仏心会・代表」の時代から「一般社団法人仏心会・代表理事」の時代に至るまで、賢崇寺の「法要」は紆余曲折を重ねて来た。最近では「仏心会+慰霊像護持の会」の共催という形になっている。新型コロナ禍によって「法要」は「世話人数人だけ」で行われたりもした。そして今「法要」は「遺族だけ」に形を変えつつある。
既に「九十回忌」を超えた「法要」が「昔どおりの形」で、いつまでも続けられる訳はない。「仏心会=遺族だけの会」という判断は 尊重されなければならない。
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紆余曲折の実例として、約35年間を遡って《ある議事禄(覚え)》の一部分を紹介しておく。
議題/仏心会・慰霊像護持の会の現状と諸問題について。
日時/平成10年(1989)7月5日(日)午後2時~4時30分。/賢崇寺。
出席/仏心会=白井、安田★、田中★、志村、河野★(丹生、安藤、香田は所用のため欠席)/護持の会=池田、北島、今泉(藤代、圖司は所用のため欠席)/上記★3名=護持の会兼務。
主な議題/厳しい現実と危機感。
◎当事者がいなくなる。
◎様々な外部の圧力・軋轢に対する次の世代の結束(立場の確認と表明)。
◎参加者の減少による資金の低下。
15年前と比較すると、参加者は半減、収入は約4割に減少している。/収入の減少に伴い、賢崇寺様にご迷惑をかけていることの説明。藤田御老師様から「気にしないで下さい」との有り難いお言葉を賜った。/これからは「2月と7月」の一ヶ月前に関係者が集まり、支出を極力減らすため(自ら)諸作業を心がけて、なるべく賢崇寺様にご迷惑をかけないようにして、会を運営していく。
◎慰霊像の補修問題。経費のことなどあれこれ。/今後について。次回(7月12日)関係者が残って協議を続ける。

平成10年7月12日の「法要」には 私も参列している。/そして その場の雰囲気に導かれるままに「協議を続ける場」にも加わっていた。
出席者/白井、安田、田中、河野、池田、北島、今泉、圖司、+傍聴人2名(藤野、末松)。
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「朝日新聞/2025年3月18日(火)朝刊」掲載の死亡記事。
《いしだあゆみさん死去/76歳/歌手で俳優のいしだあゆみさんが11日、甲状腺機能低下症で死去した。所属事務所のイザワオフィスが17日に発表した。葬儀は近親者で営んだ。・・・以下省略》

「死去=11日、発表=17日」という時間差発表や「近親者で営んだ」という葬儀の形は(墓じまいの場合と同様に)高齢化社会を反映した《時代の趨勢》になっている。/私が勤務していた広告代理店の「交友会=退職社員の会」からは 先輩後輩OBの「訃報」が時折届くが 殆どが「葬儀は近親者で完了しました。弔意は無用です」という内容である。
賢崇寺の「法要」の場合も 残念なことだが《時代の趨勢には逆らえない》 ということだろう。

「死亡記事」を流用させていただいたので 礼儀として「いしだあゆみサン追悼」を少々・・・。
画像は 九州朝日放送の人気ラジオ番組「コーク・ミュージックメイト」生放送中のスナップである。
1968年6月30日、福岡市天神ビルからの中継放送で、この日のゲスト=いしだあゆみサン。大ヒット曲「ブルーライトヨコハマ」の発売も この年のことである。
画像左=天神ビル内の美容室。大鏡の右奥に撮影者(私=28歳独身)の姿も映っている。
写真右=番組は無事終了。コークの宣伝部長と一緒に記念撮影。私の奇妙なポーズは、照れ隠しの現れ。
当時の私は、スタッフでもないのに「スタッフジャンバー」を着て、ペンタックス片手に、毎週顔を出していた。
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3月20日。福岡在住の義姉から「義兄が大腿骨を骨折して入院した」との連絡が届いた。
骨折の原因は自宅での転倒だという。義兄=(私と同じ)1940年生れ。世情を見渡すまでもなく、後期高齢者の骨折トラブルは《よくある話》になっている。/私たちも 何時《事故》に襲われるのか判らない。早急に「末松太平夫婦の墓じまい」を行わないと・・・ということである。(末松建比古)
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◎余生でも晩年でもなし去年今年・・・◎

2025年03月04日 | 末松建比古

築地本願寺、麻布賢崇寺・・・。それぞれの御本尊と向き合う時間を二日続きで体験した。
築地本願寺では 千葉市営平和霊園(墓じまい)から築地本願寺共同墓地への移転に関わるあれやこれや・・・/麻布賢崇寺では 新しい局面(遺族だけでの法要)に関わるあれやこれや・・・。/心奥を去来した《あれやこれや》は総て《終結》に関わる事柄で、85歳寸前の老人には当然のことだと、この時点では自覚していた。
そして 終結意識を抱きながらも「千葉高三四会(最後の)集い」に参加。心に響く一句と出会うこととなった。

◎余生でも晩年でもなし去年今年(塙誠一郎)。
《句集「家系図」2022年10月22日・ふらんす堂刊。3080円》から転載。


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◎千葉高三四会の集いのお知らせ。
三四会の皆様におかれましては元気に、日々お過ごしのことと拝察いたします。/この度 八十有余年がんばって来た三四会の同期がお互いにお祝いする「三四会の集い」を開催いたします。/ひょっとすると最後の「三四会の集い」になるかも知れないので、万難を排し奮ってご参加下さい。

・令和7年3月1日(土)12時~。/ホテルポートプラザちば。2Fルビー。
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◎余生でも晩年でもなし去年今年(塙誠一郎)。
塙氏略歴=1941年(昭和16)本郷生まれ。大手損保会社に勤務。2001年(平成13)作句開始。2006年(平成18)「沖」入会、能村研三氏に師事。沖同人会副会長。
「昨年後半から急に句集を上梓したいという気持が起こったのは、高校時代からの畏友・伊藤アキラ君が、2021年5月に急逝したことに因ります。(後略)」=句集「家系図」の「あとがき」から抜粋。

塙氏が「あとがき」に記した「高校時代からの畏友・伊藤アキラ君」のことは、私自身も当ブログに記している。
「◎伊藤アキラ氏(作詞家)追悼/かもめが翔んだ日◎」2021年5月22日掲載。

 

遡って読み返していただく訳にもいかないので、当時掲載した写真だけを再掲しておく。
左写真=三木鶏郎先生を偲ぶ会。大森昭男(音楽プロデューサー)氏、伊藤アキラ(作詞家)氏、そして私(広告会社CMディレクター)。/右写真=千葉一高の学園祭。某(高二)クン、伊藤晧(高三)クン、某(高二)クン、私(高三)。

塙誠一郎氏とは「千葉市立緑中学校・1年生」の時だけ《同じクラス》にいた。小学校時代は別々の学区だったし、高校進学後も別々のクラスにいた。優等生と問題児・・・学園ドラマに例えれば、こういう配役になる。
そして今、終結を意識する「元問題児」は、「元優等生」の「余生でも晩年でもない」という言葉に、影響を受けていて・・・。

「千葉高三四会」とは、昭和34年3月に千葉高(当時は千葉一高)を卒業した約360人の会である。/前回は 2016(平成28)年に開催。57名+恩師2名が出席した。そして 今回までの約8年で「57名中の6名」が逝去した。/今回の出席者=39名。果たして「次」はあるのだろうか。数年間に何人逝去するのか。判断基準は明快である。
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◎2025年2月26日・朝から夜まで◎

2025年02月26日 | 末松建比古

迷った末に「法要」に参列することにした。/今までの私は(正面左右に遺族席と関係者席が設けられていた当時も)ラフなスタイルで参列していた。/しかし、今回は「最後の参列」になるかもしれないので「法要に相応しい服装」に身を整えて家を出た。



JR原宿駅で下車して「慰霊像」に到着。11時過ぎの慰霊像周辺は静けさを取り戻している。
①「慰霊像護持の会」による追悼式は 既に終わっている。
②「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」主催の追悼式(昨年は来賓挨拶を務めた)も 既に終わっている。
今回は どちらの追悼式もスルーすることにして、遅い時間に家を出た。賢崇寺に直行するか、慰霊像経由で賢崇寺に向かうか・・・。迷いながらの「慰霊像経由」となった。
「ひとり追悼式」を終えて、JR渋谷駅前まで歩く。久しぶりの道筋が懐かしい。渋谷駅前は相変わらず工事中で「バス乗り場」探しに手間取る。昨年はうっかり《違う路線》に乗ってしまって、賢崇寺まで20分ほど歩く顛末となった。今回は 正しい乗り場に到達して「麻布十番」に向かう。昔々、慰霊像の追悼式に参列した高橋正衞サンと一緒に「賢崇寺」に向かったことを 懐かしく思い出す。



既に13時を過ぎている。賢崇寺への参道もひっそりとしている。
この急坂を自力で上れなくなったら、法要参列を諦めるしかない・・・。姿を消した先輩諸氏は数限りない。
幸いにも 85歳寸前の私は 足を止めることもなく一気に登り切ることができた。
賢崇寺の境内もひっそりしている。関係者の姿はない。黒服の人々(公安関係者)だけが残っている。
ここで《予期せぬ出来事》に遭遇。玄関に内鍵が掛けられていて扉が開かない。閉め出されている状況である。公安に注視されているから冷静を装うが 内心のショックは隠せない。
気を取り直して「ご用の方は押して下さい」と書かれた釦を押す。横の小窓が開いて女性が顔を見せる。
「二・二六事件の法要はないのですか?」「今日は遺族の方だけで法要を行っています」「・・・Д、ロ゚」
今日は《遺族の人だけ》で・・・。さあ、どうする。



玄関の扉は開かなかったが、本堂正面に回り《普段は通らない階段》を登って「法要の席」に到着。
読経の最中なので こっそりと末席に着座。落ち着く間もなく御焼香が始まり、静かに列の後ろにつく。
法要では、導師によって「招霊」される方々が「殉難重臣・殉職警察官・二十二士・その他の物故者」という順序で読み上げられる。その他の物故者として「末松太平」も招霊されている。だから私が(2月26日の法要に)遺族として参列することには問題がない。

今回の「遺族の方だけでの法要」は、賢崇寺様のお導きによるものだと聞いた。時の流れに応じた「適切なお導き」だと 私は思う。
私が(末松太平の死後に)法要に参列するようになった頃は、本堂に溢れる程の人々が終結して、御焼香も《三人並び》でなければ捌くことができなかった。藤田導師の他にも僧侶2名が加わって、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
しかし、歳月の経過と共に、参列できる「遺族」の数は急減していく。参列者の激減は「御香典」の激減を伴うから、法要に必要な経費を支えることも難しくなっていく。
法要は「施主=仏心会」として行われていた。しかし、現在は「施主=仏心会・慰霊像護持の会」として行われている。仏心会と慰霊像護持の会、どちらの会員でもない私には《詳しい事情》は判らない。周辺情報や体感を基にして推測するしかない。

以下に記すことは 私なりの推測によるものである。
平成13年度の「収支報告書」が手元にある。当時の私は(それなりの立場として)法要に協力していたのだった。明細は公表できないが(現在と比較するために)香典と法要費に触れてみる。香典は(2月と7月とを併せれば)それなりの金額にはなった。といっても「法要の経費」とほぼ同額というレベルである。既に当時から「年々参列者が減少している。香典も減少している・・・」という将来への不安は存在していたのだった。

法要に必要な《収入》は望めなければ《支出》を縮小することになる。昨今の法要は《賢崇寺様の御厚意》に支えられて持続されている。賢崇寺様の御厚意=真摯な遺族達への御厚意。法要は《事件関係者達による追悼会》ではなくなっているのだ。
「遺族だけでの法要」に「雑音」は不要である。因みに、今日の法要でも「遺族達の現況を対面取材したい」という「雑音」が拒絶されていたらしい。

「法要」の後には「森田朋美サンのお供」が控えている。麻布十番駅から白金台駅へ。目的=池田俊彦少尉の墓参。賢崇寺法要の供花を(導師様の許しを得て)お裾分け。池田少尉の墓前に捧げる。
森田朋美(森田忠明夫人)サン=慰霊像護持の会・世話人。彼女は著作「二・二六事件/雪降リ止マズ」執筆の際、池田俊彦氏の指導を受けている。人生の恩人である。
墓参の後は「バーミヤン白金台店」で生ビール。やがて 今泉章利氏(慰霊像護持の会・世話役代表)と大石健一氏(読売新聞記者)も所用を済ませて合流。楽しい宴が続いた。(末松建比古)
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◎承前/「匂坂資料」の功罪について◎

2024年08月10日 | 末松建比古



酷暑に負けず、老化にも負けず、週に1~2回は「さいたま赤十字病院」を訪れる日々である。といっても、自らの診療や治療のためではなく、入院中の《親しい人》への面会(見舞)が目的である。




《河野司「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社・1982年2月刊》から「匂坂検察官の死」を(私なりの整理を加えて)転載する。/この頁に、末松太平は「付箋」を貼っていた。末松太平には「気になる箇所」に付箋を貼る習癖があった。中には40箇所を超えて(満艦飾の如く)付箋が貼られた書籍もあった。《澤地久枝「雪はよごれれていた」NHK出版・1988年刊》である。
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昭和28年8月19日。事件の軍法会議で主席検察官であった匂坂春平氏が死んだ。この日はあたかも村中、磯部、北、西田四士の十七回忌法要の日であった。(18行割愛。/★末松註=河野氏の勤務先に《I氏=匂坂氏の令嬢の夫》がいた。河野氏は《I氏》を通じて匂坂氏に接触を望んでおり「二十二士之墓」建立開眼供養法要の際にも、案内状も託していた。)

7月12日。梅雨の谷間の蒸し暑い日だった。蟬しぐれしきりな深い木立の境内に、たくさんの人が集まっていた。事件刑死者の十七回忌法要が営まれていた本堂での読経が始まって間もない頃だった。テント張りの受付に、案内状の封筒を差し出して、お墓の場所を訊ねる一人の老人があった。受付に居た岡部君が、法要中の本堂に案内しようとするのを押し止めて、「私は遺族の方々にお会いするにしのびない者です。お墓にだけお詣りさせていただいて帰ります。皆さんによろしくお伝え下さい」と丁寧に挨拶をして、教えられたお墓へ向かう老人だった。受付に残された封筒の上書きには「匂坂春平様」と書いてあった。法要が終わったあと、このことを聞かされた私は、お会いできなかったことを残念に思ったが、匂坂さんの墓参を嬉しく胸に刻んだ。
翌年の2月26日の法要にも、匂坂さんに案内状を出した。今度は或いはお会いできる、是非その機会を捉えたいと、受付の岡部君に気をつけてもらっていたが、この日も法要中の時刻を見計らったように、遅く来てお墓にだけ詣って帰る匂坂さんだった、会社で《I氏》に、墓参の礼を伝えてもらうとともに、お訪ねしてご挨拶したい意向を幾度か依頼したが、いつも同じように、会いたくないという匂坂さんの気持ちが婉曲に返ってきた。
次の機会の、8月19日の磯部、村中、北、西田の四士の、十七回忌命日の当日は、匂坂さんの姿が見えなかった。そして《I氏》からの電話で、匂坂さんの死の報を聞いた。

匂坂さんの葬儀は、8月20日に自宅で営まれた。賢崇寺の藤田住職と一緒に参列した。霊前に坐っておられた未亡人が席を立って下りてこられた。「主人は最後まで皆さんのことを口にしておりました。ありがとうございました。
まだ語をつぎたいような未亡人を押し止めて、あらためてお伺い申上げます、と言って辞した。
私と藤田師が再び匂坂家を訪れたのは 九月の初めであった。数々の供物や生花が飾られた仏前に、藤田師の読経が捧げられた。焼香を終えて、未亡人と三人での語らいは 自ずから事件関係のことであった。
(24行割愛。/★要約=大東亜戦争が激化し、空襲による焼失から守るため、匂坂氏は役所よりは安全と思われる自宅に「大切な書類」を持ち帰っていた。河野司氏は、大切に保管されていた「柳行李にいっぱいの書類」を見せられた。)
これは大変な記録の集積である。この膨大な記録を一つ一つ眼を通すことは、幾数日間かを要するだろう。私は後日を期して、手にした書類を行李に納めた。恐らく事件の裁判記録の総ての資料が揃っているのではあるまいか。こんな記録がここに残されていることを確認しただけでも、私は胸のときめきを抑えきれなかった。(49行割愛)
これから四年後、未亡人の死が知らされた。残された資料への手掛かりを失った侘しさは尽きなかったが、資料そのものは現存して長男哲郎氏の許に秘蔵されている。この厖大な資料はおそらく二・二六事件の未公開の唯一の重要な資料であると信じる。すでに半世紀を経過した今日、未だに多くの疑問を抱懐する暗黒裁判の内容、真相究明のために、一日も早く匂坂家からの公開を千秋の思いで待つものである。
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平石光久氏(元・看守)が、磯部浅一の「行動記」「獄中日記」などを、秘かに持ち出したことは、遺族や事件関係者から感謝されている。
《河野司「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社》の「善通寺に平石看守を訪ねる」には、平石氏(高松市・市会議員)を訪れた河野司氏が、資料の数々と対面し「仏心会」への寄贈を受けたことが、感謝を込めて記されている。
「この善通寺訪問が、私が二・二六事件関係資料集刊行を決意する踏切の場となったのである。辞去するにあたって、今後の刊行に際しての協力を依頼し、平石氏の快諾を与えられたことは何よりの光明であった。」
「平石氏宅の多数の遺書を書写するための時間がなかったことは心残りであった。次の機会を胸に帰京したが、なかなか再度の往訪は望み薄く、遂に意を決して、当時比較的余裕のあった末松太平氏に依頼して、平石氏訪問を引き受けてもらった。末松氏はかねて私の資料蒐集と刊行のために、積極的に協力してもらい、且つ私としては末松氏に頼るところが多かったので、同氏の快諾はひとしおの心強さであった。こうして、平石氏秘蔵の獄中手記類の写しも入手でき、後の刊行の大きな部門を占めることになったのである。」
それにしても《比較的余裕のあった末松氏》という表現には、苦笑する他はない。

匂坂春平氏(元・主席監察官)の「極秘資料」持ち出しは、焼失から守るためだったという。/その「守られた極秘資料」が「適切な方法」で公開されていれば、匂坂氏の行為は「二・二六事件の関係者」からも賞賛されたに違いない。
河野司氏の「一日も早く匂坂家からの公開を千秋の思いで待つものである」という願いは、1988年に「叶えられた」ように見える。しかしそれは、河野司氏が望んでいた形ではなかった。そしてそれは、故・匂坂春平氏にとっても「心外な形」だったのではないか、と思われてならない。
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◎「私流・脳細胞活性トレーニング」のお話◎

2024年07月29日 | 末松建比古

私流の「脳トレ=脳細胞活性トレーニング」のひとつは、二十二士の氏名を挙げること。丸暗記しているわけではないから 二十二士の氏名は順不同になる。失礼ながら、20番目以降になりがちな方がいるのも事実である。
2月26日の「賢崇寺法要」では、殉難重臣+殉難警察官+二十二士+その他の物故者の氏名が読み上げられ「招霊」されていく。しかし、私の脳細胞では「二十二士」を忘れず記憶していくのが、精一杯のようである。



東京大学出版会が(1971年に)発行した「日本陸海軍の制度・組織・人事」という箱入の大型書籍がある。
目次には「Ⅰ・主要陸海軍軍人の履歴」「Ⅱ・陸海軍主要職務の変遷」「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」「Ⅳ・その他」という項目が記されている。

「Ⅰ・主要陸海軍人の履歴」の選定基準は「①陸海軍大将(元帥)の全員/②陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)および海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官経験者の全員/③陸軍の軍司令官以上、海軍の艦隊司令長官以上の指揮官の全員/④その他、政治・軍事・経済・社会・思想等の各分野において重要な役割を果たし、実績を残した著名な軍人」となっている。「基準①~③」で選定された《エリート》と「基準④」で選定された《問題児?》が、五〇音順に混在しているところが面白い。
選定された「二十二士」は、安藤輝三、相沢三郎、磯部浅一、栗原安秀、河野寿、香田清貞、村中孝次の7名。陸軍の大岸頼好、菅波三郎、末松太平。海軍の古賀清志、三上卓も選定されている。

「Ⅲ・陸海軍主要学校卒業生一覧」には、各卒業年度の「優秀卒業生」が挙げられている。
◎陸軍士官学校優等卒業生=40期/竹嶌継夫(他8名)。因みに、永田鉄山(16期)辻政信(36期)も優秀卒業生であった。
◎陸士予科及び幼年学校優秀卒業生=39期/渋川善助(他4名)。40期/竹嶌継夫(他3名)。こちらにも、永田鉄山、辻政信の名前がある。渋川善助と末松太平は同期の桜、優秀な若者と凡庸な若者の「親交」の始まりだった。
◎地方当年学校優等卒業生=34期広島/西田税(他1名)。37期熊本/菅波三郎(他1名)。40期東京/竹嶌継夫(他1名)。36期名古屋/辻政信(他1名)の名前はあるが 永田鉄山は登場しない。

昭和11年7月5日。東京陸軍軍法会議で判決を下されたのは計23名。竹嶌継夫中尉は「3番目」に名前を呼ばれている。しかし、事件関連の書籍などでは、さほど目立たぬ存在に甘んじている。
澤地久枝氏は《澤地久枝「妻たちの二・二六事件」中公文庫・1975年刊》と《澤地久枝「試された女たち」講談社・1992年刊/講談社文庫・1995年刊》の中に、竹嶌継夫中尉を登場させている。
「妻たちの二・二六事件」は、澤地氏にとって《初めての作品》だったようである。本書の「あとがき」には「仏心会の河野司氏の紹介がなかったら、私は妻たちの所在も確かめ得ず、逢うことも拒否されたのではないかと想像する」と記されている。更に「連座して死んだ男たちの遺稿のうち、事件の核心にふれた主なものは、河野氏の三十年来の苦労の結晶として、近刊『二・二六事件』にまとめられている。そこから引用させていただいた遺書も多い」「『解釈は多様、事実はひとつである』と、あらゆる便宜を惜しまれなかった河野司氏・・・」とも記されている。

しかし、上記の2作品の間には「1975年」と「1992年」という歳月が流れている。
「1988年2月26日。麻布賢崇寺の二・二六事件関係者法要に参列。最近出版されたばかりの『雪は汚れていた』の著者澤地久枝氏と、参加将校の一人だった池田俊彦氏(元少尉)との間で、真相を巡る応酬あり」。
《笠原和夫(シナリオ著)・双流社編集部(資料編著)「226/昭和が最も熱く燃えた日」双流社・1989(平成元)年6月刊》掲載の「シナリオ製作日記抄/笠原和夫」に記された出来事である。



1988年2月15日の「朝日新聞」冒頭を《「2・26事件」で新資料》という記事が飾った。「匂坂主席検事官が保管していた極秘資料をが14日までに明らかになった」「NHKの要請で長男・哲朗氏が公開に踏み切った。近く特別番組として放送される」と記されている。このトップ記事には「社会面に関係記事」が続いていた。
1988年2月21日に NHKテレビが「消された真実」という《特別番組》を放映した。
その前日 1988年2月20日には NHK出版が《澤地久枝著「雪は汚れていた」》という書籍を刊行していた。
NHKと澤地氏の《タッグチーム》が、準備万端取り揃えた上で「如何にもビッグニュースであるかのように」仕立てたとしか思えない。そして、この《タッグチーム》の戦略が《法要の席での応酬》を誘発する原因となったのである。
1988年2月26日の法要に 澤地氏が(堂々と?)参列したのは何故か。ご当人には「拙いこと」を書いたつもりがないようで、間もなく《次作》を「別冊文藝春秋」1988年4月号に発表して、事件関係者の怒りをかき立てた。
《澤地久枝「二・二六事件 在天の男たちへ」》
この「別冊文藝春秋」2段組20頁にわたる長編は「匂坂春平さま。」に始まり「二・二六事件をとく最後の鍵が世に出ることを喜んでください」で結ばれている。全体を通じて、あたかも《片思い相手へのラブレター》の如き文体で、いささか不気味でもある。

この「二・二六事件 在天の男たちへ」に対し、池田俊彦氏が「文藝春秋・五月号」に反論を発表し、共感と同意を得た。
「この問題は闇の中から出て来た匂坂資料にNHKと澤地氏が幻惑されて、奇妙な新説を立てたものであるが、二月という時期に間に合わせるため、少しく結論を急ぎすぎた感があるように思われる。既刊の資料とも照合して、多くの当事者及び研究家の供覧を得て、多角度からの意見を含めて発表すべきものであったと思う。功名心に眼が眩んだのか、金儲けのためか知らぬが、歴史を曲解し世間を惑わせた罪は重い」
これは《現代史懇話会「史67」1988年9月》に掲載された《「歴史を見る眼」池田俊彦》の一部分である。
「史67」には《「『匂坂資料』信者への抗議」末松太平》を筆頭に《「歴史を見る眼」池田俊彦》《「ねじ曲げられた匂坂資料」田々宮英太郞》と、騒動をめぐる評論三篇が特集されている。

1990年5月6日に.、河野司氏が逝去された。河野氏の《騒動》への反応は(私の知る限り)どこにも記されていない。/河野氏の死後、1992年に発刊された《澤地久枝「試された女たち」講談社》は7つの短編で構成されている。二・二六事件に関係したのは「磯部浅一の妻登美子」と「雪の日のテロルの残映」の二篇である。仏心会との縁が薄れたためであろうか、二・二六の妻たちへの「配慮」は感じられない作品になっている。
「雪の日のテロルの残映」には「教育総監渡辺錠太郎陸軍大尉の次女」と「竹嶌中尉の妻だった人」の二人を混在させて話を展開するという《意図不明の手法》が用いられている。
「1979年7月12日の法要に加わった私は、河野司氏から思いがけない人を引き合わされた。竹嶌中尉の実弟夫妻とY夫妻(竹嶌との間に子をもうけた女性の代理人)である」ということから、竹嶌中尉と女性二人(浅田清子=仮名、川村キミ=仮名)との(二・二六事件と関係ない)三流週刊誌レベルの《秘話?》が展開していく。わざわざ「仮名」を用いて書くほどの(報道価値も)文学価値もなく、ある種の悪意しか感じられない。
自分が紹介したことが(十数年後に)このような「結果」を招くことになるとは・・・。在天の河野氏も悔いてるのではあるまいか。
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◎「7月12日」の逡巡。そして・・・◎

2024年07月12日 | 末松建比古
「・・・仏心会は遺族の会であって、二・二六の会ではありませんから。」
「・・・では、二・二六の会はあるか? ありません。それでいいでしょう。」
唐突の書き出しは 現代史懇話会「史89/1995」「史90/1996」に掲載された《小木曽八「二・二六は永遠なり/末松太平、晩年の手紙」》からの引写し。末松太平が小木氏に送ったという「返信の数々」の一部分である。
掲載号の「編集余情」には「・・・『二・二六は永遠なり』を書かれた小木曽八さん、心のぬくもりが、ほのぼのと伝わってくる好文章である。心友とは如何にあるべきかを、しみじみと考えさせる」と記されている。

7月12日の「賢崇寺の法要」には 参列するつもりがなかった。
「仏心会は遺族の会であって・・・」ということは、私自身も ある時期から強く意識しはじめていた。特に ここ数年は コロナ禍対策として「法要」の参列者は「仏心会」の主要メンバーに限定されていて、徐々に「遠い存在」になっていった・・・ということもある。

  

そして7月12日。 私は賢崇寺にいた。
予定を変更させた原因は、大石健一氏(読売新聞中津支局・支局長)からの電話にある。
「休みがとれたので 賢崇寺に行きます。末松さんは参列なさいますか?」
「多分 賢崇寺には行かないと思う・・・」
「賢崇寺でお目にかかれないときは どこかで会いたいので 連絡しても良いですか?」
「はて・・・」
大分県から遙々やってくる大石サンの《熱意》には 応えるのが《人の道》というものだろう。
しかし 自宅に待機していて 法要が終わる頃に《どこか》に出かけるのも億劫なはなしである。
大分県から来る人のために 直ぐ判る場所(直ぐ判る店)を あれこれ考えるのも煩わしい。
それよりも 賢崇寺に出かける方が簡単ではないか。
ということで 急遽「志」を二封(仏心会宛と慰霊像護持の会宛)用意することになった。

   

法要の様子については省略。私が(法要の場にそぐわない?)軽装姿であるのも、いつもと同じこと。
2月26日は「二・二六事件全殉難物故者◎◎回忌法要」だが、7月12日は「二・二六事件十五士◎◎回祥月忌法要」という趣旨の違いがある。勇ましい方々が来ることもないから「公安関係」の方々を煩わせることもない。
法要を終えて 直ぐに帰りたいところだが 後片付けの方々(今泉章利サンや森田朋美サン)を無視して消える訳にはいかない。玄関横のスペースに置かれた椅子に ぼんやり坐って時間つぶし。
「・・・末松さん、香田です。ブログいつも見ていますよ」
わざわざ名乗って挨拶するのが 香田サン(仏心会・前代表)の生真面目なお人柄である。

大石サンは(有給休暇で上京したのに)記者の習性を発揮して「野中サンに話しを伺うので お待ちいただけますか・・・」
《野中サン》については 今まで挨拶したこともなく 詳しいことは知らない。野中大尉の遺児=お嬢さんひとり。つまり《野中サン》は「野中大尉の兄か弟の御遺族」ということだろう。柔らかな笑顔を欠かさない(84歳の私よりも高齢の)物静かな方だとお見受けした。
玄関横のスペースでは 栗原(仏心会・現代表)サン、今泉(慰霊像護持の会・世話人代表)サン、香田(仏心会・前代表)他2名が顔を揃えて会議中。取材を終えた野中サンも「こちらに坐って下さい」と招かれていた。
・・・大石サンの奥には 毎日新聞・栗原記者の姿が見える。栗原記者は ラフな黒シャツ姿で原稿執筆中。彼の服装と比べれば 私の《軽装》は それなりにキチンとしていた筈である。

森田朋美サンに率いられて 池田俊彦少尉の墓参り。瑞聖寺=都営地下鉄「白金台駅」前。大石サンも同行して 年少者の役割(墓掃除)を果たしてくれた。
墓参を終えて 近くの「バーミヤン」へ。今泉サン、渡辺都子チャンも現われて 総勢5名の「直会」となった。(末松建比古)
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