◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

32 北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

2017年06月26日 | 今泉章利
北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

末松さま。身にしみいるブログ、御過分のお言葉、誠にありがとうございました。恐縮しております。
そうですね、すでに答えは出ているのですけれど、いざ、文字にしようとすると、いろいろと検証する必要があったり、個人的な思い込みを払しょくする必要があったり、でも思い込みが消えなかったり、凡人であることを痛感します。そうすると、壁にぶちあたるような気がいたします。
さて、先日、北海道千歳に行ってまいりました。懐かしい方たちとの語らい、大変、勉強になりました。年齢は私とあまり変わらないのですが、昔からずっと事件の法要に出ておられた方からのお話、高橋正衛さんの若かりし頃の話とか、印象深いものがありました。
また、父が心血を注いでいた初年兵教育のベースになっている「歩兵操典」の読み方教育法など、教えて頂きました。
今の自衛隊では、アメリカ方式になっているのだそうですが、それでも旧日本陸軍の良いところをミックスしたような、「自衛隊新入隊員必携」とか、言う本があり、これが、内容は全然違うけれど「歩兵操典」に当たるものだそうです。

「歩兵操典」の一例ですが、私の理解している限りにおいての説明ですから間違っているかもしれせんが、たとえば、「機関銃及び自動砲教練」における分隊の隊形および分隊長以下の「隊形」の記述では、分隊長は馬に乗り(馬の背中という意味で「駄載(ださい)」)そのあとに4名横隊の銃手が二列(合計8名)。 それから、三歩下がって、「銃(砲)馬」およびそれを御する「馭兵(ぎょへい)」一名、さらに、五歩下がって、弾薬馬および馭兵一名。これが簡潔な図になって示されています。「機関銃」(一分間に200-300発)「自動砲」(一分間に五-六発)についても、分隊長以下それぞれ八名の役割が示されています。そのあと、戦闘、夜間訓練、弾薬の補充等などが記されています。
「要は、ここに示される通り、体が覚えるまで訓練すればいいのですよ。」と、こともなげに、友人は言いましたが、「歩兵操典」は次のように一から七篇まであります。

第一編 各個教練 (「不動の姿勢」「擔(ニナ)へ銃(ツツ)」から「射撃」「手榴弾」「戦闘」「夜間ノ動作」など)
第二編 中隊教練 隊形、戦闘、中隊、戦闘のための前進、展開、突撃、防御、夜間戦闘、追撃、退却、弾薬・資材の補充など)
第三編 機関銃及自動砲教練(隊形、射撃、、)
第四編 歩兵砲教練
第五編 大隊教練
第六編 通信隊教練
第七篇 聯隊教練
付録  刀、喇叭ノ操法、十一年式軽機関銃ノ操法など

なるほど、兵隊を訓練する、錬度の高い軍隊になるのには相当なエネルギーと期間が必要です。
自衛隊では、刀やサーベルを使うのですかと聞いたら、赤坂御所などの儀仗兵による例外(サーベル)を除いては、一切使わないとのことでした。

いや、それにしても、この本をみないで、様々な動きを体に教え込むなど、兵役の間は、休む暇なしだと思いました。私の父は、第一篇のあたりで、事件になってしまったのですが、参考までに、教練に関し父の書いたものをすこし書いてみます。(懐かしき初年兵教育の想い出(昭和六十三年、「草萌え」六 より))

《愛する新兵さん達》
昭和十年十二月一日、初冬の好日和であった。近衛歩兵第三聯隊の正門には、昭和十年徴集兵達の晴れの入営を歓迎する大きな国旗が掲揚され、正門歩哨も緊張の面持にて厳然として立っている。午前八時、付添人同伴の入営兵達が威儀を正して続々として入門し、誘導兵の案内にて各所属中隊の入り口に集められた。
第二大隊第七中隊の新兵さん達は、全部で八十四名、出身地は、北は北海道から、南は沖縄まで、殆んど全国に及ぶ。気候、風土、生活習慣の異なる壮丁を受け入れたのである。
扨て、入営兵たちは、付添人と別れを惜しむ暇もなく、各班長に引率され、目が回るように忙しい内務班生活が始まる。一方、入り口前には中隊の幹部が整列し、紋付羽織姿の、付添の父兄達が、肩を寄せ合うように、安堵と不安のまなざしで集まっている。

先ず、中隊長 井上勝彦大尉(三十九期)の挨拶
 名誉ある、当聯隊の入営に当たり、全国各地より遥るばる上京せられ、本日めでたく入隊されました。ご存知の通り、当聯隊は、禁闕守衛の大任を担っております。皇軍の一員として、立派に御奉公できるよう、中隊は一致団結して訓練に励みます。どうか安心してお引取りください。

次に初年兵教官 今泉義道少尉(四十七期)の挨拶
 本日より皆さんの御子弟を 天皇陛下 の赤子として謹んでお預り致します。私は基本教育を実施する責任者であります。去る十月に少尉に任官したばかりのホヤホヤでありますが、腰に剱を帯び軍隊の飯を食うこと七年以上です。(注:東京陸軍幼年学校(14歳入学)、陸軍士官学校予科、本科、少尉任官21歳)、僅か一歳年上の兄貴ですが、軍隊教育の神髄は、愛と誠なり、と教えられて参りました。担当の助教助手共々三ケ月に亘りまして、名誉と責任を肝に銘じ共に汗を流して相共に努力することをお誓い致し、私の御挨拶と致します。

私は、かねてより作っておいた、初年兵教育進度計画と実施要領を教官室の壁に貼りつける。助教(下士官四名)助手(伍勤(注:伍長勤務上等兵=極めて優秀な上等兵)を含む上等兵八名)の理解を仕易くするためだ。
現在私の手許にはこの大きな一覧表はないが、記憶を辿れば概ね次のようになる。
 第一期 十二月 徒手執銃各個教練
 第二期 一月  分隊訓練
 第三期 二月  夜間教練  実弾射撃等
右に基き教練の合間を見て、精神訓話(勅諭)学課、歩兵操典の他、緊張の初年兵をリラックスさせるため、軍歌、演芸、作文などの心配りもした。各内務班では、兵器の手入れ、被服の整理整頓など、内務の躾(しつけ)が逐次行われていた。教官たる私は、各人の名前と顔などを早く覚えるため、夕食後など暇を見つけては、一人宛私の個室に呼び寄せ、身上調査を始める。中隊の書記はすでに立派な、身上調査一覧表を作り届けてくれていた。これは、マル秘であるが、現在私の手元にあり、大切に保管している。これを見ると例えば
学力欄=大学専門学校卒 五名、 尋常小学校卒 三名、 中学校卒 十七名、 高等科小学校卒 五十九名、 学力、程度のバラツキの広さ
職業欄=圧倒的に、農業が多く、殆んど小作農である
家計欄=家計困難が四名もいる。近衛師団はその徴集に当り道府県知事の推薦によると聞いていたが、これには内心驚く

営庭(注:近衛歩兵第三聯隊の場合、百二十メートル×六十メートルの運動場のようなところ。さらに聯隊には、八ケ中隊、機関銃隊、炊事場や浴場など、約二〇〇〇人くらいの若い男たちが日夜訓練に励んでいたのである。見えにくいが近歩三の図面を添付した。)には、早朝より元気の良い号令や掛声などが響き渡る。
汗まみれの兵隊には、入浴、着替え、洗濯など特に保健衛生には留意する。この頃は肺結核が猖獗を極めていた。週番士官以外の日でも、私は各班内を巡視し、消灯後の就寝状況などを見廻った。土曜の夜は、班長達を、私の個室に呼んで菓子や酒などをやり乍ら、懇親を深めつつ教育上のさりげない情報を集めていた。

 昭和十年十二月二十五日、営庭において、第一期検閲、幸い第七中隊は、最も優秀なりとの講評を受けた。この日、井上勝彦中隊長は、陸大の専科学生として転出された。自然の成り行きで私は中隊長代理になった。(中略)

 昭和十一年一月五日、陸軍事始。代々木練兵場に於いて観兵式が行われた。
 大元帥陛下におかせられては愛馬白雪を召され、在京各部隊を御観閲、続いて御閲兵。勇壮なる軍楽の調べに歩武堂々、陛下の御前を分列行進。私は、愛刀、紀伊国綱広(きいのくにつなひろ)を抜き放ち、第七中隊を指揮す。正に光栄の一齣(ひとこま)であった。

 昭和十一年一月十五日、聯隊命令により本部附き、中橋基明中尉(四十一期)が吾が第七中隊中隊長代理に補せられた。
 
 昭和十一年一月二十六日、代々木練兵場に於て、第二期検閲了る。
 そのころ、陸士本科歩兵教練班一行が代々木にて私共の初年兵教育の現場を見学、多分分隊教練の訓練でもやっていたのであろう、「颯爽とした今泉教官の姿は忘れられません。」と思い出を語ってくれたのは、四十八期の後(うしろ)勝(まさる)君である。

 昭和十一年二月二十五日、夜間訓練を了えて、午後八時頃帰営。第三期検閲を富士の裾野の滝ケ原廠舎に於て受けるべく翌二十六日は代日休暇。二十七日は原宿駅より軍用列車にて、御殿場に向かう予定であった。 

 吾が愛する初年兵は、漸く言語もハキハキ、動作もキビキビ、顔付も引締まって、立派な兵隊さんらしくなってきた。
私は第三期検閲に関する打合せを助教たちと行い、久しぶりに鎌倉の家に帰るべく、隊をでた。山王下で電車の来るのを待ったが、さっぱり来ない。タクシーも止まらない。薄汚れた残雪に佇み長靴の指先がしびれるように凍ってきた。あまりの寒さに、決心変更、再び坂を上って帰隊、自室の寝台にもぐり込んだのは多分、二十六日の零時を過ぎていた。


多少長くなりましたが、北海道で、「歩兵操典」の話を聞きながら、父の僅か三か月の、初めにして最後の、初年兵教育のことを考えていました。
この運命の昭和十一年二月二十六日、午前三時、父の軍隊生活は、いきなり終わりを告げたのでした。 



近衛歩兵三聯隊(今の赤坂TBSの場所)
コメント

31 なかなか投稿できずに申し訳ありません

2017年06月09日 | 今泉章利
いろいろと準備はしているのですが、どうも投稿できずにいます。
仕事や、体調があまりよくないことは、事実ですが、いいわけにはならなりません。いまや、私にとって、この投稿は私の遺書のようなものであり、重要なものです。
にもかかわらず、投稿して居ないのは、畢竟、精神が足らない證拠です。お詫びします。

昨日、父の獄中和歌を久しぶりに見つけました。

    

時鳥(ホトトギス)血に鳴く声は有明の月よりほかに知るものぞなき  今泉義道

22歳の父が、獄中で、銃殺されていった方々を思いながら、詠んだ歌だと思います。

私は、いま、もうすぐ68歳。あまり気負わず、思ったことを、記すべきだよという声が聞こえてくる気がします。今日も、様々な、行事がありますが、気負わず、流されず、投稿ができますよう、祈っています。
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