◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎笑談「松本清張の昭和史」異聞◎

2024年03月16日 | 末松建比古


千葉の恵みを召し上がれ・・・。千葉市美浜区在住の妹(末松太平長女)から 宅配便が届いた。
箱の中身は地元「オランダ家」の御菓子いろいろ。そして《保阪正康「松本清張の昭和史」中央公論新社刊》。初版発行=2024年2月25日。
妹曰く「先日 書店に行った時に 表紙だけ見て衝動買いしてしまった。でも 私には不要本だから・・・」 

画像参照。松本清張の「昭和史」、末松太平の「昭和史」、どちらの表紙カバーも「二・二六事件」の報道写真が使われている。妹が(勘違いして)衝動買いしたのも無理はない。私自身は 先日 池袋の「ジュンク堂書店」と「三省堂書店」に立ち寄った際に「松本清張の・・・」を目にしているが 手に取ることはしなかった。当然ながら《松本清張「昭和史発掘」文春文庫版》は所有しているし 細部までチェックもしている。保阪正康氏が今更(その本をネタにして)何を書こうが興味はない。
「清張史観の核心を突く。」「『清張史観』の今日的意義とは。」「・・・戦後30年を経て、清張史観はいかに評価されるべきか。清張から『時代の記録者』としてバトンを託された著者がその核心を伝える。」
帯カバーを読めば 中央公論新社が出版した意図は 朧気ながらも理解はできる。でも「ムムム・・・」という思いも消すわけにいかない。

保阪正康氏は 以前にも《青年将校が要人を殺害する残虐性》について記しているが 本書でも同様である。
「2006年2月、『週刊文春』に、ある内務省関係者の遺族から斬殺現場の写真が持ち込まれている。私はそれを見てコメントを寄せたのだが、この青年将校たちの暴力性のなかに、度しがたいほどの人間性の退嬰を見る思いがした」「しかし、本質的に二・二六事件で語らなければならないのは、こうした青年将校たちの暴力ではなく・・・」
例えば 松本清張「昭和史発掘」の「秘密審理」の章には(ある法務官の「手記」からの引用として)渡辺教育総監が惨殺された模様が記されている。
「・・・(すず子夫人は身を以て制止せられたが)将校は拳銃を乱射し、下士官塀は縁側に機関銃を据えて射撃した。大将も拳銃を以て之に応戦せられたようである。とうとう大将は倒れてすでに絶命せられたにも拘わらず、叛乱将校は大将の頭部肩等に数刀を浴びせかけ、見るに堪えない残忍なことをした・・・」
これは、ある法務官が「他から聞いた話」を「手記」にまとめたものだという。当時公表されていた範囲での「公判記録」でも この辺りの「暴力行為」の数々は記されている。
保阪正康氏が 今更ながらに「惨殺現場の写真を見て衝撃を受けた」のは 当時(2006年)も奇異な言動に思えた。当時の「ブログ・末松太平事務所」には この辺りの「奇異な印象」が記してある。
そして今 保阪氏はわざわざ「青年将校の暴力性」に触れていながら 直ちに「しかし・・・」と方向を転じている。初歩的な「印象操作」の試みだと思えば 腹も立たないけれども・・・。



しかし、私が述べたいのは、保阪正康氏への表層的な批判ではなく・・・。
私も方向を転じて《保阪正康「松本清張の昭和史」》刊行による「プラス」の面にも目を向けようと思う。

先日立ち寄った「ジュンク堂書店」の「現代史書架」には「二・二六事件関連」が僅か数冊。最新刊が《末松太平完本 私の昭和史」昨年1月刊》という惨状(!)であった。何故か《保阪正康「松本清張の昭和史」》は、離れた場所に並べられていた。
そして「三省堂書店/池袋西武店」は更なる惨状(!)で、二・二六事件関連は「完本 私の昭和史」一冊だけであった。せめてもの救いは、少し離れて平積みされている「松本清張の昭和史」の存在だった。

《保阪正康「松本清張の昭和史」》の巻末には《好評既刊》として 次の3冊が紹介(広告)されている。
①/松本清張著「歴史をうがつ眼」/司馬遼太郎との10時間も及んだ伝説の対談「日本の歴史と日本人」、青木和夫を相手に清張史学のエッセンスを語った表題作ほか、日本とは何かを問う歴史講演・対談集。単行本初収録三篇。
②/玉居子精宏著「忘れられたBC戦犯 ランソン事件秘録」/1945年3月、日本軍が仏領インドシナ北部の町で多数の捕虜を殺害したランソン事件。その顛末と、裁きを受けた将校たちの思索を手掛かりに日本人が避けられない問題に向き合う。
③/末松太平著「完本 私の昭和史 二・二六事件異聞」/昭和維新運動の推進力であった「青年将校グループ」の中心にあった著者が、自らの体験を克明に綴った昭和史の第一級史料。関連文書などを増補した決定版。(解説 筒井清忠)。
・・・この3冊を「広告」として紹介したのは(保阪氏の意志ではなく)中央公論新社編集部の金澤氏だと思う。

「松本清張の昭和史」掲載の「今読む『昭和史発掘』/保阪正康+加藤陽子(司会・田中光子、特別参加・藤井康栄)」の中で 保阪氏は次のように語っている。
「・・・たとえば、僕が『二・二六を知りたいけれど何を読めばいい?』と聞かれたら、まず高橋正衛さんの『二・二六事件 増補改版』を薦めます。『昭和史発掘』はそういう入り口から一段ステップしたところにある本ですね。これからは、松本さんの本がより手に取られなければならないと思う。若い人が、入門書を読んで基本的なことを頭に入れた後、さて次へ進もう、という時に必ず松本さんに出会う、そういうことだと思います。」
・・・高橋正衛の本を読み、次に松本清張の本を読んだ「若い人」が、更なる次を志し《好評既刊・第一級史料》を思い出して・・・。ホップ ステップ ジャンプの三段跳び。それに応えて万歳三唱。

高橋正衛著「二・二六事件 増補改版」から「まえがき」の一部を(裏話と共に)紹介しておく。
「末松太平氏は常に私のよき助言者であり、とくに青年将校の横断的結合という点について教えられるところがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口氏、西田さん、末松氏に伝わる、反乱軍将校の考え方や気持ちを、もう一度考えてみたいということであった。/昭和40年7月12日」
この本の「初版発行」は1965(昭和40)年8月25日。「増補改版/初版発行」は1994年2月25日。
この長い間には様々な葛藤があって、末松太平は(1990年頃に)高橋正衛と訣別し、強硬に「まえがきから名前を削除しろ」と申入れて、それに対する高橋正衛の回答は・・・(以下省略)。(末松建比古)
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