◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「末松~神~村方ライン」の周辺◎

2024年06月04日 | 末松建比古
つい先日「◎◎書房」のWサンの来訪を受けた。Wサン=自分史アドバイザー。写真集、句集、随筆集、論文、研究書、画集、絵本・・・、要するに「自叙伝・自分史作りを中心に、少部数から大部数まで承ります」という立場の方である。
私について「それなりのリサーチ」をしているから 自費出版を勧誘するようなことはしない。「完本 私の昭和史」などの話をして「今後もよろしく・・・」と帰っていった。

「自費出版」という領域に、私自身は興味が無い。しかし《田村重見編「大岸頼好・末松太平/交友と遺文》や《河野司篇「遺詠集」》など 諸先輩が自費出版した書籍の数々は 今なお「貴重な史料」として高い評価を受けている。 それを思えば 自費出版に興味がない私にも「埋没している資料」を(何らかの方法で)後世に遺す責務がある訳で・・・。
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「埋没している資料」をピックアップ。
先ずは 前々回「平和観音」関連の話題で登場した「末松~神~村方ライン」の周辺から・・・。

 

《末松太平「軍隊と戦後の中で」大和書房刊=1980年2月26日初版発行》の「あとがき」から・・・。そして 続けて「本文」を・・・。
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◎「反『八甲田山死の彷徨』の風土」は「日本読書新聞」(昭和48年2月8日号「わが町・わが本」)に書いたものである。当時東京周辺の数人の読者から「日本読書新聞」を通じて「陸奥の花」の歌詞、楽譜の希望があった。その都度、青森市の神保氏を煩わして希望に応じたが、その人たちの私への礼状には、老母にねだられて・・・という点が共通していた。老母の年齢は判で押したように、いずれも八十余歳だった。
神氏がはじめて「青森放送」のテレビで「陸奥の花」楽譜発掘の顛末を放送したとき、楽譜希望者が殺到し、それに応じるため、放送後しばらくは、神氏は嬉しい悲鳴をあげたという。
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◎《反「八甲田山死の彷徨」の風土》
私にとってのわが町は少年時代しかいなかった生れ故郷の門司(北九州市)でもなく、今住んでいる千葉市でもない。やはり、青森県、なかでも津軽の町々ということになる。
青森市郊外の歩兵第五連隊に十年在職した。二十歳から三十歳まで、二・二六事件で軍職を去るまでの十年間だった。花にたとえれば、その盛りの情熱に生きたころだった。それに「花と竜」の風土に育った私には、縄文時代から途中を抜かして近代に短絡したといわれる津軽の風土が、私の心奥の欠落部分を補填するかのように思えて、津軽への愛着を深めることになったようでもある。そのせいで津軽には軍隊時代の兵たちを含めて、旧知旧友も多く、生れ故郷の九州への玄関口東京駅から汽車に乗ることより、東北へ向かう上野駅からの汽車の旅をすることのほうが多くなっている。昨年十二月にも津軽に行くため私は上野駅を発った。約一週間津軽の町を遍歴して旧知旧友に会うためだった。
遍歴は当然青森市から始まり、そこで先ず数人の人に会った。そのとき、地元だけに新田次郞の『八甲田山死の彷徨』に関連したことが、話の中心になった。
私が十年間在職した歩兵第五連隊が『八甲田山死の彷徨』の素材になっている雪中遭難の悲劇を歴史に持つ連隊である。日露戦争に先立つこと二年、明治三十五年一月二十三日に、八甲田山麓を経て三本木に抜ける雪中行軍をするため兵舎を出発した歩兵第五連隊の集成大隊が猛吹雪にあい、八甲田山麓で二百十名中、十一名の生存者のほか、全員凍死した。このとき概ね時期を同じくして、逆コースを雪中行軍した弘前の歩兵第三十一連隊、福島大尉の指揮する一隊三十七名は、予定どおり全コースを踏破して全員無事兵舎に帰還した。この二つの連隊の雪中行軍をからませて小説スタイルに構成したのが新田次郞の『八甲田山死の彷徨』である。

旧軍の廃止によって歩兵第五連隊は兵舎も取払われて跡形もなくなったが、自衛隊創設により、同じ隊番号を持つ第五普通科連隊が、別の場所だが青森市内に駐屯した。昨年この五連隊が柴田連隊長統率のもと、雪中遭難のときと同じ日時、同じ編成、同じコースでの弔行軍を決行し成功した。が、その後で「陸奥の花」という雪中遭難を弔った歌の楽譜探索に柴田連隊長は執心することになる。歌詞の作者は大和田建樹、作曲者は当時青森師範学校の音楽教師だった北村季晴である。が、柴田連隊長が入手できたのは歌詞だけで、楽譜がなかった。歌うことも演奏することもできなかった。雪中遭難を弔った歌はほかに何種類かある。そのいずれも楽譜がわかっていて歌うことができる。なかでも「しら雪ふかくふりつもる」にはじまる「陸奥の吹雪」はひろく歌われ、私のいた時代の第五連隊でも盛んに歌われていた。
七年前の昭和四十一年、同じように「陸奥の花」の楽譜探索に執心したグループがいた。古い青森師範学校出身者グループである。
故あって探索の中心になったのは 当時青森市内長島小学校長の神保氏であった。神氏は先ず後輩の津軽の柏木小学校長村上方一氏に協力を求めた。
村上氏には、ことし八十四歳の母堂がおられる。この母堂が村上氏に「陸奥の花」を謳って聞かせた。村上氏は母堂の謳うにつれ、歌詞を筆記して神氏に送った。それは歌詞としては完璧に近かったが、母堂の歌った歌曲がそのまま楽譜になるわけではなかった。神氏はしかし、これに勢いづけられ、更に探索を続けた。一年あまりして偶然のことから神氏に朗報がもたらされた。後輩の弘前時敏小学校長大谷誠蔵氏関係から問題の楽譜が届けられたのである。
それから五年後のことになるわけだが、柴田連隊長としては楽譜発掘に執心はしたものの、これといって妙案があるわけではなかった。が試みに小学校時代の級友村上方一氏に相談してみた。この試みは如何にも誂向きだった。簡単に柴田連隊長は神氏との連絡がつき「陸奥の花」の楽譜を意外に早く掌中におさめることができた。

昨年は雪中遭難七十周年だった。それを記念しての第五普通科連隊の弔行軍でもあった。雪の消えた六月、楽譜を得た柴田連隊長は、新田次郞が『八甲田山死の彷徨』のなかで、死んでも階級の差が歴然としているといっている青森市幸畑の雪中遭難将兵の墓地で七十周年墓前際を催し、そのとき軍楽隊に「陸奥の花」を演奏させ、隊員にも歌わせた。
「陸奥の花」の歌詞は八十五行の長編で、最後に和歌一首が添えてある。内容は死の間際の将校と兵の友愛を哀切に描いたものである。興津大尉と、それを抱くようにして、一緒に凍死していた軽石一等卒のことをモデルにしたようである。
私が昨年の津軽遍歴で最初に会った人々というのは、神、村上両氏をはじめ青森師範学校出身者のグループであり「陸奥の花」の楽譜発掘に関係した人々だった。その時 カセットに収めてあった「陸奥の花」を聴いた。神氏や村上氏は何度聴いても涙が出るといっていた。
柴田連隊長は、かねて連絡のある雪中遭難遺族関係者の何人かから『八甲田山死の彷徨』に対しての憤激を訴えられていた。それを代表する意味もあって柴田連隊長は新田次郞に抗議した。人体実験と背中遭難を総括し、死者を鞭打つことは、地元の人が大切にしている雪中遭難者への感情を逆なでするものだという趣旨だったという。これに対し新田次郞の弁明は、フィクションだから了承してほしい、ということだったという。

新田次郞は『八甲田山死の彷徨』では当世流に階級による将兵離間、反軍、軍民離間の概念を取ってつけたように所々に挿入し、雪中遭難を「人体実験」と総括している。「陸奥の花」に盛られたような将兵友愛の事実は抹殺し、将兵離間の状況を叙述することに熱心である。「陸奥の花」は一番を知っていれば、あと何番あっても歌えるという種類の歌ではない。全編知っていなければ歌えるといえない長い歌曲である。
が、村上氏の母堂、大谷氏の母堂、いずれも八十余歳の老母が、少女時代愛唱したこの歌を、多少の転訛はあるであろうが、子の小学校長に、今に忘れず歌ってきかせるというのである。いわき市の 神氏らの大先輩である阿部忠治郎氏は著書の、青森師範生徒愛唱歌集『母校の歌』の解説のなかで 歌集に採録されている「陸奥の花」ぬふれ、「私がこの歌を教わったのは小学校六年の時である。何しろ六十年も昔のことである。学芸会の時合唱、後半は先生(明治三十八年青森師範卒業の方)の独唱、先生が歌っているうち、涙声になったのは今も深く印象に残っている。どこの学校でも音楽会などにこれが歌われると紅涙をしぼらせたという。」といっている。
この阿部氏に、神氏は「陸奥の花」の楽譜探索を頼まれたのである。前に「故あって」といったのはこのことである。これらの事実をみても少なくとも津軽では、当時軍民離間はなかったといっていいようである。「陸奥の花」の楽譜探索をし、それを聴いて涙するのも、旧五連隊関係者ではなく、軍に対して民といわれあ青森師範関係者である。新田次郞は柴田連隊長の抗議に対し、フィクションだから・・・と弁明したというが、それが弁明になるのもかどうか。『八甲田山死の彷徨』の性格からいって、作家である新田次郞氏御自身が先刻承知の筈である。(1973.2)
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上記は「日本読書新聞~軍隊と戦後の中で」に掲載されたものであるが、他にも「雪中遭難」に関連した作品は いくつかある。
例えば「わが國最大の雪中遭難 末松太平」という「どこかの雑誌に書いた作品」が 手許に遺されている。
「A4版ゼロックス✕8枚綴じ」の長編で、図面が2枚、写真が2枚(昭和6年3月の偵察行軍集合写真=末松太平スキー隊長の姿もある)。内容は「まえがき/行軍の目的・準備/遭難第一日/遭難第二日/遭難第三日/遭難第四日/救援・後藤伍長を発見/あとがき・弔行軍」という8部構成。かなりの力作だが「掲載誌不明」では 資料価値半減と言わざるを得ない。

   


「末松~神~村上ライン」関連の資料の中に《柴田連隊長からの手紙》が遺されていた。
柴田氏は(青森を離れ)東京都杉並区の公務員宿舎に居住していた。
「謹啓 朝晩涼しくなって参りましたが 末松様には如何お過ごしでしょうか。私 本年七月まで青森の第五普通科連隊長を勤めて居りました柴田と申す者であります。安本様から末松様を御紹介を受け 旧陸軍と自衛隊の差こそあれ 同じ五連隊に籍を置いたものとして非常に嬉しく存じて居ります。私の隊員に対する精神教育は旧歩兵五連隊の伝統ある堅忍不抜、質実剛健を中心としたものでした。奇しくも旧歩兵五連隊も第五普通科連隊も創立記念日が五月一日であり、私は此の日には連隊の隊員を幸畑の墓地に連れて行き、在青の五連隊出身の先輩に昔の話をして戴いたものです。(中略)
昭和七年に歩兵第五連隊が弔行軍をされたことは 地元の新聞から聞きました。しかし新聞社にも当時の記事が見当たらず残念に思って居ましたので 是非御体験をお聞かせ戴きたいものです。(中略=新田次郞関連の記述)尚 同封の「陸奥の花」は(中略)七十周年の慰霊祭に九師団の音楽隊に演奏して貰ったものです。素晴しい曲で涙せずには歌えません。音楽隊が練習中のものをテープに取ってきてありますので、若しお目にかかる機会があれば持参いたします。
初めての御手紙に拘わらず不躾に冗長になりました事をお詫び申上げます。九月二十日。柴田繁」

画像左の印刷物は「雪中行軍における指揮官の心得」と題された(50頁を超えるボリュームの)報告書である。
表紙には「雪中行軍の写真」と共に 報告者「第5普通科連隊長 1等陸佐 柴田繁」と日付「昭和47年4月26日」が明記されている。細部に至るまで懇切丁寧に記された報告書は 柴田連隊長の人柄を髣髴させている。
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神保(かみ・たもつ)=明治42年8月12日出生~昭和49年3月26日逝去(64歳)。
《「不忘」創刊号/神保先生一周忌追悼記録集》40頁。発行=「不忘」を支える会(青森市)。表紙には「呈 末松大尉殿」とペン書きされていて、村上氏から送付された冊子だと判る。
私の手許には 神氏未亡人(美代様)の手紙2通が遺されている。①=末松太平宛て ②=末松敏子(未亡人)宛て。奥様の人柄が伝わる丁寧な御手紙である。どちらの手紙にも「竹内(俊吉青森県知事)さん」が登場する。停年を迎えた神氏が(県会議員にと煩くつきまとわれ困っていた時に)末松太平の計らいもあって 竹内知事により青森県人事委員に任命された・・・という経緯。
「末松~神~村方ライン」には「末松夫妻~神夫妻~村上夫妻ライン」という一面もあったようである。村方?、村上?、表示の混在は 村上方一氏が自らを「ムラホウ」と称していたためである。(末松建比古)
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