◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

佐賀のお墓参り(その4) エピローグ

2009年03月31日 | 今泉章利
佐賀のお墓参り報告のエピローグである。

中橋さん、香田さん、中島さんのお墓をお参りしたが、栗原さんも佐賀なのである。栗原さんは、明治41年11月17日、島根県松江市に生まれたのだが、ご尊父の陸軍大佐・栗原勇さんは佐賀のご出身である。
世にいわれる佐賀四人男のいわれである。私は、今度で二度目の佐賀訪問なのだが、本当に澄み切った空のしたに広がる佐賀平野を見ながら、なにが、この方たちを動かしたのだろうと思わざるを得なかった。

事件が、起こった直後、ある批評家が、佐賀県の出身者は実に卑劣でこのような事件を起こしたと雑誌に書いた。そして父のことはさらにひどく、同じ県出身なのに、今まで何も知らなかったなどと嘘をついている卑怯者とののしっていた。今でもこの「有名な」批評家の書いたものを古本屋で見ると、むなしくも悲しい。

昭和11年7月27日、原田熊雄さんが警保局長の萱場軍蔵氏にあった時のことである。二・二六事件に同情的であった朝香の宮や東久邇殿下に対し、事件で勝利をおさめた統制派の陸軍からこれからは経済の統制をしなければならないという話ばかり聞いているので、これではいけないということで、結城大蔵大臣から経済一般の話を、高松宮御殿でしてもらったときの話を(原田さんが萱場さんから)聞いた後に、萱場警保局長の発言として、

「なほ、二・二六事件で処罰された者の中に佐賀出身の将校が四人おる。その四人を佐賀で合祀して招魂社でも造ってもらいたいといはんばかりのことであった。その運動は結局成り立たずに済んだけれどもやはり、政務次官が鍋島だけにいろんな運動がくる。」といふ話をしておった。(西園寺公と時局、第5巻119ページ)

との記述があった。この記述からだけでは誰の発言なのか詳細は分からぬが、処刑の終わった7月12日から二週間、宮中や高級官僚クラスの人々の心が醸し出す何とも言えない空気が伝わってくるようである。

(今泉章利)

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渋川善助さんのこと (渋川明雄様へのお願い)

2009年03月27日 | 今泉章利
渋川明雄様へのお願い

渋川善助さんの略歴と研究テーマなど書いていただけますでしょうか。私の、基本的な知識として加えたいのです。

私の存じ上げている渋川さんは、末松さんと陸士の同期であること。
陸士退学ご、東大を入試を何年か受けたが、士官学校の退学処分のためか、東大は合格を出さない。 やむなく明治大学に入学した。
いくつかの団体を経て、大森一声等とともに直心道場をつくった。この直心道場は、座禅、剣道を行いながら若者を鍛えてゆく、、実質的な活動の拠点となった。また、学生の指導も行った。
先輩の西田さんを通じて北さんとも通じており、一方、末松太平さんなど現役の青年将校と同じ活動を行っていた。
国家の疲弊は、腐敗した政党、政治では実現不可能であり、天皇の親政による新しい体制でしかありえないと考え、北一輝の改造法案を大切に考えていた。

私は、平成平成3年ごろだったか、末松さんから、会津の渋川問屋に行ってみろと言っていただいた。結局今日まで行けていない。

渋川さんは牧野を倒すため、その居場所の確認のため湯河原の伊藤屋旅館19号室に絹子奥様と泊って偵察、磯部に逐一連絡した。そして、25日に河野大尉が現地に到着、情報を伝えて共に?帰京。
事件では、北との連絡などの後、陸軍省に入り、青年将校とともに検挙。裁判。

なお、直心道場時代は、水上さんとはかなりの交渉あり。
井上宣子の名付け親は 渋川善助さん。

頭に浮かぶままとりあえず、書きました。分からないことだらけですので、ぜひとも連載でも結構ですので宜しくお願い申し上げます。

(今泉章利)

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佐賀の乱 江藤新平と大久保利通

2009年03月26日 | 今泉章利
佐賀の観光案内所に「佐賀戦争、百三十年目の真実」-出兵の根拠とされた事件は存在したかーという本がありました。毛利敏彦さんという大阪市立大学の先生が書かれたもので、内容は、

出兵は、極めて根拠の弱い弱い一本の電報であったが、大久保はその電報を根拠に、勅命で戦争、裁判、処刑すべての全権をとりつけて、自ら佐賀に向かった。事前の計画で、江藤を逮捕し、反乱を否定すれば嘘をついたという理由で、肯定すれば反乱の理由で、江藤を殺すべく乗り込んだもので、眼目は、江藤を殺すことであった。そしてそのとおり、初代の司法大臣で、きわめて有能な江藤を、晒し首で処刑することに成功した。江藤は、長州などの官僚の汚職を厳しく摘発し、かつ、板垣たちと選挙による議会を開くように建白書を提出したなど、佐賀の勢力の増大の象徴として、大久保にとっては極めて危険な人物だったようである。

と言うような意味のことが書いてありました。佐賀の乱は明治7年のことでした。その後、大久保は西郷を政権から追い出し、西南戦争で、西郷は明治10年、自刃します。そして、江藤、西郷を葬った、その大久保は、東京の紀尾井坂のところで、殺されます。明治11年5月14日のことでした。

大久保の次男は、牧野伸顕です。歴史がどのようにつながっているのかはわかりませんが、篤姫のテレビにでた大久保の顔を思い浮かておりました。そして、その牧野が湯河原で襲われ、その孫が、今の麻生首相なのです。

(今泉章利)

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佐賀のお墓参り(その3)

2009年03月25日 | 今泉章利
実は、香田清貞大尉のお墓をお参りする前に、中島莞爾少尉の墓を訪ねるべく、三日月町の禅林寺を訪ねた。
しかし、どなたもおられす、お墓もすべて見たがよく分からない。河野先生の本を頼りにまわりの高台と思しき墓地もいくつか見たが分からなかった。迷惑を顧みず、近所の家に声をかけたら、足の悪いおばあさんが出てこられ、私はよく分からないが、前の家が町会議員さんだから聞いてみたらというので、お邪魔した。娘さんと出てこられた奥さんは、ちょうどドーナツをあげているところで中に入って少し待って下さいということで、土間の台所でしばらく待っていた。今日は、お寺の行事があって皆出かけているとのこと。河野先生の本のコピーを写されて、せっかく東京から来たのに役に立たず申し訳ないといって、揚げたてのドーナツを一つ頂いた。見も知らずの私にこのような気を配ってくださり、なんだかとても心が熱くなった。娘さんも他にもお墓あるよ と言ってくれたので、手当たりしだい探したが結局見つけることは出来なかった。なんだか、中島さんがわざわざ来たのにすまなかったねと言われているような気がした。佐賀のお墓は土地柄か、丸く大きな苔が幾重にも生えて、字がとても読みづらくなるものが多い。そして香田さんのお墓をお参りしたのだが、その帰り、念のため、もう一度禅林寺をおとづれたけれど、誰もおられなかった。中島さんがどのようなかたなのか、深くは存じ上げないが、中橋さんとともに父の部屋に入ってこられて蹶起を告げられた方である。妹さんの森橋様が生前、寡黙な兄とお祭りに行ったこと、立派なお兄様であられたことなど、確か、御手紙で拝読した記憶がある。一面、田畑がひろがるこののどかな佐賀平野に生まれ育った方が三人も、なぜ事件に参加されたのか、、私の思いは、風に舞いあがり、きれいな青空に飛んで行った様な気がした。

(今泉章利)

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佐賀の墓参り報告(その2)の補足

2009年03月24日 | 今泉章利
泰平寺のご住職と御話をしていると、額に入った香田さんの色紙や立派な表装のある書きものの一部をみせてくださった。この遺品については、来年の3月に、遺品館を建てて一般の方にも見ていただくのだと言われていた。このブログは、一枚しかたぶん写真が出せないので不便だが、遺品の一部である。来年の3月の記念館ができたらぜひともまた訪れたいと思った次第である。

(今泉章利)

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佐賀の墓参り報告(その2)

2009年03月24日 | 今泉章利
香田大尉のお墓にお参りした。河野先生の本を頼りにお邪魔した。佐賀県小城町三日月町の泰平寺というお寺である。細い路地を歩いて入っていったところに、大きな日蓮宗のお寺があった。
住職の方に、あのう香田さんという。。といことを言おうとしていたら、先方から「ああ香田大尉ですね」といわれた。立派なかたで、お墓は少し離れているとことにあるのだけれど、私たちは、香田家から大尉の遺品をたくさんお預かりしている。とのご説明があった。車で数分の距離にあったお墓は、香田家のたくさんのお墓があり、その文字はすべて金色で塗り直しており、お花もたくさん入っていた。私は持っていったカスミ草と赤い花をささげ、線香を焚き、十句観音経をあげご冥福と日本国の平和と実相の顕現をあらしめてほしいとお祈りした。さわやかな風が吹いていた。

(今泉章利)
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佐賀の墓参り報告(その1)

2009年03月13日 | 今泉章利
今朝、朝一番の飛行機で福岡に到着した。雨が降り始めるなか、バスで佐賀駅に向かった。菩提寺の高伝寺を訪ねる。米寿になられた高閑者(たかがわ)知憲老師に御目にかかる。額に「高階龍仙」老師の「心月」があり、いつぞや我が家で買い求めたものと同じ文字なのではなしが弾む。龍仙老師の似顔絵と讃を見せていただいた。龍仙老師は、二・二六事件の慰霊像の「慰霊」という字を書いておられる。

高閑者老師は「自分は年もとったので、三月いっぱいで引退する、ちょうどいいところにこられた。」と言われ、自らお寺の案内をいただく。「鍋島家の菩提は10代目までで、それ以降は神式となっていったので、ここには回向のためのお位牌しかない」などと懇切なご説明があった。
雨は、ますます激しさをましていたが、静寂な寺とのコントラストが際立っていた。その激しい雨のなか、我が家のお墓に向かう。約20基のお墓が、鍋島様のすぐ隣に立てられている。持参の花を上げ、ご老師からいただいた線香を一本ずつ手向けさせていただいた。

高伝寺を辞し、タクシーで同市の高木町という小さなお寺に中橋基明さんをお尋ねした。河野先生の本に頼り、ようやく尋ねあてることができたのだが、中橋さんのお墓は、「中橋家の墓」とだけあり、墓碑の裏側には、昭和6年建立とだけあった。この中に、中橋さんが眠っておられると気づかれる人は何人いるのだろうか。すると突然、バサバサとお墓の上に鷺が飛んできた、まるで私に挨拶をしているような不思議な光景であった。

お参りをし、御寺に御挨拶と思ったが、どなたもおられなかった。ホテルにチェックインして、夕食に出る。数日前に卒業して4月から看護の仕事につくという若者と話しをした。 そうか、今は 卒業のときなのだ。明日は、中島(なかしま)さんと香田さんのお墓と藤田俊訓老師のお墓をお参りしようと考えている。


(今泉章利)

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v風



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救国学生同盟 昭和10年司法省資料から(1)

2009年03月08日 | 今泉章利
水上さんの「救国学生同盟」についてのまずスタンダードな資料として、昭和10年の「司法研究」というのがある。これは司法省にいるスタッフによる研究会の報告だが様々なものが対象となっていて近代史における明治政府側の考え、調査状況がわかり興味深い。

今回のものは、他に比べるものがないので、とりあえずベースの資料として扱いたい。「我が国における最近の国家主義 乃至 国家社会主義運動について」と題した資料集は厚さ三センチ 東京区裁判所検事 馬場義續氏によるものである。

救国学生同盟について (昭和10年3月 司法研究 第十九輯、 報告集十、司法省調査課)
一七 救国学生同盟 (その1)
 
本同盟は、縦横倶楽部 森伝 の主宰する救国同志会学生班に参加していた吉田豊隆等が指導者との間に意見の相違をきたして、昭和七年五月二十日創立せられたるものにして、会員は昭和八年十一月の埼玉救国青年挺身隊事件により、検挙せられた吉田豊隆(拓大)、水上源一(日大)新谷要二(中大)、小野久士(日大)、等を始め、拓大、法政大、国大、帝大、専修大学等の学生約三十名であった。而して本同盟は五・一五事件直後、五月二十日同盟代表者をして西園寺公邸を訪問せしめ、政党政治絶対排撃、至誠愛国の士に依る挙国一致内閣出現要望の決議文を提出したるを始めとし、同年六月十一日農村救済、竝に満州国即時承認を要望する決議文を作成して首相及び衆議院議長に提出し、また、同月国際連盟支那調査委員会来朝に際し、支那代表 顧維均 入京すとの風説伝わるや、これが反対運動を起こす等、時事問題を捕え活発なる運動を開始し、十月上旬左のごとき宣言綱領等を定めた。

陣頭旗標

一、一君万民政治ノ確立
一、政党政治絶対反対
一、議会制度ノ改革
一、資本主義経済機構ノ排除
一、国家計画経済ノ実現
一、日満統制経済の確立
一、大東亜主義ノ建設
一、同志ハ一朝有変ノ秋ハ国民ノ前衛闘士タルコトヲ常ニ悟達待機スベシ
一、同志ハ勇猛果敢ナル日常闘争其他一切ノ効果的手段ヲ盡シテ救国済民ノ実果ニ邁進スベシ
一、同志ハ救国主義ノ旗ノ下ニ結盟セルコトヲ自覚シ、私情ヲ捨テ大義の為ニハ如何ナル艱難モ忍苦スベシ

注:読んでおられる方は、この 森伝 のことご存じか、早稲田の学生で闘争の時、退学になったものである。ただ人物的に大物と見えて、戸塚警察の当時の所長であった正力松太郎とも懇意になったし、退学に当たり大隈重信ともあっている。この森伝は、二・二六事件のほとんどすべての憲兵資料を書き写しし、それが、小学館の二・二六事件秘録として昭和46年にでている。


以下2へ

(今泉章利)

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格差社会  貧しさ・生活保護・格差社会

2009年03月07日 | 今泉章利
昨日帰りの電車で真横の若者が会話をしていた。満員でかつ真横にいて大きな声だったので、図らずも耳に入ってしまった。

ぶらぶらしてたからなあ、でも、ハローワークに行ってようやく仕事みつかったからなあ。おれのずっといたとこは、親方と親方の弟と自分の三人がチームになっていて、親方の言うことは絶対だったし、親方がいたら一言もいえず黙って聞いている以外にない。飲み行くときが最悪で、虫の居所が悪いと自分が集中的に怒られて、からまれる。終わりがない。そんなときは、仕事でも最悪で、ちゃんとやっていてもなってないとか、なんだかんだと言われて、、そんであんまりつらくって逃げ出したら、、しばらくして、探し出されて、つかまって、いろいろ話して また やることになったけど そのうち今度は給料をくれなくなって、二か月も一円もなかった。 そんで今度はほんとにやめて、親と相談して、ハローワークに行って、仕事見つけて、ちゃんと給料もらえるようになったけど、親方の所にずいぶん長くいたから、おれの人生はもう失敗でさあ、、もう一人は、うなづくのみであった。電車が秋葉原について、その若者はおりて行った。

生活保護について、以前、NHKに抗議したことがある。年末のホームレスに役所が解放されたというニュースの後に、そのうちの何人かはやっと生活保護が認められましたと嬉しそうに語った美人のアナウンサーに、あまりにも安易な、無責任な報道だと抗議したのである。私の知り合いにも、一生懸命働いて、働きづめに働いて、ちっとも豊かにならないのに、歯を食いしばって文句も言わずに頑張っている多くの若者たちがいる。生活保護やホームレスを単に大変ですだけで言うのでは、私たちにはわからない。NHKの前の広場などホームレスのいい場所ではないか。三世代も生活保護を続けている「生活保護人種」がたくさんいるのだそうだ。もっと、掘り下げて、貧困などを調べて報道してほしいと抗議したのである。

本日、ある民放で「世界が100人の村だったら」という番組で、世界の格差社会を報道していた。ゴミをあさって家族を支えているフィリピンの少女を、何年か、かけて追っていた。彼女の宝物は、学校に行っていた時の学生証、先生に返さなかった教科書、、そして、その異臭たちこめるゴミあさりの生活をレポートしていた日本の女優さんに「私ってくさい?」と質問したのだった。屈託のない少女からの質問に、その女優は言葉を失った。 三日ぶりの米を水でふやかし、お塩で味付けしてみんなで食べている父のいない家族。弟は「僕のゆめはホットドックを食べること」と言っていた。むかし一度だけ食べたことがあるのだという。おいしかったという。

以前に書いたかもしれないが、青森の五所川原の北に車力村というところがある。末松太平先生が、小生にここが二・二六事件の出発点だと言われた場所で、私も二度ほど訪問した。そこは今では、美しい田畑、舗装された大きな道路、こぎれいな家々、、になっていて、地元の人に、いまでは幸せなのですね。といったら、いや、ここの人たちは、いま、一揆をおこしたいくらいの大変な状況にあるのですとの答えが返ってきた。農水省や県の人間や公務員以外は生きてゆけない、、、税制や規則が厳しくて跡取りは誰も農地を引き取らないという。先が全く見えず、絶望して自ら命を絶った人も多いのだという。

生きること、貧困、援助の意味は、むつかしい。


(今泉章利)

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安田善三郎様の礼状

2009年03月07日 | 今泉章利
以下は、仏心会世話人の安田様からのお葉書である。今日、頂いた。格調高く、お気持ちのこもった文章である。私の名前なども入れていただき、恐縮至極であるが、転載させていただきたい。

謹啓
厳しい余寒が続いておりますが ご尊台に於かれましては益々ご清栄の裡にお過ごしのこととお慶び申し上げます
去る二十六日に執り行なわせて頂きました二・二六事件事件全殉難諸霊慰霊法要に際しましては寒気一入厳しい中をご参列賜りました上にご仏前にご芳志をお供え戴きまして誠に有難うございました
ご尊台初めご参列賜りました方々のご厚情の許 恙無く法要を厳収して戴きましたことを世話人一同心から感謝申し上げ重ねて御礼申し上げます
当日は不行届きに渡りました事が多々ありましたことと存じますが、何卒お赦し下さいますよう伏してお願い申し上げる次第でございます
ご尊台のご厚情お先人のご労苦を心に刻み 今後も慰霊の誠を献げたく存じます
何卒変わらないご芳情とご指導を賜りますよう 謹んでお願い申し上げます
先ずは甚だ失礼ではございますが 寸楮を以って御礼にかえさせて戴きます
末筆ながら 余寒厳しい折何卒ご自愛下さいますよう切にお祈り申し上げます
                                  謹白
平成二十一年二月二十八日
仏心会世話人 安田善三郎 田中孝 志村孚城
慰霊像護持の会世話人 今泉章利


安田様は今年で八十四歳になられる。

(今泉章利)

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二・二六事件を語ること

2009年03月04日 | 今泉章利
先日、久しぶりのゴルフが終わって、仲間の方と会食をしていたら、「二・二六の話をNHKのプロデューサーから聞き、いま、その本を読んでいる」というお話があった。その方に、「中田整一さんのことですか」とお尋ねしたら「そうだ」と言われた。
その方の所属している会には、高橋是清さんの孫の方もおられるらしい。

そういえば、渡辺錠太郎さんのお嬢様も、二月に講演会を行っているという話を以前聞いたことがある。今もされているのかは存じ上げないが、この事件について、様々な角度で話がなされることは決して意味のないことではない。

歴史を忘れるのでなく、様々に、学んでゆくことは、これから先の社会を考えることでもある。しかし同時に、資料の検討もされるべきである。東京地検の資料ならすべて正しいというわけではない。それは、量刑を決めた過程における裁く側の論理でもある。裁判で語られたことが、すべて書かれているわけではない。

初めの調書から、どんどん作文されてゆく過程も見え隠れすることもある。歴史学者はもっと研究をしてほしい。決められた資料にとらわれすぎず、もっといろいろと研究してほしいというのが、私の願いである。

(今泉章利)

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格差社会をどう思っていますか。

2009年03月03日 | 今泉章利
今度ののご法事で、格差社会をどう思っていますかと若い人から聞かれた。

何と答えるのか、、むつかしい。 あなたならなんと答えますか。 

ずっと昭和の初めのことを考えていた私だったが、いきなり、聞かれて答えに窮してしまった。

恥ずかしながら私にも貧乏な時代はあった。会社に入っても、自動車を買うとか、考えもしなかった。昭和48年、入社した私は、車を持っている人は、別世界の人だと思っていたし、温かいご飯に味噌汁と梅干しの寮の朝食とおかずの付いた夕食が、何より有り難かった。それを入社したとき先輩に、正直に話したら、ずいぶんと長い間、嘲笑と顰蹙をかったものだった。

初給料の一部を、人に騙され苦労し続けた両親に送ったら、母の、そして父の、喜びを述べた手紙をもらった。

あれから36年、、光陰は矢の如く過ぎ去った。こぎれいな身なりの若者が、何も食べずに、ビルの谷間で二日もいるとか、、家の両親にも告げず、振り込み詐欺一味に加わろうとしているテレビを見た。

本当は、何を甘えたことを言っているのだとも言いたいが、私は、彼らの痛みを理解できないでいる。

昭和の初めの人たちの痛みを理解できないように。

(今泉章利)

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二十六日に配布した資料 栗原勇様ご遺稿「悲しい思い出二・二六事件」(抜書き)

2009年03月03日 | 今泉章利
26日当日配布した資料です。
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仏心会創立者栗原勇様ご遺稿「悲しい思い出二・二六事件」(抜書き)

共同命日の供養
同志たちの命日は、野中は昭和十一年二月二十九日、河野は同三月六日、相沢は同七月三日、香田等十五名は同七月十二日、村中等四名は同十二年八月十九日であるが、便宜上多人数の七月十二日を共同祥月命日とした。
 そして十七名の分骨は、度重なる警察の目を潜って次々と賢崇寺に集められたので自分の願いは案外早く果たされた。
 そこで在京遺族と仏縁ある人達は、毎月十二日に賢崇寺に集まっていとも厳粛なる法要を行うたが、
この事が広く世間に知れ渡るにつれて一般参詣者も続々と殖え、特に二月二十六日の事件記念日と七月十二日の祥月命日の法要には、多数の参詣者があるので、自分は遺族代表としてその応対には、目の廻るような忙しい思いをした。しかし内心では世間の理解と同情との深まるのが、何よりの楽しみであった。

 十三年七月十二日の一周忌(原文のまま)の法要には、鈴木天山老師が十数名の僧侶の導師として、いと厳粛に勤行せられたので、遺族一同も殊更声を張り上げて、一心不乱、全く無我の境に入って唱和した時は、真にこの世ながらの極楽浄土にあるの思いがした。(略)
老師は当時は今と同様に、苟くも凡夫を済度すべき地位のある僧侶自身が仏戒を犯して平然たるような濁り切った世相の時代には、実に「雲中の白鶴」で近世稀に見る善智識であられた。そしてその御最後は大本山永平寺にて惜しくも御入滅あらせられたのは、真に仏教界は勿論、大にしては国家の大損失であった。
 自分としても仏縁深い恩師のこととて、その悲報に接した時には実に哀悼の情に堪えなかった。しかし老師の高弟であられる「泥中の蓮」のような藤田法師が御健在であられるのは、遺族一同無上の幸福である。
同志の霊魂も地下に瞑すべしである。
 このような意義深い供養を七年間連続して営み、遺族としてはこの寺参りが何よりの修養であり、また慰安でもあって相互に一致和合し、恰も親類同様の親しさとなった。
ところが、敵機の来襲は日に増し烈しくなり危険極まりないので、遂に十九年の中ごろから残念ながら一時中止することとした。その上二十年三月には賢崇寺が炎上し、次いで五月には自宅が焼失して山梨県・埼玉県・兵庫県・大阪府と転々流浪した。
 他の東京在住の遺族達も、思い思いに諸方へ疎開せられ、散り散りばらばらになってしまって連絡は取れず、自分は皆さんがどうして居られることやらと、日々夜々、雨につれ風につれ案じ続けた。尤も藤田法師は焼け跡に不自由ながらも、依然として同志の回向を勤めて頂き、また原さん(注、高橋少尉伯母上)は老衰の身にも拘わらず、よくも絶やさず参詣せられたその誠実には敬服感謝の外はない。(略)

 共同墓碑の建立
 自分は遺族達に対する責任上、同志の御魂を早く埋葬したいのは山々の願ではあったが、藤田法師と石丸さん(注、石丸志都麿陸軍少将)の懸命の御努力も当局の頑冥と、鍋島家の家情に妨げられて希望は果たされず空しく十六年を悶々として経過し、年は老いて健康は勝れず、最早余命短いこの身では、果たして生存中にこの念願が遂げられるであろうかと案ぜられ、思い出しては嘆息をついていた。
 ところが、「待てば甘露の日和あり」で英気溌剌たる河野さんが東京に転任せられて仏心会の行事を復興し、藤田法師と協力して講和発効と共に当局の黙許を得られ、また鍋島家の異議を押し切って約一年間にわたり、諸種の困難なる準備を整えられ、遂に昭和二十七年七月十二日、十五士の十七周忌を好機として埋葬建碑し、開眼供養を営むこととなった。
 この通知を受けた時の嬉しさは、実に「手の舞い足の踏むところを知らず」であった。然し耄碌はしているし、殊に夏の暑い真最中に長途の旅は、いささか不安ではあったが「斃れて後已む」の覚悟で七月十日杖に縋り、腰をかがめ痛む足を引きずって富田林を出発した。幸いに汽車は特別急行ツバメに乗れたので、午前九時大阪駅を発車し、僅かに八時間で東京駅に着き、宮下に行ったが三年振りのこととて大いに歓待してくれた。そして翌日は鶴ヶ峰に墓参し、十二日に賢崇寺に登山した。(略)
 遺族一同積年の共同願望であった二十二士の墓が建てられたのは、真に御同慶至極であった。これは遺族達が長い間、云うに言われぬ煩悶をよくも辛抱して同志霊魂の追善を続けられたその功徳には相違ないが、結局は藤田法師と河野さんの熱誠なる御努力と立野(注、小説「叛乱」の著者、立野信之氏)さんを初めとして多数篤志各位の深遠なる御後援の賜物であることを、肝に銘じて忘れないようにしたい、
 また。われわれ遺族はこの墓碑によって、子々孫々・・・・永久に賢崇寺を共同菩提所として、霊魂の永代供養を営まねばならぬ。切っても切れぬ仏縁が結ばれたことを、気に留めて置くべきだと思われる。殊に遺族の方々に申し上げたいことは、藤田法師の有難い無限のご慈悲に対しては、胸に手をあてて感謝の念を捧げねばなりますまい。(以下略)   以上。
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渋川明雄さんのコメント 水上源一をめぐる人びと

2009年03月02日 | 今泉章利
以下は、渋川さんのコメントです。

水上源一さんの名が見られるのは、昭和7年5月に水上さん曰く「真に捨石となるべき人物を選ぶ」ため(2007.11今泉氏報告参照)に「紫雲荘」橋本徹馬の多大なる援助により結成された「救国学生同盟」からです。この同盟員の中に日大「国司会」の中心人物である、松村正義がいます。

「国司会」は、「学生興国連盟」が結成されたと同時期の昭和4年11月に結成され、日本大学学内に侵入する左翼運動に対抗するために組織された。

「救国学生同盟」は分裂により消滅するが、昭和9年3月頃、同盟員であった日大生松村正義、小林哲夫が、姻戚関係にあった橋本徹馬、水上源一さんの叔父であり、日本大学総長紛争問題当時山岡総長派として暗躍したる戊申倶楽部佐藤儀蔵
の後援により、また、水上源一さんの了解を得て「救国学生同盟」を再興している。

結成直後、小林哲夫は、「宇垣朝鮮総督暗殺事件」を起こしたが未然に発覚したが、水上さんは自宅にて逮捕されている。

水上さんが「救国学生同盟」を結成するまで単独で活動していたとは考えられず、「日大入学当時校内は左翼化していて、左翼学生の演説最中に国体観を述べた
が弥次られ」(2007.4今泉氏報告参照)ているので、個人一人の力ではどうにもならぬと考え、学内の愛国団体に所属したと見るのが自然であろうと思う
のですが。

国司会は、水上さんの考えと一致しているし、国司会の中心人物と深い関係にあるので、水上さんは、国司会に所属していたと考えられると思うが。そのへんの資料が日大にもしあればと思います。
→調べてみます。(今泉)

水上さんと善助さんとの関係で一人気になる人物がいます。明大生の林貞四郎で、昭和4年11月「学生興国連盟」結成時の主要人物です。
出身が北海道のようで、後に小樽市の核心社北海道支局の代表者で、直心道場とは緊密な関係にありました。

日大には「北海道会」が確かあったと思いますが、水上さんの活動を通じて、この人物を通じてもしかしたら知り合った可能性もあると思うのですが。  →!

また、最近入手した本で、鹿児島七高から東大に入った、四元、池袋氏コンビが、入学後学内の愛国団体「七生社」に所属し、昭和5年4月には拓大教授安岡正
篤主宰の「金鶏学院」に加藤春海と一緒に入り、寮生となり、昭和6年3月にこの3人は卒業しています。

また、善助さんが、加藤春海との関係だと思うが、同寮に止宿していてその3人とは同じ寮に居たことを知りました。→ これは教えてください。出典。

そして、井上日召が昭和5年11月から同寮に起居し、その時に四元、池袋は井上に共鳴し、共に革命事業に従事することを誓ったということです。

(以上渋川明雄)

有難うございました。大変に参考になります。今泉

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波多江タマ様のメッセージ(2月の御法要において)

2009年03月01日 | 今泉章利
94歳の波多江タマ様が「やっと来ましたよ」と言われて賢崇寺にご到着されました。忘れないうちに、お話の要点を書き記そうと思います。いろいろなかたに御挨拶などしなければならず、、すべてが聞けたわけでなかったのですが、、又すべてが正確に聞けたとは限りませんので、これは、今春、再度お邪魔して確認しようと思います。以下は、私が理解したタマ様のお話です。

1.当時の貧しさは、今の人にはわからないと思います。昭和5年に自分は東京に出てきて、昭和20年に戻ったけれど、昭和20年でも青森は本当に貧しかった。昭和20年の夏、人々は貧しくて、蚊帳がなくて入口で杉の葉っぱを燃やして煙で部屋の中をいぶしてそれから一斉に入って、藁の敷いてあるところで寝る。男たちはふんどし一丁の裸でねる。まるで家畜のようだった。布団もなかった。農家でご飯を食べると客人の我々には白い米であったが、自分たちはかぼちゃの茎を入れた汁を作り、それを4-5杯すすって食べていた。昭和20年でもそれだったのだから、昭和5年の貧しさは想像してほしい。
2.昭和5年、横浜で奉公していると頃に兄(對馬さん)が会いに来てくれた。しかし、着物に減った下駄、それにマントといういでたちだった。同僚が、まあタマちゃんのお兄さんって陸軍の将校さんと言っていたけど、、と絶句した。憲兵からチェックをうけていたので、軍服では堂々と歩けなかったのだ。
3.兄は、満州事変で多くの部下を失い、自分が生きて帰って本当に申し訳ないと言っていた。安藤さんも給料を部下にあげていたというけれど、部下を本当にかわいがった。明日をも知れぬ命がけの部下たちが、お酒に酔って騒いでいると上官が統制がとれないから規律を厳しくしろと言ったらしいが、兄は、部下たちをそのまま騒がせたという。
4.お金がなかったのは、将校も同じだった。お金を貸し合っていたのはお互いさまだった。以前、香田さんとおかねのやり取りでの礼状を見たことがある。また、岡野さん(龍土軒)が、事件の前、安藤さんがお金を貸してくれと言ってきたとき断ったが、それを本当に後悔していると後でいっていた。みんなお金がなかった。
5.処刑の前日、霊柩車を用意しろということで、手配し、当日、霊柩車が15台も見事なほどに衛戍刑務所にならび、用意されたひとつずつのテントに各家ごとに呼ばれた。自分のところは、安田さんの後であったが、デスマスクを作っているのでということで、ずいぶんと待たされた。
6.テントに兄の遺体が御棺にはいって用意され、ようやく呼ばれた。兄を見ると、眼、鼻、口以外のところは包帯でぐるぐる巻きになっていた。でも、本当に安らかな死に顔だった。まだ殺されてから4-5時間ぐらいだったので暖かかった。
7.火葬場への出発は、各家族がそれぞれ次々と出発した。一番前は、憲兵の車、自分たちの車一台、霊柩車、警察公安の車、、のような順で行った。沿道の人で手を合わせている人いた。
8.お骨を頂き、青森へ帰るとき、お骨は白い立派な袋に入れるのが普通なのに、風呂敷にしろと言われ、お骨を風呂敷に包んで、上野駅に向かった。
9.ホームは人払いがしてあって、誰もおらず、憲兵、公安と列車に乗り込んだ。そして、彼らが我々の家族を取り囲むように座った。そのあと、一般の人たちが乗り込んできた。
10.青森駅に列車は着いたが、私たちは一番最後に降りた。ホームには誰もいなかった。
11.家にお骨と位牌を置いたが、ほとんどの友人たちは、家の手前で警察の訊問にあい、そのまま警察に引っ張られてゆくので、ほとんどの人が来なかった。
12.たまたま、警察たちがいないときがあったらしく、家に到達した人もいた。
13.東京の話だが、その後、分骨のことで栗原(勇)さんが偉かった。分骨を集めて、賢崇寺に合祀してくださった。これは栗原中尉が衛戍刑務所で死刑執行を前に栗原さんに合祀をお願いしたからだったが、、昭和12年の7月12日の法要の時も、憲兵、公安は厳しく、賢崇寺の坂の下で遺族でない人は、みんな取り調べを受け、来れなかった。
14.分骨合祀のとき、藤田俊訓老師が畳に大きなきれを敷き骨を混ぜた。
15.曹洞宗の高階管長が、ご遺族一人ひとりに色紙を下さった。
16.残された遺族のためにミシンを買うことになったのだが、選べるものは限られていて、、それでも買って使った。自分は河野司さんと買いに行った。
17.初めての法要の時の写真があるが、自分はほとんど覚えていない。


一気に話続けられた。  聞いている人がいようがいまいが、一気に話をされていった。どうしても伝えたかったのであろう。私は、このような話をお伺いするのは初めてである。過去二回お目にかかった時は別の御話であった。今日はその詳細説明のような感じがした。
今春、私は、この大切なお話の続きを聞きに、弘前へお邪魔しようとおもう。。田舎舘にも行く。青森県の資料館にも行こうと思う。また、弘前連隊の資料館の閲覧許可を得て訪問したいと考えている。
御話を聞き、感謝のお気持ち一杯で、タクシーでお送りした。小雨がふっていた。賢崇寺の梅は五分咲きであった。

(今泉章利)

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