佐賀のお墓参り報告のエピローグである。
中橋さん、香田さん、中島さんのお墓をお参りしたが、栗原さんも佐賀なのである。栗原さんは、明治41年11月17日、島根県松江市に生まれたのだが、ご尊父の陸軍大佐・栗原勇さんは佐賀のご出身である。
世にいわれる佐賀四人男のいわれである。私は、今度で二度目の佐賀訪問なのだが、本当に澄み切った空のしたに広がる佐賀平野を見ながら、なにが、この方たちを動かしたのだろうと思わざるを得なかった。
事件が、起こった直後、ある批評家が、佐賀県の出身者は実に卑劣でこのような事件を起こしたと雑誌に書いた。そして父のことはさらにひどく、同じ県出身なのに、今まで何も知らなかったなどと嘘をついている卑怯者とののしっていた。今でもこの「有名な」批評家の書いたものを古本屋で見ると、むなしくも悲しい。
昭和11年7月27日、原田熊雄さんが警保局長の萱場軍蔵氏にあった時のことである。二・二六事件に同情的であった朝香の宮や東久邇殿下に対し、事件で勝利をおさめた統制派の陸軍からこれからは経済の統制をしなければならないという話ばかり聞いているので、これではいけないということで、結城大蔵大臣から経済一般の話を、高松宮御殿でしてもらったときの話を(原田さんが萱場さんから)聞いた後に、萱場警保局長の発言として、
「なほ、二・二六事件で処罰された者の中に佐賀出身の将校が四人おる。その四人を佐賀で合祀して招魂社でも造ってもらいたいといはんばかりのことであった。その運動は結局成り立たずに済んだけれどもやはり、政務次官が鍋島だけにいろんな運動がくる。」といふ話をしておった。(西園寺公と時局、第5巻119ページ)
との記述があった。この記述からだけでは誰の発言なのか詳細は分からぬが、処刑の終わった7月12日から二週間、宮中や高級官僚クラスの人々の心が醸し出す何とも言えない空気が伝わってくるようである。
(今泉章利)
注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
中橋さん、香田さん、中島さんのお墓をお参りしたが、栗原さんも佐賀なのである。栗原さんは、明治41年11月17日、島根県松江市に生まれたのだが、ご尊父の陸軍大佐・栗原勇さんは佐賀のご出身である。
世にいわれる佐賀四人男のいわれである。私は、今度で二度目の佐賀訪問なのだが、本当に澄み切った空のしたに広がる佐賀平野を見ながら、なにが、この方たちを動かしたのだろうと思わざるを得なかった。
事件が、起こった直後、ある批評家が、佐賀県の出身者は実に卑劣でこのような事件を起こしたと雑誌に書いた。そして父のことはさらにひどく、同じ県出身なのに、今まで何も知らなかったなどと嘘をついている卑怯者とののしっていた。今でもこの「有名な」批評家の書いたものを古本屋で見ると、むなしくも悲しい。
昭和11年7月27日、原田熊雄さんが警保局長の萱場軍蔵氏にあった時のことである。二・二六事件に同情的であった朝香の宮や東久邇殿下に対し、事件で勝利をおさめた統制派の陸軍からこれからは経済の統制をしなければならないという話ばかり聞いているので、これではいけないということで、結城大蔵大臣から経済一般の話を、高松宮御殿でしてもらったときの話を(原田さんが萱場さんから)聞いた後に、萱場警保局長の発言として、
「なほ、二・二六事件で処罰された者の中に佐賀出身の将校が四人おる。その四人を佐賀で合祀して招魂社でも造ってもらいたいといはんばかりのことであった。その運動は結局成り立たずに済んだけれどもやはり、政務次官が鍋島だけにいろんな運動がくる。」といふ話をしておった。(西園寺公と時局、第5巻119ページ)
との記述があった。この記述からだけでは誰の発言なのか詳細は分からぬが、処刑の終わった7月12日から二週間、宮中や高級官僚クラスの人々の心が醸し出す何とも言えない空気が伝わってくるようである。
(今泉章利)
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