◎「ふるさとは遠きにありておもふもの 近くば寄って目にも見よ」という冗句がある。筒井康隆サンの著作で読んだ記憶がある。
※「国葬」は遠くにありて思うもの・・・近くに寄って目にも見よ。寄って見た途端に アヤシイ事柄が続々と現れはじめている。
安倍元首相と旧統一教会との「ズブズブな関係」は(岸田首相の隠蔽工作にも拘わらず)次々に暴露されている。最近では 菅前首相の追悼文の「パクった箇所」までも指摘されはじめている。
◎画像参照。10月1日(土)。家人に誘われて「末松太平夫妻の墓」を訪れた。コロナ禍の影響もあって 久しぶりの墓参である。
※以前も記したが 東京都板橋区の我家から 千葉市若葉区の「平和公園・市営霊園」までは 片道2時間程の行程である。家人が元気だった頃は 彼女の運転する車で(自宅~墓地を)往復していた。妹夫妻と合流し食事を共にすることも多々あった。
千葉市舞浜区の大規模マンションに住む妹夫妻は 同じ棟の別フロアに「末松太平の遺品=書籍・資料類」を保管する部屋(3LDK)も購入していて 墓参の帰りに資料チェックをすることもできた。
※やがて 家人も後期高齢者になり「長距離運転は無理」になって 墓参は「都営地下鉄+JR総武線+JR千葉駅からバス」に変わった。
※そして今回。墓参は「千葉駅からはバス」から「千葉駅からはタクシー」に変わった。家人の「バス停から墓までの歩行はツライ」に従ったためである。
本日のタクシー料金=九千円弱。人柄のよい運転手サンで快適な墓参ドライブだった。往路4800円を示した料金メーターも 往復では(バスの場合の往復料金2人分と比べて)割安感がある数字で納った。
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◎10月3日付で「hologram 2000」サンから「追伸」というタイトルのコメントが届いた。
※当ブログの「◎いささか腹が立ったので◎2010年3月4日掲載」に対するものである。
遙か昔の記事に対して 12年間の時空を超えてコメントをいただいたことには 感謝以外の言葉がない。
◎「hologram」サンに誘発されて 2010年3月4日付のコメント欄をチェックする。
※渋川明雄サンが「渋川善助が西田税宛に送った(末松太平の結婚についての)喜びの手紙」を紹介している。
渋川明雄サンは「当初は参列できない予定だった渋川善助が(末松太平がチフスに罹ったために)結婚式が延期されたお陰で参列できたこと」も紹介している。共に 私が知らなかった情報である。
※渋川サンは 当ブログを通じて親しくなり「末松太平事務所・同人」にもなった年下の友人である。しかし 若くして逝去されてしまった。
渋川サンが遺した「渋川善助の研究」の数々は 当ブログで今でも読むことができる。お読みいただければ幸いである。
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◎「安倍元首相襲撃事件」に関連して 前々々回に「末松太平の日記・1972年」の一部を転載した。
※しかし 古賀清志中尉(五・一五事件で死刑判決)は登場していなかった。ということで「続き」を少々。
※7月28日(金)・佐賀の古賀不二人さんから電話があり高橋空山の住所を教えろという。確かめて返事する。
※8月04日(金)・古賀不二人さんより電話あり。土曜日に遊びに来るという。
※8月05日(土)・夕方 古賀不二人さん来訪。いろいろ話をする。
※8月06日(日)・古賀さん一泊し 正午までいて 我孫子に向かう。
(古賀氏が末松太平宅に宿泊したことは知らなかった。当時の私は 東京都江東区の住宅公団に居住していた)
◎参考までに《古賀不二人著「私の歩道/五・一五叛乱将校の鎮魂譜」1986(昭和61)年・島津書房刊》からの抜粋を少々。
※「五・一五事件関係者」と「二・二六事件関係者」との連帯を知る一助として 古賀氏の行動の一部を紹介しておく。
※1956(昭和31)年01月29日・麻布賢崇寺にて故大岸頼好法要出席。
※1956(昭和31)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1957(昭和32)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1958(昭和33)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1960(昭和35)年03月26日・麻布賢崇寺にて故大岸頼好慰霊祭出席。
※1962(昭和37)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件法要出席。
※1962(昭和37)年05月02日・塾にて14時より政経新論座談会。三上・末松・佐郷屋・古賀・片岡千春参加。
※1963(昭和38)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1964(昭和39)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件法要出席。
※1965(昭和40)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六碑除幕式および三十回忌法要出席。
※1966(昭和41)年01月28日・ホテルニュージャパンにて12時より日本及日本人社主催座談会/(社側=西山氏、栗原氏)
・出席者=佐郷屋、小沼、末松、古賀。
※1966(昭和41)年02月26日・麻布賢崇寺にて、二・二十六事件法要出席。
※1966(昭和41)年03月07日・鎌倉市長谷91にて、故井上日召密葬出席。
※1966(昭和41)年04月07日・青山斎場にて13時より故井上日召葬儀出席。
※1968(昭和43)年02月26日・渋谷公会堂にて14時より二・二六事件第三十三回法要出席。
※1968(昭和43)年07月03日・霞山会館にて故相沢中佐三十三年忌法要出席。
(1969年から 古賀氏は本拠を佐賀県佐賀市に移して「大地塾佐賀道場」に専心従事するようになる)
※1971(昭和46)年10月26日・三上卓死去。航空便で上京。機内で林正義と邂逅。
※1971(昭和46)年10月28日・東郷会館にて14時より故三上卓葬儀。橘孝三郎葬儀委員長。弔辞。翌日帰塾。
※1972(昭和47)年04月14日・佐郷屋義昭氏死去。弔電。
※因みに 書籍「私の歩道」の扉頁には 末松太平が「古賀不二人さんより贈らる 昭和61年五・一四」と筆書している。
※《雑誌「新勢力・三上卓追悼号」昭和47年2月15日刊》には 古賀不二人「同志・三上卓さんの思い出」、末松太平「水よりも淡く」も掲載されている。
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◎「国葬」はとおくにありて思ふもの 近くば寄って目にも見よ。
※岸田内閣の支持率が急降下している。当然のことである。しかしながら 野党に追い風が吹いているわけでもない。
※国葬に纏わる様々な言動の中で 野党の「どうしようもない愚かさ」が次々と露呈している。情けない限りである。(末松)
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