◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「東京ベイサイド2DAYマーチ」裏街道◎

2022年10月23日 | 末松建比古

◎「第1回・東京ベイサイドツーデーマーチ」10月22日(土)23日(日)。5㎞・10㎞・20㎞コース。
※主催/日本ウオーキング協会。参加費/事前登録・3500円。当日(1日毎)・2000円。

※コロナ禍による自粛自粛で 全国規模の「ウオーキング大会」は中止が続いた。毎回参加していた「小金井公園会場のウオーキング大会」も消滅した。その代役で誕生したのが「ベイサイドツーデー」らしい。
しかし「記念すべき第1回大会」でも 参加する気になれなかった。歩行自粛が続く間に「高年齢の歩友諸氏」は次々姿を消した。「親しい方が誰も来ない大会」に 参加費3500円(高すぎる!)を支払う気にはなれない。

 

◎画像参照。10月22日(土)。お台場(セントラル広場)会場。20㎞コースのスタート風景。
※数日前 神戸市在住の數見サンから「大会参加」の知らせが届いた。數見サンは20年来のウオーキング仲間である。久しぶりの「一緒に歩ける機会」を見逃すわけにはいかない。都営三田線・営団有楽町線・JRりんかい線を乗り継いで 私は会場にいた。 
※といっても「一般歩行者(私=参加費不払い)」が コースを歩いたのは数キロだけ。「脊柱管狭窄症に悩のむ82歳老人」が「10歳若い現役ウオーカー」と竝歩できる筈もない。數見サンを途中で見送り 反対側歩道をマイペース。
※初日の20㎞は「10ブリッジ・オーバーベイと港区今昔コース」。歌舞伎座・新橋・六本木ヒルズ・東京タワー・芝増上寺・浜離宮などを周回して会場に戻る。一般歩行者の私は 夢の大橋・木遣り橋・晴海大橋を経て 勝鬨橋の手前でコースアウト。裏街道を選んで麻布賢崇寺に向かうことにした。

  

◎賢崇寺を訪れるのは久しぶりのこと。
※工事中の光景に「賢崇寺が消えた?」と吃驚したが 隣接地の工事(マンション建設)と判りホッとする。
※画像右=本堂左側に新設された合同墓。。合同墓に納骨されれば「二十二士の墓」とは隣組同志になれる。森田朋美サンは「今泉サンと3人一緒に入ろう」と言うけれど。

◎賢崇寺から芝公園まで歩いて「20㎞コース」に合流。
※しかし(スマホを持たない私には)數見サンの現在位置が判らない。独り歩きで12時半にゴール。數見サンの姿はない。1時間近くも待って再会を断念。コースを逆行して帰宅する途中で數見サンと再会。逆戻りして一緒にゴールした。
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◎末松太平も「公式ウオーキング大会」に(一度だけ?)参加していた。昭和も終わりに近い頃のはなしである。
※ごく最近 末松太平の遺した「日記」で それを知ったときは かなり驚いた。
末松太平は「ちば歩こう会?」を如何して知ったのだろうか。何を思って例会に参加したのだろうか。
集合場所に行き・参加費を払い・全員で準備運動をし・主催者の指示で歩行スタート。お馴染みの光景も「その場に末松太平が居た」
と想像するだけで 何やらオカシイ。(末松)
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◎承前/「栗原中尉御遺族の願い」に寄せて◎

2022年10月18日 | 末松建比古
「末松太平事務所」を開設したのは 2006年1月18日だから 16年以上も昔のことになる。
「事務所開設の意図は《二・二六事件》の記憶を持続させるためです。既に、事件から65年以上の歳月が過ぎ・・・」
あれから今日まで「880件」の記事を書き連ねてきた。

「2,26事件 一般社団法人仏心会」の公式ホームページが開設されたのは 2018年6月のことである。
「公式」だから(当ブログとは)重みが違う筈。でも「公式」は(2020年4月以降)休眠状態になっている。
「(前略)この本は 現在入手は極めて困難と言われています。事件関係22士の経歴について教えてほしいとの要望が多く寄せられていますので この度 仏心会のホームページを立ち上げ これら要望に応えようというものです」
この本は《河野司著「二・二六事件」日本週報社刊》のことだが この本に「仏心会の歴史」は書かれていない。
「公式」の欠落部分(仏心会の歴史など)を補う役割として これからも「末松太平事務所」を続けるしかない。



河野進サンが配布した小冊子には「昭和29年7月12日 19回忌法要の折」という写真が掲載されていた。
「墓石左端が栗原勇氏。この年の10月に同氏は他界された」と説明されている。墓石前の二人(相沢中佐令嬢と末松太平)が主役というわけではない。
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栗原勇氏の遺稿「二・二六事件」には「待望の二十二霊合同埋葬と建碑」に関する事柄が丁寧に報告されている。

◎二十二霊御分骨埋葬の件。
7月11日午後4時 賢崇寺にて読経の後、梅雨そぼ降る合間に滞りなく御埋葬を了し、新しい墓所に永遠の眠りにつかれました。
参列書 腹・垂井・丹生・西田・白井・河野・外に宇治野時三氏。
◎「二十二士之墓」完成の件。
連日の梅雨のため工事進捗せず焦慮致しましたが、雨を冒して強行の結果 当日の12日朝完成を見まして安心致しました。自然石の台石、墓碑の調和感も良く、曹洞宗管長禅師の御揮毫も一入映えて二十二士に相応しい落ち着いた姿です。
◎十七回忌法要及び二十二士之墓開眼法要の件。
7月十二日午後2時より予定通り取営みました。降り続いた雨も幸いに夜明けから降り止み、曇天の却って涼しい安定した天候となったので、午前中から会員の方々初め旧部下の方々の御応援を得て万全の準備を整えました。一時頃から相次ぎ定刻には150名に近い御参列者がお集まり下さいました。

1/導師入場 藤田導師以下3名の僧侶入場さる。
2/開会の辞 大蔵栄一氏が開会を告ぐ。
3/読経 藤田師のいとも厳粛なる読経の声は流れる。
4/祭文 施主代表として河野司氏が祭文を奏す。
5/当時の同志を代表して末松太平氏が切々たる弔詞を朗読さる。
6/弔電弔文披露/多数の弔電と弔文を大蔵栄一氏より披露さる。
7/読経 再び読経が続き、最後に二十二士の俗名、戒名が読上げられ、一同粛然合掌、粛然の気 堂内に溢れる。
8/焼香 仏心会代表栗原勇氏に続いて遺族一同焼香、次いで参列者に移り 真崎甚三郎元大将を初めに参列者全員の焼香を終える。
9/遺族挨拶 遺族を代表し栗原勇氏立たれ、声涙共に下る感激の挨拶を述べらる。遺族席の嗚咽頻りに、堂内の感激頂点に達した。洵に劇的の幕切れであった。
10/導師退場。
11/閉会の辞 大蔵栄一氏閉会を告げ 次の開眼供養まで暫時休憩を願う。

本堂での「法要」を終えて 境内新墓所に場所を移して「開眼供養法要」が行われた。掲載した写真は「開眼供養」の直後に撮られたものである。この後 本堂に戻って「追悼茶話会」が開かれ 5時半に散会したという。
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今年の6月15日に《中公文庫「私の昭和史」在庫ゼロ》に関する諸々についてを記した。
そして 中央公論文庫編集部の橋爪サンからのメールに「新しい企画提案書」が添付されていたことも報告した。
橋爪サンに「全て一任」と回答した後に 安倍元首相は銃撃され 私と妻は新型コロナに感染し ここには書けないストレスにも遭遇した。
10月7日。橋爪サンから「中間報告」メールが届いた。「企画」は順調に進行して 2023年1月10日に結実する予定という。(末松) 
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◎「昭和48年5月・栗原中尉御遺族の願い」に寄せて◎

2022年10月14日 | 末松建比古
いささか唐突ではあるが ある冊子の「後がき」を 先ずはお読みいただきたい。
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昭和29年10月17日。父勇が大往生を遂げてから月日のたつのは早いもので、20年にもなります。母克子は終戦後の苦しい環境に強く生き抜いてまいりましたが、昭和47年頃から病勢悪化し、療養尽くし尽くしましたが昭和48年2月26日当日眠るように息を引き取りました。
此の度、母の遺品を整理中、本冊子の原稿を発見し、頁をめくって見ましたところ、事件当時から、二十二士の墓が建てられる迄の経緯が眼のあたりに見るように見事に記述され、其儘印刷出来るようになって居り、夢中になって一気に全部を読み終りました。
亡父勇が、終戦後の辛い生活の中で、一文一句誠意をこめて筆を走らせ、遂に亡くなる昭和29年にこの原稿を完成した努力と、事件で亡くなられた方々のご遺族に対する愛情とには、吾子としてほんとうに感激致しました。
仏心会も河野様の献身的な御世話によって御遺族の方々が今尚、毎年二十二士の墓に後参拝を続けて居られ、又事件後悲惨な生活に追われて居られた方々も、それぞれ安定した生活を取り戻されて居られることは、誠に嬉しいと思います。併し、事件当時直接悲しい思いを体験された御遺族の方々は私の父母同様、櫛の歯が欠ける様に御他界されております。
藤田方丈様も随分御高齢になられましたが、百歳迄は是非御元気であって欲しいとは遺族全員の心からの祈りでありましょう。
茲に亡き父母の遺志により、本冊子を印刷し、遺族が御世話になりました皆様にお分ち致したいと存じます。(4行割愛)
本冊子が原稿完成後、20年も遅れて世に出た事は、全く子である私の不備の致す所、謹んで御詫び申上げます。ただ亡き母が、我子に負担をかけまいとする親心で亡くなる迄原稿を大切に秘蔵しておりましたこともあり、御諒察いただきたいと存じます。  
二・二六事件は日本歴史中の一事件として永く日本人の記憶の中に留めおかれることでしょう。事件の功罪は永い年月がおのづから審判を下すであろう事は歴史が証明しております。二十二士の人達が一点の私心もなく義に殉じようとした誠心は、私の手許にある関係者方々の遺墨を見ても明らかであります。又この事が本事件の功罪が歴史的に判定される一つの要素になるであろうことを念願して筆をとりました。
ご遺族の方々、仲良く、強く生きぬきましょう。仏心会が今後末永く発展しますよう。
昭和48年5月  栗原勇四男 栗原重厚
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「画面左」の冊子が 上記で「後がき」部分を紹介した《栗原勇 遺稿「悲しい思い出/二・二六事件」》である。
取り敢えず 目次だけを御紹介しておく。各章のタイトルを辿るだけでも 栗原勇氏の御苦労が理解できる筈である。
◎(写)蹶起趣意書(村中起草)/◎安秀の性情/◎直接行動謀議/◎無茶苦茶裁判/◎悲痛な訣別/◎悲惨な告別と火葬/◎賑やかな通夜/◎仏に便る得度/◎三七忌と憲兵隊/◎警視庁と召喚/◎遺族・家族の擁護/◎我家の新墓地/◎共同命日の供養/◎共同墓地の建立/◎世間の理解と同情/◎故斉藤瀏君追悼の辞/◎結びの言葉。

「画面右」の冊子は《七月十二日という日」/「悲しい思い出 二・二六事件」(抜粋)栗原勇遺稿より》と題されて 平成9年の7月12日に 麻布賢崇寺の法要で配布されている。配布する理由は「はじめに」として記されている。
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(3行割愛)事件当時を知らない私には、昭和11年7月12日とその後の7月12日がどういう日なのかを懇々と諭されているように感じました。沈む心の遺族をまとめて仏心会を組織し、その中心となられて幾多の困難を乗り越えて法要をつづけられた栗原勇氏が「点した法灯を決して絶やしてくれるなよ!」と語りかけている気がしました。
本来なら、全文をそのまま印刷したいところでしたが、諸般の事情から7月12日という日にまとをしぼり、本文から抜粋整理して本小冊子を作製しました。栗原重厚氏はすでに鬼籍に入られていますので、栗原安秀、重厚両氏の御令妹・萩原香寿美さんや御遺族の了解をいただき、私なりの判断で一部仮名づかいを変えたり、(註)を加えてあります。
二十二士の御霊を弔う7月12日にあたり、皆様にぜひご一読いただきたくお配りする次第です。
平成9年7月12日  仏心会 河野進
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◎1936年/二・二六事件勃発。◎1954年/栗原勇氏逝去。◎1973年/栗原重厚氏「冊子」配布。◎1990年/河野司氏逝去。◎1993年/末松太平逝去。◎1997年/河野進氏「冊子」配布。
「ふたつの冊子」を整理すると このようになる。仏心会の歴史において「栗原勇氏の功績」が如何に重要であったかを ご理解いただけたと思う。

今回のタイトルは《「栗原中尉御遺族の願い」に寄せて》であり 本来は《寄せて》の部分をメインにして展開させるつもりでいた。しかし《寄せて》に到達する前に長文を費やしてしまった。やむを得ず「続きは次回」というこで・・。 (末松)
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◎「国葬」は遠くにありて思うもの?◎

2022年10月03日 | 末松建比古

◎「ふるさとは遠きにありておもふもの 近くば寄って目にも見よ」という冗句がある。筒井康隆サンの著作で読んだ記憶がある。
※「国葬」は遠くにありて思うもの・・・近くに寄って目にも見よ。寄って見た途端に アヤシイ事柄が続々と現れはじめている。
安倍元首相と旧統一教会との「ズブズブな関係」は(岸田首相の隠蔽工作にも拘わらず)次々に暴露されている。最近では 菅前首相の追悼文の「パクった箇所」までも指摘されはじめている。

 

◎画像参照。10月1日(土)。家人に誘われて「末松太平夫妻の墓」を訪れた。コロナ禍の影響もあって 久しぶりの墓参である。
※以前も記したが 東京都板橋区の我家から 千葉市若葉区の「平和公園・市営霊園」までは 片道2時間程の行程である。家人が元気だった頃は 彼女の運転する車で(自宅~墓地を)往復していた。妹夫妻と合流し食事を共にすることも多々あった。
千葉市舞浜区の大規模マンションに住む妹夫妻は 同じ棟の別フロアに「末松太平の遺品=書籍・資料類」を保管する部屋(3LDK)も購入していて 墓参の帰りに資料チェックをすることもできた。
※やがて 家人も後期高齢者になり「長距離運転は無理」になって 墓参は「都営地下鉄+JR総武線+JR千葉駅からバス」に変わった。 
※そして今回。墓参は「千葉駅からはバス」から「千葉駅からはタクシー」に変わった。家人の「バス停から墓までの歩行はツライ」に従ったためである。
本日のタクシー料金=九千円弱。人柄のよい運転手サンで快適な墓参ドライブだった。往路4800円を示した料金メーターも 往復では(バスの場合の往復料金2人分と比べて)割安感がある数字で納った。
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◎10月3日付で「hologram 2000」サンから「追伸」というタイトルのコメントが届いた。
※当ブログの「◎いささか腹が立ったので◎2010年3月4日掲載」に対するものである。
遙か昔の記事に対して 12年間の時空を超えてコメントをいただいたことには 感謝以外の言葉がない。

◎「hologram」サンに誘発されて 2010年3月4日付のコメント欄をチェックする。
※渋川明雄サンが「渋川善助が西田税宛に送った(末松太平の結婚についての)喜びの手紙」を紹介している。
渋川明雄サンは「当初は参列できない予定だった渋川善助が(末松太平がチフスに罹ったために)結婚式が延期されたお陰で参列できたこと」も紹介している。共に 私が知らなかった情報である。
※渋川サンは 当ブログを通じて親しくなり「末松太平事務所・同人」にもなった年下の友人である。しかし 若くして逝去されてしまった。
渋川サンが遺した「渋川善助の研究」の数々は 当ブログで今でも読むことができる。お読みいただければ幸いである。
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◎「安倍元首相襲撃事件」に関連して 前々々回に「末松太平の日記・1972年」の一部を転載した。
※しかし 古賀清志中尉(五・一五事件で死刑判決)は登場していなかった。ということで「続き」を少々。

※7月28日(金)・佐賀の古賀不二人さんから電話があり高橋空山の住所を教えろという。確かめて返事する。
※8月04日(金)・古賀不二人さんより電話あり。土曜日に遊びに来るという。
※8月05日(土)・夕方 古賀不二人さん来訪。いろいろ話をする。
※8月06日(日)・古賀さん一泊し 正午までいて 我孫子に向かう。
(古賀氏が末松太平宅に宿泊したことは知らなかった。当時の私は 東京都江東区の住宅公団に居住していた)

◎参考までに《古賀不二人著「私の歩道/五・一五叛乱将校の鎮魂譜」1986(昭和61)年・島津書房刊》からの抜粋を少々。
※「五・一五事件関係者」と「二・二六事件関係者」との連帯を知る一助として 古賀氏の行動の一部を紹介しておく。

※1956(昭和31)年01月29日・麻布賢崇寺にて故大岸頼好法要出席。
※1956(昭和31)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1957(昭和32)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1958(昭和33)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1960(昭和35)年03月26日・麻布賢崇寺にて故大岸頼好慰霊祭出席。
※1962(昭和37)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件法要出席。
※1962(昭和37)年05月02日・塾にて14時より政経新論座談会。三上・末松・佐郷屋・古賀・片岡千春参加。
※1963(昭和38)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件慰霊祭出席。
※1964(昭和39)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六事件法要出席。
※1965(昭和40)年02月26日・麻布賢崇寺にて二・二六碑除幕式および三十回忌法要出席。
※1966(昭和41)年01月28日・ホテルニュージャパンにて12時より日本及日本人社主催座談会/(社側=西山氏、栗原氏)
                    ・出席者=佐郷屋、小沼、末松、古賀。
※1966(昭和41)年02月26日・麻布賢崇寺にて、二・二十六事件法要出席。
※1966(昭和41)年03月07日・鎌倉市長谷91にて、故井上日召密葬出席。
※1966(昭和41)年04月07日・青山斎場にて13時より故井上日召葬儀出席。
※1968(昭和43)年02月26日・渋谷公会堂にて14時より二・二六事件第三十三回法要出席。
※1968(昭和43)年07月03日・霞山会館にて故相沢中佐三十三年忌法要出席。
(1969年から 古賀氏は本拠を佐賀県佐賀市に移して「大地塾佐賀道場」に専心従事するようになる)
※1971(昭和46)年10月26日・三上卓死去。航空便で上京。機内で林正義と邂逅。
※1971(昭和46)年10月28日・東郷会館にて14時より故三上卓葬儀。橘孝三郎葬儀委員長。弔辞。翌日帰塾。
※1972(昭和47)年04月14日・佐郷屋義昭氏死去。弔電。

※因みに 書籍「私の歩道」の扉頁には 末松太平が「古賀不二人さんより贈らる 昭和61年五・一四」と筆書している。
※《雑誌「新勢力・三上卓追悼号」昭和47年2月15日刊》には 古賀不二人「同志・三上卓さんの思い出」、末松太平「水よりも淡く」も掲載されている。
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◎「国葬」はとおくにありて思ふもの 近くば寄って目にも見よ。
※岸田内閣の支持率が急降下している。当然のことである。しかしながら 野党に追い風が吹いているわけでもない。
※国葬に纏わる様々な言動の中で 野党の「どうしようもない愚かさ」が次々と露呈している。情けない限りである。(末松)

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