◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「1936年7月12日」の真実◎

2024年03月09日 | 末松建比古


「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを 氏が受け継ぎ語り伝えて・・・」
民族革新会議の公式ブログで 過分なご紹介をいただいたからには これからも 老骨に鞭打ち《語り伝えて》いくしかない。

私が(来賓挨拶で)語り伝えた「7月12日」のことは、末松太平著「完本 私の昭和史/蹶起の前後(その二)」にも載っている。しかし「ドキュメンタリー」として書かれてはいないから、代々木練兵場の訓練のことなどは 全く登場していない。
来賓挨拶の《ネタ元》は、末松太平直筆の「未公開」原稿にあった。この原稿には(書込・訂正・削除など)推敲を重ねた痕があり、筆者の執念が感じられる。当人しか知り得ない「事実」も記述されている。ブログ掲載には長すぎるかも知れないが 敢えて全文掲載することにした。
・・・敢えて「未公開」と謳ったのは、掲載誌(紙)の類いが未だ見当たらないが故である。



◎画像は「未公開原稿」の一部分。以下は「未公開原稿」の全文である。
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 弘前の拘禁所には二十日間いた。その間に青森の聯隊から兵がひとり、哨令違反で入ってきた。歩哨に立っていて居眠りしていたのを巡察将校に見つけられたのだった。看守が可哀相な兵だ、と言っていた。家に心配のある兵は、人の眠るときに眠れず、その寝不足のため、かえって眠って悪い時に眠る。
 拘禁所にいる間に、師団法務部長の簡単な調べがあった。師団長に意見具申したり、電報を打ったりしたことと、私が佐藤正三に旅費をやったことなどが、叛乱幇助になるということだった。
 三月二十六日に東京へ送られることになった。一度青森に出て、東北線の夜の七時の急行に乗るのだった。
 一人に憲兵と看守が一人づつ附いたので、三人で六人の護衛に、憲兵大尉が総指揮をした。合計十人の一行だった。軍服に手錠は目立つというので、和服に袴に手錠をかけ腰縄をうち、それを上から二重廻しで隠した。青森で汽車が出るまでしばらく駅長室で休憩した。中の温もりで曇った硝子戸越しに、駅前の街の鈴蘭灯がぼんやり眺められた。雪切りを終わった街路に綿雪が音も無く降っては消えていた。

 翌朝着いた東京も曇り空だった。上野から三台の自動車に分乗して衛戍刑務所へ向かった。刑務所に着くとすぐ着換室で囚衣に着換えた。その時、帯を解いた志村中尉の嚢から、勅語勅論集が床に落ちた。捕われの身になってもなお膚身から話さなかったのだった。
 この時、私の脳裏に、さっき上野駅で自動車に乗るとき見た戒厳指令部の腕章をつけた大尉のことが急に蘇ってきた。我々を待ち構えていた三台の戒厳司令部の自動車の他に、もう一台、前の硝子に戒厳司令部と貼紙した自動車が並んでいた。その車に戒厳司令部の腕章をつけた大尉が、着飾った若い妻とその母らしい女性を、はしゃぎながら案内して、一緒に乗るとどこともなく走り去った。官物私用である。
 戒厳司令部ができて、民間の自動車を臨時に徴用すると、早速それを私用に使う。そんな将校が取締りの側に立ち、手錠打縄の身になお勅諭勅語を離そうとしない将校が囹圄の身になる。こんな階調の乱れが、将来の国策にどんな現象を生むだろうかと思った。
 弘前から附いてきた看守は、三人が着換えるはしから、羽織袴を片付けていた。兵隊の入営日に、軍服に着換える新入兵の着てきたものを、父兄が始末する風景に似ていた。着換えが終わって別れるとき三人の看守は、途中汽車の中では、お陰様で東京見物ができますと、喜んでいたのに、お身体を大切に、と泣きそうな顔で言った。
 監房に入ろうとするとき、近くの監房に栗原のいるのが見つかった。暗い中に栗原の顔がほの白く、夕顔の花のようだった。私を見て、いたずらっぽく笑った。しかし翌日はもう、その監房にはいなかった。

 獄中暦日なしで、はっきりしたことは憶えていないが、東京に来て一週間位して、私の予審が始まった。どこかの師団から増加派遣になったらしい予審官の軍用行李の上には、陸軍刑法講義録が乗っていた。
 この頃は、濡れても苦にならないほどの雨がよく降った。塀に沿った赤煉瓦道を伝って調室に通うと、調室に近いあたりは、塀越しに枝を差伸べた民家の大きな八重桜が盛りを過ぎて、一面に散った花瓣が雨に汚れていた。
 獄舎の外は兵隊が警戒していて、物珍しそうに監房を覗きこんだりする兵もいた。雨の降る夜は、怠けて監房のすぐ前の軒端に雨宿りして、樋を伝う雨音を伴奏に流行歌を歌う兵もいた。動物園の檻の中の猛獣を、子供が怖がらないように、叱る能力を失った将校を怖がるには及ばなかった。

 予審は私が三回位、続いて志村、杉野がそれぞれ二三回、大雑把に調べられて中断された。どうして引続き調べないのかなと思っているうち、蹶起将校の裁判が始まった。塀に沿った赤煉瓦道を、私たちの監房の前を、行列を作って裁判に通った。
 私の監房は、この赤煉瓦道に近いので、この行列が良く見えた。何もすることのない毎日だったので、この行列の行き帰りを送り迎えすることが、しばらくは私の日課だった。裁判が休みらしく行列が通らない日は、何か物足りなかった。
 ほとんどが黒紋付の羽織袴で、白足袋に畳表の草履を履いたり、桐の駒下駄を履いたりしていた。顔は覆面で隠されていたが、体つきで誰彼は判った。雪の多かったこの年は、雨も多く、その度に行列は難渋していた。手錠をはめた不自由な手で、袴の裾をからげたりしていた。
 季節は移って、行列の人々も羽織を脱ぐようになったかと思うと、そのうち夏姿も一人二人見られるようになった。

 行列は、六月のはじめ頃から見られなくなった。論告があって、判決を準備しているのだろうと思っていた。渋川の残した日記によれば、論告のあったのは六月五日となっている。
 この間に、我々三人の予審は無雑作に終わった。初めの頃より、予審官の態度が好意的になっていた。
 七月が近づいても雨は減らず、暑さは加わってきた。調室にいる予審官に、多摩川の船遊びの回書が廻ってきたりしていた。

 七月五日に、久しぶりに行列の出て行くのが見られた。判決を聞きに行ったのだった。渋川の日記の七月四日のところに「夕方、裁判宣告申渡ノ為メ、明五日午前九時ヨリ開廷ノ通知アリ。理髪ヲ行フ。之ガ最後ノ理髪ナルベシ」とあるから、前日の夕方知らされたようである。t続けて「叛乱幇助トカ、事件関係民間被告ノ公判モ開カレザル模様ナレバ、判決ハ当分遅ルルモノト思ヒ居タルニ案外早カリキ」ともある。
 刑が重かったことは、あらましを看守から聞いた。詳しいことは聞こうとはしなかった。

 判決の日は日曜日で、渋川の日記に「朝来曇天、公判ノ頃、暫時日照ス」とあるが、翌六日は「朝細雨、本降リトナリ終日止マズ」とある。この日に監房の入換えがあって、死刑になる十七人が一棟に集まった。監房が十七房だったのも不思議な一致だった。同じ日記には、その部屋割りが書いてあるが、第一房に安田、それから村中、水上、高橋、竹嶌、中橋、坂井、対馬、香田、栗原、丹生、安藤、田中、林、磯部、中島の順序で、端の第十七房が渋川だった。
 もうこの頃になると、お互い話し合うこと位は寛大にしたとみえ、七月七日の同じ日記に「夕ヨリ夜ニカケテ皆残念々々ト語ル。死ンデモ死ニ切レヌト云フ。士官学校ノ寝室ノ如キ感アリ。楽シ」とあって、士官学校時代、消燈ラッパが鳴ったあと寝室で、週番士官に「早く寝ろ」と毎度のように叱られながら、その裏をかいて、よく無駄話をして楽しんだことを偲んでもいる。

 判決があってからは、面会や差入れで赤煉瓦道は賑やかになった。差入れは処刑の日が近づくにつれ増えてきた。手提籠に入った果物や、木箱の菓子などが、ここには不似合いな華やかな風呂敷に包まれたりして運ばれていた。運ぶ看守も、服装を改めていて、何かこれからお目出度いことでも始まりそうな気配だった。しかしそんな情景とは別に、刑務所の一隅、風呂場の裏に、処刑場は完成を急いでいた。風呂には大分前から、風呂が壊れたといって、入れてくれなくなっていた。

 処刑の日は、十二日だった。
「七月十二日(日)朝晴、今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ッテ夜ニ入ッテハッキリ解ッタ」と、渋川は書き遺している。
 前日の夜は、お互いの話声が、間に一棟を隔てているのに、私たちのところまで、はっきり聞こえてくるようになった。夜が更けるに従って、詩を吟じたり、お経や祝詞をあげているのも聞こえてきた。私はいつものように就寝の鐘を合図に、獄則通り寝床に入ったけれど、容易に寝付かれそうもなかった。渋川の般若心経をあげる声が特に耳を離れなかった。そのうち暫くまどろんだようだったが、眼が覚めてみると、まだ暗かったが明け方近い感じだった。話声は昨夜のままだった。夜通し話していたのだろう。残る同志の名を呼んで、あとを頼む、などとも言っている。
 夜が次第に明けると、一面の靄である。すると突然、君が代の合唱が起こった。続いて天皇陛下万歳を三唱、大日本帝国万歳を三唱、あとは士官学校の校歌を歌う者もいた。

 靄が晴れかかった頃、赤煉瓦道に沿って、看守が一定の間隔をとって墸列した。とみるうち、元気で行けという声がしたかと思うと、第一の組の五人が、間の一棟の獄舎の蔭から現われてきた。先頭から将校のときの古参順に、香田、安藤、竹嶌、対馬、栗原と並んで来た。一人一人に看守が一人づつ附添い、看守長が一番左に附添っていた。看守長は左手に目隠しにするらしい白布を捧げていた。
 新しい夏の囚衣が死出の晴衣だった。いつもの覆面は今日はしていず、新しいスリッパを履いていた。そのスリッパの音も軽く、通り過ぎていった。墸列の看守は、通り過ぎる一人一人に、挙手の礼をして見送った。

 靄がまだ晴れぬ頃から、代々木練兵場では激しい空砲射撃が始まっていた。機関銃や軽機関銃が、ひっきりなしに射ち続けていた。処刑が迫るにつれ、それはひときわ激しくなった。しかし、その射撃の音も、実弾の音を紛らすことを出来なかった。天皇陛下万歳の絶叫と同時に、実弾特有の重い鋭い音がした。

 第一回が終わったのは、午前七時という。
 第二の組は、丹生、中島、坂井、中橋、田中の順だった。
 第三の組は、安田、高橋、林の年少将校と、民間の渋川、水上の年長者だった。
 
 第三回が終わったのは、八時三十分という。
 処刑が終わると、練兵場の射撃はぴたりと止んだ。反動で一瞬真空のような静けさになった。その静けさの中を、ラジオ体操の放送が近処の民家から流れてきた。七月十二日は「朝晴」と、渋川は日記に書いている。

 みんな天皇陛下万歳を叫んで死んで行った。奉勅命令に反抗したというけれど、それもこれで帳消しだろう。
 もっとも、奉勅命令は聞いていないと、みんなは法廷で言っていたと看守から聞いた。後で聞くと、山口大尉が間で握りつぶしたから、聞いていないのが本当ということだ。
 しかし、奉勅命令に反抗したことを楯にとって、裁判は進められた。錦の御旗が担ぎ出されたわけだが、昔から担ぎ出された錦の御旗に本物はないそうだ。裁かれる身になって、奉勅命令がどうのこうのと言ってみても仕方はない。被告人の国体観は━━と犯罪の一環として訊かれる国体観に何の意義もないように。

 この日から、監房が一棟そっくり空いた。看守も勤務が軽減されただろう。二・二六事件もこれでクライマックスは終わった。
 昼頃、黒い衣の坊主が、もののけのように、スーッと廊下を通り過ぎていった。
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以上が「獄舎の中」から伝える「七月十二日の真実」である。当然「獄舎の外」から伝える「七月十二日の真実」も知りたくなる。

「・・・ここに三角友幾氏の二・二六事件処刑前後のことをしるした手記があるから、その一部を抜粋して、当時の事情の一斑を知る参考にしよう」
《末松太平著「完本 私の昭和史」/夏草の蒸すころ》に登場する三角友畿氏(松本市郊外で長期療養中)は、渋川善助に兄事していた方である。抜粋された手記も「獄中の渋川善助」を中心に記されている。
「七月七日、面会許可の通知が来た。嗚呼何もかもお終いだ。」
「七月十日、朝早く出かける。今日は直ぐ面会出来た。憲兵に身体検査をうけ、法務員の身許調べをうける。例によって渋川さんの甥になり済ましている。係員も全然気がつかぬでもあるまいが、大目に見ているのであろう。
「奥さんに導かれ、渋川さんの圄両親、御兄弟、奥さんのお母さんと兄さん、渡辺さん御夫妻と面会所に入る。八畳敷ばかりの土間だ。
「直ぐ正面の机の前に、紋付姿の渋川さんが立っておられる・・・・」以下省略。
「完本 私の昭和史」には 渋川善助の遺体を霊柩車で落合火葬場に運び 荼毘に付すまでが 丁寧に記されている。

末松太平=獄の内から見た光景。
三角友幾=獄の外から見た光景。
渋川善助を念頭において併読すれば「七月十二日」の真実が見えてくる。(末松建比古)
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