◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「北島弘伍長」のはなし◎

2006年02月28日 | 末松建比古


陸軍歩兵伍長の北島弘サンは、大正5年生れ。昭和11年7月5日、東京陸軍軍法会議で、禁錮5年の判決を受けた。
判決文の一部を引用すれば、理由は「小銃分隊長トシテ兵九名ヲ率ヰテ、同邸(斎藤実内大臣私邸)表門付近ニ於テ警戒ニ任ジタリ」
北島伍長所属の「歩兵第三聯隊第二中隊」に「事件に参加した将校」はいない。「下士官6名と兵12名」だけが参加している。その結果「命令ではなく自ら進んで参加した」とみなされて、他の中隊の下士官に比べて、重刑が科せられることになった。

末松大尉(青森)と北島伍長との間には、全く接点がなかったが、同じ日に釈放されたことで「縁」が生れたようである。
私が 北島サンと知り合ったのは「末松太平が死んだ後」のことである。それ以来、北島サンは 法要で出会う度に「すえまッつァん、来てくれたんだ」と嬉しそうな笑顔を見せてくれている。
「あなたのお父さんと、一緒に釈放されて、仕事も紹介してもらった」という昔話も、何度も聞かされた。生前の親父とは「話し相手にならなかった」冷淡な私だが、北島サンから聞く「親父の話」には、心が和ませていただいている。

ここ数回、北島サンは賢崇寺の「法要」を欠席。心配していたのだが、久しぶりの笑顔に出逢えて「嬉しい2月26日」になった。(末松)
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◎河出文庫「二・二六事件」◎

2006年02月21日 | 末松建比古
●河出文庫「二・二六事件」太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著。2006年2月20日初版発行。750円+税。

この本の優れたところは「皇道派も統制派も単なる俗称で、政治結社的な意味合いはない」と明記したこと。今までの「低レベルの本」は、あたかも「皇道派という集団」が存在したかの如く解説していて、その度に、末松太平は立腹していた。
賢崇寺の法要で、見知らぬ自称研究家から「末松大尉は皇道派ですね」と訊かれて「何々派という組織は存在しない」と説明。でも、相手は「?」と理解できない感じ。見当外れの問答が続いて、最後は「もっと勉強してから質問して下さい」と背を向けた。怒りっぽいのが我が短所なのです。

判りやすい文章の例「粛軍の名の下に事件にまったく無関係だった皇道派青年将校も起訴されている。極端な例では青森の末松太平大尉、鹿児島の菅波三郎大尉、朝鮮半島羅南の大蔵栄一大尉など、東京にいなかった者まで断罪された」P204。

判りやすい紹介の例「第2部・戒厳令下の暗黒裁判」の「第2章・昭和維新を掲げて 二・二六事件の決行者たち」
野中四郎大尉を筆頭に、自決及び刑死した全員のプロフィル(写真付き)を適確に紹介。皆様の人柄が、読者の心に迫ってくる。

西田税氏の「顔写真」は「私的な集合写真」から複写されたもの。西田氏の写真は少なくて入手困難。様々な場に「この写真」が流用されています。
私的な集合写真=末松太平夫妻の結婚式の集合写真。いずれ、当ブログに掲載する予定でいる。
(本日の写真=賢崇寺法要の世話人、今泉章利氏と安田善三郎氏)
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◎「昭和ー戦争と天皇と三島由紀夫」◎

2006年02月20日 | 末松建比古
小さな本屋さんには申訳ないことだが「大型書店に行かないと出会えない本」があるのも事実。
ウオーキングの途中で、さいたま新都心駅前の「紀伊国屋書店」へ。予感が適中して、2冊の本に出会えた。
言霊に招き寄せられ(膨大な書籍の中から)3冊だけを手に取って そのうち2冊に「末松太平」発見。直ち購入 歩行再開。
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●「昭和ー戦争と天皇と三島由紀夫」朝日新聞社、2005年12月第1刷発行、1500円+税。内容は対談の4本立である。
①半藤一利×保阪正康「昭和の戦争と天皇」
②松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」
③原武史×保阪正康「昭和天皇と宮中祭祀」
④冨森叡児×保阪正康「戦後日本を動かした政治家たち」

●(②の中から、松本健一氏の発言を御紹介)
(前略)私は北一輝のことを書くようになり、二・二六事件のことを書くようになってから、青年将校の代表的な人物の一人であった末松太平さんと深く付き合うようになりました。末松さんには「私の昭和史」という三島さんも推賞している有名な本があります。この人とたくさん手紙をやりとりするようになりました。これは世の中に全く出しておりませんが、三島さんは「憂国」や「英霊の声」を書くときに、二・二六事件のこと、青年将校のこと、当時の軍事のこと、そういうものを全部、末松さんに取材して書いたのです。やがて三島さんが深入りしていく。そして「武人として死にたい」というようなことを言い始めた。末松さんは青森連隊にいたということもありますが、最終的に事件には加わっていない。きわめて知的で、冷静な距離のとり方をする人で、最後には蹶起に加わらないという立場をとった。(以下省略)

「きわめて知的で、冷静な距離のとり方」という評価は、長男として感謝感激。
但し「蹶起に加わらない立場」は事実誤認の解釈で 訂正が必要。末松太平は(加わらなかったのではなく)事前に「何も知らなかった」というだけのこと。
(写真説明=賢崇寺の法要。関係資料の公開)
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◎白井タケさんの話◎

2006年02月19日 | 末松建比古
末松敏子サン(92歳)の衰弱を見るにつけ、比べてしまうのが、白井タケサンの状況。
母に比べて「気力」も「魅力」もけた違い、挫折を乗り越える「意力」も凄いのだ。

●白井タケさん。對馬勝雄中尉(死刑)の実妹。1911(明治44)年3月生れ。まもなく95歳。
麻生の賢崇寺は、急坂を登りつめた高台にある。だから「あの坂が登れなくなったから」という理由で、法要に顔をみせなくなる事件関係者も多いのだ。
白井さんは、車で賢崇寺に現れる。法要の席につくまでにも、数段の昇り降りがあるのだが、特にキツイのは「直会の場」への移動。座敷は二階にあるから、長い階段を上るしかない。でも、白井さんは、ゆっくりとした足取りだが、自力で昇り降りしている。
会話もしっかりしている。直会の席では、日本酒を美味しそうに飲む。カップが空になると「末松さん、もうないの?」と催促する。でも、転ぶと大変なので2缶まで。この程度では、酔ったりしない。元気である。今年も、2月26日に、元気な白井さんと出会うのが楽しみである。
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写真。2004年7月12日、私のデジカメでセルフタイマー。私は(法要なのに)いつもラフな服装である。
中央は、今泉章利さん。今泉義道少尉の次男。超一流企業の現役で、海外出張も多い日々。亡父の遺志を継いで「慰霊像護持の会」に奉仕している。
(末松)
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◎二・二六事件と千鳥ヶ淵緑道◎

2006年02月08日 | 末松建比古
2月7日(火)靖国神社。
宮崎県日向市在住の「歩友」山本氏夫妻が上京。リクエストに応えて「都内ウオーク」を企画した。
池袋駅で待ち合わせて、靖国神社へ。本日=北方領土の日。九段下駅の周辺は騒然とした雰囲気だった。
大音響をガナリたてる街宣車とは異なり、靖国神社に参拝する「制服の集団」のマナーに感心する。
リーダーが「一般の方々に迷惑をかけるな」と、厳しく注意。整然と並んだ大集団の「参拝姿」が 快かった。



靖国神社から「千鳥が淵戦没者墓苑」へ。
山本氏の父上は南方の戦場で戦死した。遺体も遺品も山本家には戻らなかった。山本家の墓には「魂」だけが納められている。
心を込めて献花。皇居東御苑を経て、皇居外苑(楠公レストラン)で食事。国会前の憲政記念館を見学、永田町駅から帰路へ。有意義な「山本氏夫妻歓迎ウオーク」でした。

千鳥が淵戦没者墓苑に「墓苑周辺の歴史散歩」という印刷物(無料)が置かれていた。きめ細かい内容で、勉強になった。
豊富な項目の中から「二・二六事件関連」の部分を引用しておきたい。
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◎「二・二六事件と千鳥が淵緑道」
美しい千鳥が淵緑道沿いのこの地の一角で、昔、大がかりな流血の惨事が発生したことを知る人は、今日では稀である。
(中略)その時の侍従長官邸は、現戦没者墓苑の隣の宮内庁三番町宿舎の所にあって、表門は、墓苑東門入口を緑道側から十m程入った右側に、裏門は鍋割坂に面する宮内庁宿舎の所に開いていました。
安藤大尉以下二百名の兵員は麻布の連隊を出発、午前五時頃、侍従長官邸に到着。表門前、裏門前の道路と玄関先に重機関銃を配置しました。反乱軍は両門から邸内に侵入。
(中略)反乱軍は、敬礼を捧げた後、隊列を組んで壕端通り(現在の千鳥が淵緑道)を半蔵門方向に退去していきました。
(中略)因みに、宮内大臣官邸と秘書官官舎は、当墓苑内に建てられていました。
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◎山口富永さんの話◎

2006年02月04日 | 末松建比古
今年の正月。山口富永さんから(久しぶりに)年賀状を戴いた。「お母上はお元気ですか」と書き添えてあった。

山口富永(ひさなが)氏。1924年、長野県大町市生れ。国学院大学進学を病のため中途で断念。大町国民学校勤務中召集。在京部隊に入隊後再び発病、箱根陸軍の療養所にて終戦。戦後一貫して政治、思想運動に挺身して現在に至る。
(著書「二・二六事件の偽史を撃つ」平成2年国民新聞社刊に記載された著者略歴)

末松太平が山口氏と知り合ったのは、晩年のこと。ある理由(ここでは書かない)によって、太平が「賢崇寺法要に行かなくなった」後のことである。
末松太平著「私の昭和史」は、高橋正衛氏の熱意に拠って“世に出た”のだが、晩年の末松は、高橋氏に絶縁を言い渡す。そして数年が経過した。
末松の死後に(火葬場との関係で)通夜及び葬儀までの間、遺体は千葉市登戸の自宅に寝かされていた。通夜の前日、高橋氏が来訪して「お父上に絶縁されたので、葬儀に顔を出せません。せめて、御遺体と対面させて下さい」と言われた。
私自身は、高橋氏に対し、悪い感情を抱いていないので、有難く対面していただいた。実は、クールな息子(私)は“死に顔は見たくない”と思っていたので、それまで“白い布”被せたままで顔を見ていなかった。高橋氏のお陰で(一緒に)遺体との御対面が果たせたことに感謝しなければならない。

末松太平と高橋正衛氏の、突然の絶縁。その原因をもたらしたのが、山口富永氏ということになる。


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●山口富永氏著作「二・二六事件の偽史を撃つ」の一部。
昭和63年2月21日、NHKが放映した「二・二六事件/消された真実」の匂坂検察官資料に振り廻された騒ぎを機会に、私は二・二六事件に連座した末松太平氏を知った。知った経緯は省略するが、私はこの末松氏を通じて、末松氏のことばを借りれば、「真崎組閣説は、しかし今回に始まったことではない。そのことを、私は今回の匂坂騒ぎを機縁に知らされた。灯台下暗し、高橋正衛著、中公新書『二・二六』の初版本は贈呈されて我が蔵書の中にある。真崎組閣説の発祥は此の本にあり、延長されて今日に至ったというわけである」と、さらに「初版は昭和40年だから今年で24年の歳月を送り、すでに40版を重ねている…」というのである(『史』第70号)。
が、この高橋氏と私は、平成元年2月22日、末松氏の仲介の労によって、末松邸で対決する機会を得た。(中略)末松氏は、さらに『史』のなかで、このことについて「昨年8月山口は、真崎組閣説について真偽を正すべく、立会人をおいて高橋と対決しようと思うがと相談してきた。私は対決と聞いて、すぐ郷里の巌流島のことを思い浮かべた」と、仲介の労をとったことを述べ、「結論は簡単であった。あっけなく決まった。高橋は、真崎組閣の件は推察で、真実ではない、あやまります、といった」と。
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その後の話を書いておく。
末松太平死去(1993年)直後の2月26日から、末松建比古は「賢崇寺」に参列することになる。法要終了後は、二階大広間で直会となる。
山口氏は、離れた席に高橋氏を発見すると、喧嘩を売りに行こうとする。仕方なく、私は高橋氏の隣りに坐って「ボディガード役」を務めることになる。
当時、山口氏は、相澤正彦氏(相澤中佐の御長男)を囲むグループにいた。私は相澤氏と親しく、直会終了後は蕎麦屋にお供するのが定番だった。
法要に集う方々は、主義主張も様々で、一触即発の気配もある。私は、自然に中立地帯の役割を果たすことになるのだが、やはり“末松太平氏の御長男”という威光(?)が有効だったようである。

高橋正衛氏は亡くなる前年まで、賢崇寺に現れた。直会では、酒好きの高橋老人のために「ワンカップの蓋を開けてあげる」のが、私の役割だった。
山口氏も、かなり以前から賢崇寺に現れなくなった。相澤正彦氏の葬儀にも顔を見せなかった。因みに、相澤氏の通夜と葬儀に参列した「二・二六関係者」は、私独りである。
相澤氏も、ある時期から、賢崇寺に現れなくなっていた。重病のためもあるが、それ以前から「考え方の違い」で法要に背を向けていた。相澤氏の訃報は、世話役諸氏(仏心会と慰霊像護持の会)には知らされなかったらしい。
正彦氏逝去の翌年から、相澤未亡人が賢崇寺に参列するようになった。世話役諸氏とは「お互いに距離感がある」ので、双方への気配りが、私の役割になっている。(末松)
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◎二・二六事件「慰霊像」の話◎

2006年02月03日 | 末松建比古



平成17年2月26日。賢崇寺の法要で配布された「資料」を改めて公開。
文意を損なわぬ範囲で些細な修正をしてあります。文責=末松建比古。
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●慰霊像建立経緯と現状のご報告・御礼
 慰霊像護持の会 世話人今泉章利

(1)建立の経緯
・衛戍刑務所:明治時代に設置。終戦時に米軍に移管。ワシントンハイツの車両修理所として使用。
・昭和11年7月3日(相澤)、12日(15士)処刑。昭和12年8月19日(4士)処刑。
・昭和36年3月。北一輝未亡人没後十年法要の際、小早川秀浩氏(岡崎英城代議士秘書)より、刑務所跡地返還の話あり。
・昭和36年7月12日。米軍の許可を得て、慰霊祭実施。供養塔建立。
・昭和40年2月26日。二・二六事件慰霊像建立(河野司・小早川秀浩・末松太平・藤田俊訓)。設計=川元良一。観音像=三国慶一。像銘「慰霊」=高階龍仙老師(曹洞宗管長)。由緒書=河野・末松。由緒書揮毫=花田峰堂。開眼供養=参列者1000名。
・昭和40年~51年(12年間)。今泉義道氏が、月2回(12日と26日)清掃・献花。
・昭和52年~56年(5年間)。今泉義道氏が、四国巡礼後、月6回(2と6のつく日)清掃・献花・般若心経と十句観音経。「凛とした気品と清浄なる雰囲気、花これ絶えず」
・昭和57年2月~58年。慰霊像護持の会、準備期間。
・昭和59年2月26日。慰霊像補修漆塗り工事。植栽管理、石材工事。
清掃・献花のため「慰霊像護持の会」を正式結成。世話人=柳下良二・池田俊彦・赤塚(鈴木)金次郎・佐々木喜市・北島弘・今泉義道(常任)。監査=賢崇寺。

●現状と御礼。
・北島弘、以下5名で当番表により、週1回の清掃・献花を実施。
・年間収入は通常15万円程度(漸減傾向にあり)支出もほぼ同額。慰霊像の募金箱に年間7千円。経理は、経理台帳、領収書、銀行通帳などで管理。会計報告は、従来通りに賢崇寺が監査。
・朱塗り補修工事は、大変高価なため(5百万円ほど)現状は着手不可能。必要なれば水洗いなどを検討。
・全国各地より寄せられた御浄財をもとに、いつも、皆様とともに当番をさせて頂いております。心より厚く感謝申し上げます。  以上。
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