◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

17.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170206) 水上源一さんのこと(その16)

2017年02月05日 | 今泉章利
17.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170206)
水上源一さんのこと(その16)

水上さんのお話が、長くなり申し訳なくも思いますが、記憶をたどれば、水上さまの長女、宣子さんから、父親のことを調べてほしいと言われたのは、今から12年前,私が55歳のときでした。その後東京地検に裁判資料閲覧の許可を申請。三度目の審査を経て東京地検より得たのは、11年前。簡単に水上源一論をまとめられると思いながら、閲覧作業を行っていたのですが、これが結構大変で、実際の事件の法務上の処理を書き写すという作業は、生半可でなく、かてて加えて、仕事がとても忙しくなり、海外出張の連続。その後、小生の60歳定年、定年延長さらには関連会社への出向転籍などや、体調の不振。などが重なりました。
然し、正直に振り返ってみると、根本的には、水上さんの行動や気持ちが今一つ理解できず、心の中で、水がせき止められてしまった様でした。
しかし、今回、このブログで書きながら、改めて、収集済みの資料を再読していると何かが見えたような気がいたしました。
そのような気持ちに立つと、ここまで書いたのは、実に序章の序章で、まだ大量にある資料を見乍ら、67歳の自分に残された寿命の短さにぞっとしております。然し乍ら、父と同期の池田俊彦さんが「生きている二・二六」を書かれたのが73歳だと想起すれば、いやいやまだやれると思う気持ちにもなれます。

さて、水上源一さんのことを考えると実に多くの遺墨、手紙、遺品があります。遺品には柔道着とか、写真や日大の卒業アルバムとか、補充電信兵として応召したときに与えられた実印の入った貴重品袋、奉公袋、軍隊手帳、教育を受けた際の手帳など、また、多くの遺墨を書いた紙は、障子紙で、「美濃本場 御障子紙」書いてある包み紙まであります。
で、それをしっかりと持っていたのは、奥様のはつねさまであり、それを、引き継いだのは、宣子様であり、この保管のことを考えただけでも、強い愛情や同志の思いが伝わってまいります。

賢萗寺のお墓は、「水上源一家の墓」となっており、はつねさまが建てられたものです。
写真は、水上源一一家三人で撮られたものです。 又、お墓の写真は仏心会の安田様がお参りしているものです。いずれも掲載許可をいただきました。

  

水上さんは日本のために「捨て石」となられました。然し、そのお名前は歴史に残り、お墓の中で今は奥様と、そして天から宣子様を見守り、いつの日か、あたたかく、一家揃って、お過ごしになるのだろうと思います。
長くなりましたが、とりあえず筆を擱きたいと思います。

私が実際に接した水上源一さんのご長女、宣子様は、私に新しい二・二六事件の新しい理解のきっかけをくださいました。いつまでたっても御報告が出来ないことに対し、ここに改めておわびするとともに、その一部を書かせていただきました。


源了院剛心日行居士 昭和十一年七月十二日  水上源一 二十九才
初了院妙観日光大姉 平成五年七月二十二日  水上初子 八十二才  注:はつねさまのこと。
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16.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170205) 水上源一さんのこと(その15)死刑判決を妻に知らせる手紙

2017年02月05日 | 今泉章利
16.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170205)
水上源一さんのこと(その15)死刑判決を妻に知らせる手紙


お話しましたように、昭和11年7月5日、水上さんは、死刑の判決を受けます。懲役15件の求刑から突然の変更、極刑です。以下は、この7月5日日、源一さんは、獄中で、妻はつね(初子)さんに、手紙を認めます。悲しいけれど書きます。

封筒には赤い三銭切手が貼られ、消印はよくわかりません。あて先は「東京市麻布区霞町一 水上はつ子様」。封筒の裏は、「渋谷区宇田川町二八 水上源一 昭和十一年七月五日」とあります。

4枚の便箋に書かれています。はじめと最後の名前の後に水上さんの印が押してあります。

「 印  拝啓 長い間御無音に打過ぎ誠に申訳け御座いません。 其の後如何暮しかと毎日心配致して居ります。  先日お前等の事に就きまして 松本さんにお願ひのお手紙を日大歯科□気付にて差上げましたが ご多忙か未だ御返事ありません。
お前らの後顧の患も考ず今回の事件に参加致しました。 しかし賢明なるお前は良く私の心を諒解してくれる事と思えます。
甚だ申兼ねる次第ですが本日(七月五日)東京軍法会議に於て死刑の言渡を受けました。
しかし決して嘆かずに下さい。私の只今の心境は今年の正月に書初致しました通りです。
決して取り乱さぬよう。人は一代ですが名は末代迄です。身体は此の世から消るとも 魂は必ず
お前と宣子の頭上にありて何くれとお守り致します。これより女の手一つで宣子を育てる上は
幾多の困難に出会ふ事でせうが何卒宣子を立派に育て上げる様お願ひ致します。
二人の□子は不幸にして男子無き故 私の意志を次ぐ事出来ず 残念至極に存じますがせめて宣子が生長の暁には私の意志をお聞かせ下さい。
お前も御承知の如く小さい時から母上様には勿論兄上様には非常なる御恩を受けて居ります故 何卒私にかわり 母上様、兄上様に御恩返し下さる様
今後の事は兄上様とよくご相談の上決せられたし。

宣子へ。
宣子の生れいづる時 父は獄にて知らず、今又可愛時代を見ず天皇陛下の御ため死する。
宣子も又父の顔を幼い故知らずに残念であらうが、寫眞をみて昔の記憶を呼び起せ。
父に逢いたければ、墓場に来たれ 父は喜んで迎ふ。
母は女手一つで宣子を生長させる故我儘を云わず 母の云う事を良く守り立派なる女子となり母に孝養せよ。
此の書面は最後と思ふが十二分に身体を大切にせよ。
私もあの世とやらから 初子と宣子の御壮健と御幸福を祈る。
もし此の書面が早く到着したなら至急面会においで。

先は、永久に永久に左様奈良
御機嫌やう
吉田豊隆兄 澤田一敏兄初め 皆様によろしく。河原の叔父母様によろしく。

昭和十一年七月五日

水上源一 印

初子 宣子様  」
注:写真は手紙の一部、三枚添付します。



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15.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170204) 水上源一さんのこと(その14)湯河原襲撃ー2

2017年02月04日 | 今泉章利
15.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170204)
水上源一さんのこと(その14)湯河原襲撃ー2

水上さんのみならず二・二六事件の一次資料という意味では、もちろん、(元東京地検にあり、いまは)国立公文書館にある裁判資料が一級と思います。この一日も早い公開が待たれます。拘束から判決、処刑までの130日間の記録です。
世界的にも類を見ない記録だと思います。

あと、神奈川県公文図書館というところにある神奈川県特高関係資料という警察の資料もあります。「二・二六事件前後の神奈川県特高関係文書」(今井清一)というリストがあり、右も左も博徒まで、213資料があり、そのうち、牧野さん襲撃関連は、横須賀の病院に入った宮田さんのもの、牧野伯に関するものなどのほか、番号でいうと、104,107,110-135、145-147、165、178-など(以下略)があります。
ひとつ注意いただきたいのは、「私はそのときその場にいた、、」という様な断片的な新聞や週刊誌などに書かれている記憶たよりの資料が時々ありますが、長い年月で、勘違いが増幅して、思い違いを「真実」として語る場合もあるので、わずか80年の歴史であるが注意して資料を扱うことが重要であります。
あとは、国会図書館の憲政資料室がおすすめで、未開拓の資料が山のようにあります。皆様の地道な研究を期待しております。

資料は、いきなり詳細について述べれているので、どうしても我々は、資料を読むのではなく、資料に読まれてしまう傾向にあります。
ご自分なりに、おおまかでいいので、事件の年表と全体像をつくられて、この資料はいつ、どういう人が作ったものかを、評価しながら読むことが必要です。一次資料なのか、孫引きなのか、歴史家は、文章がうまいので、注意深く読むことが必要です。
私の父の事を、佐賀出身であるということだけで、事件を前々から知っておきながら、裁判で知らぬ存ぜぬというような卑劣なやつと、田中惣五郎という著名なひとが、想像断定して書いていた記事を、今でも悲しく思い出します。きっといつの日か、誰かが図書館とか古本屋でこの本を見つけ出し、「これが真実」と思う日が来るのかもしれません。父はノンポリで、軍務教育に専心しておりました。このように歴史は、作られていきます。
真崎黒幕論、北一輝黒幕論、あるいは、取るに足らないことをあげつらう学者や文筆家がいます。
この事件が、起こった理由が何で、結果的に我々になにをもたらしたか。あの翌年、日中戦争を勃発させたのはだれか。なぜ国民は非難できなかったのか。争臣はなぜいなかったのか。
女性や子供までも犠牲にした国家総力戦は、どうして食い止められなかったのか。21世紀の我々は、次の世代にどのような教訓を残せるのか。

「誤謬は常に繰り返される。従って真実は繰り返し繰り返し語られなければならない」 (ゲーテ)
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14.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170203) 水上源一さんのこと(その13)湯河原襲撃ー1

2017年02月03日 | 今泉章利
14.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170203)
水上源一さんのこと(その13)湯河原襲撃ー1

これから研究される方に、いくつか参考の文献をご紹介しなければなりません。
まずは、河野司(つかさ)様の、「湯河原襲撃」(日本週報社、昭和40年2月発刊)があります。この昭和40年は、渋谷宇田川町の衛戍(えいじゅ)刑務所の処刑場跡に「二・二六事件全殉難物故者慰霊観音像」が建立された年で、河野司さまは、仏心会代表として、構想から全国の協賛金募集からプロジェクトの完成まで10年間、末松太平さまたちと推進されていました。
この本には、河野大尉の遺書や三島憲兵隊長の宮内善則さん、や事件参加した方たちの寄稿等があり貴重な本です。
また、湯河原事件で水上さんと同じく参画した、最古参の宇治野時参(ときぞう)軍曹や、野中大尉の自決に、最期まで一緒だった井出宣時大佐のことなどもまとめてあり、是非ともご一読願いたいと思います。
河野司さんは、明治38年1月の生まれ。当時60歳の著作です。裏表紙には出版社が書いた次のような記載があります。

「昭和の悲劇 天皇を奉じた民主革命 昭和11年二月二十六日早朝、降り積もる白雪を蹴立てて、第一師団管区の青年将校が率いる千数百の将兵は突如クーデターを決行し、首相官邸など数か所を襲撃し、重臣たちを殺害した。世にいう「二・二六事件」である。軍は事件の真相を国民にひたかくしにかくしたが、その裏には大義と骨肉の最上の相剋に悩む純真な青年将校や、その肉親、上官、部下たちの悲しくも温かい人間の心と心のふれあいが秘められていたのである。
本書は、牧野伸顕伯爵を湯河原に襲撃した痕、果物ナイフで自決し果てた元陸軍航空大尉・河野壽の実兄司氏が、実弟をはじめ野中四郎、安藤輝三両大尉の行動や心情を書きつづった号泣の書である。編集者も泣けば、装丁家も泣いた。おそらくはすべての読者も泣くに違いない書である。」

読者には、「天皇を奉じた民主革命」という言葉に注目された方もおられるかもしれません。この言葉は、極東裁判のためGHQに呼ばれた斎藤瀏少将(注:歌人斎藤史さまのご尊父、二・二六事件で禁固5年)から、河野司さまへの手紙の中に書かれていました。手紙の中で、斎藤閣下は、各種資料を提出し、説明議論のすえ、米国検事から、「アメリカは二・二六事件の真相を明快に解明しました。二・二六事件は天皇を奉じた民主革命でありました。」との言葉をもらった、とあり、その中の「天皇を奉じた民主革命」という言葉であります。河野司さまは、これこそ二・二六事件の目途とした「昭和維新」の真の姿を解明する最大の鍵であると書いています。
実際、末松様が、戦争に負けたら、突如として自分たちの主張していた憲法が目の前に現れたと言っておられたように記憶しています。

注:この言葉は、昭和11年6月4日の将校班23回公判時における検察側求刑文書中、北一輝の目的とした「(社会)民主主義革命」を行った行動であったとする検察の陳述中の「(社会)民主主義革命」の意味とは、明らかにことなります。青年将校はその日の午後、等しく、天皇陛下に現状を伝えない重臣たちを打倒し、人々の苦しみをお知らせし、日本をよくしてほしいというものであったので、行動は北さんの主張するものとは関係ないと主張しています。検察は、何とか、青年将校の行動は北一輝の扇動によるものとしたかったのでしょう。河野司さまが書いておられるように、維新を目指したものとはなにか。丁寧な検討が必要と思います。


この本には、水上さんに関する二つの重要な点が記されています。

一つ目は、河野壽大尉は遺書の中で「自分の率いた部下7名はすべて自分の命令によって行った。彼らには何の罪もない。」と言って居られることです。
 「三、小官引率セシ部下七名ハ小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ  御考配ヲ願フ」
つまり水上さんたちは、自分の部下なので彼らには罪はないと言っておられます。ご自分は自決することによってお詫びすると言っておられます。(注:この隊は、二月二十五日深夜に、歩一で栗原中尉によって紹介され、構成された部隊)

二つ目は、宇治野時参(ときぞう)陸軍歩兵軍曹のことです。宇治野さんは、湯河原隊における、唯一現役、歩兵一聯隊第六中隊の下士官でありました。(もちろん隊長の河野大尉は現役ですが。)
栗原中尉は、この隊は全員、一騎当千の憂国熱血の士であったが、実際の戦闘行為における、中心となる現役の下士官として、宇治野さんを選んだと言われています。
以下は、河野大尉亡き後、公判を受けていた七名の隊員のうちの唯一現役の下士官、宇治野さんをめぐる河野司さんの記事であります。多少長くなりますが引用します。

「襲撃は、当の牧野伯爵を逃がして失敗に終わった。護衛警官の戦闘応戦に遭い、河野隊長、宮田隊員の受傷によって襲撃が頓挫したことが原因であった。
この失敗について宇治野君は、それはすべて自分の責任であるとの自責の念に悩んだのだった。
屋内に踏み込んだ隊長と宮田隊員が、予期しなかった警官の抵抗にあって受傷し前進を阻止されたとき、河野隊長は屋外の待機隊員に対して、続いて突入するよう再三にわたって命令した。
断続する銃声で、この命令が消されたのかもしれないが、外部から誰一人、飛び込むものはなかった。胸部盲貫銃創の隊長が、やむなく屋外に後退し、第二次襲撃の非常手段としてとられたことは、放火であり、機銃打ち込みであった。
これは措置としては、明らかに拙劣であり、失敗でもあった。私が熱海の陸軍病院に弟を訪れたとき、弟はこのことに触れて「もう一人将校がいてくれたら」と漏らした。この話は、その後誰にも語らず、ただ、私一人の胸の中に封じ込んでおいたが、襲撃目標の牧野伯を逃がした失敗の原因の一つがこの辺にもあったことがうかがえた。  
十余年の後、奇しくも宇治野君の口から、裏付けるかのような当時の状況を聞いたが、宇治野君はそれはすべて自分の責任であるとの自責の念に悔い悩み続けたことを知った。
殊に、事件後の軍法会議の裁判の結果、湯河原襲撃隊員のうち、水上源一氏ただ一人が、死刑の判決をうけて刑場の露と消えた。その判決理由所によれば、河野隊長受傷後、隊長に代わって指揮をとり、機銃掃射、放火を行ったことが罪に問われている。
 隊長に代わるべきものは、隊の編成上は、自分であったはずである。それが民間の学生、水上氏一人が責を問われて死んでいった。宇治野君の性格として、これは堪えられない苦悩であったことは想像に難くないことである。」
宇治野さんはその後ビルマ戦線で軍属として決死の働きをし、終戦の帰国でようやく二・二六事件の同士とも肩身の狭い思いをせず相交わるこころのゆとりを持たれたという。

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13.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170202)  水上源一さんのこと(その12)

2017年02月02日 | 今泉章利
13.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170202)
水上源一さんのこと(その12)

前回、投稿したものは、少し筆が走りすぎていて、いかにも不遜と思われる箇所もあり、読み返しながら忸怩たるものを感じております。
内容や自分の考えていることに嘘はないつもりのですが、、、力が入るということは、未熟ということだなあと思っております。頭の中に思い浮かぶのは、末松様をお尋ねしたときのことです。
末松様が、何かのときに、”いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす【一斑を見て全豹を卜す】” と言われたことを思い出しました。
これは、物事の一部を見てその全体をおしはかることをいうことで、視野の狭いことなのですが、私には、逆に、いい加減なことがひとつでもあると、この全体は推して量るべしだよ というように思われます。
宮中をめぐる動きは木戸幸一日記がすぐに頭に浮かびます。この本は、今後も深く研究されるべきであると思っています。
因みに、判決一ヵ月前の昭和11年6月5日、木戸幸一内大臣秘書官は、部下より報告を受けた後、湯浅内大臣(斎藤実内大臣の後任)に「二・二六事件の情報その他を報告。意見を交換す。」 とあります。



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