築地本願寺の合同墓(第二期募集)窓口を訪れ「末松太平夫妻+私夫妻=4件」の登録を完了。正式書類も無事に届いた。
次のステップは 末松太平夫妻が眠る「千葉市営・平和公園墓地」を訪れ 諸手続を済ませることである。
6月13日。妹夫妻とJR稲毛駅前で合流。妹の愛車(ナンバープレート「226」)に便乗して 先ずは「平和公園管理事務所」へ。ここで「改葬許可申請書」に「埋蔵収蔵証明の押印」を受けて、最初の関門をクリア。末松太平夫妻の墓へと向かう。
久しぶりの墓参は「墓じまい直前の墓参」でもある。記念撮影は欠かせない。撮影結果はご覧のとおり。セルフタイマーの設定ミス(僅か2秒でカチャリ)で・・・。墓石の下から哄笑が聞こえた。
次の関門は「千葉市役所生活衛生課」を訪ねて「改葬許可証=千葉市長名義」を貰うこと。平和公園近くの人気蕎麦店で小休止。新築移転したばかりの千葉市役所に向かう。駐車場周辺工事が進行中の状態で 妹夫妻も「初めて足を踏み入れた」とのことだった。改葬許可証を入手して 次にすることは《石材店にお骨の取り出しとお墓の撤去工事の相談をして日程を決めます》なのだが とりあえず今日はここまで。
今後の課題は《取り出した骨壺2箇》の運び方。骨壺のサイズは7寸(東日本)と5寸(西日本)があるらしい。直径約22㎝✕高さ約25㎝=9430CCの壺が2個。千葉市若葉区の墓地から東京都板橋区の我家まで「脊柱管狭窄症(間歇性跛行)に悩む84歳老人=私」が 交通機関を乗り継いで 2個を抱えて・・・。そして納骨の際には 我家から築地本願寺まで 2個を抱えて・・・。
予定業務は全て完了。 千葉市役所の近くにある「妹夫妻の住居」に案内される。
妹が 私に見せたかったのは「末松太平の部屋」である。
2014年に「末松太平(1993年逝去)が住んでいた家」は取壊され 更地になった。
その際に「末松太平の遺品=書籍&史料類」は 近くに住む妹(末松太平長女=千葉市美浜区在住)に預けられた。
妹は 段ボール数十箇分の遺品を保管するため 自宅以外に「3LDK」を買い足し 緊急対応した。
当時 このことを《「◎番外篇/遺品資料移動大作戦◎」2014年7月29日付》で報告している。
最近 全室をリフォームしたらしく 案内された「末松太平の部屋」も《壮観》ともいうべき変貌を遂げていた。
ズラリ並んだ書棚は リフォーム業者が仕上げたものだが 完成までには多少のトラブルもあったらしい。
妹曰く「だって 書棚が完成すれば隠れて見えなくなる壁紙なのに わざわざ高級品を貼っちゃうんだもん・・・(苦笑)」
10年振りに「末松太平の蔵書」と対面する。記憶を辿れば 当時廃棄処分した大量の《紙の山》には「日本及日本人」や「不二」「四国不二」といった雑誌や 自費出版の印刷物が多数含まれていた。全てを保存するのは到底不可能だった。
画像=対面した蔵書の一例。青森放送の記念出版「竹内俊吉集成」1988年12月発行。豪華箱入・2巻セット(竹内俊吉の世界+竹内俊吉の時代)。内容ギッシリ 重量ズッシリ。
2巻の表紙は「棟方志功オリジナル版画」で飾られている。末松太平は「竹内俊吉の時代」に全3篇(1934年・1935年・1940年)を寄稿している。
例えば《白井タケ+波多江たま共著「邦刀遺文」自費出版箱入2冊組》・・・。「末松太平の部屋」の蔵書リストは いずれ公表する予定ではいる。
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今回のタイトル「徹子の部屋? 太平の部屋!」・・・ということで 蛇足を少々。
昔々 私は2度ほど「徹子の部屋」を訪れ 黒柳徹子サンと会話している。テレビCMの打合せのためである。
事前に所属事務所の社長サンから「チャック(徹子サンのこと)にCMプランを押しつけちゃだめよ。どうして私がこんなことしなくちゃいけないの と反発されるから・・・」とアドバイスされていた。
「例えば ◎◎とか ✖✖とか どうですか?」「あ それ面白いわね。こうすれば もっと面白くなるわね!」。ミーティングは和気藹々。撮影本番当日もスタジオに笑顔が溢れた。(末松建比古)
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次のステップは 末松太平夫妻が眠る「千葉市営・平和公園墓地」を訪れ 諸手続を済ませることである。
6月13日。妹夫妻とJR稲毛駅前で合流。妹の愛車(ナンバープレート「226」)に便乗して 先ずは「平和公園管理事務所」へ。ここで「改葬許可申請書」に「埋蔵収蔵証明の押印」を受けて、最初の関門をクリア。末松太平夫妻の墓へと向かう。
久しぶりの墓参は「墓じまい直前の墓参」でもある。記念撮影は欠かせない。撮影結果はご覧のとおり。セルフタイマーの設定ミス(僅か2秒でカチャリ)で・・・。墓石の下から哄笑が聞こえた。
次の関門は「千葉市役所生活衛生課」を訪ねて「改葬許可証=千葉市長名義」を貰うこと。平和公園近くの人気蕎麦店で小休止。新築移転したばかりの千葉市役所に向かう。駐車場周辺工事が進行中の状態で 妹夫妻も「初めて足を踏み入れた」とのことだった。改葬許可証を入手して 次にすることは《石材店にお骨の取り出しとお墓の撤去工事の相談をして日程を決めます》なのだが とりあえず今日はここまで。
今後の課題は《取り出した骨壺2箇》の運び方。骨壺のサイズは7寸(東日本)と5寸(西日本)があるらしい。直径約22㎝✕高さ約25㎝=9430CCの壺が2個。千葉市若葉区の墓地から東京都板橋区の我家まで「脊柱管狭窄症(間歇性跛行)に悩む84歳老人=私」が 交通機関を乗り継いで 2個を抱えて・・・。そして納骨の際には 我家から築地本願寺まで 2個を抱えて・・・。
予定業務は全て完了。 千葉市役所の近くにある「妹夫妻の住居」に案内される。
妹が 私に見せたかったのは「末松太平の部屋」である。
2014年に「末松太平(1993年逝去)が住んでいた家」は取壊され 更地になった。
その際に「末松太平の遺品=書籍&史料類」は 近くに住む妹(末松太平長女=千葉市美浜区在住)に預けられた。
妹は 段ボール数十箇分の遺品を保管するため 自宅以外に「3LDK」を買い足し 緊急対応した。
当時 このことを《「◎番外篇/遺品資料移動大作戦◎」2014年7月29日付》で報告している。
最近 全室をリフォームしたらしく 案内された「末松太平の部屋」も《壮観》ともいうべき変貌を遂げていた。
ズラリ並んだ書棚は リフォーム業者が仕上げたものだが 完成までには多少のトラブルもあったらしい。
妹曰く「だって 書棚が完成すれば隠れて見えなくなる壁紙なのに わざわざ高級品を貼っちゃうんだもん・・・(苦笑)」
10年振りに「末松太平の蔵書」と対面する。記憶を辿れば 当時廃棄処分した大量の《紙の山》には「日本及日本人」や「不二」「四国不二」といった雑誌や 自費出版の印刷物が多数含まれていた。全てを保存するのは到底不可能だった。
画像=対面した蔵書の一例。青森放送の記念出版「竹内俊吉集成」1988年12月発行。豪華箱入・2巻セット(竹内俊吉の世界+竹内俊吉の時代)。内容ギッシリ 重量ズッシリ。
2巻の表紙は「棟方志功オリジナル版画」で飾られている。末松太平は「竹内俊吉の時代」に全3篇(1934年・1935年・1940年)を寄稿している。
例えば《白井タケ+波多江たま共著「邦刀遺文」自費出版箱入2冊組》・・・。「末松太平の部屋」の蔵書リストは いずれ公表する予定ではいる。
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今回のタイトル「徹子の部屋? 太平の部屋!」・・・ということで 蛇足を少々。
昔々 私は2度ほど「徹子の部屋」を訪れ 黒柳徹子サンと会話している。テレビCMの打合せのためである。
事前に所属事務所の社長サンから「チャック(徹子サンのこと)にCMプランを押しつけちゃだめよ。どうして私がこんなことしなくちゃいけないの と反発されるから・・・」とアドバイスされていた。
「例えば ◎◎とか ✖✖とか どうですか?」「あ それ面白いわね。こうすれば もっと面白くなるわね!」。ミーティングは和気藹々。撮影本番当日もスタジオに笑顔が溢れた。(末松建比古)
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