◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎12月28日の出来事(午後の部)そして・・・◎

2022年12月30日 | 末松建比古
  

◎12月28日=御用納めの日。今年最後の「慰霊像周辺の清掃&正月飾り」を終えて 渋谷税務署へ御挨拶に行く。
※「二・二六事件慰霊像」は 渋谷税務署に隣接していて 御世話になることも多い。年末の御挨拶を欠かすわけにはいかない。御挨拶といっても 御礼の品を持参する訳ではない。感謝の言葉を述べるだけである。

※慰霊像の台座に刻まれた碑文には「この地は旧陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と、これに先立つ相澤中佐が刑死した処刑場の一角である」と記されている。
※敗戦後「旧代々木練兵場跡」は米軍に接収されて「ワシントンハイツ」に姿を変えていたが 東京オリンピックを契機に日本に返還された。 
それに伴い隣接する「旧陸軍刑務所跡の一角」も同時返還された。
その後の経過については《河野司著「ある遺族の二・二六事件」1982年・河出書房新社刊》に詳しく記されている。
大蔵省管財局や渋谷区役所などとの折衝を重ねて「慰霊像建立」を実現させたのは 河野司氏と小早川秀浩氏の努力の賜物である。

◎渋谷税務署への御挨拶を終え 今泉サンの車で六本木方面に向かう。
※鳥居坂の「インターナショナルハウスオブジャパン」に到着して 昼食会を兼ねた「世話人連絡会」に同席する。私は単なる傍観者。二人の対話から「御苦労の数々」を実感しながらも 口は挟まない。

◎この日 賢崇寺に行く予定はなかったが すぐ近くにいながら欠礼するわけにもいかない。
※賢崇寺のご住職に御挨拶を済ませて 供花&焼香の用意もないままで「二十二士の墓」に拝礼。
今泉サンは「墓石が(垂直でなく)前方に傾いているのではないか」と気にしていた。

※今泉サンの車でJR信濃町駅前まで行き ここで解散。ここから「帰宅22時20分」までの出来事はは・・・。
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◎12月29日=歩き納めの日。東京都ウオーキング協会「山手線一周ウオーク」に参加する。
※事前申込(参加費1800円)は「40キロコース/上野公園・受付スタート・7時~8時」だったが「家庭の事情」が発生して・・・。
※家庭の事情=愚妻の「生検」につきあうこと。午後2時30分には「板橋中央総合病院」に到着している必要がある。40キロを歩いていては(今の脚力では)間に合わない。 
※仕方なく「20キロコース/明治神宮北参道入口・受付スタート・9時~10時」を歩くことになる。
毎年「山手線一周」に参加しているが「半分だけ」は初体験。実際に歩いてみると(山手線半周どころか)3分の1程度だったようである。

◎生検=生体検査。臓器や組織の一部をメスや針などで切り取り、顕微鏡などで調べる検査のこと。病気を診断したり、進行度合を調べたりする。
※愚妻と合流し 向かったの「婦人科」で 検査が終わるまで(わざわざ来てくれた愚息と二人で)診察室前の椅子に坐っていた。
検査が終わって 女医サンの説明を聞く。不思議な雰囲気の若い女医サンで「手術の可能性もある」など コワイ話を淡々と伝えてくれる。 
「もう高年齢だから放置しておいても・・・?」「とんでもない、ダメですよ!」
※次回の診察日=1月20日。若い女医サンは「働き方改革で 担当の医師が変わっているかも」と コワイ予測も淡々と・・・。
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◎昨日の続きを少しだけ。
※信濃町駅前で今泉サンと別れた。周囲はまだ明るかった。駅前の居酒屋「魚民」に入り 20時04分に店を出た。
※八海山①+青汁ハイ②+角ハイ②+粒レモンハイ大②+氷結無糖②+かぼすサワー②=2人合計11杯。
朋美サン曰く「この店の酒は薄すぎる」。それでも 翌日の「山手線ウオーク」に多少の影響があったことは事実である。(末松)
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◎12月28日の出来事(午前の部)◎

2022年12月28日 | 末松建比古

◎2022年12月28日(水)早朝。朝刊を開いて 北博昭氏(80歳)の死去を知る。
※「きたひろあき=現代史研究家/23日、病気で死去/高校教諭を経て、旧日本軍の司法問題を扱う軍法務研究に取り組んだ。2・26事件の裁判記録を東京地検に請求して閲覧するなど資料の発掘に努めた」

※朝日選書721。北博昭著「二・二六事件全検証」2003年・朝日新聞出版刊。
第1刷(2003年1月23日)と第5刷(2003年7月23日)の2冊が 私の手許にある。
「はじめて この事件の すべてがが わかった/●巻末付録 未公開『相澤事件判決書』を初めて全文公開」
「奸臣を誅滅し、天皇親政を実現しようと立ち上がった青年将校たち、昭和の忠臣蔵といわれる二・二六事件/(以下省略)」
本書の「帯」と「表紙カバー」を読めば 北博昭氏の「立ち位置」が理解できると思う。

※「末松たちは青年将校とよばれた。国家革新運動にしたがう部隊勤務の若い初級将校、すなわち尉官級の隊付将校である。かれらによる革新運動を青年将校運動という。二・二六事件へとつながるこの青年将校運動は、西田の周辺に発するいわば憂国の念の発露だった。かれらはその運動の先覚グループをなすのである。」
・・・彼らはなぜ蹶起したのか。北博昭氏は その理由を冷静に検証していた。
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◎2022年12月28日(水)10時半。都営三田線~JR山手線を乗り継いで「二・二六事件慰霊像」に到着。そして 帰宅したのは 21時20分。10時間以上も 何をしていたのか。



◎JR原宿駅で下車。代々木公園経由で慰霊像に到着。今泉サン&朋美サンは(二人だけで)奉仕作業を始めていた。
※今泉章利(慰霊像護持の会・世話人代表)、森田朋美(慰霊像護持の会・世話人)。極論すれば 二人だけに「慰霊像を護持する責務」を任せているのが現状である。そして 活力に溢れていたご両人とも 歳を重ねた今では「昔の姿」ではいられなくなっている。
※今泉サンは 今年初めに生死の境を彷徨う大病を体験している。年齢的にも「全快」することはないかもしれない。
朋美サンも ヘルプマーク(東京都福祉保健局が2012年に作成)を帯同する身になっている。
そういう状況の二人が 慰霊像を守っているのである。「役立たず」は承知の上で 82歳老人(私)に「都合がつくならば」と声をかけるのも 仕方ないことなのだ。

◎慰霊像周辺にカメラを向ける長身の青年がいた。直ぐには立ち去らず 我々の作業を眺めている。
※二・二六事件に関心があるのかな。手伝う意志があるのかもしれないな。やがて 青年は意を決したように 作業中の私に近づいてきた。そ して「イングリッシュ OK?」
え? 日本人ではないの? 自慢じゃないが 私は日本語しか話せない。慌てて 今泉サン(海外勤務体験が豊富)に対応を押しつけた。

◎写真左=いつまでも熱心に質問を続ける(韓国の)青年。どうやら「ソウル大学の博士課程出身」のマジメ青年だったらしい。
写真右=奉仕作業を終え 慰霊像に供花&焼香&納経。今泉サンの「般若心経」は通行人の耳にも届いているが 足を停める人はいない。
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ここまでが 午前中の出来事。正午を過ぎ 21時になるまでの経緯は 稿を改めて。(末松)
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◎追悼・渡辺京二様/二・二六叛乱覚え書◎

2022年12月26日 | 末松建比古
◎「石牟礼さんの執筆を支えた思想史家の渡辺京二さん死去」
※12月26日(月)朝5時。朝日新聞を開くと 渡辺京二氏の逝去が報じられていた。
「25日、老衰のため熊本市内の自宅で死去した。92歳だった」



◎渡辺京二氏は「二・二六叛乱覚え書/雑誌「暗河」1976年冬号・掲載」の中に《末松太平》を度々登場させていた。
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※「二・二六事件刑死者の遺文を読むとき、まず印象に残りやすいのは、彼らの無念の思いである。/彼らの無念さは、単純化していえば故なくして殺されるという不条理の意識から発している。/だが、彼ら“青年将校”がかならずしもそういうあまえの心理から自分の行動の責任を回避するものでなかったことは、末松太平の『私の昭和史』の一節によってもあきらかといえる。十月事件の謀議に連なっていた末松は(約4行割愛)/この自分の死を代償とするクーデターの倫理性という概念が、二・二六の刑死者たちに共有されていなかった筈はない。/彼らの憤怒と怨恨の根拠はひとつは彼らが裏切られたと感じたことにあった。/だが誰が彼らを裏切ったというのか(約22行割愛)」
※「すくなくとも末松太平はこのような論理的帰結をきわめて冷静に把握したひとりであった。/(約16行割愛)叛乱将校たちの髪の逆立つような憤怒と怨恨のほんとうの根拠はここにあった。」

※「二・二六叛乱覚え書」からの引用は 以下省略とするが この後も《末松太平》は度々登場している。
例えば「軍隊の蜂起が農村の蓆旗と呼応する」辺りのこと。例えば「満州事変出征の際の居留民との交情」辺りのこと。そして「革命派将校の思想は この磯部から末松へつなぐ線のうえに、唯一の展開の可能性をもっていたというべきである」という結びの記述。
・・・面はゆいほどの《好意》が示されている。
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◎季刊誌「暗河」。編集発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二。発行所/暗河の会。発売元/葦書房有限会社。
※創刊号=1974年秋。渡辺京二「二・二六叛乱覚え書」が掲載されたのは 第10号(1978年冬)であった。
※第10号には 石牟礼道子「西南役伝説・拾遺2/大根切り」、島尾敏雄・石牟礼道子・松浦豊敏・前山光則「島尾敏雄氏に聞く(二)」などが掲載されている。雑誌の《個性》を推測していただくために 編集後記の一部を紹介しておく。
「暗河事務局の森山君がパクられた。/水俣病認定申請者『ニセ患者』事件で、熊本県議会公害特別委員会への抗議の際、傷害沙汰に及んだというのが逮捕の理由である。事件は全くのデッチ上げである。/森山君が逮捕されたという連絡を受けた時、何にもまして私はおかしさが先にたって仕方がなかった。/(松浦豊敏)」

※季刊誌「暗河」は「第48号/1992年夏号」をもって終刊した。
「暗河」は「くらごう」と読む。「くらごう」は 奄美大島のことばで地下の水脈を意味するらしい。



◎季刊誌「暗河」は入手困難であるが「二・二六叛乱覚え書」は「ちくま学藝文庫」で読むことができる。
※渡辺京二著・小川哲生編「維新の夢/渡辺京二コレクション(1)史論」2011年・筑摩書房刊。

※文庫本カバーに記されている 小川哲生氏の紹介。
「1946年宮城県生れ。大和書房、JICC出版局(現・宝島社)、洋泉社を経て、現在フリー編集者。40年間に企画編集した書籍は400冊になる。」
《末松太平著「軍隊と戦後のなかで/『私の昭和史』拾遺」1980年・大和書房刊》も そのひとつであった。(末松)
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◎クリスマスイブの贈り物◎

2022年12月25日 | 末松建比古
2022年12月24日(土)の夜8時。
クロネコヤマトの宅急便で書籍(4冊)が届いた。中央公論新社・橋爪サンからの贈物である。



出版業界のルール(?)で 著作者(私の場合は著作権継承者)には「見本10冊」が渡されることになっている。
「中公文庫版」の時は 橋爪サンと会って(その時が初対面)直接受取ったが 今回の「見本10冊」は 手渡しするには重すぎる。
「お手数ですが 私宛に4冊。残り6冊は末尾に記した6人宛てに・・・」と 配送直前にメールでお願いしていた。

6人=弟(末松太平・次男)+妹(末松太平・長女)+知人4名(Iサン・Mサン・Kサン・Nサン)。
いきなり送付されて 驚かれるかもしれない。
実感=事件は遠くなりにけり。
親しくしていただいた「事件関係者」の皆様は 次々世を去って お届けすることもできない。

本書=2023年1月10日 初版発行。 それまではまだ「未発売=見本」ということ。
本書に対する感想の類いは 今は未だ 書かない。(末松)
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◎三島由起夫様、橋川文三様、そして・・・「留魂」様◎

2022年12月16日 | 末松建比古

◎橋爪史芳サン(中央公論新社)から メールを戴いた。
※「先週末、無事に『完本 私の昭和史/二・二六事件異聞』を校了いたしました。/お借りした写真は、先ほど簡易書留にてお送りいたしました。/見本は年内、12月22日頃にできる予定です。・・・」
そして 簡易書留で返却された写真6点には 簡単な手紙が添えられていた。
※「(写真は)結局のところ、本文との関係性から、みすず書房版に入っていたもののみ入れることとさせていただきましたが、奥様とのツーショット拝見できて若き『末松太平』氏をより身近に感じました。・・・」

※橋爪サンに預けた写真6点は 以前に紹介(11月2日付)しているが 私なりの戦略(?)を秘めた選択でもあった。
本文に「1936年・結婚式」と「1939年・仮釈放直後の夫妻」を紛れ込ませて「夫妻の昭和史」という側面を付加する企てである。
※しかし 結局は「〽やっぱりね♬ 無理なのね~♬」上記の2点は不掲載。本文の流れを乱すわけにはいかなかった(苦笑)。

  

◎書評の一部が「帯」に記されることは多い。中公文庫版「私の昭和史・下」の「帯」にも「三島由紀夫氏の書評の一部」が記されていた。
※「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」の場合も 三島由紀夫氏と橋川文三氏の書評の一部が「帯」に記されている。しかし 近日発刊の「完本 私の昭和史」の場合は(帯だけでなく)本体の中に 書評の全文が採録されることになっている。
三島氏と橋川氏の書評を(付録として)加えた理由は 発刊当時の反響を伝える「史料」としての意味合いであろう。

◎画像左=《みすず書房「私の昭和史・新版」第1刷・1974年刊》に挿入されていた「私の昭和史・書評抄」。
※今井清一(東京新聞)/尾崎秀樹(朝日ジャーナル)/木村毅(読売新聞)/竹内好(みすず)/橋川文三(みすず)/三島由紀夫(週刊文春・中央公論)/これらは全て《みすず書房「私の昭和史・初版」1963年刊》発刊当時の書評の数々。
※それから9年の歳月を経て これらの「書評」をまとめて印刷したものが「新版」に挿入されていた。
勿論「発刊当時に掲載された書評」は他にも沢山あって それらは(末松太平の)スクラップブックに残されていた。 

※末松太平「私の昭和史」が 1974年の「初版」以来 現在(2022年)まで存在できたのは 紛れもなく「三島由紀夫氏のお陰」である。例えば「中公文庫版」の解説(筒井清忠氏)にも「三島は本書を激賞したのである」と(かなりの行数を用いて)記されている。

◎「私の昭和史・初版」の「帯」には 簡潔なキャッチコピーがなかった。強いて挙げれば「昭和維新の謎を解く」であろうか。
※「著者は二・二六事件(1936)で禁錮四年の刑を受け、陸軍を去った人。大正の末より軍の革新青年将校として知られ、いわゆる兵火事件、錦旗革命の中心人物であった。/本書は、日本の運命を決した事件の中核の人物が、はじめてその具体的体験を、あくまでも客観的に記述したものである。知られざる歴史的真実の把握に、無比の素材を提供する画期的な意味を有つものと信ずる。/昭和史の内幕を、内部から解明しつつ、現代日本史における軍と政治の複雑なからみ合いの深い根が示される。日本社会の農民と兵士、青年将校と軍司令部、指導層の多頭政治、日本ファッシズムの多様な諸相をまざまざと実感させる、希有の書であろう。/680円」
※この長々とした文章が「初版」の「帯」に記されていた。
高橋正衛サンの熱意は理解できるが 偶々書店で手にした人に対して この「帯」の効果は・・・。

◎写真右=≪みすず書房≪「私の昭和史・新版」第4刷・1981年刊≫のカバーを外したもの。
※そこには「北一輝・西田税・渋川善助・相沢三郎・大蔵栄一・大岸頼好・村中孝次・安藤輝三・栗原安秀・◎◎◎◎」の署名が隠れていた。
勿論「隠れていた」わけではない。今まで気づかなかった己の迂闊さを笑うべきことである。
あえて弁解すれば 1974年5月15日刊(第5刷/新版第1刷)のカバーを外しても「白紙」であった。それが 1981年9月10日(新版第4冊)では「署名入り」に変わっていた。
※慌てて(?)所有する4冊を確認。新版第2刷(1974年8月10日)は「白紙」だったが 新版第3刷(1980年4月5日)では「署名入り」になっていた。迂闊といえば 所有する4冊が「新版1~4刷」と異なっていたことにも 今になって気づいたわけで・・・。

◎末松太平「私の昭和史」は 多くの方々の「好意的な書評」によって支えられてきた。新聞 雑誌 そして 最近ではネットの世界でも。
  
※「留魂」様の書評は「amazonカスタマーレビュー/2021年3月29日」で拝読 思わず頬が緩んでしまった。 
「最も感動的なのは『最終章』です。ああ!末松太平さんは、大岸さんの事が、本当に好きで尊敬していたんだな、という事が分かります」



◎「留魂」様に誘発されて「大岸さんの≪ご遺族≫の事も 本当に好きだったんだな という事ガ分かる」写真2点を 初公開。
※末松敏子のメモ「1987(昭和62)年4月25日 八丁堀で大岸様の招待」を添えた写真が10枚 整理されて残されていた。
※写真左=前列左端が末松太平夫妻 前列右から二人目が大岸頼好氏の奥様。中央に大岸啓郎氏(長男)の姿もある。
当時の末松太平は81歳だが 現在の私(82歳)よりも高齢に見える。網膜剥離の手術(1984年)以来「半盲目状態」だったことを思えば 急速な老化現象も仕方ないことなのだ。
※写真右=結婚披露宴での末松太平。多分「大岸様のご親族=孫かな?」の披露宴で 指名されて祝辞を述べている写真もある。
高知県土佐山田町にお住まいの大岸喜代様(1965年の記録では良様)や啓郎氏が 八丁堀を訪れたのは お身内の結婚式のためだった。
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◎「彼らはなぜ蹶起したのか」◎

2022年12月07日 | 末松建比古
彼らはなぜ/蹶起したのか。
「青年将校グループ」の中心にあった著者が/自らの体験を克明に綴った貴重な記録に関連文書を増補。
/二・二六事件研究の第一級史料、決定版。

   

◎久しぶりに神田神保町を歩いた。駿河台下「三省堂書店」は姿を消して 再建築の工事が進んでいた。
※三省堂書店の文庫本フロアには「私の昭和史・中公文庫版」が(刊行以来10年近くも)常時置かれていて 訪れる度に心が和んだ。
工事期間中の「仮設店舗」は少し離れた場所にある。仮設店舗とはいえ 三省堂の名に恥じない(1階~6階?)構成だが 売場面積は1割以下に減少。中央文庫のスペースも1割程度に縮小されて「私の昭和史」の姿はなかった。二・二六事件関連の書籍は「・・・事件を読み直す」など数点が置かれていた。
※書名は忘れたが「関口宏・保阪正康の対談本」が積まれていた。手にとって 二・二六事件の蹶起理由の辺りをチラチラと・・・。
保阪氏は「皇道派・統制派の対立」が持論だから 覚悟はしていたが「陸大に進めなかった青年将校は(学歴的に)参謀にもなれないので」という蔑視的(?)な表現にムムム・・・。
「陸大出身の統制派=出世できる」と「陸大に行けない青年将校=出世できない」の対立が「蹶起の遠因」とでも言いたいのだろうか。この対談本は「民放BS番組」をまとめたもの。番組の視聴時には苦笑した事柄も こうして活字になると・・・(以下省略)。

※街の書店が姿を次々に姿を消している。この10年間で約3割も消えたという。その原因=電子書籍の普及と「インターネットで本が買える」ようになったこと。
楽天ブックス、版元ドットコム、ヨドバシコム、近刊検索デルタ、ツタヤ、エトセトラエトセトラ。私とは無縁の名前ゾロゾロ。

◎12月1日。ネット書店が一斉に《末松太平著「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」2023年1月10日・中央公論新社刊》を紹介した。 
※冒頭に記したのは 書籍紹介のキャッチコピーである。まだ「校閲&校正の最終段階」にある完成前の書籍が(ネット書店では)早々と発売開始されている。82歳老人には「目から鱗」の新知識であった。因みに「完本 私の昭和史」は電子書籍版も発売すると(出版社から)伝えられている。
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★余談少々。
※画像右の「謹呈 平岡梓様 末松太平」は「みすず書房/新版」が出版された際に 三島由紀夫氏のご両親宛てに謹呈したものだが 誰かの手によって(ネット上で)売りに出されていた。誰が売ったか 誰が買ったか 売値(買値)はいくらだったか 全ては闇の中である。
※「完本 私の昭和史」の場合 著者ではない私が「謹呈 ◎◎様 著者」などと記すことは出来ない。  
勿論「著者の遺志を継いで」という実例はある。例えば《岩崎克美著「前野蘭化/東洋文庫復刻版・全3巻」1997年・平凡社刊》に添えられた「謹呈/岩崎明・岩崎直子・工藤愛子」のカードは今も大切に所有している。岩崎直子サンは著者(故人)の長女。これに倣えば私の場合も・・・!。しかし 二・二六事件所縁の方々(の殆ど)が幽明を異にした今では 謹呈するにも相手がいない・・・?。
※謹呈◎◎様・・・。森田朋美サン 小林ルリ子サン 野田雅子サン 何故か女性の名前だけが浮かんでくるわけで・・・。 
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※東京都ウオーキング協会に行って 次年度分の年会費(3000円)を納めてきた。
コロナ禍の影響(混雑した電車に乗りたくない)で 例会には数回しか参加しなかった。それでも脱会しないのは「家人の指令=健康志向を続けなさい」に従うためである。
※12月17日(土)は「汽笛一声ウオーク/よこはまW協主催」参加の予定でいる。日比谷公園集合~新橋ステーション跡~横浜赤レンガパーク(認定33㎞)。ゴール後の「酒宴」が楽しみだった時代もあった。しかし 親しい歩友(の殆ど)が幽明を異にした今は・・・。 
※12月29日(木)は「山手線一周ウオーク/東京都W協主催」に参加する。認定40㎞(実感32㎞)。
コース後半に「二・二六事件慰霊像」に立寄るのが定番で 慰霊像周辺が清掃直後であることと併せて 当ブログで報告している。

◎今泉章利サン(慰霊像護持の会・世話人代表)からメールが届いた。
 ※「今年も 12月28日・10時30分から 慰霊像で今年最後の御奉仕をしたいと思います。ご事情が許せば 是非お越しいただきたく存じます。/朋美さん 都子ちゃんも来てくれます。よろしく御検討下されば幸甚です」
※御奉仕=慰霊像周辺の清掃作業。毎年「山手線一周」途中に立寄った際に「慰霊像周辺が清掃直後だった」理由は判明した。
でも どうする?。朋美&都子サンに逢えば必ず酒宴になる。翌朝 宿酔い状態で 40㎞(実感32㎞)歩けるだろうか。
今泉サンには 未だ返信していない。(末松)
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◎承前2/「青森県のはなし」を続ける理由◎

2022年12月05日 | 末松建比古

偶々「二・二六事件」に関心を抱いただけの方には ここ数回の「青森県のはなし」は スルーパスされるかも知れない。
勿論 二・二六事件の真意を「皇道派と統制派の抗争」として貶める「自称研究家」に惑わされている方には スルーされても仕方ない。
しかし 二・二六事件の真意を「壊滅的な農村恐慌からの救済」として捉えられる方には 蹶起への底流のひとつとして(青森県のはなしが続く理由を)ご理解いただけると思うのだ。
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◎淡谷悠蔵氏の名前が《末松太平著「私の昭和史」》に初登場するのは ほぼ中間の「相澤事件の前後(その1)」である。
※その頃の末松太平(古参の中尉)は「こっそり竹内俊吉や淡谷悠蔵に会いに青森市内にでかけたりもしていた」という。
「農民である兵は、なぜこう貧乏なのだろうか。その貧乏な兵のうちは、どうして貧乏の原因である小作人になったのだろうか、そのことを検 討したいためであった。」
「竹内俊吉は東奥日報社の記者であった。前に大岸大尉から『地方新聞には惜しい記者だ、ついでがあったら会ってみろよ』と言われていた。 その竹内俊吉の紹介で淡谷悠蔵を知り、三人で会うことになったわけである。雪のさかんに降っている夜だった。三人は竹内俊吉のうちで、初めて会合した」
「竹内、淡谷との会合も、数を重ね、探求の成果を実践と結びつけていかねねればと思った。二人ともそれを望んでいた。が思いがけない横やりが入った。/(中略)遠い和歌山の大岸大尉から『農民運動は危険だから、しばらく中止せよ』といってきたのである。その理由は・・・」

「内務省治安当局は 青年将校の行動に監視の目を怠らずにいた、しかし軍隊は(管轄が違い)取締対象にできない。農民運動に青年将校が関係しているという実証がつかめれば 青年将校運動に左翼運動をおっかぶせて(軍隊当局に)取締りを申入れることができる。/だが 青森県の事柄が 遠い和歌山に伝わったのは何故か。/青森県特高が私の身辺にまつわりついていたことは 前から感づいていた。青森県下の同志づらした民間人から 情報をとっていることも知っていた。/こんなことで 折角これぞと思った蓆旗組織工作は やっと緒についたところで 一応見合わせざるを得なくなった」
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◎淡谷氏の名前は「私の昭和史」後半の「蹶起の前後」で もう一度登場している。
※事件後の情報が(遠い青森では)判らないので 亀居大尉 志村中尉と三人で 東奥日報社に竹内俊吉記者を訪ねたときの記述である。
「参加将校の大部分が判った。私の知らない名前が多かった。/竹内俊吉は『渋川さんはどうでしょうね』と聞いた。竹内俊吉は渋川だけを良く知っていた。いつであったか 渋川が青森に来たとき、青森県下の農村の実情を知りたいというので、竹内俊吉や淡谷悠蔵を紹介したことがある。私が連隊にいっている留守に 渋川は竹内俊吉らに会いにいった」



◎「私の昭和史」には 淡谷悠蔵氏と末松太平の交流が穏やかに記されている。二・二六事件の真意(農民恐慌の救済)に連なる実例でもある。

※戦後 淡谷悠蔵氏は衆議院議員(日本社会党)になった。《「野の記録・全7巻」1976年・北の街社刊》という著作もある。ネット検索すると「野の記録」は「自伝的大河小説」として紹介されている。渋谷氏が「自伝」でなく「大河小説」とした理由は何故か。真実の記録ではなく「真実紛いのフィクション」が含まれているためである。
※末松太平「私の昭和史」1963年刊。淡谷悠蔵「野の記録・全7巻」1976年刊。但し 東奥日報の「注記」によれば「野の記録」は1942年に書き始められ、最初の出版は1958年だったという。

◎画像左=1970年・東奥日報「『野の記録』と私」全6回。私=末松太平。
※冒頭に「私のことが出ていることは相当前から知っていた」と記している。
「野の記録=フィクション」であっても構わないが 事実と異なる内容が「真実」として引用され 後世に伝わること(例えば 尾崎竹四郎 
「『私の昭和史』周辺」)だけは許せない・・・。末松太平が(6回にもわたって)東奥日報に批判を書き連ねた理由である。
※渋谷氏曰く「渋川善助は背丈は大きくなかった」「末松太平は背広に外套を着て、鳥打帽を被っていた」。 
渋川善助は(写真を見れば一目瞭然)高身長の偉丈夫である。末松太平は(外出姿は軍服か和服で)鳥打帽など所有したことがない。例えフィクション(作り話)であっても これでは ザ・ドリフターズのコントである。「ちょっとだけよ」では済まされない。
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◎画像右=①鈴木喜代春著「北の海の白い十字架」1985年・金の星社刊/②鈴木喜代春著「十三湖のばば」1974年・偕成社刊。
※「先生とおかあさん方へ/わたしが、青森県車力村の腰切り田のことを知ったのは、いまから二十年も前のことでした。「私の昭和史」の著者である末松太平氏が、わたしに話してくれたのです。情熱をからだにみなぎらせた末松氏は、ふしぎに、たんたんと、日本一残酷とも思える腰切り田の話をきかせてくれました。/昭和四十二年の夏、わたしはひとりで上野発の夜行に乗りました。そして翌日の昼すぎに車力村にたどりついていました。/(中略)それから二年ばかりたって、わたしは末松氏から車力村でむかし村長をやり、いま助役をやっている北沢得太郎氏を紹介されました。/北沢氏から、いろいろ話をうかがって、このような物語をつくってみました。しかし、この話は、すべてわたしの創作です(後略)」・・・「十三湖のばば」あとがき。

※「序文/わたしが青森県車力村の北沢得太郎さんを訪ねるため、上野駅から夜行列車に乗ったのは、昭和四十二年七月十九日でした。北沢得太郎さんは、車力村に生まれ、育った方です。わたしに北沢さんを紹介してくれたのは、北沢さんの先生の末松太平さんです。末松さんはいまは千葉市に住んでいます。北沢さんを訪ねる気になったのは、北沢さんの住む車力村が、昔は腰切田の村だったということを、末松さんから聞いたからでした。/(中略)それから十五年あまりの年月が流れました。この間にも、わたしの心の中から、あの白い十字架は消えませんでした。昭和五十七年十一月に、わたしは再び車力村を訪ねました」・・・「北の海の白い十字架」序文。
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軍隊を追われた後になっても 末松太平と「青森県の農民」との交流は続いていた。
淡谷悠蔵氏や大沢久明氏とは異なる次元で「二・二六事件の真意」は生き続けていたということである。(末松)
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