◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

慰霊像 年納めの清掃 

2008年12月28日 | 今泉章利
26日、安田様と毎年恒例の慰霊像正月飾りを行った。寒い風は容赦なく吹き荒れていたが、松、水仙、千両を小さな花入れに飾り、お餅をお供えした。そのあと、私たちは、狐塚に沿って坂を下り、井の頭通りを右に折れて、NHKの西門の前の酔香楼(スイコウロウ)という中華料理屋さんに向かった。ここでささやかな忘年会を兼ねた昼食をとりながら一年を振り返った。なお、狐塚というのは、慰霊像の前の大きなパラボラアンテナのあたりの少し小高くなった所で、東京陸軍軍法会議が設置した急造の法廷を警備すべく、機関銃が南を向いて据え付けられていたという。  (今)
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渋川明雄様より教えていただいたこと

2008年12月23日 | 今泉章利
以前からこのブログで、いろいろと水上源一さん関連のヒントを下さった渋川明雄様と面談することができた。お宅にお伺いし、資料を見せていただいたが、小生のためにわざわざきちんとリストを用意してくださっていた。リストには、

事件に関するお手持ちの資料 150点
論文集14点(堀真清氏関連)
各資料・雑誌のコピー17点 
挺身隊関係 資料のコピー 10点

などの資料名が、克明に記され、大変に感銘を受けた次第である。渋川さんは、氏の祖父 渋川知成さま(小学校校長、青梅在住、明治30年ごろ生まれ)が直心道場に出入りされていたことなどから、事件後、知成さまが大変にご苦労され、それを知られた渋川さんは、事件に興味を持たれ、研究を続けておられる方である。

今回、氏は、埼玉挺身隊事件をよく調べれば、渋川さんと水上さんの関係、考え方が見えてくるのではないかと示唆された。

また、直心道場もポイントで、数少ない資料の中で大森曹玄(一声)氏の貴重な資料を国会図書館で探し当てておられた。

小生は、水上さんの東京の10年間(うち8年は日大)の歴史を、今度は渋川さん、埼玉挺身隊というキーワードでも調べてゆくことになった。資料をまとめてよく考えてゆきたいと思っている。

また、渋川善助さんの「御前講演」「非国難非非常時」「感想録」なども見せていただいたが、直筆のものは、小生が東京地検で拝見したものと全く同じ筆致で、堂々とゆるぎなく力強いものであった。写真の渋川善助さんは明治38年生まれ。

(今)
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北島弘さまのご葬儀

2008年12月23日 | 今泉章利
北島弘さまのご葬儀、行ってまいりました。式はご実家の武蔵御嶽神社さまが行われました。生前のお人柄をしのばせるものでした。帰りに慰霊像に行き、思いを込めて清掃をしてまいりました。北島様、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さいませ。 (今)
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北島弘さま(慰霊像護持の会世話人)ご逝去

2008年12月18日 | 今泉章利
二・二六事件に参加された歩兵三連隊の下士官(当時19歳)で、戦後は二・二六事件慰霊像護持の会の世話人であられた北島弘さまが、東京町田市の病院で12月14日に亡くなられました。92歳でした。ここに慎んでお知らせ申し上げます。
お通夜は19日(金)18:00より、告別式は20日(土)11:00より、相模原市の東(あづま)典礼(042-797-1320)にて行われます。喪主はご令室ヒデさま。  (今)
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歴史について 波多江タマ様のお手紙

2008年12月16日 | 今泉章利
歴史とは難しいものである。自分自身のことでさえ表現したり記録することは難しいのに、他人の、しかも時代や場所の異なることを本当の意味でどれだけ理解できるのだろう。
私にできることは、せいぜい、なるべく一次資料に近いものを集めて整理すること。これが精一杯であると思う。その一次資料を見て、様々な人がそれを解釈してゆけばいいのだと思う。それにはとんでもない解釈をされる人もいるかもしれないが、それは仕方のないことであろうと思う。
一次資料の存在がそのような誤解や曲解をいつか年月とともにあるべき姿にしてくれるのだと希望しながらも、私は十年近く悩んでいた。そんなとき、私は、94歳の對馬さんの妹、波多江タマ様から最近お手紙を頂いた。それにははっきりと「貴方達にはわからないと思います。昭和の初期のこと、価値観、貧困さ、国を思う気持ちなど全然わからないと思います。でも自分は逆に、今の世代の人たちの考えが理解できません。」と書かれてあった。
「自分は、昔から新聞を見ても、何を見ても、まず真っ先に、この国のことを考える。この国がどうなるかを考える。それなのに、今の総理大臣はこの国を放り出してしまう。私には理解できない。蹶起した人たちで子供がおられた方に対し、ひどいではないか、子どもや奥さんのことをなんだと思っているのかという人たちがいるけれど、当時は、子どもを作って育てることが、この国のためになることであり、国のためならば自分たちの犠牲は厭わなかった。でもこんなことは、いまの人には、まったく理解できないのだと思う。」と言われた。
私はこのお手紙を拝読しながら、心が少し楽になっていったのを感じた。私のようなもののできることは、せめて、自分の接した方々のことや調べたことを、少しでも多く残してゆくことなのだなと思ったのである。

写真は、処刑を控えた昭和11年7月8日ごろの、衛戍刑務所での、親切にしていただいた刑務官に対する寄せ書きである。一番右のものが当時21歳の父のものであり「我思ひいか尓(に)言ふとも術なしやただつつましふ黙し行かるる」とある。(今)
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湯河原光風荘(4)

2008年12月09日 | 今泉章利
末松さん。ありがとうございます。何卒宜しくお願い申し上げます。

さて続きです。
(1)書物に出てくる内容と(2)裁判記録と、(3)山本さんのお話(岩本さん以外の方の証言も記憶されている。)と(4)実際の状況、、この4点を合わせて考えねばならない。
と書きましたが、小生の知っているのは次のもの。他にもしあるのならぜひご教示ください。

(1)書物:河野司:1.二・二六事件(S36)2.湯河原襲撃(S40)3.二・二六事件獄中手記・遺書(S47)4.二・二六事件秘話(S48)5.私の二・二六事件(S51)6.ある遺族の二・二六事件(S57)7.天皇さまお聞きください(S59)8.天皇と二・二六事件(S60)
もりたなるお:無名の盾(S62)

(2)裁判記録(追加分):1.牧野峯子訊問調書、2.高橋正雄訊問調書、3.西田久野訊問調書、4.松村梅子訊問調書、5.岩本亀三訊問調書、6.生駒林ニ訊問調書、7.堀部粂次郎訊問調書、8.伊藤清訊問調書、9.伊藤亀吉訊問調書、10.診断書森鈴江、11.診断書岩本亀三、12.診断書宮田晃、13.その他押収調書、押収目録他

(3)山本寅太郎さんの記憶されている内容はとても重要です。当時、火の見櫓の下の消防団の加藤さんの話とか、ヤカメヒロゾウさんというイズヤ旅館の方の話とか、いろいろとご記憶のようです。とりあえずインタビューのテープ録音など考えております。一人ではしきれないので、、、誰か、、テープ起こしなどしていただけると、、。。それと、どこにも書かれていない残り三人の警官についてですが、これからは、警視庁の歴史とか神奈川県警の歴史とか、、あたってみようと思っております。写真は、光風荘のすぐ目の前のビリヤード場の建物のあったところのタンクです。(前回の写真のタンクとは違います。伊東屋旅館に向かって右側にあるのです。)何かに書いてあったのですが、その日の皆川さんはほかの警察官の方と話をして一人でやるからと帰ってもらった。。とか。。記憶にあるのですが、、違っているかもしれません。確認したいと思います。ただ、この光風荘は、とても狭くて、警官のいる部屋はわずか三畳ですから、実際問題として泊るわけにはいかなかったと思います。もう少し調べます。

(4)現場の状況は、ずいぶんその後新しい橋や道路ができているので、その違いを昭和11年ごろの地図と照合する必要があると思います。これは、たぶん国土地理院にあるのですが、東京都違い5万分の1の地図でしょうから、やはり町役場の地図の照合のほうが実際的かもしれません。(今)
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湯河原光風荘(3)

2008年12月06日 | 今泉章利
(続き)
私の訪れた日の湯河原は、紅葉が見事で観光客も多かった。この光風荘は、土日に開放されていて、ボランティアの方が朝早くから訪れる人たちに説明をされていた。
しかし、それにしても、事件は、正確には何時から何時までであったのだろうか。午前5時前には到着していたが、水上さんの公判記録には、5時20分ごろ襲撃開始、7時頃引き揚げと述べられているが、もう少しの分析と検証の必要がある。
建物は、門(と裏木戸)以外の出入りはできず、もし生きていれば、門から人は出てくるはずだった。袋小路の建物であった。1時間半、さまざまなドラマがあったはずである。山本さんのお話では、護衛の警官は4人いたが、残りの3人は、門のすぐ手前の、三階建て施設で寝ていたのである。これは、一階がビリヤード場で、二階と三階がが宿泊施設になっているものであった。このことは今まで聞いたことはなく、書物に出てくる内容と裁判記録と、山本さんのお話(岩本さん以外の方の証言も記憶されている。)と実際の状況、、この4点を合わせて考えねばならない。
写真は、小さいが、タンクの向こうに見える平屋と二階建ての建物が、伊藤屋旅館である。手前の平屋の左の部屋が、渋川さんたちが泊って偵察をした19号室であるとのこと。(今)
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湯河原光風荘(2)

2008年12月06日 | 今泉章利
(続き)
岩本さんが生前、山本寅太郎さんに語ったところによれば、権現橋をわたり、二つ目の角、つまり、光風荘の下のところで、岩本さんは、河野大尉に静止させられた。河野大尉は、軍刀を杖代わりに立ち「今、国家にとって重要なことが行われている。どうか行かないでほしい。」と言われたが、その顔色はとても青白かったという。
岩本さんは、消防団員でもあり「女子供もいるのだから一刻を争う」といって強行突破し、炎に包まれている光風荘に駆け上がり、小さな庭を左に折れたところで、着物を頭からかぶってうずくまっている女たちを発見した。近寄ると、その中に、着物をかぶり土色の顔をした老人がいた。直感的に、この人が狙われたのだなと感じたという。そして、その老人は何も言わずに岩本さんに手を合わせたという。
岩本さんは、救出のため、目の前の崖によじ登り、一人一人手をとって引っ張り上げた。もう少し上った山の峰を左に折れ、高橋という植木屋さんのやっている茶店に逃げさせようとしたのだった。全員を引き上げたころ、数十メートルしか離れていない崖下から、発砲があり、岩本さんは脛(すね)を打たれ、血が長靴の中に溜っていったという。それでも、彼らを茶店まで導いていったのであった。裸足だったという牧野伯爵たちは、炬燵で足を暖め、足袋や履物をもらって、さらに逃げていったという。これ以上の詳細は、山本さんは聞いておられないという。
小生も裁判記録を見るのでしばらくお待ち願いたい。しかし、山本さんの記憶されている岩本証言は一級のものと思われる。なお、写真は、庭の一部で、右側は崖で、突き当たりは聳え立つ崖であった。写っておられる方は山本光風荘保存会長である。(続く)(今)
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湯河原光風荘(1)

2008年12月05日 | 今泉章利
水上さんの湯河原襲撃に関する記述の確認のため、久しぶりに光風荘を訪問した。湯河原駅からバスで10分、光風荘保存会会長の山本寅太郎さんにご案内いただいた。
写真は、光風荘の入り口であるが、門の右奥に見えるのが玄関、左側の塀と家屋の間の狭い通路(自動車の写っているところではない)が、勝手口に続いていた。以前の間取りについては、もう少し検討を要するが、もりたなるおさんの「無名の盾」にも解説があり、勝手口の入り口は、自動車の見える道が舗装される前、板塀に沿って進んだところに裏木戸があったという。裁判記録にもあるのでよく読んでみようと思う。
勝手口をさらに進むと風呂場の脇に行き当たるが、急な崖がそびえていて、行き止まりになっている。この崖は、左側の山から右の藤木川方面に一気に下る急峻な坂の一部である。玄関の右側の部屋は、牧野伯爵の寝室で、その部屋の前を囲むようにして小さな庭が造られている。この土地は急な斜面を削ってできたようなところで、庭の下は急な崖になっていて人は近付けないし、逆に降りてもいけない。実際に立ってみると、崖の下に権現橋からつながっている細い道が見下ろせる。この庭は、家に沿って2-3メートルの幅で伸びているが、その先は、先ほどの急峻な崖につながり行き止まりになっている。
牧野伯爵たちは、火事で家を裸足のまま飛び出したものの行き止まりなので、雪の庭の隅にうずくまっていた。これを、救ったのは近くの旅館の主人、岩本亀太郎さんという人であった。岩本さんは、権現橋を過ぎた二つ目の角のところで警戒していた河野大尉の静止を振り切って火事の中、駆け付け、行き止まりの庭に彼らを発見したのだった。(続く)(今)
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はじめまして。今泉と申します。

2008年12月04日 | 今泉章利
はじめまして。今泉章利と申します。末松建比古さんのブログに少し書かせていただくことになりました。末松さんの様な歯切れのよい文章は書けませんが、宜しくお願い申し上げます。かつて、このブログに水上源一さんの記録の一部を投稿し、何回かコメント欄に掲載していただきました。その後も、東京地検に通っておりまして、水上さんの記録を調べております。
私の父は、二・二六事件当時、近衛歩兵第三聨隊の少尉でありました。末松さんのブログの写真の中で、小生の父と、末松太平さんが一緒の写真に写っているのを、偶然に拝見しました。写真の使用をお許しいただけるものと図々しく期待して借用させて頂きます。手前の末松太平さんに向かって右奥のところに、白髪で一生懸命本を読んでいるのが小生の父親であります。(今)
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