◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・最終楽章◎

2022年09月29日 | 末松建比古

◎2022年9月27日(火)。朝日新聞朝刊のトップ記事は「安倍元首相 きょう国葬」。
※「安倍晋三元首相の国葬が27日、東京都千代田区の日本武道館で執り行われる。首相経験者の国葬は1967年の吉田茂氏以来、戦後2人目。国内外から約4300人が参列する見込みで・・・(以下省略)」
 
※勅使・皇后宮使御拝礼/上皇使・上皇后宮使御拝礼/供花 皇族各殿下/献花 葬儀委員長、喪主、遺族、衆院議長、参院議長、最高裁長官、友人代表、海外の要人等/遺骨見送り。
※朝日新聞が伝える「国葬の流れ」を眺めていると 供花と献花の違いとか 会場に流れる「生前の映像」には「桜を見る会」が割愛されてるだろうとか、興味ある部分も少なくはない。

※安倍元首相が「国葬に相応しい人物」でないことは明白である。今回の国葬強行は やがて「令和の汚点」として歴史に刻まれるに違いない。そして「国葬」を強行した岸田首相も「令和の汚点」として歴史に名を残すことになりそうである。
※とりあえずは(強行が新たな凶行を誘発することのないように)今日一日の平穏を願うのみである。とはいえ「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことだけは 絶対に避けなければならない。これが 9月27日朝に於ける我が心情である。
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※日本武道館は「葬儀」のための施設ではない。武道の館である。私は「戦いの場」として 日本武道館に入場したことがある。それは 約半世紀も前の出来事で 腕組みをして「戦いの開始」を待っているのが「約半世紀前の私」である。

 

※戦いの場=朝日新聞社・日本将棋連盟共催「職域団体対抗戦・将棋大会」。当時 総合広告代理店で「テレビCMディレクター」をしていた私は 毎年「職団戦=5人チーム」に参加していた。画像=第52回大会。F級の3回戦あたりで敗退したように記憶している。毎年 その程度の実力で 凝りもせずに出場していたということだ。
日本武道館で「戦った」といっても「武道」とは無縁であった。元軍人の息子としては 情けない限りである。

※日本武道館は(将棋職団戦以外でも)度々訪れていた。例えば 1977年には「ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト」を 日立家電・宣伝部のY氏と並んで観ている。家庭用のビデオデッキが各社一斉に新発売された頃で 日立家電「マスタックス」のTVCM第一作(出演・黒柳徹子)の企画担当は私だった。徹子サンと打合せを重ねた日々が懐かしい。因みに「コンテスト」グランプリ受賞曲は 世良公則&ツイスト「あんたのバラード」。無名の若者だった世良公則サンは 一夜にして人気スターの仲間入りをした。 
※日本武道館は 昔も今も 各大学の入学式・卒業式の会場であり 私も東京大学入学式の父兄席に坐ったことがある。何故か 二・二六事件の関係者には「東京大学出身の子供や孫」が多いのだ。
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◎安倍晋三元首相の「国葬」に話を戻す。
※例え「国葬に疑義あり」という立場でも 葬儀に際しては礼を尽くして「故人を悼む」のが人の道というものだろう。TVの「国葬中継」は 静かに視聴した 画像参照=葬儀終了後も パソコンの壁紙に残して 半日ほどであったが「礼」は尽くしたつもりである。
※友人代表・菅義偉前首相の「弔辞」で読み上げられた「伊藤博文に先立たれた山縣有朋が詠んだ一首」が(今まで知らなかったこともあって)心に残った。報道チェックすると マスコミ各社の方々も同様の思いを抱いたようである。
※「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」
これからしばらくは いろいろな方の葬儀の場で「この一首」が 繰返し転用されるのだろう と思う。

※言わずもがなの一言を付け加えておく。
菅義偉前首相の「弔辞」は 確かに心に残った。
しかし(当時の安倍首相と菅官房長官が)何をかたりあひ 何を尽くしたのかを 忘れてはならない。
森友学院・加計学院・桜を見る会・・・。
「騙り」あひて 尽くしし人は 先立ちぬ・・・。(末松)
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◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・第5楽章◎

2022年09月23日 | 末松建比古
安倍元首相の「国葬の日」まであと僅か・・・となった。皇室関係の御参列者も内定したらしい。
マスコミ報道では「国葬に反対する国民」が圧倒的多数である。しかし「国民の象徴」という御立場になると 「ご自分の意志」では行動できなくなる。お気の毒なことだが 憲法のもとでは仕方がない。

 

旧憲法の時代には 昭和天皇が「ご自分の意志」で指令を下すこともあったという。例えば「二・二六事件のとき」と「大東亜戦争終結のとき」である。
二・二六事件勃発の際に 昭和天皇は「私が信頼する老臣たちをことごとく・・・」と激怒し「私自ら近衛兵を率いて鎮圧に当ろう」とまで仰有ったという。そして「奉勅命令」によって それまで「蹶起」に好意的だった人々も 沈黙させられてしまった。
この時の「天皇陛下の激怒」は 二・二六事件の関係者を 後々まで苦しめ続ける因となった。末松太平も そのひとりである。
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「国民新聞」に掲載された記事の一部を転載する。執筆者=山口富永氏。末松太平からの手紙が紹介されている。
「・・・貴君の短歌会では 新年御歌始に歌の詠進をしていませんか。小生は五年来詠進することにしています。あと、生きている限り詠進しますが多分入選はしないでしょう。しかし、銃殺された同志は、銃殺されたらそのままの姿で天皇陛下のそばに行こうと言って死にました。詠進歌で当選したら陛下のそばに呼ばれます。小生が天皇のそば近くに参ることは、此の方法しかありません。死んだ同志は陛下のそばにまだ参っていないと思います。だから小生が参るのです」と、既に87歳の高齢、往年の覇気はいまも片言隻語の中に迫るものがあるとはいえ、数年来眼を患い、その不自由に耐えながら天眼鏡を頼りに執筆すらしている末松氏である。この手紙の末尾の一句に私は絶句した。
・・・・・・・
山口氏の文章は「刑死の瞬間まで、天皇絶対・尊皇絶対であった青年将校を、菊のご紋章の入った銃で銃殺したとき、日本は、あの戦争に突入すべく運命づけられたのである」が結びとなっている。
末松太平=当時87歳。記事掲載の翌年1月に逝去。2月26日の「賢崇寺法要」では 記事全文のコピー版が(山口氏の独断で)参列者に配られていた。法要とは直接関係のない内容だから 当時の仏心会・世話役(河野進サン)も困惑したに違いない。
私自身は 晩年の末松太平が 突然「わかづくり」に目覚めたことは知っていた。しかし「昭和天皇に物申したいがため」だったとは 全く気付いていなかった。
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実は「昭和天皇も(事件当時の御自身の言動に)後味の悪さを感じていたのではないか?」と推測できる事例も いくつか挙げられる。

事例・その①/1963年7月12日の「賢崇寺法要」の席で《小山いと子著「皇后さま」昭和31年・主婦の友社刊》からの抜粋が披露されている。それは「十七の盆灯籠」と題されている部分である。
『裕仁さまは断固として反乱軍の討伐を主張せられたけれども、これらの青年将校が順逆をあやまったのは私利私欲からではないことはよく承知しておられた。それについて私は一つの挿話をつけ加えたい。/その冬が去り春来たり夏になり、民間でいうお盆の日である。ある侍従武官が裕仁さまに呼ばれた。彼は二月二十六日の当直将校であった。/「内々でたのみたいことがある。盆提灯を欲しいのだが・・・」「かしこまりました。一つでよろしゅうございますか」「十七箇欲しい」/侍従武官はおどろいた。へんだなとは思ったが早速調達して来てさしあげた。その晩、人目に立たぬ軒下にその提灯がかけつらねられた。ほのかにともる灯かげを見たとき侍従武官は、はっと思いあたった。二・二六事件の死刑が十七人であったことを―。そして夏のはじめ処刑されたことを―。』

《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年・大和書房刊》の「続・夏草の蒸すころ」から 続きをもう少々。 
「この侍従武官は中島鉄蔵中将である/十七の盆提灯を天皇陛下が、人目に立たぬ軒下にかけつらねたというお盆は、二・二六事件の翌年、昭和十二年のことである。いわば新盆といったところである/さて、十七という數であるが、これは七月十二日に処刑された香田大尉ら十五人に、二・二六事件直後に自決した野中四郎大尉、河野寿大尉の二人を加えた數に一致する」以下省略。・・・《事例・その②》については いずれ項をあらためて。
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安倍元首相は「モリカケ桜」疑惑に関する質問に対して まともに答えることをしなかった。
岸田現首相は「安倍氏と旧統一教会」疑惑に関する質問に まともに答えようとしていない。
まさに 民主主義を愚弄する二人によって「国葬」が強行されようとしている。
そして 歴史が証明するように「強行」が「凶行」を誘発しやすいことは確かなのである。(末松)
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◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・第4楽章◎

2022年09月18日 | 末松建比古
◎安倍晋三元首相の「国葬」・・・なかなか近づかない。
※無為な期間が長すぎるから 事件直後は「安倍晋三=気の毒な犠牲者」と捉えていた人々までも「果たして国葬に相応しい人物だったのか」という疑念を持ち始めてしまった。

※安倍晋三元首相=7月9日逝去。エリザベス女王=9月9日逝去。
9月19日の「エリザベス女王の国葬」には 天皇皇后両陛下をはじめ 世界から約500人の国家元首らが参列する予定だという。
女王の棺は セント・ジャイルズ大聖堂~バッキンガム宮殿を経由して ウェストミンスター宮殿に安置されている。
国葬の当日までは24時間体勢で市民の弔問を受け付けていて 行列に数時間も並んでいるベッカム氏の姿も報道されていた。
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※安倍元首相襲撃事件の直後は 評論家と称する輩によって「五・一五事件」や「二・二六事件」に関連づけた《愚論》が拡散されそうになっていた。
※しかし 的外れの《愚論》は 直ぐに霧散してしまった。元首相襲撃事件が(政治テロではなく)私的理由に起因していたからである。
今回の事件に便乗して「二・二六事件」を貶める仕業は許されることではない。しかし「二・二六事件以来86年ぶりの襲撃事件」と言われることには 反駁できない。
※伊藤博文首相(安重根)・原敬首相(中岡良一)・高橋是清元首相(二・二六事件)・浜口雄幸首相(佐郷屋留雄)・犬養毅首相(五・一五事件)・斉藤実元首相(二・二六事件)・そして 安倍晋三元首相(山上徹也)。以上7人。浜口首相の場合は「暗殺未遂=重傷」だったが この傷が因で翌年に死去している。

「◎昭和史の裏話/首相を斃した男達◎」。2006年10月23日に このようなタイトルの記事を載せていた。
※掲載した写真には 末松太平が「浜口首相を狙撃した人物」と「犬養首相を暗殺した人物」と一緒に写っている。
昭和が終わり 年号も代わって もはや「首相襲撃事件」など二度と起こらないと思っているから 文章にも懐古的な趣きが漂っている。

 

※浜口雄幸首相暗殺未遂事件=1930年11月14日。佐郷屋留雄(24歳)は 1933年に死刑判決を受けたが 1934年に恩赦で無期懲役に替る。そして1940年に仮出所。いろいろな体験を経て 1954年に(佐郷屋嘉昭として)井上日召と共に護国団を結成後に団長に就任している。

※1972(昭和47)年4月14日。全日本愛国者団体会議議長・佐郷屋義昭氏(肝硬変により)死去。享年63。
同年5月18日。佐郷屋義昭本葬儀。式場=青山斎場。喪主=佐郷屋義洋氏。配布された「葬儀次第=堂々26頁!」には「その方面の方々=384人」が筆文字で名前を連ねている。因みに 末松太平は「友人=順不同で122人連名」のひとりとして扱われている。
喪主を務めた佐郷屋義洋氏は 2019年9月14日に(享年77で)逝去している。
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◎末松太平の遺品「1972年・日記帳」から 4月15日~5月18日辺りを抄録しておく。末松太平=66歳。佐郷屋氏より3歳年上である。
●4月15日。/14日に佐郷屋氏死去と新聞死亡欄に出ていた。 
●4月16日。/川端康成自殺すという。72歳。死にたいものは死ぬがよし、生きたいものは生くればよし。
●4月20日。/杉野良任君の奥さん逝去の報に接す。弔電を打つ。(注記/杉野良任中尉は 青森第五連隊当時(末松太平大尉・志村陸城中尉と共に)逮捕されたが無罪判決。その後も親交は続いていた)
●4月21日。/東急劇場で劇団民芸の「日本改造法案」を河野司、高橋正衛氏と観る。更めて北一輝、西田税の悲運を偲ぶ。パンフレットに北一輝に就き、松本清張、久野収、村山知義が語っている。群盲象評である。が、その群盲は、いずれも当人は眼がよく見えるつもりでいる。それが彼らの商売だから。
●4月25日。/「筒井敏雄さんを励ます会」に出席する。並木通りの三笠会館。
●4月29日。/出獄記念日である。昭和14年4月29日。あと9ヶ月を残して豊多摩刑務所から仮出獄した。33年経過したということである。
◎5月02日。河野司氏編「二・二六事件」出版記念会の打合せを、橋本氏らとする。筒井敏雄氏、河野司氏、石野径一郎氏と出版記念会が多い。
◎5月07日。前触れもなく八木夫妻来訪。土産物沢山。我家の鈴蘭をかわりに進呈する。(注記/八木春雄氏=五・一五事件で禁固4年)
◎5月15日。沖縄返還さる。人類の歴史は試行錯誤の連続。二・二六事件も、結局は試行錯誤のひとつ。
◎5月18日。佐郷屋義昭氏の本葬。青山斎場。小沼氏と会食(河野氏・高橋氏)。小沼氏の話には解釈の異なるものがある。井上日召、西田税に関することである。「佐郷屋氏の葬儀はやくざの親分の葬儀みたい。死んだ佐郷屋氏の骨までしゃぶろうとしている」と、小沼氏は憤慨。葬式興行師がいるということ。HG(仮名=日記には本名が記載されている)の名を挙げていた。(注記/小沼正氏=血盟団事件で前大蔵大臣・井上準之助を暗殺。東映映画では千葉真一が小沼役を演じた。佐郷屋氏葬儀では「友人・小沼廣晃」と記されている。この当時は60歳)
━━━━━ 続きを 5月末日まで・・・
◎5月22日。河野氏の出版記念会の打合せ。「私の昭和史」の三国一朗と会う。出版記念会の司会をするという。平岡梓著「倅・三島由紀夫」を購入。
◎5月29日。如水会館で 河野司編「二・二六事件」の出版記念会。賢崇寺・藤田住職の話には心打たれるものがあった。三国一朗の司会によって、出版記念会は軽快に終了した。海兵出身・学習院卒の島田氏に初対面。(注記/末松太平が 三国一朗司会のテレビ番組「私の昭和史」に出演したのは この翌年のことである)
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安倍元首相の葬儀は「7月12日・東京都港区芝の増上寺」に於て(家族葬の形で)行われている。
紫雲院殿政譽浄普寿大居士。立派な戒名である。(末松)
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◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・第3楽章◎

2022年09月09日 | 末松建比古
安倍元首相の「国葬」が近づいてきた。
前回の「国葬=吉田茂」は 1967年10月31日に行われた。天皇皇后陛下のお使いをはじめとして 皇太子御夫妻(現在の上皇御夫妻)義宮御夫妻 皇族方 73カ国の外国特使など 約6500人が参列している。そして 防衛庁(当時)の儀仗隊が 19発の弔砲を発射している。

2022年9月8日 英国のエリザベス女王が死去した。96歳だった。
女王の「国葬」は ロンドンのウエストミンスター寺院で 約十日後に行われるという。



安倍元首相の「国葬」の費用が 批判されている。最初に「さほど費用はかからない」と印象づけて 間近になって「警備費その他」を追加した高等戦術(?)が 逆効果を招いたようである。
冷静に考えれば 国葬であれ 国民葬であれ 内閣&自民党合同葬であれ 世界各国から要人が参列するとなれば それなりの警備体制&費用が必要なのは自明の理である。変に策略を弄するから疑惑を招くことになる。
最近は 何かにつれて「国民の貴重な税金で・云々」という愚論が罷り通って 耳目を汚されることも多い。こうした愚論を必要以上に避けようとするから 自ら墓穴を掘ることになる。そして一方 こうした失態に便乗して「国葬に欠席する」などと 国会議員の責務を放棄した「妄言」を インスタグラムに載せるバカ(誰のことかは判るだろう)もいる。どちらの場合も 墓穴に墜ちることに違いはない。
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画像=2020年2月26日。麻布賢崇寺・法要開始前の本堂内から撮影。しかし この男達は 法要の参列者ではない。
「二・二六事件」法要の当日には 眼光鋭い「公安関係だと思われる方々」が現れて 参列者を監視(警戒?)するのが常である。
昔 私が初めて賢崇寺を訪れた時は 法要の受付周辺に屯する「眼光鋭い黒服の方々」を「右翼と称する方々」だと勘違いして いささか怯えたものだった。因みに この「公安関係だと思われる方々」は 法要が始まると同時に 一斉に姿を消してしまう。
時の流れにつれて 法要の参列者は減少する一方であるが 監視(警戒?)の方々は まだまだ多い。

こうした「二・二六事件」法要会場における監視(警戒?)状態を何度も体感していると 安倍元首相が銃撃された際の「警備の薄さ」が不思議に思われてくる。 



末松太平の自宅も「公安関係」から監視されていて 定期的に「公安関係」がご機嫌伺いに訪れていた。末松太平は(疚しい気持がないから)訪問者相手に「暇つぶし」をしていたと思う。末松夫人(私の母)も 気軽に粗茶の接待ぐらいはしていた筈である。

画像=末松太平が遺した(公安関係の)名刺の数々。
警視庁公安部公安第三課 千葉県警察本部警備部公安第二課 警視庁原宿警察署 千葉賢千葉中央警察署・・・といった肩書きが見えるが やはり「千葉県警察本部警備部公安第二課」の方々が多い。

監視役のなかには 後任の担当者に引継いだ後も(プライベートな立場で)末松家を訪問する人がいた。
中川喜英サンという元監視役の場合は 定年で警察を辞めた後も 自宅で収穫した野菜を手土産にして 末松家に遊びにきていた。末松太平の影響で 賢崇寺の法要にも参列するようにもなっていた。
末松太平の死後 末松敏子(未亡人)と長男(私)が「賢崇寺の法要」に初めて参列した際に 末松敏子の案内役として(千葉市登戸5丁目の末松家から賢崇寺まで)付添って下さったのも 中川喜英サンである。
私が法要に参列することになった後は 賢崇寺で顔を合せる度に「お母さんは元気にしていますよ」と教えていただくのが常だった。
 
1993(平成5)年1月17日。末松太平死去。朝・毎・読の全国版に死亡記事が載った。
通夜&告別式が1月19日&20日になったので それまでは(遺体の置かれた)末松家に弔問客が訪れたりもした。
末松家には 千葉県警察本部公安2課からも2名が訪れて お悔やみの言葉と共に「長年続いた警備(監視)業務の完了」を伝えてくれた。彼らが「個人の気持です」と差出した香典袋には名前がなく「返礼御無用」という志を示していた。

安倍元首相の場合も 周辺を警護する方々との間に「心の繋がり」が生まれていたのだろうか。(末松)
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◎「旧統一教会がらみ」に纏わる狂騒曲・第2楽章◎

2022年09月04日 | 末松建比古

◎安倍晋三元首相の「国葬」が近づいた。
※マスコミの報道だけを信じると 国民の大多数が国葬反対のようだが 本当のところはどうだろうか。
いずれにしろ 世界各国に公表してしまった以上は 今更「やめた」というわけにもいかないだろう。
私個人の心情は おやりになりたければ「勝手にどうぞ」というあたりであろうか。

※画像は「国葬」から導かれた記憶のひとつで 某氏の葬儀の様子であるが(祭壇の遺影からは)某氏が誰なのかは判別しにくい。
広い広い会場で 御焼香台から祭壇までも かなりの距離があり 普通サイズの遺影が 遙か遠くに見えるためである。ミニサイズの写真を焼香台に置いてあるのが 遠すぎる遺影への忖度ということだろう。



※安倍元首相が襲われた直後は 短絡的に「五・一五事件」や「二・二六事件」に結びつけた《愚論&誤論》が目についたが 論者自身の無知蒙昧を天下に曝しただけに終わった。
※犬養首相の「話せばわかる」に対し「問答無用!」と応じたのが「五・一五事件」である.。
安倍元首相の場合は(日常から)疑惑の数々に対して「問答無用」の態度を自ら示していたのだから 話は逆である。

◎岸田首相は「国葬」を行う理由として 安倍元首相の「業績」を4点挙げた。
※元首相の「まだ定まってはいない政治的評価」には触れることなく「選挙活動中の死に対する暴力に屈しないという姿勢」を強調した。
※安倍元首相は「旧統一教会に恨みを抱く青年」に「憎悪の対象を勘違いされて」襲われた不運な被害者なのだ と思わせたいらしい。そして 安倍元首相と旧統一教会との関係も(安倍元首相が亡くなってしまったので)今さら調べようがないのだ と思わせたいらしい。そして 事件の核心が 徐々に曖昧になってくれれば 国葬に対する異論も次第に薄れていくだろう と思っているらしい。しかし・・・。

※例えば「統一教会とズブズブな国会議員168人名簿/最新完全版」
●例えば「旧統一教会 440議員が接点/国・都道府県8割は自民」
●例えば「断末魔の《岸田・統一教会》連立政権」「岸田《統一教会》政権のウソを暴く」
・・・岸田首相の思惑とは裏腹に 新聞や週刊誌の見出しは 次第に過激になっていく。

※マスコミの報道には《踏絵》に近いものも含まれている。例えば「旧統一教会系の出版物に寄稿した人たち」の名前を まるで鬼の首をとったかのように羅列したりもする。
冷静に考えれば判ることだが 一票を得るために政治家は(犯罪に関連しない場であれば)何処にでも登場するものである。
記事に登場したからといって「旧統一教会に身を売った」ことになるとは限らない。
《踏絵》に近い報道には 本質から目を逸らす効果がある。そして 本質から逸脱した報道は やがて《反作用=世論転換》のキッカケになることもある。既に チラホラではあるが「信教の自由は 憲法で保証されている」という 論点すり替え発言も 姿を現しはじめている。
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◎「第三文明」という月刊誌がある。第三文明社は1969年7月設立で 前身は創価学会言論部である。
※「第三文明」のバックナンバーを辿ると 末松太平が実に三度も登場している。

①『インタビュー・昭和史の証言/私の軍隊生活』。1974年10月号掲載。
……延々15頁のロングインタビューだが 聞き手(青年)の知識不足もあって 内容は空疎である。
②『対談/日本軍隊の特質』。1975年3月号掲載。
……対談相手は藤原彰氏(一橋大学教授)。
③『対談/右翼と左翼のあいだで』。1977年8月号掲載。
……対談相手は秋山清氏(無政府主義者の詩人)。二人は福岡県出身で 小倉中学時代のの同級生である。
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※上記の掲載記事に 宗教や信仰に触れた部分は全くない。それも当然で 末松太平には「創価学会」への関心が皆無であった。
それでも「第三文明」の要請に応じたのは「二・二六事件の実相」を(創価学会関連の方々にも)理解してもらうためだった……と思う。



◎画像は 前述した「葬儀」に寄せられた供花の数々。
※国葬には程遠い規模だが 数十基の供花が式場の内外に飾られていた。
贈主として 仏心会・慰霊像護持の会・陸士三十九期会・相沢正彦氏(相沢中佐・御長男)・大岸哲郎氏(大岸頼好・御長男)・四元義隆氏・三原朝雄氏(元防衛庁長官)・石川六郎氏(鹿島建設会長)・西山広喜氏 などの名前が見える。(末松)
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