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《「年表・末松太平」1991(平成3)年。/末松太平=85歳~86歳。/私=50歳~51歳。》
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◎1991年4月発行「史・75」。「二・二六事件断章(その六)翹望(ギョウボウ)」。
・・・「翹望」ということばについては「久し振りに机辺の漢和辞典により調べてみた。目が悪くて辞書はよく読めないから、中三の孫の助力を求めた」と書いている。
・・・「中三の孫」は尾島匡則。毎度毎度「じいの目の代用」として、文字を超拡大して書かされていた。特に、この「翹」という文字を巡って「自力では見えない老人」と「自力では書けない少年」は、苦労したようである。
◎1991年7月発行「史・76」。「二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死」
◎1991年11月発行「史・77」。「二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死に就いて」
◎極私的な(父と息子の)エピソード。
●1991年8月16日の朝。突然、私は「自宅」から「末松太平宅」まで歩いて行こうと思い立つ。
・・・8時20分・自宅(東京都板橋区)出発。板橋区~北区~荒川区~台東区~墨田区~葛飾区~江戸川区を経て、12時52分(江戸川を渡って)千葉県へ。詳しい地図を持参せず、迷いながらの都内突破。特に「隅田川を渡る場所探し」には苦労した。
・・・千葉県市川市~船橋市~習志野市~千葉市。18時25分(千葉市登戸の)目的地に到着。真夏の太陽が終日ギラギラ。黒ズボンが(汗の塩分で)黒+白=灰色に変色していた。
・・・この快挙(愚挙!)に、末松太平は予想以上に喜び、饒舌になった。軍隊時代の「行軍=耐暑訓練」を想起したのだと思う。私自身にも「末松太平を(生きているうちに)驚かせてやろう」という思いがあった。だから 父親の反応が嬉しかった。
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《「年表・末松太平」1991(平成3)年。/末松太平=85歳~86歳。/私=50歳~51歳。》
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◎1991年4月発行「史・75」。「二・二六事件断章(その六)翹望(ギョウボウ)」。
・・・「翹望」ということばについては「久し振りに机辺の漢和辞典により調べてみた。目が悪くて辞書はよく読めないから、中三の孫の助力を求めた」と書いている。
・・・「中三の孫」は尾島匡則。毎度毎度「じいの目の代用」として、文字を超拡大して書かされていた。特に、この「翹」という文字を巡って「自力では見えない老人」と「自力では書けない少年」は、苦労したようである。
◎1991年7月発行「史・76」。「二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死」
◎1991年11月発行「史・77」。「二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死に就いて」
◎極私的な(父と息子の)エピソード。
●1991年8月16日の朝。突然、私は「自宅」から「末松太平宅」まで歩いて行こうと思い立つ。
・・・8時20分・自宅(東京都板橋区)出発。板橋区~北区~荒川区~台東区~墨田区~葛飾区~江戸川区を経て、12時52分(江戸川を渡って)千葉県へ。詳しい地図を持参せず、迷いながらの都内突破。特に「隅田川を渡る場所探し」には苦労した。
・・・千葉県市川市~船橋市~習志野市~千葉市。18時25分(千葉市登戸の)目的地に到着。真夏の太陽が終日ギラギラ。黒ズボンが(汗の塩分で)黒+白=灰色に変色していた。
・・・この快挙(愚挙!)に、末松太平は予想以上に喜び、饒舌になった。軍隊時代の「行軍=耐暑訓練」を想起したのだと思う。私自身にも「末松太平を(生きているうちに)驚かせてやろう」という思いがあった。だから 父親の反応が嬉しかった。
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