◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎大日本帝國の残滓◎

2014年07月31日 | 末松建比古


選別して“廃棄”と決めたものの中にも“記録写真(廃棄記念?)だけは残しておこう”という気にさせる物もある。この超大型書籍「大日本府県別地図及地名大鑑」が、その一例である。
この超大型書籍は、赤リボンで縛った大型封筒に収められていた。大型封筒には末松敏子(母)の筆跡で「昭和17年初版 定価金14円也」と書かれている。当時の物価で“14円”というのは、戦時中の家計を圧迫したに違いない。明記された金額を眺めていると、末松未亡人の“怨み節=唄・梶芽衣子”が聞こえてくるような気がする。
中も見ないで廃棄するのは(保存していた亡母に対して)申し訳ない。写真の2~3枚でも撮っておくのが、礼儀というものだろう。

“大日本府県別地図”を構成する日本の府県は“北海道から沖縄まで”ではない。北海道の前には“樺太(の半分)”や“北方4島”の地図があり、沖縄県に続いて“台湾、南洋、朝鮮、満州”の地図がある。

朝鮮(当時の呼称)を例にとる。今では二つの国家に分かれている地域が“ひとつの地域”として記載されている。書名が“大日本府県別地図”及“地名大鑑”であるから、朝鮮(当時の呼称)の市や町の住所表示が細かく記されている。
朝鮮京畿道府邑面索引一覧=京城府、仁川府、開城府、坡州郡、抱川郡、長◎郡、以下省略。
朝鮮忠清南府邑面、◎◎府邑面、◎◎府邑面、◎◎府邑面、◎◎府邑面…等々。当時は、この地図を活用していた人がいたということである。
地図には“◎◎湾要塞地帯区域”とか“◎◎近傍軍機保護法適用地域”などが記されている。暗い時代の記録である。



家屋取壊作業初日の午後。旧家屋の右端と新家屋の左端に、それぞれの時代の“末松太平の部屋”があった。
今回紹介した“大日本府県別地図及地名大鑑”は、旧家屋の奥に保管されていた。(末松)
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◎「末松太平の部屋」の消滅◎

2014年07月30日 | 末松建比古


昨夜(7月29日)は23時頃に帰宅した。車のトランクにも後部座席にも“お持帰り”を乗せている。これを我家(15階マンションの3階)まで運ばなくてはならない。疲労困憊ではあるが、明朝になると、エレベーターを居住者が利用する。運ぶなら「今でしょう!」というわけである。
引越当日と翌日は、樹木類の撤去作業に費やされ、7月31日(木)からは家屋の破壊作業が始まる。今日の作業は何もない。それを承知で、ウオーキングの途中で“誰もいない現地”に立ち寄った。
家屋の外観はそのままだから、過去のヒトコマが蘇ったりする。センチメンタルな感情はない。自分の記憶力を確認するだけである。74歳老人(私)は“まだ認知症でない”ことに安心するのである。



消え行く家屋に哀悼の意をこめて“末松太平の部屋”を記録に留めておきたい。
末松太平は“来客”を喜んだ。多分“話を聞いてくれる人”が欲しかったのだ。私は“末松太平の昔話”に興味がなかった。現在進行形の話題だけ、お相手していた。
“来客”の皆様は聞き上手だった。末松太平の饒舌に耳を傾けていただいた。末松夫人は、それなりの接待はしていたと思う。私は同居していないから、来客の場を知らない。以上は私の想像である。
“来客”に請われて記念写真に納まることもあって、未整理の状態で残っていた。残念ながら“私の知らない方”が多い。

三原朝雄氏(元防衛庁長官)と、末松敏子のツーショット。1992年9月30日の日付があった。撮影したのは三原氏の秘書で、後日に郵送いただいたのだと思う。末松敏子のリラックスした表情を見れば、末松夫妻と三原氏との長い交友が想像できるだろう。
写真の下に写っているのは、末松太平のスケッチブック。遺品の中から何冊も現れたが、8冊ほど残して廃棄した。親しかった方々は、既に“絵・末松太平”を多数お持ちになっているから、これ以上進呈するわけにもいかないのだ。



河野進氏(当時・仏心会世話人)と、今泉章利氏(慰霊像護持の会世話人)。
河野司氏の逝去後、次男の進サンが世話人を受継いだが、末松太平との交流はなかった。末松は“賢崇寺の法要”に参列しなくなっていた。それを知った今泉サンが“御対面”の場を設けた。1992年9月20日のことである。
翌年1月に、末松太平は逝去。この写真の時点では、進サンの顔が見えなかっただろうと思う。



来客中の末松太平。1990年頃であろうか。お客様は高橋正衛氏かも知れない。妙な存在感を漂わせている“土偶の置物”は、晩年の太平のお気に入りだったようだが、今回の遺品整理では、迷わず廃棄してしまった。(末松)
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◎番外篇/遺品資料移動大作戦◎

2014年07月29日 | 末松建比古

◎2014年7月29日(火)。
※「助手席男」で現地到着すると、積出作業は終盤にかかっていた。作業効率を優先して、庭の樹木は伐採済みである。大量の書籍類は、前日に数人の手で「箱詰め」を完了し、既に運送トラックの奥に納まっているらしい。どれくらいの量になったのか気にはなるが、敢えて訊ねない。



※画像参照。廃棄対象の「書籍&雑誌類」である。保管対象と廃棄対象の最終選別は(大雑把な区分を示唆した上で)妹夫妻に一任していた。ひとつひとつチェックしていると、それなりの価値は見出せるから、何も棄てられなくなってしまう。文庫や新書は、全て廃棄して良い。これが妹夫妻への指示である。
※実は、文庫や新書にも「末松太平」という蔵書印が押されている。その頁を切取って処分すれば良いのだが、その余裕がない。廃棄した筈の文庫や新書が(何かの経路で)古書店に流れたとしても、無視するだけである。

※廃棄対象書籍の集積場所は「床の間」だった処である。渋川善助氏や村中孝次氏や三上卓氏の「掛軸」が掛けられていた場所である。
昔話をすれば、60年安保の頃、末松太平を訪ねてきた石井一昌氏(維新行動隊・隊長)に出会ったのはこの座敷だった。石井氏はやがて「護国団」を統率することになる。

※「床の間」に詰まれた「廃棄対象本」は思ったより少なかった。妹夫妻が近くの「共同ゴミ置場」に、少量ずつ運んでいたのだろう。
書籍を縛って家の前に置いておくと、中身を調べて持ち去る人が現れる…。妹の証言である。
「床の間」に積まれた中から(保存に値する本を)数冊救出した。救出しなければ「持ち去る人」を喜ばせた筈の本である。

  

※廃棄処分した雑誌(左)は、さほど多くはない。末松太平に直接関係あるものは(とりあえず)既に保管してある。
※予想以上に多かったのが、各種の地図(右)である。青森の地図が多いのは当然だが、思いがけない地域の地図が集めてあったりする。弘前周辺の地図(2万分の1)の裏に「中尉 末松太平」と所有者名が書かれているものもある。

※雑誌も地図も、今まで保管していた理由を分析(推察)すれば面白そうだが、迷わず廃棄することに決めた。「何処か(例えば図書館)に行けば見られるもの」を、無理して残しておく必要はない。



※トラック3台分の引越荷物が搬出され、作業の主役は「アート引越センター」から「産業廃棄物処理会社」に移った。
※適当な時間を見計らって、引越荷物の搬入先(千葉市美浜区幸町)に顔を出す。車で10分程の距離である。夫妻は引越荷物と同行していて、ダンボールと挌闘していた。
※近くにある「評判の店」に夕食に行く。妹夫妻に「三島を嫌った末松は・・・」の話をする。
当ブログ7月5日に掲載した《日本「愛国者」列伝に関する事柄》の話である。妹は「誰が、そんな嘘を!」と腹を立てる。
※妹は、三島氏に招待されて「観劇と会食」を共にしている。招待されたのは、末松太平夫妻&次男&長女の4人。私は(福岡に転勤中で)参加していない。
※「三島由紀夫から劇場のチケット(北大路欣也主演)が届けられたけれど、末松家の家族4人だけで観ると思っていた。劇場の客席で、三島氏夫妻&御両親も一緒に観劇していると気付いて、本当に驚いた」
※妹とは今まで《この種の会話》をかわしたことがなかったので、初めて聞く話は それなりに面白かった。(末松)

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◎渋川善助と三角友畿◎

2014年07月27日 | 末松建比古


◎三角友幾氏は《末松太平著「私の昭和史」》に登場する主要登場人物のひとりである。
※中公文庫版で言えば「上巻P249」に初登場して、不思議な役割を果たしている。P249の後半~P260の途中までを「三角氏が記した(辻政信宛の)抗議文」で占めているのが凄い。三角氏の思いを転記して「《私》の昭和史」の中では異質な扱いになっている。
※三角氏に対する親身な対応は、三角氏が「渋川善助氏に兄事していた人物」であることと無縁ではないだろう。三角氏は、渋川氏の御家族にお供して「最後の面会」を体験している。その時の血涙溢れる記録も、何故か末松太平の遺品の中に保管されていた。
※画像参照。本日の遺品整理で見つけた印刷物である。表面には「何の利もなき吾ために幾人の 友あり夜半を長く思へり 三角友幾」と記されている。

※「三角友幾 大正1年10月28日九州福岡糸島に生まる。幼児神童と言わる。長じて東京に遊学、青山師範に籍をおくもその頃よりカリエスに悩まさる。療養のかたわら、渋川善助氏、西田税氏等と親交、国家革新運動に意を注ぐ。(中略)昭和50年7月17日、武蔵村山病院にて斃る。享年62」
三角氏からの手紙も多数、保存されていた。



◎数日後の遺品整理で「三角友幾・遺歌集」を見つけた。
※発行人=村上啓司、発行日=昭和51年7月17日(三角友幾一周忌)非売品。約140頁。
「三角さんが亡くなって、丁度一年経ちました。余暇に編んだ『遺歌集』を本日お届けすることが出来、ほっとしました。これから墓参に糸島に行ってきます。皆様御元気で御過し下さい。村上生」

※遺歌集を開くと、三角氏の挨拶が載っている。
「長い長い間本当にお世話様になりました。皆様方に温かく見守っていただいたお陰で何不自由なくこんにちまで永らえることが出来ました。唯々心から感謝いたします。何のお返しも出来ないで申し訳ありません。お許し下さい。自分としては精いっぱい生きて来たつもりです。思い残すことはありません。生死のことは結局何もわからないままですが一応今生を去ります。皆々様益々御健康で末長く倖せにお過ごし下さい。之を以っておわかれの挨拶に代えさせて頂きます。合掌。昭和50年7月17日。三角友幾」

※遺歌集の内容をご理解いただくために、村上氏の記した「あとがき」の一部も紹介しておく。
「私と三角氏との交りは、私が昭和27年5月、御母家療養所に入院加療中の2年間の同室を出発点とし50年7月18日、その骨を武蔵野の一角に拾うまでの23年間である。(中略)三角氏の歌はおそらく二万首を超えていると思われるが、私は九百首余を選んでみた。
(中略)かく遺歌集を世に出したこと自体、三角氏の本意でなかった次第でもある。33冊の大学ノートに年代順に整理されている歌稿であるが、その表紙に『歌集などを出すことは絶対お断り』と大書されているばかりでなく、息を引きとる間際もそのことに触れていたからである。」
「葬儀が終わってからも各方面より『歌集を』との要望があり、私自身も何回読んでも、その度ごとに、新たな涙を禁じえない作品である だけに、日頃敬愛する末松太平氏にその導きを敢て御願いした結果、出すことに踏み切った次第である。」
「三角友幾、彼は一体何ものであったのか。(中略)彼の生涯の中で、最も生き生きと明日を見つめて生きた時期は、国家革新運動に奔走した昭和5年から11年のカリエスに倒れる日までであったろう。そしてその凝結したものが二・二六事件にあったことは間違いないところであろう。その憶いが埋火のごとく彼を温めて来たように思う。亡くなる数日前7月11日の日記に『せめて明日の渋川さんの命日まで…』とあるのが、すべてを語っていよう。(中略)」
「この遺稿集は今回、歌のみを載したものであるが、二・二六事件に関する彼の外伝として、先にあげた末松太平氏の『私の昭和史』(みすず書房)147頁に、彼が辻政信著『亜細亜の共感』の中で辻氏が二・二六を誹謗した文章について、辻氏に回答を求めた、抗議文全体が掲載されているので一読をおすすめしたい。(後略)」(末松)
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◎「遺品資料類」の重要度について◎

2014年07月25日 | 末松建比古


◎遺品資料類への対応は「二・二六事件関係者」に共通した悩みである。
※末松太平は「事件の脇役」に過ぎない存在だから、遺品資料類が全て消滅しても、現代史にさほど影響があるわけではない。
しかし「事件の主役」の遺品の場合は、次元の違う話になる。
※画像の「二・二六事件遺書等関係資料御預かり一覧」は、2004年6月30日に、安田善三郎氏(安田少尉実弟)が作成している。
ご遺族諸氏の高齢化が進むにつれて「遺書や資料を《仏心会》にお預けしたい」という依頼が 急速に増えていた。依頼に応えたのが「仏心会・世話人代表」の安田氏である。

※相澤中佐揮毫(軸装3本/香田大尉宛1本を含む)。伝磯部一等主計揮毫(軸装1本)。磯部一等主計遺書(軸装1本)。中橋中尉遺書(和風巻物1本=筆者不詳)。西田税氏遺書(軸装1本)。河野大尉遺書(複写4枚)。河野大尉宛弟正五氏書簡(複写9枚)。ナイフ写真(2 枚=河野大尉が自決に使用)。殉難警官葬儀会葬礼状(複写2枚)。光風荘関係(コピー8部)。自決場所の記念石碑写真(1枚)。
・・・以上は「河野大尉の御遺族」が安田氏に預けたものである。これだけでも かなりの数量になる。

※夫々の細目については割愛するが、「香田大尉の御遺族」「安藤大尉の御遺族」「丹生中尉の御遺族」「對馬中尉の御遺族」「高橋少尉の御遺族」・・・。(この時点で)大量の資料が 安田氏の元に預けられていた。
※「上記以外に、北一輝氏の遺書は賢崇寺様に寄託してあります。香田大尉の遺稿1点は賢崇寺様に保管をお願いしてあります。安田優関係資料は安田宅に保管してあります」・・・。画像の「御預かり一覧」に添えられた 安田氏のメモである。
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◎後日談にも触れておく。
※仏心会に寄託される「遺書等関係資料」は(関係者の逝去などもあって)増加の一途を辿り、賢崇寺の御好意に甘えていられなくなった。
新しい「寄託先」に選んだのは「防衛庁防衛研究所」である。
※私が「防衛庁(防衛省に昇格する前である)防衛研究所」を訪れたのは「2006年8月14日」のことである。
今泉章利サン、井上宣子サン(水上源一氏の遺児)、松本一郎サン(独協大学名誉教授)が一緒だった。

※私自身は「防衛庁防衛研究所」に頭を下げて「保存=寄贈」をお願いする気持ちはさらさらない。
あの時、研究所員の方には非常に対応していただいた。私を立腹させたのは守衛室(正式な呼称は知らない)の言動である。戦時中の“オイコラ警官”を彷彿させる対応で、こんなところに二度と来るもんか、と決意させてくれたのである。
勿論、先方の立場で考えれば「事件の脇役に過ぎない者」の所有資料など不要と、門前払いされることも、自認しているつもりである。

朝日新聞の「どうする秘密法」欄に掲載された「作家 半藤一利さん」の記事の一部を引用する。
※「秘密保護法で何が起きたか。軍人のメモや日記を調べに防衛省研究所を訪ねても『個人情報』にかこつけて見せてくれなくなった。
形式的には『遺族の許可が必要』というが、たとえ孫や遠い縁者を探し出せても答えはノー。つまり事実上の閲覧拒否です」
※半藤氏ほどの著名人でも、こういう扱いを受けるのなら、一般人の閲覧は不可能である。
委託して死蔵されるか、自分で破棄してしまうか、選択肢は限られてくる。



◎前回に「処分できるかな?」と記した「万葉集・上下2巻」についての続報である。
※表紙を開くと「渋川より貰った 末」と、走り書きしてあった。渋川善助氏と仲良しだった「証」だと思えば、捨てるに捨てられない。 
それにしても「貰った日付」が記されていれば、情景を想像できたのに、と思う。
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◎「棄てるか・残すか」という葛藤◎

2014年07月22日 | 末松建比古


土日月の三連休。土曜日と月曜日は「ウオーキング」を優先し、日曜日だけ「遺品整理」に千葉に向かう。
画像=末松太平邸の現状。取壊し間近だから「庭木の手入れ」も怠ったままである。
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※今日は、義弟とタッグを組んで「末松太平が保存していた大量の手紙」を選別&破棄した。
既に多くの手紙は(遺品整理の度に選別して)私の手元に移してある。それでも次々に「未整理の手紙」が現れる。
義弟の協力で大胆に破棄作業を進めるしかない。

※残されていた手紙には「拝復」で始まるものが多い。
晩年の末松太平が(半盲目の状態で)執筆した原稿は「同志の皆様」の助力&協力なしには書けなかったものが殆どである。
「二・二六事件断章」と称した以上は「真実の裏づけがないもの」は書けない。その度に「同志の皆様」に「裏づけ資料」の送付を依頼して いたのだろう。
「拝復」で始まる大量の手紙は、皆様の御好意(助力&協力)の顕れである。
文面から推察すると「資のの在り処」を捜して、東奔西走した方々も多かったようだ。実に実に申し訳ないことである。

※「拝復」で始まる手紙(&資料類)は、末松太平の著述に活かされたが、私には「活かす手段」が皆無である。
感謝の気持ちを込めながら、細かく千切って廃棄するしかない。形としては「霊魂に対して御香を手向ける仕草」と同じつもりである。

※私は「靖国神社」を毎月数回は訪れている。ウオーキングコースに含まれることが多いので、こういう結果になる。
靖国神社の境内では定期的に「骨董市」が開催されている。靖国神社ということで「軍人や兵隊の所有物」も大量に並べられている。
無名兵士の遺品が(衣類備品から私信の類まで)並べられている。どこかのお役所から流失したらしい書類類が積み上げられている。
このような品々を、どのような経路で出品者(骨董商)が入手したのかは判らない。
末松太平の遺品資料は「骨董市の商品」にしたくない。私が 細かく千切って廃棄するのは、そういう理由である。
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◎「処分できるかな」の実例。
※「皇后陛下 皇太后陛下 御下賜」という紙片のついた「真綿」が保管されていた。
大量の「真綿」を保存していたポリ袋には、末松敏子(母)の指示が同封されている。
「この真綿は 戦地慰問で 両陛下より 下しされたもの 及 イモン袋で頂いたものです 大切に」
※「戦地慰問」とは何時の話であろうか。ご存知のように、末松太平は昭和12年に軍籍剥奪されている。
満州事変で「御下賜」されたものだろうか。満州=酷寒=真綿?。
多分そういうことだと納得して、古い真綿は(母の指令に背いて)処分させて頂くことにした。



◎「処分できるかな」の実例を、もうひとつ。
※「万葉集」上下2巻。書籍の扱いは、目下最大の悩みである。さて、この本の場合はどうするか。
何気なく表紙を開くと、末松太平の筆跡で「◎◎に貰った」と記されていた。それで、この本を捨てるわけにはいかなくなった。
(末松)
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◎「思い切って捨てちゃえ」の対象?◎

2014年07月21日 | 末松建比古


「平成五年十月十五日 間山洋八様より返送された太平のもの」
「十月三日 御来宅 青森まで持帰り コピーにしたとか」
大型封筒に記されているのは、末松敏子の文字である。
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※末松太平が死去して間もなく、相沢正彦氏(相沢中佐・長男)から母宛に電話があったという。
「おばさま、いろいろな所から《おじさまの遺品資料》を見せろと言われると思いますが、絶対に貸してはダメですよ。戻らないことが多いですから・・・」
※偶然にも、相沢中佐夫人の葬儀と、末松太平の葬儀は「同じ日時」に重なった。
末松敏子(母)は日頃から正彦氏を頼りにしていたから、この助言(資料を貸してはダメですよ)を肝に銘じていたらしい。
封筒に記された「間山氏から返送された」の文字には、安堵の気持が溢れている。



※「返送された太平のもの」の中身である。書類があったり、写真があったり、手紙があったり、中身は雑多で統一性が感じられないように見える。「太平の部屋」を訪れた際に、目の前にあった「遺品資料」を(食品売場の「蜜柑詰め放題」のような感覚で)持帰ったのだろう。
※間山洋八氏は「真木洋之助」という筆名を用いて、地元紙や地元誌などに「二・二六事件」を題材にした作品を発表していた。
以前も(当ブログに)記したことだが、真木氏の作品には「メチャクチャな部分」がやたらに多い。例えば「二・二六事件の残菊だった末松 太平。異名を《野の虎》という」といった調子である。「残菊」やら「野の虎」やら、支離滅裂な文章である。
間山氏自身に悪意はない。会ったのは一度だけだが「面白いキャラクターの持ち主」だと思った。

※「返送された太平のもの」は、記録用の写真を撮った後で、全て廃棄するつもりでいた。
でも「間山氏がコピーしている」ことが気になって、中身をチェックすることにした。
※「目の前にあった遺品資料を蜜柑詰め放題のように」と表現したが、間山氏の目の前にあったのは 偶然にも「末松太平《最後の”戦い》」に使われた資料」だったのだ。 
※「NHK特集」に関連した部分は、あえて省略。(間山氏が持ち帰り返却した)大量の私信ハガキについても、あえて省略。
それ以外の中身の一部を(順不同で)書きとめておく。
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◎“直心道場小史 中澤直通”のコピー原稿。細川道彦氏が著作に使用許可を得た時のもの。
◎文化社の原稿用紙21枚(紙質劣化状態)に記された「二十二士以外の事件関係者の中、死亡者」
◎誰かの原稿(“檄”尊皇義軍別働隊 昭和11年4月21日」など。ガリ版印刷物の引写し)
◎松本健一氏からの私信(“史”の礼状「竹内俊吉と末松の長い付合いを初めて知りました」)
◎朝田氏からの私信(中村義明夫人と来訪したことの礼状。「大眼目」「皇魂社の歴史」「市川芳男さんの遺稿写し」同封しました)
◎山口富永氏からの私信(高橋正衛氏宛の手紙の実物と高橋氏の返信コピーが同封されている)
◎田崎末松氏からの私信(末松の質問への回答。青年将校運動&二・二六事件の背後に「赤化」の謀略があったという風説についての一考察)
◎和田千脩氏からの私信(例の「三島を嫌っていた末松」を書いた人、信濃毎日新聞社の記者?)
◎海老沢行秀氏からの私信(陸士の後輩。その後、末松宅を来訪したことが日記に記されている)
◎大石茂氏からの私信2通(どちらも長文。菊川で催された「匂坂春平資料展」の報告、その他)
◎飯淵孝夫氏からの私信(二・二六事件当時、首相官邸勤務。当日は非番で翌日の様子が記されている)
◎誰かの直筆原稿(10枚に超細字でギッシリ。大蔵、菅波、西田、大岸、末松、他多数が登場している)
◎破損寸前の印刷物(昭和29年に元陸軍中尉氏が配布したもの。昭和11年4月付“陸軍教育総監閣下”に宛てた大学教授の請願文を復刻。中尉氏は“二十二士の御霊に捧ぐ”と記している)
◎末松太平の直筆原稿の一部分(三角友幾氏の原稿を“異聞”に転載したときの一部分だろう)
◎文春・昭和53年3月特別号の記事コピー(菅波三郎「二・二六事件は死んでいない」)
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※以下省略。順不同で記しただけでも、ぼんやりと「昭和史の一端」が浮かんでくるから不思議である。
その後、間山氏が(コピーした資料を)活用したかどうか、私は知らない。(末松)
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◎「ゴミ屋敷」回避大作戦・途中報告◎

2014年07月13日 | 末松建比古


◎7月12日(土)。麻布賢崇寺「法要」の日。
※諸事情あって 今回も「法要」は欠席。千葉方面に足を向ける。
千葉三越を基点とした「ウオーキングコース」を歩いてから、消滅の日が迫る「末松太平邸」に立ち寄り。遺品資料の一部を持ち帰った。
今回は「助手席男」ではないから、持ち運びできる物量もこれが限度である。

※画像参照。持ち帰ったのは僅か3品。それでも、手荷物としては、ギリギリの重量である。
遺品資料①と②は、写真がギッシリ詰め込まれた箱で「写真集/自分で集めてあった/平成5年2月1日」と、末松敏子(亡母)の記したメモが貼ってある。 
箱の中身は①に238枚、②に316枚。小学校時代の写真やら、晩年半盲目になってからの写真やら、明治&大正&昭和&平成の情景が混在して詰め込まれている。



◎亡母の筆跡「軍隊の教科書 典範例」と記された箱には、所謂「豆本サイズ」の冊子が詰め込まれていた。

①「軍隊内務令=軍令陸第十六号」昭和18年3月・陸軍省印刷。
●「朕軍隊内務令ヲ制定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」
●「昭和18年8月11日 陸軍大臣 東条英機」

※私には重要度が判らないから、以下は順不同で紹介しておく。
②「砲兵射撃教範=昭和5年1月15日・陸軍省検閲済」定価32銭。
③「諸兵射撃教範=昭和14年9月28日・陸軍省検閲済」定価40銭。
④「軍人勅諭集・附戦陣訓=武揚堂・昭和17年発行」定価15銭。
⑤「作戦要務令=昭和15年5月13日・陸軍省検閲済」
⑥「諸兵射撃教範第四部=尚兵館・昭和14年発行」定価25銭。
⑦「交通教範=昭和11年10月19日・陸軍省検閲済」定価17銭。
●「朕交通教範ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「陸軍大臣 田中義一」
⑧「航空兵操典=武揚堂・昭和16年発行」定価20銭。
●「朕航空操典ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「陸軍大臣 東条英機」
⑨「衛生法及救急法=昭和17年11月6日・陸軍省検閲済」定価10銭。
●「陸普第511号 軍隊教育令ニ依ル衛生法及救急法別冊ノ通定ム 大正12年陸普第377号ハ之ヲ廃止ス 昭和11年2月4日 陸軍大臣 川島義之」

※既に私は「軍隊教育令(摘録)」という冊子を所有していた。昭和41年2月・財団法人偕行社発行。一部〒とも100円。
中身は「朕軍隊教育令ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「昭和15年8月17日 陸軍大臣 東条英機」の復刻版である。



◎私の部屋は、山積した資料類で「ゴミ屋敷状態」になりつつある。
※「末松太平邸」に保蔵されている 大量の書籍には 未だ手をつけていない。
蔵書(の一部分)を引き取るためには、私自身の所有物(の殆ど?)を廃棄する必要がある。

※「末松太平邸」から持ち帰ったばかりの遺品資料のスリム化を試みる。
遺品資料①の写真(238枚)から101枚を廃棄。②の写真(316枚)から70枚を廃棄。合わせて171枚の写真が「この世」から姿を消した。執着を振り切るためには、手で小さく破り捨てるのが良い。これが私のやり方である。
専門家が見れば貴重な資料類が含まれているかも知れないが、気にしていては作業が進まない。

※「孫と並んで写っているご婦人」の写真を処分しようとして、念のために裏面(末松太平宛のハガキ仕立て)をチェックする。
何と「差出人のご婦人=村中孝次氏の未亡人」だった。廃棄寸前からの復活。廃棄するには、細心の注意は必要なのである。
因みに、村中静さんと末松家は 末松太平の死後も交流が続いていた。末松敏子(亡母)の遺品資料の中から「村中未亡人から末松未亡人への手紙」が数点見つかっている。(末松)
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◎陸士39期卒業写真の渋川善助氏◎

2014年07月11日 | 末松建比古


◎末松太平の遺品資料整理に追われている。
※今日は「渋川問屋案内パンフレット」のコピーを大量に発見。江翠サンの「渋川問屋レポ」を拝見した直後なので、不思議な感じがした。
末松太平は(ほぼ失明状態だったこともあり)この「観光施設=渋川問屋」を訪問する機会はなかったと思う。それでも知人友人には「会津方面に行くことがあれば“渋川問屋”を訪ねてみなさい」と、案内書のコピーを渡して(郵送して)いたようである。
この案内パンフは、いつでも誰でも入手可能だから、資料として保管する必要はない。わざわざ紹介したのは「渋川善助に対する末松太平の想い」を示すエピソードとしてである。




※退学処分をうけた渋川善助氏も、陸士本科の卒業写真に写っていた。
この種の記念写真の場合、撮影当日の欠席者は別枠で処理されるのが定例である。画像参照。枠外右上は前区隊長の島大尉。左上が渋川善助氏。島大尉より小さい扱いではあるが“退学者”を差別しているわけではない。隊長と学生との違いである。他の頁の“当日欠席の卒業生”も渋川氏と同じ大きさで載っている。
他の頁の枠外には“故”と記された制服姿の方も掲載されている。陸士本科の学生は(予科卒業後に)見習士官として配属されていた筈である。本科卒業を迎えることなく“故人”になった方々は(そのご家族も)無念だったに違いない。



陸士39期生の“その後”についても、流れの中で紹介していきたい。
画像は「陸士第39期任官50周年大会」の集合写真である。
1977(昭和52)年10月21日。靖国神社。末松太平72歳。
集合写真の皆様は、現在の私(74歳)よりも若い方々なのだが、軟弱な私とは“貫禄”が全然違っている。

「これだけ大勢が写っていると、末松太平を探すのは難しい」と呟いていたら、家人が呆れた顔をした。家人は一瞥した瞬間に“おじいちゃん”が判ったという。
集合写真には女性の姿も多い。これについては別の機会に記そうと思う。(末松)
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◎「助手席男」で遺品整理ツアー◎

2014年07月08日 | 末松建比古


“助手席男”とは私自身を表す自虐ギャク。我家のクルマの法的所有者は私だが、恥ずかしながら自分では運転できないのだ。身分証明証代わりに利用していた運転免許証も70歳過ぎに放棄してしまった。現在の私の身分証明書は東京都板橋区発行の「住民基本台帳カード=顔写真入り」である。10年間有効のカードだが、有効期限の2022年には“顔写真”と“実物”が違いすぎるのではないかと思う。

“助手席男=家人の運転”で“末松太平遺品整理ツアー”に向かう。
まずは、千葉市営霊園・平和公園墓地で“末松太平&敏子”の墓参をして、末松太平邸に行く。



“陸軍士官学校・本科”の卒業記念写真集を発見する。
写真集のサイズは、縦28cm余×横37cm余。広島幼年学校や陸士予科の写真集よりもかなり大きい。普通の書棚には納まらないから保管場所に苦労したと思う。そういうこともあって、この卒業写真集は傷み(破損)が著しい。
私の手元でも“適切な保管場所”が思い浮かばないから、この破損状況は更に進行するだろうと思う。



末松太平の親友・渋川善助氏は、既に退学処分を受けている。残念ながら 卒業記念写真集には写っていないだろう。諦め半分×期待半分でページを繰っていく。

第39期の卒業生たちは12組の集合写真として掲載されている。
①第三中隊第一区隊~⑥第六区隊。⑦第四中隊第一区隊~⑫第六区隊。
末松太平は“第三中隊第一区隊”で、区隊長の永井中尉を中心に25名の卒業生が並んでいる。
そして、枠外には(期待が的中して!)渋川善助氏の写真が載っていた。
この続きは 稿を改めて… (末松)
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