◎昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ。
※今日もまた「断捨離作業」を続けている。
作業中の悲劇(重要資料の廃棄)を避けるためにも 注意深く分別して《保存価値の低いもの》は早めに処分しておく必要がある。
※画像左側の写真は 末松太平が(何かの原稿の下準備として)書き散らしてあったメモ書きの数々。
★拡大(産本第二課長 不拡大 河辺虎四郎大使) 芝山課長「やっかいなことがおこった」武藤章第三課長「愉快なことが起こった」 産本第一部長(石原)二つに分かれていた。(拡大 不拡大) ・・・・
★関東軍(植田謙吉 東条英機)拡大→辻政信大尉→支那駐屯軍←朝鮮軍司令官小磯国昭中将 閣議 事件不拡大 局地解決決定 「ソ連は出て来ない」ノモンハン→裏目 「出兵」とせず「派兵」とすると ・・・・
★石原部長は不拡大主義の最も強い主張者であったが部長会議などに於ける態度は必ずしも徹底的でなかった。「反対だが仕方なく承服する」といったふうがあり、憂慮している具体的実相を関係者に理解させる努力が十分でなかったのは惜しかった。(下村実 20キ 当時参謀本部第四部長談)
★河辺第二課長ー孤立状態 河辺大使の意見に賛成なのは第一部長だけである。しかも第一部長は作戦部長として不利な戦略態勢をも考慮しなければならない苦境にある。
※断片的なメモ書きの連続だから 転記作業はこの辺で取りやめておく。
二・二六事件に関する《末松太平直筆》のメモではあるが 迷わず廃棄することに決定。末松太平の日記帳が二十冊ほど保存されているから《直筆》への執着はない。
※折込チラシの裏面利用は立派なエコ活動だが 末松太平が利用したのは(画像右側の写真)何やら書かれたゼロックスの裏面。表面を見ると座談会の速記禄で「西田、島野、末松」という文字がある。これはもう 読まずに廃棄するわけにもいかないではないか。
残念ながら 今回発見したのは 座談会速記録・№173~181のうちの《8枚分》だけ。№1~169迄の座談会の流れも №182以降の展開も 裏面白紙の利用後に廃棄されたらしく 発見できなかった。
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※発見された《僅か8枚分》の中から その断片だけ紹介しておく。
座談会の登場人物=西田初(西田税夫人)・末松太平・島野三郎。
座談会のタイトル=不明。司会進行役が島野三郎氏だから 雑誌「理想日本」掲載の座談会だと思う。
●末松:(№173=紛失ページの続き)それは看守が教えてくれたのです。「あんたは行儀が悪い」と言うから「だれか行儀がいいのはおるか」と言ったら、菅波さんは行儀がいいというのです。菅波さんを見習いなさいというのです。「だって、おれよりもっとだらしのないのがおるだろう」「おるのはおる。朝から晩まで泣いているやつがおる」と言うのです。●
●島野:それはちょっといただけないな。しかし、みんな陽気っだったがな。
●末松:西田さんがえらいと思うのは、ぼくに伝言をよこして「出ることを考えろ」と言うのです。普通なら心中意識でしょう。普通なら一緒に行こうと考えるのに、早く逃げろと言うのです。極端なことを言えば、めちゃくちゃなことを言っても罪の軽いことを考えろというわけですよ。それから村中さんもそうでした。まだいるのかと、自分のことのように心配しているのです。これはいい兄貴分ですよ。ぼくはときどき思うのだけれども、死刑の宣告を受けたらどういう態度をとるかと思うと、寒気がするのです。それから見ると、みんなちゃんと立って行きましたからね。ぼくらだったら腰が立たなくなるですよ。自分だったらどうなるかと思うと、批評できないですね。
●西田:二月二十八日の夕方でしたかしら、私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。首相官邸から電話がかかってきまして「いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です」とおっしゃってね。それですぐに主人にそれを話しましたら、もう一度電話をかけてみろと言いまして、首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。
●末松:二・二六のときに、渋川は渡辺さんのところに行ってしばらく昼寝か何かして、少し休んでって言ってます。
●西田;うちに 原宿署の特高が来たのです。そしていきなり玄関に上がり込んだのです。「西田さんいますか」「おりません」と言いましたら「家宅捜索をする」と言って、それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、そんなもの出ているはずがないから、いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、と言ったら、原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。半信半疑で来たんですね。原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。それから渋川さんが様子が変だというので出られたのです。あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
●末松:近所のいつも来る特高が酒を持って祝いにきたというのです。三角君の書いた本にあります。
●西田:それから私が原宿署に、奥さん来て下さいと呼ばれまして「今晩帰してくれますか」と言ったら「お帰しします」「それなら行きます」というので行ったのです。そうしましたら調べがありまして帰してくれないのです。「約束が違うじゃありませんか」「申し訳ないけれども、ちょっと係の者がおりませんから、しばらく待って下さい」「それじゃこういうところにとまるのは」いやですから」と言って(№181はここまで)
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※掲載写真の方々を紹介しておく。
前列(左から)相沢三郎中佐夫人・西田初さん。後列(左から)末松太平・相沢中佐の次女と長女。
写真は「大岸頼好五周忌=昭和31年」の集合写真からのトリミング。末松太平は当時51歳。
元になる集合写真は「私の昭和史・みすず書房刊」に掲出されている。当ブログにも掲載済みである。
※雑誌「理想日本」に関しては 当ブログに6回連続で掲載した。タイトル《「理想日本」という雑誌》。
当時「MK」という方(実は松本健一氏)から「非公開で」というコメントを数回いただいていた。
非公開という指示は不愉快だがやむなく甘受していて 松本氏の逝去後に《その6》のコメントのみを公開している。
関心のあるかたは 当ブログの左サイド《バックナンバー》で「2013年9月」をクリックすれば 直ぐに到達できる。(末松)
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