◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎廃棄資料「西田初さんとの対談」数枚の残片◎

2020年03月17日 | 末松建比古
 

◎昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ。
※今日もまた「断捨離作業」を続けている。
作業中の悲劇(重要資料の廃棄)を避けるためにも 注意深く分別して《保存価値の低いもの》は早めに処分しておく必要がある。
※画像左側の写真は 末松太平が(何かの原稿の下準備として)書き散らしてあったメモ書きの数々。

★拡大(産本第二課長 不拡大 河辺虎四郎大使) 芝山課長「やっかいなことがおこった」武藤章第三課長「愉快なことが起こった」 産本第一部長(石原)二つに分かれていた。(拡大 不拡大) ・・・・
★関東軍(植田謙吉 東条英機)拡大→辻政信大尉→支那駐屯軍←朝鮮軍司令官小磯国昭中将 閣議 事件不拡大 局地解決決定 「ソ連は出て来ない」ノモンハン→裏目 「出兵」とせず「派兵」とすると ・・・・ 
★石原部長は不拡大主義の最も強い主張者であったが部長会議などに於ける態度は必ずしも徹底的でなかった。「反対だが仕方なく承服する」といったふうがあり、憂慮している具体的実相を関係者に理解させる努力が十分でなかったのは惜しかった。(下村実 20キ 当時参謀本部第四部長談)
★河辺第二課長ー孤立状態 河辺大使の意見に賛成なのは第一部長だけである。しかも第一部長は作戦部長として不利な戦略態勢をも考慮しなければならない苦境にある。

※断片的なメモ書きの連続だから 転記作業はこの辺で取りやめておく。
二・二六事件に関する《末松太平直筆》のメモではあるが 迷わず廃棄することに決定。末松太平の日記帳が二十冊ほど保存されているから《直筆》への執着はない。
※折込チラシの裏面利用は立派なエコ活動だが 末松太平が利用したのは(画像右側の写真)何やら書かれたゼロックスの裏面。表面を見ると座談会の速記禄で「西田、島野、末松」という文字がある。これはもう 読まずに廃棄するわけにもいかないではないか。
残念ながら 今回発見したのは 座談会速記録・№173~181のうちの《8枚分》だけ。№1~169迄の座談会の流れも №182以降の展開も 裏面白紙の利用後に廃棄されたらしく 発見できなかった。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※発見された《僅か8枚分》の中から その断片だけ紹介しておく。
座談会の登場人物=西田初(西田税夫人)・末松太平・島野三郎。
座談会のタイトル=不明。司会進行役が島野三郎氏だから 雑誌「理想日本」掲載の座談会だと思う。

  

●末松:(№173=紛失ページの続き)それは看守が教えてくれたのです。「あんたは行儀が悪い」と言うから「だれか行儀がいいのはおるか」と言ったら、菅波さんは行儀がいいというのです。菅波さんを見習いなさいというのです。「だって、おれよりもっとだらしのないのがおるだろう」「おるのはおる。朝から晩まで泣いているやつがおる」と言うのです。●
●島野:それはちょっといただけないな。しかし、みんな陽気っだったがな。
●末松:西田さんがえらいと思うのは、ぼくに伝言をよこして「出ることを考えろ」と言うのです。普通なら心中意識でしょう。普通なら一緒に行こうと考えるのに、早く逃げろと言うのです。極端なことを言えば、めちゃくちゃなことを言っても罪の軽いことを考えろというわけですよ。それから村中さんもそうでした。まだいるのかと、自分のことのように心配しているのです。これはいい兄貴分ですよ。ぼくはときどき思うのだけれども、死刑の宣告を受けたらどういう態度をとるかと思うと、寒気がするのです。それから見ると、みんなちゃんと立って行きましたからね。ぼくらだったら腰が立たなくなるですよ。自分だったらどうなるかと思うと、批評できないですね。
●西田:二月二十八日の夕方でしたかしら、私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。首相官邸から電話がかかってきまして「いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です」とおっしゃってね。それですぐに主人にそれを話しましたら、もう一度電話をかけてみろと言いまして、首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。
●末松:二・二六のときに、渋川は渡辺さんのところに行ってしばらく昼寝か何かして、少し休んでって言ってます。
●西田;うちに 原宿署の特高が来たのです。そしていきなり玄関に上がり込んだのです。「西田さんいますか」「おりません」と言いましたら「家宅捜索をする」と言って、それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、そんなもの出ているはずがないから、いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、と言ったら、原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。半信半疑で来たんですね。原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。それから渋川さんが様子が変だというので出られたのです。あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
●末松:近所のいつも来る特高が酒を持って祝いにきたというのです。三角君の書いた本にあります。
●西田:それから私が原宿署に、奥さん来て下さいと呼ばれまして「今晩帰してくれますか」と言ったら「お帰しします」「それなら行きます」というので行ったのです。そうしましたら調べがありまして帰してくれないのです。「約束が違うじゃありませんか」「申し訳ないけれども、ちょっと係の者がおりませんから、しばらく待って下さい」「それじゃこういうところにとまるのは」いやですから」と言って(№181はここまで)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※掲載写真の方々を紹介しておく。
前列(左から)相沢三郎中佐夫人・西田初さん。後列(左から)末松太平・相沢中佐の次女と長女。
写真は「大岸頼好五周忌=昭和31年」の集合写真からのトリミング。末松太平は当時51歳。
元になる集合写真は「私の昭和史・みすず書房刊」に掲出されている。当ブログにも掲載済みである。

※雑誌「理想日本」に関しては 当ブログに6回連続で掲載した。タイトル《「理想日本」という雑誌》。
当時「MK」という方(実は松本健一氏)から「非公開で」というコメントを数回いただいていた。
非公開という指示は不愉快だがやむなく甘受していて 松本氏の逝去後に《その6》のコメントのみを公開している。
関心のあるかたは 当ブログの左サイド《バックナンバー》で「2013年9月」をクリックすれば 直ぐに到達できる。(末松)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント

◎応急対応版「1960年・賢崇寺の周辺で・・・」◎

2020年03月13日 | 末松建比古
◎諸事情あって《ストレスの海》を漂う日々。紛失資料探索もままならぬ状況が続いている。
※しかし 紛失資料の概略を《チラリと仄めかしただけ》で済ませてしまうのも後味が悪い。
探索は諦めた上で 記憶を辿りながら 私なりの表現で「末松太平が書いたこと」を遺しておきたいと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎というわけで 以下しばらくは《私=末松太平》として記述を進めていく。



※5月のある日。知り合いの刑事の依頼で、私は警視庁を訪れていた。
警視庁の窓から見下ろすと、国会議事堂を取り巻く「安保反対」のデモ隊がよく見えた。

※私の長男は、国立大学の受験に失敗、一浪生活を送っていた。我が家の経済状態では、国立大学以外の選択肢はない。長男が受験したのは「国立大学・一期校」ひとつだけだった。
今年も同じ国立大学に再び失敗し、布団を被って密かに泣いていた長男は、二浪を避けて「国立大学・二期校」に入学(★注1)、直ぐに「安保反対闘争」に連日参加するようになった。

親父と息子の会話。
親父「警視庁に逮捕されたら、早く出して貰えるようにオレが頼みに行くよ」
息子「全学連といっても、過激なのは主流派のデモ。ウチの大学は穏健な反主流派だから、心配はいらないよ」

※その日、私が警視庁を訪れた理由は、ある容疑者の取調べに協力して欲しいと、知り合いの刑事に頼まれていたからである。
その容疑者は「二・二六事件の関係者」だと称して「仏心会」の名を用いて詐欺行為を行っていたという。
刑事が「末松太平を知っているか?」と訊ねると、容疑者は「良く知っている。でも、先日の賢崇寺法要には来ていなかった」と答えたという。
これは嘘である。賢崇寺の法要では、私は司会役を務めている(★注2)。今年の2月26日も、例年同様に司会役を務めている。当日の参拝者名簿で確認すると、私を「来ていなかった」と答えた容疑者の住所氏名も記入されていた。

※その日の夜。息子と親父の会話。
息子「ジグザグデモの外側だったので、機動隊に何度も蹴られてしまったよ」
親父「それは災難だったな」
息子「蹴られ続けるのはバカらしいから、デモの内側に入ってしまった」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎こここからは《私=末松太平》を終えて 自分自身に戻る。
★注1=当時の国立大学は 一期校と二期校に別れていた。私が入学した東京学芸大学(二期校)は完璧な《教員養成カリキュラム》が組まれていた。
※級友の殆どは《教員志望》の志望大学合格者だったが 私のような《ニヒルな落伍者》も数人混じっていた。安保闘争目的の「東大中退オルグ」の級友もいて 私は直ぐに彼の崇拝者になった。
授業料は年間9千円。県立千葉一高時代の授業料よりも安いので有り難かった。私立大学の授業料は(多分)年間数十万円。国公立の優遇が当たり前だった時代のお話である。

★注2=画像参照。法要の司会を務める末松太平。撮影年度は不明だが 畳敷きの会場で 参列者の皆様も座布団に正座している。
※1966(昭和41)年2月26日「事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年」を迎えた年の「全殉難者31回忌法要」は(賢崇寺本堂が工事中のため)渋谷公会堂地下会議室で行われている。当日の世話人代表は荒木貞夫元陸軍大将。参会者は300名だったという。
※賢崇寺本堂の落慶式は 1972(昭和47)年4月22日であった。ということを考えると 1973(昭和48)年2月26日の「全殉難者38回忌法要」が賢崇寺の本堂で行われたのは確かであるが 画像掲載(年度不明)の場所が賢崇寺であるのか違うのか いささか自信がなくなってしまう。(末松)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント

◎追悼・今井清一氏/1960年・賢崇寺の周辺で・・・◎

2020年03月01日 | 末松建比古


※この写真は 末松太平のアルバムに貼ってあったもので「27.7.12 十七回忌除幕」と直筆の説明が添えられていた。
この年(1952)の1月には 大岸頼好氏が逝去している。
慰霊像(渋谷区宇田川町)の除幕式は 昭和46(1965)年2月26日。一緒に語られることの多い「墓」と「像」だが その間には《13年間》の歴史が横たわっている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎今井清一氏の逝去を 朝日新聞が報じていた。
※「今井清一(歴史学者、横浜市立大名誉教授)9日、肺炎で死去、96歳。葬儀は近親者で営んだ。近代日本政治史を専攻し、55年に岩波新書『昭和史』(共著)を著す」以下省略。
※今井氏と末松太平との御縁は 東京新聞(昭和38年3月13日号)掲載の「私の昭和史・みすず書房刊」書評に始まったと思う。この「青年将校とは」という書評は 三島由紀夫他の書評と共に「書評抄」として「私の昭和史・みすず書房刊」に挿入されていた。
「本書は、この種の本にありがちのように、青年将校を理想化することなく、かれらのもつ様々な面を、その弱点をもふくめて、生き生きと描き出している。青年将校とは何か、という、わかりきったようでなかなか納得のいかない疑問を、本書はとぎほぐしてくれる」
末松太平の遺品資料の中に 今井氏から戴いた手紙や資料が多数残されている。断捨離作業はしばらく休止。今井氏の御冥福を祈りたい。

◎「青年将校を浮き彫り/二・二六事件までの革新運動の回想」/今井清一(横浜市大助教授・日本政治史)。
※「東京新聞/昭和38年3月13日」に掲載された「書評」の全文を記しておく。(「書評抄」との比較も一興である)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※満州事変以降、いわゆる革新青年将校の動きは、政局における台風の目であった。1936年、かれらが兵を率いて起こした「二・二六事件」は結局鎮圧されたが、この事件の威圧は、軍部独裁を確立させる役割を果たした。この間の青年将校の動きについては、処刑された将校の獄中遺書をはじめ、事件関係者の回想、取調べ側の憲兵の手記など、さまざまな立場よりする記録が残されている。だがそれらは総じて「二・二六事件」を青年将校の運動の究極の到達点と見て、ここに行き着くための道筋として、それまでの運動をとらえようとする。果たしてそれに異論はないのだろうか。
※本書は「二・二六事件」に焦点を据えるかわりに、広く青年将校の運動全体を見渡し、その中に「二・二六事件」を位置づけようとする。青年将校の間には、常に蹶起のムードはあったが、二・二六そのものは一支脈の露頭に過ぎない。この一支脈だけの暴発は、同志の異性を最小限度に抑えようという配慮に出たものではあろうが、運動全体の息の根を止めることになった。本書の立ち位置を端的に解釈すると、こうなるだろう。
※著者の末松氏は、大正14年士官学校本科に入校直後、西田税を大学寮に訪ねた頃からの青年将校運動の草分けで、青森の第五連隊の隊付将校であった。二・二六の計画には参加しなかったが、青森連隊から戒厳司令官と叛乱将校に打った電報が反乱者を利するものとして禁錮四年の刑を受けている。本書も、天剣党、兵火事件、戸山学校在学中の十月事件、満州出征、歩兵学校在学中の士官学校事件、相沢事件そして二・二六と順を追って語っているが、事件自体よりも、その中におどる青年将校たちの表情に光を当てている。
※天剣党や兵火など昭和初期の青年将校の動きについては、本書がおそらく唯一の回想記であろうが、著者は当時の左翼地下運動まがいの時期の方が内容的にはむしろ充実しており、満州事変以後のブーム時代には革新という意味ではむしろ後退したといえそうだとの感想をしるしている。東北凶作の真っ只中で、末松中尉は、軍隊の蹶起は農村に蜂起するムシロ旗と呼応すべきだと考え、左翼ばりの東奥日報記者の竹内俊吉(現青森県知事)や農民運動の淡谷悠蔵と会合を重ねたりする。だが上部工作を企圖する同志の大岸大尉から、農民運動に関係すると内務省に取締りの口実を与えると警告されて、これを見合わせる。
※本書は、この種の本にありがちなように、青年将校を理想化することなく、彼らの持つ様々な面を、その弱点も含めて、生き生きと描き出している。青年将校とは何か、という、判りきったようでなかなか納得のいかない疑問を、本書は解きほぐしてくれる。著者自身が突き詰めて論じているわけではないが、軍の機構の中での革新運動がどのようなしがらみを持たざるを得ないか、読者は読み取ることができるだろう。ただこうした状況の中で、著者が結局どんなふうに運動を進めようとしたのかという点になると、いささかアイマイでる。巻末の刊行者のあとがきは、短いものだが、するどい指摘を含んでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント (1)